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*じゃによって

時代劇に出てきそうな言い回しであって決して遠州弁ではなかろうがなんか遠州弁としても違和感を感じない近しい言い回しに思える言葉。実際使うとおちゃらけに聞こえてくるところであるがそれだけ古い言い回しということなんだろうな。どこの言葉なんだろう。

で、じゃあ共通語になんと訳す?と問われるとはたと困る言葉であるよな。

「よって」は「依って」で「じゃ」という根拠に依ってとかいう事になりそうだが「じゃ」をなんとするというとこが微妙だよな。辞書には

「じゃ」{助動詞・特殊型}である。だ。

とあるから「であるによって」ということになるのか。なんかぎこちないよな。「であるからして」とどう違うんだろう。

まあ「じゃによって」自体が堅苦しい言葉でもあるという印象があるからこんなもんなのかもしれないが。どういう立ち位置の人が使う言葉なんだろう。でもまあとにかく砕けて訳さば「だから」もしくは「故に」というとこが無難な線か。

例文を考えようにも普段遣いの言い回しじゃあないから思い浮かばないな。

ところで話し変わるけど「じゃ」ですぐに思い浮かぶのは薩摩の

「じゃっどん」。「どん」は打消しだろうから「だ」+「けど」で「しかし」という事で理屈は通るよな。

ならば「じゃん」(じゃない)使用例は「やるじゃん」(やるじゃない)。「じゃ」+「ない」と分割できそうであるがここで述べてる「じゃ」と同じなんだろうかという疑問が湧いてくる。「じゃないの」とするには「じゃんの」でないとぎこちない。がそんな言葉は無い。「じゃないか」なら「じゃんか」で存在するが。

同じとするにはいくつかのこじつけを張り巡らさないと理屈が通らない気がしてくるけれど少なくとも直に「である」+「ない」もしくは「だ」+「ない」というのは繋がらないよな。もちろんこの場合の「ない」は打消しではない。

でも「で」+「ない」(この場合の「で」は助動詞「だ」の連用形)とすれば多少は紛れるか。とにかくこれが「やってるじゃん」で「やってるではないか」というとこまで持っていければいいんだろうけど無理があるよな。

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LADY・最後の犯罪プロファイル その2

 印象としてはやたらと暗く感じる。爽快感が薄味。事件見事に解決してるのにね。

邪見にされてるというせいもあり、メンバー内の不協和音の奏で具合がそう思わせるのであろうか。これが新旧のぶつかりあいと切磋琢磨という風に感じられればそういう印象を拭い去れるのかもしれないけれど。

推理という点でいけば意外な犯人で驚きの展開であり、かつ証拠品からすわ刑事が犯人かと思わせるトラップもありとて凝ってるとは思いしが、そは視ている側に提示するヒントが少なかったせいとも思えなくもなし。まあ視てる自分が散漫に視聴してるせいであろうけど。でも言い訳かますならどこか集中しづらい空気感故にでありまして。

単純明快に目の前の事件いっちょ上がりとかいう展開ではなく柘植(ユースケさん)の極秘調査とはとか結城(木村さん)の発作を鎮める様とかまだ見えてこない謎も散りばめられていて結構複雑そう。

気が緩むシーンが少ないという点を感じるのはちょっくら詰め込み過ぎなのか?んなわきゃないかあ。まあとにかくどこかしらで和気藹々な緩むシーンをうまく調合して配合して貰えたらいいのにな。姉妹の関西弁での軽妙な会話だけでは少なかろ。

まあいずれにせよとにかく暗めに感じるもう一つの要因として同じ傾向の別のドラマがコミカル快活に描かれているのと比べてしまうせいというのも正直なところあろうか。そういう点があるのは否めないな。

つまらなくは決してないけど楽しいとも言い難し。うまく楽しむポイントが見つけられていない。自分としてはもう少し様子見が続きそう。

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外交官・黒田康作 その1

 おいおいなんだよこれ。めちゃくちゃ面白そうじゃないか。というかそそるなあ。

困るんだよな、「告発」も見応えあるというのにその次も面白いんじゃ贅沢すぎる木曜日になってしまうではないか。何事にもほどほどというものがあろう。

というかこの期はあまり愉しそうなドラマが少なそうな気がしてるので日ごとに分配して欲しいんだよねえ。せっかくの余韻に浸る間もなくはい次というのは味気なかろうて。

それにしても日本の事件と米国での出来事がどうつながるんだろうか。しかも渋い黒田(織田さん)と緩い大垣(柴咲さん)というとても持ちつ持たれつのパートナーとなりえそうもない二人がどうつながるんだ?という不可思議も途中感じていた訳で。

