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リバウンド その3

片や太ればこなた痩せるという嗚呼哀しきすれ違いという悲恋を面白おかしく謳う展開なのかと思いきや、一念発起が実って見事合体ってか。

しかしてその手口はご法度のご禁制の品の力を借りてという諸刃の逢瀬とな。

後遺症ってなんざんしょ。

それにしても展開が目まぐるしくて先が読めないな。そうきたかって勢いが強いや。

それは編集長(若村さん)とて同じ事。記事という名の経過報告に一喜一憂あれまという展開を愉しんでいたなあ。

それだけじゃなく、もっと愉快にと三角関係を指示する辺り本気で愉しんでるなあ。

プライバシーを売って何が楽しいんだろうと思うのは野暮というものか。

この回は信子(相武さん)の開き直りが見せどころだったんだろうな。インパクトありましたわ。

これにてお互いの秘密は何も無いということに相成ったのか?まだご禁制の品が残ってるか。

一話ごとに新作ケーキを作り上げていってるけどこのパターンはお決まりということなんだろうな。片方が記事片方がケーキと交互に痩せてる時にいい仕事するとかいうことではなさそうだ。太ってようが痩せていようが仕事には影響ないってことだな。でもその割には太ってると心が卑屈になると言ってたよな。卑屈な状態でいい仕事なんて出来るんかしらむ。

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犬を飼うということ その5

いきなり悲しみの道に進み始めたな。

もっとも、異様と思える程早くに元の飼い主現るで変だなとは思ったけど、まさか返して来るとはね。これで後顧の憂いなく家族として迎い入れられたというのはよかったにはよかったんだろうけど。

てっきり情が移るを如何に因果を含めて克服させるのかがこの回の主のテーマかと思ってたんだけど。それを通り越して家族とする以上それなりの覚悟を決めるというところまで一気に進むとは。180日というのはそういう日数のことだったのか。

今もう何日が経過しているんだろう。

死別か生き別れかどちらにせよ別れを経験するというのは悲しいけど大切な体験だよな。でも最後に飼い主現るで別れと相成るとばかり思ってただけに意外な展開ではあるな。でもまあ助からないと確定してる訳でもないので180日悩み苦しんだが181目から全てが解消されて晴れたという手もまだ残されてはいるか。

この家族親のすねかじってないで自分達だけで乗り越えようとするところがいいんだよな。甘えが無いところが。

それにしても今回もオヤジ(錦戸さん)最後にかっこいい事してたなあ。普通あんな事言えないよな。若い時の苦労は案外実るものという夢を売るドラマのお約束がこのドラマにも適用されるとしたら将来成功を掴む器だなあと思えてきた。もっともそこまで描くとは思えないけど。

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 初日は混んでるだろうと思い一週ずらし尚且つ平日映画館に行きし腹積もりであったが知人より「岳観にいかまい」とて誘いありたるをもってならばと本日行きたり。そこそこに混みたりて真ん中の席をとお願いしたらば結構前の列に陣取る事に相成り候。

予告映画の中にはめまぐるしく動き回る(これを躍動感と呼称するには無理が祟る)ものとかがあって、そのパッパと変わるシーンの洪水に目がついていけずこりゃ参ったなと席のせいかと思ったがいざ本編が始まるとじっくりとした映像で大丈夫だった。(つまり目が痛くなるのは場所のせいではなくそういうお作りの映画のせい。)

岳はおだやかな映像といえるのかもしれない。しかして映し出されし光景(人々の行い)は日常を超越していて半端なし。もっとも作為的に派手にせずとも背景是れ美景なれば無駄な画の動きは不要ともいえる哉。

単純に観終わっての感想は、これシリーズでいけるな、次を観たいな。というもの。(もちろんリピーターになりうる内容でまた観に行くかもしれないが。)

この作品では救助する側が主に描かれていたから次回作は(があるならば)救助される側からの視点から映る三歩や久美の姿を主に描いて欲しいなあと思える。

尚、一回しか観ていないのでいつにもまして意味不明な感想ではありますが。って今日に始まった事じゃなくいつものことか。ところで最近滅多に映画の感想書かなくなったけど観なくなった訳じゃなくて観たもの全部書いてたら底の浅い感想しか書けないくせに金返せ的発言が多くなってしまうのでそれじゃあなんだかなあと思えてきたのとホントに好いと感じたものだけにしようと思ったので。つまり岳は好きだと思えたということ。

