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犬を飼うということ その6

転げ始めると勢いがどんどんついていく感じだな。

職は失うわ、犬は病気確定だわ、子供は苛められるわ馬鹿にされるわ、出産の準備は順調ではんさそうだわ、詐欺は直ぐ近くにすり寄ってくるわで友人との関係が険悪になりつつあって。金銭的に人間関係的にも追い詰められてる感がひしひし。

心の安らぐ場が確実に狭められてるよな。

そんな中でも検査手術について家族で相談した時の前向きな考えは健在なんだよな。母親こけたら皆こけるという勢いの中で出産間近という状況は家族の柱が揺らぐにも等しい状況でもあり。

それはまあなんともはやな、やきもきとせつなさが交互に訪れる展開でハラハラするな。普通こういう湿ぼったい話は好きじゃないんだけどそれでも観ずにおれないというのはこの家族を応援したくなってる気分になってるからだろうな。

回復という奇跡を観るのか看取ることによって生きるという事を学ぶのか。180日というタイトルから勘繰ると能天気な結末を想像できないとこだけど。

この家族へ光明は射すのだろうか。それはどのように。嵐(苦難)を耐えての快晴の解放感とかいう米国風味のエンターテイメント的結末にはならないだろうけど、どう落とし前をつけるのかが気になるところである哉。

ホワイトナイトが現われようはずもなかろうが、自力で乗り越えられるものなのか?って気がするくらいシビアな展開だあな。

ホント応援したくなる家族だ。

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*もんで その2

遠州弁において、語尾によく付く言い回しである。説明については別記事を参照してもらえばいいとして。

遠州弁を全国的に認知理解してもらうとなると、この頻繁度を下げないといけないような気がする。実際これの連呼は同じ遠州人でもいらっとくる事があるくらい結論をぼかしたように聞こえ馴れ馴れしくも聞こえるところである。自分も頻繁に使っていて幾度となく怪訝な顔を相手にされる経験を有する。

この表現の効能は、相手に押し付けるをよしとせず同調を促す(求める)勢いをますことにある。ある意味皆まで言うな察してくれといった勢いともいえる。

とは申せ推して知るべしでもない場合にも頻繁に使われるといった口癖化してるところに問題があると思える。

「~するものですから」とかであれば丁寧な言い回しであるが

「~するもんでえ」・「~するもんだで」などは先の表現と意味は同じでも丁寧でもなんでもなく、結論先送り的にも受け取れるところである。・・・」と聞こえ「なりますので何だというのだ」ということになる。

「するだあ」じゃきつかろうとて「するもんで」と柔らかくして言うというのは本人が思ってるより意図が通じていない事が多い。

極力「もんで」を語尾に付ける言い方は自粛するが肝要かと思える今日この頃。うちうちで話す際はともかく、よそいきで話す際には自重が求められる言い回しだろうな。

例文

「これんお薦めだにい。この商品はうちの一押しだし一番人気だもんで。」

  大人しく一番人気ですと言えば済む話し。

「なんで人気よを。」

  (どこが人気の秘密なんですか?)

「性能の割に安いけどちゃんと日本製だもんで。」

  素直に日本製ですからと言えば済む話し。

「なるほどね。ん~どうしっかな。」

「いつもよりか安く買えるにい。今日セールしてるもんで。」

  まあ「セールしてもんで今日なら安いにい」と言えば済む話しであるが。

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タイムスクープハンター 髪結い

素直に感動できたな。

江戸っ子の気風と意気地がリアルに思えた。もちろん本物は知らないけれど。でも小説とかで読み聞きしてるものに限りなく近い感じに思える。

なにより精一杯真摯に生きてる充実感が滲んでて、休みが待ち遠しい現代人には無い懸命さを観るのが心地よいというか憧れるというか。もちろん当人は逃げ道がない分充実感を味わうとかいう話しじゃないだろうけど。

日本人は異様に禿を気にするというのはこういう髷を結えなくなったら隠居という風潮(精神)が今も脈々と息づいているからなんだろうかな。お相撲さんだって今でも髷結えなくなったら引退という話しみたいだし。