それがなるほどと合点がいく展開に持っていくあたりの展開の妙が見事だったな。

初回は出遭いが描かれていたのだから次回はこのパートナーが始動するというその様を愛でればいいのかな。いきなり本格始動するのかアイドリング期間があるのか。

とにかく失敬とは存ずるが想像してた以上に面白そう。

ところで最近のドラマの傾向は初回ででんと花火(時間超延長)打ち上げてあと平常というパターンが多く感じられるけど、時として尻すぼみに感じられるドラマをちょくちょく見てきた。平常が地味というかスケールダウンした風に感じられてしまうということ。

最終回にででんと豪華にという方向には向かないのかな。

まあ今回は濃密な内容で省けそうなとこが少なくて単なるゴージャスというものではなかったからこの時間延長は納得だったけど。

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*とっちらかる その2

以前書いた際に荒っぽくとかいう意を付加する意図で「捕まえる」→「とっ捕まえる」といったのと同じで「散らかる」→「とっ散らかる」という流れであろうと書いたのだが。

考えてみると「とっちらかす」という言い方にはざらつきを覚えるので

「とちくるう」と同じ傾向の「とちちらかる」→「とっちらかる」の流れかもしれないという手も捨てがたく思えてきた。

辞書には「とちる」{「とち」は「とちめく」の語幹}広義では、まごついて、物事をやりそこなう意に用いられる。とある。

ちなみに「とっつかまえる」はネットの辞書では、捕まえるを強めて言う語と説明されていた。遠州弁的感覚だと乱暴・ぞんざいという勢いになる効能があるとこが若干違うようだ。

それはともかく、つまり「とちる」=「とっ」(とち)であるとするならば「とっ」(とち)を使うとあたふたした感じが加味されるということで「とっちらかる」は整理不能で何していていいのか分からない状態を表わしているということで実際使っている意味と合う。

好きでこの状態に陥る事はないのだから自らの意思で「ちらかす」ことはないと思われるので「とっちらかす」という言い方にざらつきを感じる理由が納得できる。

そういう点から乱暴・ぞんざいという意味使いの「とっぱらう」・「とっつかまえる」とかいうものとは別種ではないかと思えてきた。

もちろん「とちくるった男がとっちらかした」とかいった他人の様を指す分には乱暴・ぞんざいであろうと混乱・まごつきであろうとどちらの使い方でも違和感はない。自身が散乱状態になった場合に乱暴・ぞんざいという使い方は不自然を感じるということである。

ちなみに古語辞典を引いてみる。「とち」では記載はないので「とち」を使った言葉を挙げてみる。

「とちくらふ」ばか食いをする。

「とちぐるふ」戯れる。ふざけあう。

「とちめく」あわて騒ぐ。うろたえる。

古語の「とちぐるふ」は意味合いが異なっている。「とちめく」が一番意味が近い。

例文

「とち狂った男がやっきりこいて机の上をとっちらかいた」

  (血迷った男が地団駄踏んで机の上の物をくしゃくしゃに散らかした。)

例文2

「やあもう訳分からんくなってきてとっちらかってきたぞ。頭爆ぜそうや。」

  (ああもう訳が分からなくなって頭の中がごちゃごちゃになってきたぞ。頭が爆発しそうだ。)

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告発・国選弁護人 その1

 これは極上だ。ぐいぐい惹きこまれてしまう。悲喜こもごも感にも引き込まれてしまいますわいな。次をホントに早く観たいというか知りたい。

虚ではなく巨。まごうことなき巨人(悪)の影がひしひしと伝わってくる。弁護士といえども小人のようだ。その小人感が如実。よく怖くないものよとその勇気の源を知りたくなる。