そもそも観ようと思った動機は

カラピナやロープとは縁の無いなんちゃって山ハイカーとしては自分が行けない処からの山の景色を愛でたい。

原作の岳が好きだから。

地元の優「長澤まさみ」が出てるから。

といった理由が言い訳として浮かんでくる。まあホントのところは直感でこれはいいんじゃないのか?と思えたからに他ならないのであるが。

この映画を宣伝すべくさんざっぱら番宣で色んな番組でのバラエティゲストジャックを小栗さんと長澤さんがこらしょとしていたんだけど、不思議とストーリーとかが明かされていなかった。そんな込み入ったちょっとでも話したらネタバレになりかねないような展開なのかなと思ったりもしてたが。

観終わって思った事はこりゃ確かに映画の魅力を口で伝えれらるもんじゃないわと。視なくちゃ伝わらないものが映ってる。しかもこれがまた深いんだよな。多くを語ろうにも語るより観よだなと得心がいった。

「また山においでよ」という台詞にしたって散々な目に遭いながらもまた登るってことがどんだけ勇気のいることか、そんな相手に酸いも甘いも知り尽くした上で発する、しかも朗らかにというのは言う方も勇気が要るよな。観光地じゃないんだから山は。誰にでも言える台詞じゃないだけにそう言える三歩という人間の土台がしっかり映されてたからこそ説得力あるところ。

「良く頑張った」はけだし名言だよな。ホント頑張らないとすぐお陀仏だもんな山は。ただしそう言われて頑張りの糸が切れてこれにて頑張り終了で後は依存の方向に引っ張られたら家に着くまでが遠足という鉄則を忘れさせてしまう魔力のある言葉でもあり誰が言ってもいいってもんじゃない訳で。病院での「病院ですよ大丈夫ですよ」と言うのとはまた違うまだまだ難関ありという状態での掛ける言葉としては「大丈夫」とか「後は任せろ」ではなくさあもうひと頑張りという勢い大事なんだけどそれがよく出てたな。久美はそれが言えなくて頬に平手打ち食らわせてたけど。まあやっぱ特異なんだろうな得意の言葉とかじゃなくてこう言えるってのは。

まあどちらかというと台詞で酔わせるんじゃなくその態度で魅了するんだから三歩の魅力は番宣では伝えようがないのは確かで観なきゃ分からんわな。

で、島崎三歩の印象といったらとにかく明朗快活・馬力満ち溢れんばかりというのが思い浮かぶところでそれは小栗三歩に於いてもそのイメージが壊れることなく滲んでいた。小栗三歩の馬力感はアリだと思った。

原作が好きだから映画も観たということでは違和感なく岳の世界を満喫出来愉しめた。

山の景色を愛でたいという点に於いては雲海の夕暮れは美しいけど山の景色は実際歩いて地面に足ついて見渡す景色こそ美しけれと思っていて、「劔岳」でそれを満喫できただけに空撮が気になったな。三歩の躍動感や疾走感を表わすには適していたけど。景色を愛でるという点においては人間を愛でる方に重きをなしていた比重かなと思えちょい微妙な満足感。

「長澤まさみ」はどうだったかというと、佳かった。足が長過ぎないか?(容姿が山屋に見えない)とは思えたがそれは因縁をつけるに近い感想なので置いといて、人物像が活きてたな。原作とは阿久津との関係がひっくり返ってたけど新米が似合うのということなのかな。三歩が太鼓判を押したプロの久美というのを観てみたいとぞ思ひけり。久美の成長記という側面も多分に要素としてありその移り変わりがきちんと出てた風に思えた。

そんで次があるのなら個人的には原作にあった、休みの日にバーゲンに行こうとしてたのに呼び出しがかかってぶ~垂れながらも山に行くというシーンを観てみたい。

まあとにかく、これは!と反応した直感は正しかったな。山で遭難者を助ける。苦難に見舞われても己を信じて助ける。身も蓋もないことを言ってしまえばただそれだけのお話しなんだけど、しかしてただ困難に立ち向かう勇気を愛でるものではない。

伝えようというメッセージはなんぞやと訊かれてもよう分からん。けど、晴れやかな気分になってよし明日も頑張ろうという余韻が観終わって漂うことは確かだよな。

三歩は山に捨てちゃいけないものはふたつあると言っていたけどちまちました悩みとかは捨ててきてもいいんだよな。まあ山に登る事で解消されるって事で捨ててる訳じゃないだろうけど、

この映画のメッセージは、なんで山に登るんだ?=なんで岳を観るんだ?が同じという山に登った時(映画鑑賞中)と下山後の余韻(観終わった余韻)を同じように味わえるということなのかな。答えは人それぞれだろうきっと。自分は山に行くと元気というか一度オールクリアでリセットできる新鮮感(リフレッシュ感)が魅力なんだけど。