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ハガネの女Ⅱ その5

このクールに於いて一番見応えのあるドラマだな。元気を貰えるし考えさせられる部分も多いし。

それにしても、しっかしまあ毎回取っ組み合いしてるクラスだよなあ。実際もこんなもんなんだろうか。自分の頃とは随分違うもんだな。

それにしても、良い塾じゃねえか。と思うのはおかしいんだろうか。礼儀を正しくし己を律し集団生活を体験させて配慮を覚えるというのは悪い事じゃなかろうて。

型にはめ(目的を設定し)て極めるのがいいのか視野を広げて可能性を見い出すのがいいのかという問答であったけど。不惑という迷わず道を究めるということなれば前者だよな。淘汰されるのは社会に出てからで十分というならばせめて子供の内くらいは好き放題させてやりたいというのなら後者だよな。エリートだって100人中一人出せるかどうかなら可能性を見い出したところでそれを活かせるところに就職できるのかといったらそんな甘くないし。どっちにも理も負もありそうだ。

高熱を試練と位置付けたという点で味噌つけて最後悪役っぽい感じになってしまったけど、あの塾の存在はあってもいいんじゃないと思うのは変なのかな。もちろん淘汰して質を維持するのではなく底上げを図って脱落者を出さないという配慮と一旦預かった以上なんとかするという責任と使命あってこその話しだけど。

でも寝食を共にしてればライバルとはいえ仲間意識が芽生えようものなのに、そういった同志感が生まれない単なる(自分の席順が上がる上に於いての)障害物という関係性に映ったけど実際こうなるものなのかなあ。つまりどこかしらなあなあになるというか。それを防ぐための体罰ということなのかな。

とにかくどっちが正しいというものではない気がするというかどっちも正しいのかもしれないと思える訳で、じゃあ折衷案で一学期は塾方式で二学期は学校方式でとかいった両方を体験させるというのは悪くない考えに思えるのはおかしいのか?おかしいんだろうな多分。なにせエリートといっても芸能・スポーツ・技術とかジャンルはいくらでもあるからな。

とにかく理想は可能性を早くに見つけてそれから極めることに集中するというのだろうな。ポイントは「早く」であり、そうなるとこれはもう卵(可能性)が先か鶏(専念する)が先かみたいな話しになってくるよな。

まあ少なくともクラス全員あの塾に入れば日常茶飯事の取っ組み合いは無くなることは確かだろうな。入れてくれればの話しだけど。喝を入れるということにはなろうて。

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*こんぼう

「我が子」と言っている。基本男表現であろう。

おそらくは「子ん坊」と書くのであろうと思われる。

「坊」で正しいのだとすると普通は男の子を指すものであるが、ネット辞書の説明には「江戸時代には女児についてもいった。」とあり、遠州弁のこの「こんぼう」についても実際性別不問で使われてることから古い「坊」の使い方が遠州ではまだ残っていて「子ん坊」と書いても「こんぼう」は男女の区別なく単に「我が子」を指すものであるという理屈が通るような気がする。

ニュアンス的には「愚息」といった感じのへりくだった言い方である。

これ以外の使い方として生き物のちいちゃいのに対しても使う事がある。

「金魚のこんぼう」・「犬のこんぼう」とかだと「赤ちゃん」という意味使いとして使われる。こちらはへりくだりもへったくれもないぞんざいな言い方でありよそ様の子に「おめえんとこのこんぼう」なんていったらムッとされること必死である。

どの使い方にしてもこの言い方はわたしらんとこでは最早死語に近く今は「がき」・「がきんちょ」・「こんぞう」(小僧)・「むっすう」(娘・息子のいづれか)・「ちび」とかいう言い方をするのが普通である。

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BOSSⅡ その5

今回は容疑者さん(松下さん)との丁々発止。迫力あったな。

犯人を追いつめてくという決め打ちタイプ。しかも始めに容疑者ありきで証拠後出し。コロンボ・古畑系といった感じか。

ボロの出方は相手の動揺を誘ってのブラフっぽいものではなく真正面から挑発してくという風に映った。相手の粗相を見逃さず粗探しではなく家探しに固執してたというのも違う点か。