それにしても裁判中にとんずらこくなんてあるのかよと驚愕ではありましたな。ホントにこんなことあるのかな。

目標が見えているのにそこになかなかたどり着けない様を愛でるのかな。富士山登頂みたいなもので大き過ぎてすぐそこに見えてるのになかなか頂上に辿り着けない感覚のようなものか。冬山で誰も登らないというか避けるとこをあえて遭難の危険を顧みず登るといった勢いか。

役者衆も錚々たるという表現が相応しく、見応えあるわなあ。

崖が出たからすわ松本清張かというイメージが膨らんだけどやっぱり原作は松本清張だった。といってもオリジナルストーリーらしくあくまでも参考ということだそうな。

で、どうでもいいことではありますが、アフリカへ旅立つのにあの爪かあ。今時珍しいほどにこのドラマどれをとってもきっちり作りこんでる風に思えるだけにあそこだけはアフリカに観光にでも行くくらいの覚悟なのかなとふと思えてしまいました。ま、こんな些細なことが気になるくらいきっちり世界観が描かれていて凄い。

とにかくこれははまりそうな予感がする。というかホント早く続きを視たいぞえ。

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*「ぬくとい」と「ぬくたい」

「ぬくとまった」と「ぬくたまった」という方が違いが分かり易いのであろうか。

「ぬくとめた」とは言うが「ぬくためた」とは言わない。

使いどころに於いては使い分けをしている訳ではなく使い手の好みでどちらか一方を使うというものであろう。

意味的(ニュアンス)にはどういう違いがあるか。あまり違いがある風には感じられないな。

そもそも「ぬくたい」という人は遠州弁においては少数派だからして。

でも共通語は「あたたまった」というのであろうから「ぬくたまった」の方が共通語に近い感じはするところ。

「ぬく」は「ぬくい」(温い)。ぬくぬくと育ったとかいう使い方もあるから共通語だろう。

「あたためておいたから」という共通語を

「ぬくとめといたで」・「ぬくとくしといたで」

「ぬくたまるようにしといたで」・「ぬくたくしといたで」

という風に言う次第だが「ぬくためといたで」と言うかは微妙である。「ぬくため」という言い方はしないといったように「ぬくたい」表現は「ぬくとい」よりも使いどころが狭い分使い勝手が悪いようにも思える。

ちなみにコンビニでの「温めますか」に地域性を持たせるとなると

「ぬくとめるだ?」・「ぬくとめるけえ」・「ぬくとめっか?」

とかになり「ぬくためっけ?」とかいう言い方はざらつきを感じ「ぬくたくするだ?」くらいでないとえせ遠州弁に聞こえる。

考えようによっては「ぬくたい」という表現はどこからかの流入してきた表現なのかもしれないと思える程に用途が狭い。

ネットをうろうろしてみると結構な地域で「ぬくたい」は使われているようなので西の方面から入ってきた外来種なのかなとも思える。あくまでも想像だが遠州弁としては「ぬくとい」が固有種ではなかろうか。

例文

「お風呂はあ湧いてるう?」

「はあ湧いてるらあ。さっきい手えいれたらいい温度だったで。」

「じゃあ入るわあ。」

暫くして

「もうなによを。水風呂じゃん。ぬるくもありもしん。」

「あれそ~お?結構ちんちんだと思っただけどやあ。」

  (え~そうなの?沸き過ぎなくらいに沸いてると思ったんだけどな。)

「もうちゃんとしてやあ。上ちんちんかもしれんけど下きんきんだっただでねえ。」

  (もうしっかりしてよ。上が熱くても下の方は冷たいままだったんだからね。)

「なんしょ一旦服着てえ、ほんで沸くまで炬燵入ってぬくとくしてな。風邪引いちゃかんでえ。」

  (それはともかくとりあえず服着なよ。そしたら風邪引いては大変だから湧くまで炬燵に入ってあったかくしてなさいな。)

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美咲ナンバーワン その1

 お水の商売のお話しかと思ってたけど特異な社会で培った腕で歪んだ生徒を矯正するというお話しみたい。

893ものとお水ものはパスしてるのでこのドラマもお水ものと思っていたのでパスするつもりでいたけど学園ものということでとりあえず来週も視てみようかな。

コメディタッチの部分が面白そうだしあのど派手な衣装がやけに目に残る。それに損得で人は生きるものじゃないという考えは今時希少なだけにそれが正しいというのを実践してもらいたいという気分も湧きましたので楽しめる予感というか要素は感じるところ。