そういえばパンフには原作者さんが「元気」というのがこの映画の無言のメッセージなのかなと述べられてたけど確かに終始「元気」だよな。「覇気」・「精気」とも映ったけど。三歩からおすそ分けを貰えてるということもあるやも。

いずれにせよお仕着せのような明確なメッセージではないところが心地良くもある哉。だからといってメッセージ二の次で兎にも角にも娯楽性に徹してるとかいうような柔なものじゃない。山はそんな甘くない。全編CGやセットとかだったら違った印象になるだろうけど実際山に立つというだけで柔さは吹っ飛んで硬派と映る説得力がある。

印象に残ったのは橋を渡る三歩のシーン。攻撃(インパクト)は反復してこそ成果が出るってか。陸に上がった河童状態とはこの事かと人間味に笑えた。

餅は餅屋、山は山屋ってか。「馬鹿」はその道一筋の人間への褒め言葉というのはいい事だと思う。なんでもそこそここなすのも大事だけど他は駄目でもこれだけはというのを有してる人はやっぱ格好いいなと思えるところ。

ところで緊迫感煽らせたら佐々木蔵之介ホント秀逸だよな。

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*れれ足す言葉

「ら」抜き言葉が遠州弁の特徴。であるとともに「れ」足す言葉も遠州弁の特徴。ってか?

最初聞いた時「レタス言葉」?と聞き違えたというお約束のギャグはさておき。

「聞けれる」・「読めれる」・「行けれない」・「書けれたら」とかがそうだそうな。

しかしそういうのはごく普通であって遠州弁だと

「聞けれれる」・「読めれれる」・「「行けれれん」・「書けれれたら」とかが存在する。

「れ」と「れれ」ではどう違うんだというと

「行けれれたら」を挙げると

「行けれれたら行くけど忙しいで行けれるか分からんやあ。」

  (行けるようなら行くけど忙しいから行けるよとははっきりとは言えないなあ。)

断りのニュアンスではなく可能なら行くという勢いである。

「れれ」を使うと「~することが可能」・「~することが出来る」といったニュアンスになる。これを

「行けれたら行くけど忙しいで行けれるか分からんやあ。」とすると

  (行けたら行くけど忙しいから行けるとは言えないなあ。)

と、こちらはほぼ「行けない」とお断りをしてる勢いとなる。

ちなみに「行けれるか分からんやあ」の「行けれるか」を「行けるか」とした場合、大抵は「行けるかどうか」という言い回しになり「行けるかどうか分からんやあ」となる。

とまあこのような使い分けが存在している。「れ」足す言葉は遠州に限ったことじゃなく特徴と謳うには疑問が残るが「れれ」足す言葉なら地域性が出そうに思える。

「れられ」のら抜きと考えることもできようか。

「行けれられたら」→「行けれれたら」。共通語だと「行けるのなら」。

「れ」足す言葉は遠州弁の特徴ではなく、「れれ」足す言葉は遠州弁の特徴というのが相応しい気がするところである。

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BOSSⅡ その4

色々と実験を怖れずに試みてるドラマだなとぞおもひけり。

だから当たりもあれば外れもあらあね。単に空振りでブーイングというのは浅い了見だよな。チャレンジに喝采を送るほどにはまだ成果実らずと映るけどその心意気は買いだよな。

今回印象深かったのは詐欺の元締めが最後愕然とするシーン。真横だった。

膝から崩れ落ちるというものだったけど、個人的にはせっかく真横であるのなら背筋を伸ばした状態で柱に頭を押さえる構図を見てみたかったな。当然柱は下で。そうすると足が上になって頭が下になる

Cocolog_oekaki_2011_05_13_02_56

こんな三角形みたいな珍しい感じになっただろうにと。まあそれがなんだといわれても特にこうすることによってかく映って見えたりとかいう意図があるわけではないんですけど。

ところでボスの写真に髭書いたの誰なんだろ。

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ハガネの女Ⅱ その4

すんげえ大人っぽい表情するもんだな恋となると女の子は。まあ特に膨らむ話しでもないけど素直にそう思えたものでまず第一に。

今回はハガネ(吉瀬さん)の「え~!洋食屋ぁ~?」の言い方が悦。目線が低いというか同じ位置に感じる。子供にも人格有りで一人の人間として接してるというのがよく伝わる勢いだったな。

「お人形さんみたい」でフリーズする。自覚してるんだ。恋の争奪戦で揉めるのかと思ってたらそうじゃなかったのね。人間を人形化から救うというお話しだったのね。鬱憤を解放させつつ感情(本心)を吐露させる手立ては見応えあったな。