それにしてもブログで人生狂うなんて自分じゃ考えられないな。まあこれで商売してる人間と道楽してる人間との違いなんだろうけど。行き詰まったら放置プレーか止めてしまえば済むだけの事で・・・って実名を載せてるからそういう訳にはいかないのか。

素人は名無しの権兵衛であればこそだよな。実名挙げたらそれはもうプロ(本職)になっちゃうよな。仕事ということであらば外づらの顔作ってもええじゃないかだからして、誇張(盛る)に自分を合わせなくちゃいけない強迫観念にも捉われずに済むやも。

犯行の手口はテレビドラマを参考にってのは相当怖い話しではあるよな。こういうの余分な入れ知恵って言うのかしらむ。ま、もちろん手口とか薬剤なんかは架空のものという冗句であろうし、具体的な死体処理の手口とか提示してない分だけセーブされてるから問題なくセーフだろうけど。人が殺されるのにそれでも面白く見せるというのは大変なんだろうな。

このメンバーなら怪盗とかの挑戦とか陰謀の解明とかの方が楽しく観れそうな気がするのは私だけか。

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*ごんぼう

「ごぼう」(牛蒡)と言っている。

イントネーションは「棍棒」(こんぼう)みたいな発音に近く耳だけでだと(聞いただけだと)野菜のごぼうだとは聞こえないイントネーションである。「やん某まあ某ごんぼう」とか連なるイントネーションでは無い。

表記は「ごんぼう」としているが実際口で発してるのは「ごんぼお」である。

わざわざこう言う理由はあるのかというと、親しみ(身近)表現くらいしか思い付かない。特に「ごぼう」と「ごんぼう」での使い分けや意味の違いは無いと思われる。

男女共用の言葉。これが味噌。野郎言葉ではない。

あまり話しとしては膨らまないところだが、むりやり探すと、野菜果物でこういう言い方に変わるのは他にもあるのかというのを考えてみる。

「りんご」を「りんごう」とは言わないし「いちご」を「いっちご」・「いちごう」とも言わない。「ねぎ」を「ねんぎい」というかは微妙だが「かぶ」を「かんぶう」とは言わない。「白菜」を「はっくう」とか「ごま」を「ごんまあ」とかとも言わないよな。

といった風に変わった言い方することはなさそうだ。かろうじて「芋」を「いんもお」と言う位であろうが野郎言葉であって普通遣いの表現ではない。「ごんぼう」だけはごく普通に遣われるという特別といえるのかもしれない。なんでこういう言い方をするのかというのはもちろん知らない。

「ごぼう」だとなにか同音の言葉と紛らわしいからこうなったとも勘繰れるところであるがじゃ何と紛らわしかったのだろうとなるとさっぱり浮かんでこないのである。

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しょんないTV 第8回

浜松ぅ?どこだ?奥山かあ。引佐じゃん。奥山っつったら半僧坊くらいしか知らんにい。

にしたって、しょっぱなモロ廃墟にて浜松上陸を宣言するというのは一体どういうロケーション場所の選定基準なんだろ。すげえとこ見つけてくるもんだ。浜名湖背景にあったけどよくは知らんが奥山から見えたっけ?背景重視こそであらば足場(映らないところ)は拘りなしというプロの心意気という事なんだろうかな。でも結局は映してたから意気地の証は御破算(チャラ)か。ばばっちくはないだろうがなんかくすがりそうで歩くのも難儀しそうなとこでゲリラ戦繰り広げてるような感じだったな。

なんで名字でもない「北大路」と銘打っているんだろ。

瀧さんはなにかに中てられてたみたいだったな。毒気とは決して申しませんが。まあ冗談はともかくとして、仏像ということで気を遣われたということが大きかったんだろうなと推測するところ。

広瀬アナは黒(もしくは濃紺)が服装における基調色なんだろかな。好みの問題なのか落ち着いた雰囲気を醸し出そうという思案によるものなのかいつも黒を纏ってるイメージがある。夏場のくそ暑い時期はどうするんだろ。

瀧さん曰く中央に呼ばれるぞ地方に置いとくの勿体ないってことになって。クイズの回答力における評価であってアナウンス力に拠るものではないとは申せ、このボケは全国レベルということなんだろうかな。この回は前回ほどの冴えがあるとは思えなかったけど。