誰かの為に生きるということと誰かの犠牲になるということの違いが明確に表現されれば我慢(根気強さ)の質も違って見えるだろうし。

それにしても学問的見地から事件を解決せんと欲する刑事ドラマが被ってるように、これも職種は異なるけど教育現場とは異種の職業で培った経験値を活かして学校を変えていかんとすという事では被るよな気がするのは気のせいか。

勘違いだろうけどなんかどっかで視た事あるような教室だなあ思い出せないけど。

給料が教員になると半分以下に下がるけどと言ってたけどそんなものなのか?ナンバーワンでもとつい思ってしまいました。まああまり詳しくもないのでそんなものなんだあと知った次第。

にしても凄まじく歪んだ生徒達と映りましたなあ。救うべき対象か?とつい思っちゃいました。別に人生勉強するのは学校だけじゃない訳で。仕事して汗流して苦労せえや。その方が手っ取り早かろうにとつい思ってしまいました。そう思える程に役柄を演じてられましたなあ生徒役の皆様方は。

でもなんでしょ、信頼を勝ち取るためにまず守るという姿勢を示すというのは多少盲目的な勢いを感じましたな。その世界で一流と呼ばれた人であるならその姿を見て憧れ(自分もなりたい)と思わせる魅力を発している筈でその為にはどうすべきなのかを教え諭すという手法であってもいいんじゃないのかとふと思ってしまいました。生涯教師を全うされる方にはそういう意味の背中で語る説得力は醸し出し難いと思われるだけに。

誰も教室に来てないし前職は伏せよということで無理な注文でしょうけど。

まあとにかく生徒を救うべく乗り込んだその落とし前のつけ方は人徳によるもので強力な後ろ盾を持つものではないという自力根性でありまして好感持てる主人公でありますな。

先にも書いたけど様子見で視たけど判断下すにはもう少し視ないとなんとも判断付きかねますな。

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*つってんじゃん

「さっきからそうだっつってんじゃん。なに聞いてるよをあんた。」。

これを訳すと「さっきからそうだって言ってるじゃないの。ちゃんと聞いてたの?」。

「つってん」の「ん」は「る」と訳すことになる。こういう「ん」の使い方は遠州独特か?んなわきゃないかあ。まあでも一応遠州でも使われるということで記載。

聞きなれていないと普通「ん」は「ない」といった打消しに聞こえる(判断する)ところであり

「言ってる」を「言ってない」と解釈して意味が繋がらないという事になる訳か。

不思議な事に「じゃん」ではなく「じゃんか」とした場合

「つってんじゃんか」では気持ち悪く「つってるじゃんか」と言うのが普通となる。

同じように「つってんらあ」にも違和感を感じるので「つってるらあ」と言うのが普通である。

「言う」に限らず「やる」に変えても

「やってんじゃん」はありだが「やってんじゃんか」・「やってんらあ」はざらつきを覚える。ざらつきの理由は「ん」=「る」にはならず「ん」=「ない」と取れるからであろう。

理屈は分からないが法則として「じゃん」を使った場合だけ前に付く「ん」は「る」という意味として使われるということであろうか。「じゃない」でもこうなるが「じゃん」=「じゃない」なので同じ言葉とみなしている。

下衆の勘繰りを施せば「るん」(やってるんじゃん)が短縮して「ん」になったのかなと思えなくもない。

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CONTROL 犯罪心理捜査 その1

 まずは面白そう。杉浦刑事(泉谷さん)の落としのテクニックが凄く印象に残った。

このドラマは学者さんと刑事の勘の合体技による検挙のお話しだろうと推察されるから、系統としてはガリレオ系に属するんだろうかな。刑事じゃない人間が解明するということでは遡ればミスマープルがご先祖様にあたるのかもしれないところ。まああまり推理小説読んでないので元祖が誰なのか自分の知識では定かではありませんが。

金曜日にも他局で学術的見地から犯罪者を追うドラマが始まったけど、前クールでの脱税調査といい被ってないかい?と思えるシチュエーションが最近なにゆえ重なるんだろ。どうしても見比べて視てしまう悪い癖が出そうで怖いわな。

まあとにかくキャラ群が面白そうなだけにこれは楽しめそうなところ。ひとりの知恵だけで解決というパターンではなく合わせ技で解決していくパターンであればいいのにな。

それにしても瀬川刑事(松下さん)って男っぽいお方だこと。だからといっていっそ男にしてしまえばよかったのにという気にはならないので違和感はないよな。

ところで江口のりこさん久方振りに観たような気がする。どうみてもゲスト出演で以降の出演はなさそうだけどこれが縁でお友達になったとかいうことでちょくちょく出てくれないかなあと密かに思うところ。

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ついこないだの昔話 オガライト

 まだ電気が無くとも生きようと思えば生きていけそうな頃からスタートする昔のお話し。まあ別に単なる想い出話しで地域性のある事ではないけど。(曖昧な記憶を呼び起こしての話しであり当時を正確にスケッチしていないかもしれませんのでご注意ください)

その当時においても電気の有り難さは誰もが疑ってはいなかったが、如何せんしょっちゅう停電するという信頼性の無さによって生活必需品は電化製品ではなかった。停電の理由は工事の度毎、家のヒューズがしょっちゅう飛ぶ事、強風台風等の悪天候時など原因は様々有った。ろうそくや懐中電灯は当然どの家にも出し易い場所に常用で置かれていて活躍してた。マッチは当然お徳用の四角い箱。

流石に瓦斯は煮炊きする上において不可欠なものとなっていたが魚は煙が出るからということで七輪の出番。冬場だったらその練炭は火鉢と共用で使い回し。使い切るのが生活の知恵というかゴミを出さないというかゴミにしないというか。紙袋でも包装紙でも捨てずになにかの際に使うという習性が普通であった。新聞紙なんかは買い物の際のお店の包装紙だし火を点ける際の必需品。古新聞となってもちり紙交換で便所紙と交換してたし最悪の場合便所紙としても使えた。

そう考えると新聞程便利なものはなかったよな。毎日配送(供給)しれくれるし用途が読む以外に幅広く生活に密着していた。今はもう読むしか用途が限られてるから部数が落ち込むのかな。

暖を取るにおいては火鉢で練炭、炬燵は堀り炬燵、腹巻・らくだの股引にどてらといった厚着。寝るときゃ行火(あんか)か湯たんぽ。おやじは携帯懐炉。朝お香をぶっとくしたような芯に火を点けてからご出勤。

風呂については家風呂なんて「おだいさま」の屋敷にあるもので庶民は銭湯が当たり前。そんなこんなの時代に私は生まれその中で生活をしていた。

それから幾年(いくとせ)経って電気なくしては不便このうえなくなった頃、各家庭にもぼちぼち家風呂がつき始めてきた。くべるのは薪で、子供の家庭における仕事のひとつとされてた家も多かった。子供にも家庭における仕事が付与されていた時代である。腕というかコツを要するもので上手く点かないとやっきりこくものであるが、無事点いて燃え上がる炎を自分から作り出すのはそれなりに快感であった。部屋を真っ暗にしてろうそくの揺れにじっと見入ったりしたりすると火にはなんらかのパワーがある事を感じるものである。

そういう火のもつパワーを今より遥かに実感していた生活であったのかもしれない。日常で多く火と接していた生活は今より遥かに危険なものであろうけど、いい方向で使えば火は心にやすらぎなり快感なりを与えていて精神的には穏やかに暮らせれるものだったのかもしれない。

燃えてる間中は管理を怠ると消えてしまうし過ぎれば火事に繋がる。だからずうっと様子を見てる。他になにかしたくてもしようとするとそれは慢心になる。火は本来人間が制御できるものではない。ある意味ぼ~っとしてる時間ともいえる。

そういう時間は無駄なのかもしれない。しかし火の様子をみるという無駄の中に癒しが存在していたのかもしれないと考えると無駄を省くことは癒しをも省く生活となっているとも考えられるところ。昔の人が我慢強かったというのはこうした日常の中でしっかり癒しの時間があってストレスが和らいでいたのかもしれないな。