たまぁにとびっきり静岡視ることがあってそこでのスタジオ内における広瀬アナは上手くやろうという意識が強すぎるのか空回り気味に緊張しいと映るけど、しょんないTVにおける広瀬アナはもういいやという開き直りが脱力系で確かに映える。それと瀧さんあっての広瀬アナという印象が感じられる次第。経験値を重ねてアナウンス力をも身につけたら雰囲気も変わるのであろうか。

それにしても、よくこんな場所見つけてくるよなあ。情報(ネタ)収集力に驚いちゃう。

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*しい

「そうだしい」・「やばいしい」・「見たしい」・「いけてるしい」・「うれしいしい」とかいう「しい」という言い回し。これはどこぞの言葉だというと分からん。でも遠州でも耳にすることはある。

奇抜なメイクで街を闊歩する青少女が発してそうな勢いを感じる言い回しであるが、遠州ではタメ口表現であって使いどころに注意が必要ではあるが年齢に関係なく普通に発しそうな言葉である。というか同じ言葉じゃなく別物という気もしないでもない。

この「しい」を訳すとしたら「よう」であろうかとまず第一印象として浮かんでくる。

「そうだしい」→「そうだよう」

「嬉しいしい」→「嬉しいよう」

「よう見てるしい」→「よく見てるよなあ」

必ずしも「よう」ですべてが収まるというものではないがまあ当たらずと言えども遠からずや。

では、文章の流れで考えると

「パッと見変だけどよく見るとなんかいけてるしい。」

  (一見すると変なんだけどじっくり見るとなんとなくイケてるっぽいよな。)

「そうゆわれるとうれしいしい。」

  (そう言ってくれるとなんか嬉しいなあ。)

この場合では「ようだな」・「ような気がする」というニュアンスである。

はっきり言う場合には「いけてるじゃん」・「うれしいやあ」という事になろう。

つまり言い切り(断言)を避ける為のぼかしの表現なんだろうかなと思えてくる。じゃあ「らしい」と一緒じゃないかと思えてくるところであるが、「らしい」・「そう」とかだと

「そうだらしい」(そうらしい)・「うれしいらしい」で他の人の事で自分の事を言ってる訳では無くなる。あくまで「しい」というのは自身の事を述べているものである。同様に「うれしいそう」(うれしそう)も自分の事を言ってるものではない。

「しい」に替わる表現としては「っぽい」・「っぽく」とかいうのが当てはまりそうだ。もっとも「っぽい」だと露骨な感じになるが。「みたい」というのもはまりそうだが「自分嬉しいみたい」と若干自己分析してるっぽくなるので素直な感情表現というものではなくなる。

次に

「なにゆってるよを、今日暇じゃあらすかあ。映画観に行くしい、買い物行くしい、食事にも行くしいで忙しいだに。」

  (冗談じゃない暇なわけないでしょ。映画でしょ買い物でしょ外食と色々予定があって忙しいの。)

この場合での「しい」が先に述べた「しい」と同じものなのかは定かではないが共通語に直すのなら「しい」を「し」に直せば済むという「し」を伸ばした言い方という解釈も出来なくはない。ただ「し」は明確な予定という勢いになるが、「しい」と言われると「ホントかよ」という気になる事は間違いなく言い訳というか方便に聞こえなくもないのである。つまり本当かどうか曖昧。この場合においても断言してない勢いがある。

「しい」の訳はこうだというのは一概に言えないがどちらにも共通してるのは、ぼかす・曖昧にさせるというニュアンスが加味されるということにあるように思える。

そういうことでニュアンスから「しい」を訳すとしたら「何気に」もしくは「なんとなく」というのが合いそうな気がしてくる。

「うれしいしい」→「何気に嬉しい」

「なんかいけてるしい」→「なんか何気にイケてる」

「観に行くしい、買い物行くしい」→「何気に観に行って何気に買い物して」

ちなみに「なにげ」という言葉は辞書にはない。「何気無い」で辞書にあるということで「なにげ」は俗語もしくは方言の部類に入る言葉らしい。

自分が使ってる「なにげ」の意味は

なんとなく・さりげなく・些細だけど・意識してる訳じゃないけど・無意識に・頭で考えずに、などといったものである。

俗語ということであれば「かも」もはまりそうではあるかな。

「うれしいしい」→「うれしいかも」

「なんかいけてるしい」→「なんかイケてるかも」

「観に行くしい、買い物行くしい」→「観に行くかもで買い物行くかも」

「行くかも」だと曖昧さが露骨過ぎる嫌いが出るか。

「かも」でなく「やも」にしてもはまりそうではあるかな。

他には、

「よう見とくしい」→「よく見てろよう」

「ちゃんとやらんといかんしい」という場合、訳は

「きちんとしないとダメなんだぞ」という感じになる。これが

「ちゃんとやらんといかんにい」だと「駄目だぞ」といったより強目の指示・命令口調になる。「しい」を使うと口調を弱めるというか和らげる感じになる。つまり諭すといった勢いか。

この場合の「しい」は前に挙げたふたつの「しい」とは全くの別物という感じがするところである。そうれでもあえて共通項を探すとしたら語気を弱める(曖昧)にする効能が「しい」にはありそうだ。かといって決してふざけた(おちゃらけた)言い回しというものではなく馴れ馴れしくはあるが舐めた物言いでは遠州弁においてはない。

なんとなくではあるが、都会での歌舞いた女性が発するタメ口の「しい」とは別のものであろうと思えるところである。

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知らない言葉 もたくさい

「もたくさい」。聞いたことがない。

辞書にもないしネットで検索してもヒットしない。

されど静岡県内向けのCmでそのフレーズが文字で登場してた。

状況は、仲良し女子4人組が洋服店で試着し合っている様。表情と発せられる言葉は褒めている癖して内心はケチの付け合いという超微妙な模様というのが描かれている。

その中の心の叫びで「もたくさい」があった。他には「私の方が似合う」・「ビミョー」とか。

流れからすると「似合わない」とかいったけなしの表現であろうと推察されるが、それにしても全く意味が分からない。

今時流行の言葉というのも考えられるところであるが、おそらくは駿河の言葉なんだろうなと思えるのである。が、駿河の衆は自分らが方言こいてるという自覚が無いのか遠州弁ほどに駿河弁を紹介・自慢するサイトが少ない。

そもそも駿河弁という言葉自体が流通してるのかどうかも怪しいところである。静岡弁という言い方でも遠州人からすれば構わないのだが他国の人からしてみたら「静岡」=「静岡県」と捉えるであろうから駿河弁と遠州弁を総称して静岡弁というと勘違いされそうで紛らわしいところであるので私としては駿河弁と呼称するように意識している。

「ちゃっきり」とかにしたって遠州人にはなんのことだかさっぱりな言葉である。駿河弁は存在する筈である。そういう中のひとつなのであろうか「もたくさい」という言葉は。

駿河でしか使われてないであろうというこの「もたくさい」なる言葉はいまのところどこにも解説がないので謎だらけである。まあ有料で本とか買えばそういう研究書はあるのかもだろうがタダが売りのネット上では見かけたことが無い。

いくらなんでも誤字ということはなかろうて。さて「もたくさい」とはなんぞや。

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*おおせん

使い方は「使いおおせん」。訳すと「使いきれない」といったものになる。広い地域で使われてるであろうと思われ遠州弁かどうかは甚だ微妙であるが一応記載。

この言い方以外にも「おせん」という言い方が存在する。

「使いおせん」。これも訳すところは「使いきれない」となる。

このふたつに違いは有るかというと実際は微々たるものでほとんど無いのであるが

「食べおおせん」だと食べ尽くせない。量的に食べきれないといった趣がある。

「食べおせん」だと食べきれない。なんらかの制約によって完食することが出来ないという趣がある。

「やりおおせん」ならやれる量ではないという趣がある。

「やりおせん」では環境や条件・能力などを越えてるという趣が湧く。

こういうことから「歯が悪いので食べきれない」という場合に

「歯あ悪いもんで食べおおせん」というのでは間違ってはいないが違和感を感じるもので

「歯あ悪いもんで食べおせん」という方がしっくりくるものである。

古語辞典では

「おほす」(果す){他動詞サ行下二段活用}果たす。なしとげる。してしまう。

というのがあって「おおす」の打消しで「おおせぬ」→「おおせん」となったという勘繰りが成り立つ。

「おす」・「おせん」については邪推しようにも近い意味合いのものはなかった。かろうじて「をす」(食す){他動詞ラ行四段活用}①「飲む」・「食う」・「着る」などの尊敬語。②治める・統治する意の尊敬語。おおさめになる。というのがあったが、飲む食う着るに限ったものではないしそもそも尊敬語でもなかろうてということでこれも遠そうだ。