陽の光で健やかに火の灯りでやすらけく。人の心はそういうパワーが栄養になっているのであろう。

町に住んでる以上ちょっと裏山に行って薪を調達とかいうことは出来ないので、薪は燃料屋と呼んでた店屋とかで購入(配送もしてくれる)していた。薪や豆炭は通年であったがそれ以外には冬は練炭や灯油とか・夏は氷とかも取り扱っていた。

その薪がある時以降「オガライト」に変わった。「オガライト」というのは商品名になるのであろうか。外はこげ茶で中段ボール色。芯の部分はくり抜かれたように穴になってる。結構重かった。これ一本あれば家の風呂は沸くという優れモノ。煙もみえず雲もなく。着火も楽で燃えてる間中様子見してなくとも一定の状態で燃え続けていてくれる。記憶では多分中身6本入りで茶色の包装紙にくるまれ青い把捉バンドで縛り上げて一個だったかな。

話しがちょっと飛ぶけど、最近入る前湯船を掻き回すことはしなくなったな。昔は桶とかで十分掻き回してからでないと入ってみたら水風呂のようってことが結構あったからな。上が熱くても底の方は水のままなのだから。真冬の時なんか上はちんちん下はきんきん。混ぜたら度ぬるいなんて事になる。冷金法だと開き直ってかきまぜずそのまま我慢してみた事もあったりしたが中学生で精力鍛えてどうすんじゃいという話し。もっとも効果があったのかどうかは全く以て怪しい限りではあるが。

「オガライト」を使うようになって他の用事をすることが出来るようになった。こいつぁホント便利だとつくづく思った。おが屑を固めて作った今でいうエコな商品でもありこれ以上のものはもう生まれないだろうとも思え長くオガライトの時代が続くのだろうなと思っていた。

でも案外あっけなく一般家庭に於いては短命に終わった。その理由はガス湯沸かし化。風呂もガス。そういう時代になって家庭から姿を消した。

炭と違って煙が結構出るという記憶があるので憶測だけれど調理用には向かなかったのかな。用途が限られていたということなのだろうか。

近年炭は見直されたけどオガライトが見直されることは今のところないように感じる。

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*やらかしゃあ

「やらせれば」もしくは「やらせろ」と言っている。ニュアンスの違いが使いどころによって生じる言い回しである。

指示・命令という事ではなく「やらせたら」という仮定という事がひとつ。指示という意味合いでも使うこともあるが普通指示という場合は「やらす」を使う方が多い。

「やらかすと」(やらせたら)という言い方に近そうに思えるのであるがこちらの方は指示・命令というニュアンスが強くなる。「やらかす」よりも「やらかしゃ」の方が穏やかに聞こえるという事である。あと、「やらかした」という言い方的な「やらかしゃあた」という言い方は存在しない。

それに「やらかすと」だとろくでもない事になるみたいな使い方にしかならないが「あいつにやらかしゃあ間違いないよ」(あいつに任せれば間違いないよ)といったふうにいい意味にも使われる事がある点が異なる。

もちろん「あいつがやらかしゃあしょんないこんになるにい」(あいつに任せたらとんでもない事になるよ)といういい意味ではない使い方もする。

また、「やらせてあげれば」という意味合いで使う事もある。「あいつにやらかしゃあいいじゃん。やりたいっつてるだで」(あいつにやらせてあげればいいじゃない。本人やりたいって言ってるんだから)。といった風に。まあ「やらせてあげる」という優しい言い回しでは決してないが。

他には、自分が発しての例えば「わしにやらかしゃあ」という場合「おれにやらせろ」という訳になる。「やらしゃ」という言い方もする。「やらしゃ」は単純に「やらせろ」であるが「やらかしゃあ」は「おれにやらせろそうすれば間違いないから」というニュアンスのはしょった言い方ということになろうか。「やらしゃあ」という言い方もあるが「やらかしゃあ」との違いは「食い散らかす」と「食い散らす」の違いみたいなものであろうか。近い表現の「やらしょ」よりも「やらかしゃあ」は相手に伺いを立てているふうに感じられる。強気である点に大差はないが。強要度の比較をすると

「どけ」>「俺んやる」>「やらしゃ」>「やらしょ」>「やらかしゃあ」>「やらっか」>「やるにい」

といった勢いであろうか。

「やる」に限った言い方ではなく、例えば「持つ」だと「持ってかしゃあ」(持っていかせれば)、「買う」だと「買ってかしゃあ」(買っていったなら)など。

ただし「おれにやらせろ」と言う場合には「買わしゃあ」・「持たしゃあ」という言い方になる。端的なのが「貸せ」を「かしゃ」。

例文

「その仕事やらんでいいよ。あいつにやらかしゃあええだ。」

「なんで?ちゃちゃっと済まいてちゃっちゃと終わらまいか。」

「どうやらすか悩んでたらあいつんきて『とろくっさい。んなんわしにやらかしゃあ』っつったもんでいいだよ任いただで。」

「頭こんでもいいじゃんそれっぱかのこんでえ。」

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味いちもんめの貫地谷しほり

これはドラマの感想ではありません。あしからず。まあ多少は感想洩らしてますが視点が偏っております。

初春は元旦にユイカの鈴木さん一家奮闘記で幕が開き、某国営放送で大河の番宣で樹里ちゃんがなにかと満ち溢れ。今年は一層の活躍がより期待できるところにおいてしほりん登場。

大人衆が豪華というかこれだけ出演されると締まるというか格が出るというか。その中でやけに浮いてる伊橋が印象的でありました。まあこの人の場合同年代相手でも十分浮いてるという特異体質なんですけど。

で、しほりんが醸す立ち位置はというとどこにいても浮いた感じをさせない勢いですな。つまりそつのない優等生ということか。特に野望も大層な夢を抱いてる訳でもなく順調であればという条件付きながらもこのままが続けば不満はないといった中庸を知るという感じにも映りました。

伊橋(中居さん)との険悪から始まった出遭いから最後信頼へと移行していく様(関係性)がこの役どころの味噌と踏んだのですが、それによって伊橋やるじゃないかというのを視ている側にしらしめる役割だったのしょうか。

正直なところ弟を苛めた許せない奴というのから仕事終わってひとり包丁を黙々と研いでる伊橋を見て「こやつやるな、ただのエラそうじゃないな。」と一目置くようになった転換なのは分かったのですが、そこから矜持を開き信頼する転換がどこにあったのかがよく分からないまま最後の膳を出す時の信頼に至っていたと思えてしまいました。

寮で宴会のシーンなのか河原で泣き崩れ父を想い出すというシーンがそれにあたるのかなあ。会見を行うというのを知り伊橋のもとに行ったという時点で信頼をかちえていたということになるのだろうし謝罪会見で手をついて謝ったことで確信の信頼に変わったのだろうから。

できれば会見するの報を得た時さてどうするという際この人なら相談できる(頼れる)と決断させた根拠の情景が脳裏に浮かんだから伊橋にもとに向かったというシーンがあったらよかったのになあと。

まあそんな事はともかく、こういう役のしほりんは破綻しないから安心して観てられるな。「あんどー○つ」で職人の世界を演じているからなんだろうかな。着物が着こなせるというのも武器だよな。でも最大の武器は聞く演技がうまいということだろうな。

破綻といえばそうやすやすと演技を崩さない方だけど唯一伊橋が「頑張ります」と発した際若干崩れて(素の笑いに)映って見えた。あれは中居さんのアドリブ的なセリフ回しについだったのかな。

それはそうとして終わり方としてこれから始まるみたいな余韻が残ったけれど、連ドラ化に進むのかな。もしそうであってなおかつしほりんが出るというのなら観る。

ところで「しほりん」という愛称使うに若干躊躇するように感じられてきた。「ユイカ」は「ユイカ」のままだけど「じゅりっぺ」とはもう呼称せず「じゅりちゃん」と呼称してるし。もう女の子じゃなくて女性の方だもんな。そろそろなんて呼称すべきかちゃんと考えないといけないな。

それはそうとこういうしほりんもいいがちょっとぶっ飛んた役のしほりんもいい。なのでちょっと「矢○警部補」観たくなったので今から観ることにしますわ。

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*ならさあ

「それならば」と言っている。

「あのさあ」・「でさあ」といった「さあ」のついた他所の人にとっては馴れ馴れしいと思える表現であろうが遠州弁においては親しみを表わす表現である。

「どのように思うか(考えるか)」というのを「どうよ」と発するのもこれと同じ矜持を開いているぞという表しであろう。

距離感を縮めたいという意図であるので年齢に関わらず使うし初対面の相手に対しても発せられる。

男女共用の表現であるが男表現だと「ならやあ」と「やあ」を使う言い方がある。ただし流石によく知らない人に対して「ならやあ」を発すると相手に引かれるので身内等に対して発せられる言い方ではあろうが。