「おせん」については根拠がないのだが「おおせん」については下手の勘繰りがもし当たっているのなら古語の生き残りという風に考えられる。

ちなみに「おおす」・「おす」という打消しでない言い方は「やりおおすにゃ骨ん折れるにい」とかで存在してそうだが実際耳にしたという記憶は無い。「やりおおす」というより「やりとおす」(やり通す)だものな普通は。なので「おほせぬ」(果せぬ)=「おおせん」と言い切ることは出来ないところがこの勘繰りの弱いところである。

例文

「宿題がんこ溜まっちゃってえ。とてもじゃないがやりおおせん。」

「あんたの頭じゃ溜めてんでもどっちみちやりおせんじゃん。」

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JIN 仁Ⅱ その5

消えた。でも直ぐ戻ってきた。でも助からなかった。それを定めと思し召せ。

「定め」という考え方は今は薄いだろうから伝わりづらいところかもや。遺族が案外簡単に事実(死)を受け入れる様というのは。

今は医療ミスと騒ぎ立てる所業に至るが頻繁たるをして、因果を含めるなんてもう死語に近いだろうな。因果と権利を計りに掛けりゃ言わなきゃ損に重き行くってか。

ま、それはともかく命の値打ちは長さに非ず、如何に輝くか(本分を全うするか)ということを謳っていたの哉。

最初に「無理です・無茶です」と言ってたのに自分の存在意義への挑戦と位置づけしてからは遮二無二という勢いで、ひょっとしたらひょっとして晴れ舞台に立つのかなと思って観てたけど。

やはり世の中そうそう甘くない。というか診立てに間違いはなかったというべきか。

でも必死の行いによって治ろうとする人の意思・目的は伝わってまずはなにより。

それにしてもモルヒネ?カルシウム?ビタミンC?いつのまに存在してたんだ?

Ⅱに於いては、仁の使命はなんぞやというのがメインテーマなのかしらむ。

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*「いみ」と「いみり」

遠州弁紹介するところでは殆ど「いみ」も「いみり」も「ひび割れ」と記してありそれが正しいのであろうが。

個人的には

「いみ」は「ひび」で

「いみり」は「ひび割れ」だと思ってる。

「いみ」は浅く「いみり」は深い傷だということである。

どこを探しても根拠は載っていないので嘘くさいといわれてしまえばそれまでだが。

「いみん入ってる」と「いみりん入ってる」とではニュアンスが異なる事は確かであろう。

ちなみに「いみんはいってる」・「いみりんいってる」と「入ってる」の読み方は異なることがあるが大勢は「いってる」という言い方が多く使われる。

辞書によれば「いる」(入る)は「はいる」の雅語的表現。だそうな。雅と縁遠い気がするが。

「いみん出た」とはいうが「いみりん出た」とは殆ど言わず「いみりんいった」を使う事が多い。

辞書等によると

「ひび」(皹)細かく割れて出来た傷。

「ひびわれ」(罅割れ)ひびわれること。また、それによって出来た割れ目。

という違いがある。

例えば湯呑だと

「いみん出た」(ひびが入った)くらいだと漏れるほどではなく

「いみりん入った」(ひび割れが入った)だと漏れてる状態である事が多い。

「いみた」とか「いみる」・「いみれ」とかいう変化はない。「ひび割れ」が「ひびわれる」という自動詞になるように「「いみり」が「いみりる」とかいうことになるのかというとそういうことはない。

例文

「この湯呑茶碗いみん出ちゃいん?」

「気のせいだらあ。漏おっちゃいんだら?」

「いみりん入ってるとかじゃないで漏おっちゃいんだあ、なんかそれっぽく思えるやあ。」

「んなのこすった傷かなんかだよ。気のせい気のせい。」

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