他の言い方にはニュアンスの近いものでは「んなら」・「んだったら」・「ほいたら」・「ほんだったら」など、多少ニュアンスは異なるが「だったらさあ」などがある。

「だったらさあ」との違いは「ならさあ」がついでにとか付け加えてといった「そうであるならば」と前の話しに付随している事が多く、「だったらさあ」の「それならば」というのは前の話しがそうならばこうしてくれといったような新たな提案もしくは一度否定された事を蒸し返す際に使われるものであろうか。

例文

「あのうすみません。○○にはどうやって行けばいいんでしょうか。」

「○○けえ。分かりいいならこの道ずうっと真っ直ぐ行ってつきあたり右に右に折れてきゃあ着くわなあ。」

「どれくらい時間かかりますかねえ。」

「まあ小一時間みときゃいいかな。」

「それじゃあちょっと間に合わないんで他に近道とかないんですか?」

「ならさあ、この道戻ってあそこんさあの信号東に行ったバス停で○△行きのバスに乗りゃあ10分もかからんら。一時間に2本くらいはバスある筈だでその方早いと思うやあ。そうしない。」

「ああそうですかありがとうございます。」

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ひとりじゃない その1

これは引き寄せられる。これは食いつきました私。期待無く一応チェックというつもりでいたけどこれは拾い物どころじゃないいいものを観れそうな予感。全6話だそうだから愉しみができた。しかも色々考えさせられる。

見ぬ世界の疑似体験として背負って観たら初回は悲観しか湧いてこない状況なんたけど、それぞれの登場人物たちの織り成す絡む理由の根源がとても深淵そうで見ずにはいられないものを感じる。その先にはなにがあるんだろうと。

それは観ていてさえも湧いてくる危機感が存在してそうで、もしかしたら自分にもその深淵な部分が隠れ潜んでいるのかもしれないと思える感じであろうか。もちろん彼らほどには自分は深刻ではないけれどそれでもなお何か同じ匂いを感じてくる。程度の重い軽いの問題じゃないんだろうかな。

身も蓋もない事を言ってしまえば死にたい連中のもがきが描かれてる訳だけど、映しだされているのは外から映って見える光景ではなくて当人たちの心の内側から発せられる見方から見える景色のようであり、この視点がとても新鮮だ。

最終的には立ち直っていくという方向に向かって行くのだろうけど、それは心の負の部分を廃棄できたということであろうから、このドラマを観る事によって観てるこっちも微量ながらも持っている同じような負の部分を共に取り除けたならさぞかし爽快だろうな。

BSフジの開局10周年記念ドラマと謳ってあった。

それにしても自分に訪れる不幸を紛らわすために自分より不幸な人間を探すという行程は真理過ぎてドキッとしたな。さすがに子供だから許してやんなみたいな形にはしていたけれど。それでもお笑いのボケ(自分より劣る人物像)とか人の不幸は蜜の味という芸能ゴシップみたいなものを喜々としてむさぼるのと同じ事なのだろうけどさすがにおおっぴらには気が引ける部分もあるのにこのドラマはど真ん中に投げてきたみたい思えた。それをいっちゃあお終いよという部分にあえて踏み込んでいるのかな。だからこそ見えてくるなにかがあるのかな。とにかく毒がある。

ブログのコメントでもしあんなのが自分のとこに来たら不愉快極まりない感情に陥るのに待ってましたと勢いづく主婦の気持ちは流石に理解を越えてた不思議ちゃん世界でありました。

ネットの世界は不幸の自慢話しという思考は一理あるのだろうけど詰まる所人間の生き様なんて誰しもそんなものといえなくもないしそもそも不幸と判断するのは自分じゃなく他人だし当の本人はそうは思っていないだろうしと微妙でありましたなあ。

これはBSだからこそ描ける世界なのだろうか。まあとにかく正解のない事をいろいろ考えさせられるセリフの数々です。

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