ところで、片やおばあちゃん倒れる。で、「先生助けて。」とSOSを送る。受け取る側からしてみれば教師冥利に尽きるよなこれだけ頼りにされるってのは。普通は親戚・ご近所とかだもんな思いつく順番でいけば。おばあちゃんとふたり暮らしということで親戚筋は無いということだろうけど。冥利に尽きると思いますわ大変だろうけど。

でもこの信頼関係がすでに築き上げられてることになってるのはまだ尚早というかはしょり過ぎてる感がする。なにせまだ実質3話目だもの。まだお互い手探りな状態だろうという気がしてるから。

それにしても前回の禿を嗤わば嗤えと泰然自若な奴といい今回の男は黙って信じた道を進むというボクシング小僧といい、今の世相の環境に合わなくてとうに絶滅したんじゃないかと思える種族がどっこい生きてたみたいな素直でいい奴がいるもんだと感心してしまう。

超今風の子供は親の所有物として育てられた子供と、昔ながらの絶滅危惧種とが接する事により化学反応を起こしたという流れと映る。で、その結果は折衷案のようではあるが子供が自らの意思でというもので大きく変わったといえようぞ。

ただなんで窓開けてお母さん御覧なさいというシーンでおっかさ黙って見ていれたんだろう。それまでヒステリックに中に入って止めようとしてたのに急に静かに見守ることになったのは何故?養護教師の上川(片岡さん)がどうおっかさを説得したのか見たかったな。

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*や

問いを表わす「や」。

例えば「いつ行くや。」。

イントネーションは語尾つまり「や」を強く言うが「や?」といった疑問形の語尾の上りとは異なるもので説明が難しい。

訳は「いつ行こうか。」・「いつ行くことにしようか。」など。

これが「いつ行くだ?」だと「(あなたは)いつ行くんだい?」ということになる。

「行くや」に近い表現としては「いつ行くにする?」・「いつ行かすかねえ。」とかがある。

「いつ行くよ」だと「(あなたは)いつ行くの?」で「行くだ?」に近い表現となる。

「や」は自分も行くという場合に使われる事が多い。一緒に行く為の都合合わせという勢いである。

「よ」・「だ」については「あなたが行くのはいつ」といった感じで一緒に行くとは限らない。

次に「どうするや。」

訳は「どうするんだよ。」・「どうするのさ。」とか。詰問調ではないが結論(判断)を訊ねている。こう言われて躊躇したり結論言わないと愚図と判断される。

この場合には「行くや」とは違って自分が含むか含まないかは関わりあいはない。

「どうするだ。」は結論(判断)を問うているわけで「だ」の方がより詰問調が強まるというものである。

「どうするよ」は「どんすんだよ」と訳せ、オラ知らね(第三者)的な私は関与しないからあんた早く決めちゃいなさいよといった督促という勢いが増す。

「どうすんよ」となるとどう落とし前つけるつもりなんだという責任を問うている勢いが付加される。

ちなみに「どうすんや」という言い方は遠州では使われない。

例文

「近いうちに仕事忘れて釣り行くでえ。」

「あ、いいなあ。わしも行きたいやあ。」

「なんなら一緒に行くけえ。」

「ほんとにい?迷惑でなけりゃありがたいやあ。」

「迷惑なんかあるわけないじゃん。」

「じゃあ、お言葉に甘えて。で、いつにするや。」

「そうさなあ、来週の土曜でどうよ。」

「いいねえ。じゃそうするかあ。」

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*「だに」と「に」 その2

「だに」は「だよ」。「に」は「よ」と訳すのが無難であるのだがそれはあくまで初級編。「だに」と「に」はそんな簡単なものではなく奥が深いのである。今回省くがこれに「い」が付いて「だにい」・「にい」まで広げると底なし沼のようにどツボにはまる。

*「あんたやるだに、分かってるの?」

  (あんたがやるんだよ。分かってるの?)

「に」を強く言いきるのがポイント。「だにっ」と書くのが分かりがいいか。

*「あんたがやるだになんでやらんよを」

  (あなたがやらなくちゃいけないのになんでやらないんだ?)

訳から遠州弁に直すと「やらんとかんだに」となるのであるが実際は例のような言い方をする事が多い。

*「あんたがやるに文句言う奴おるだよ」

  (あんたがやるという事に異議を唱える奴がいるんだ)

この場合の「に」を直訳するならば「のに」とするのが相応しいか。

*「あんたがやるだに文句言う奴おるだよ」

  (あんたがやるというのにそれでも文句言う奴がいるんだよ。)

ここの「だに」を直訳すると「のに」となる。

*「あんたがやるに文句出んら。」

  (あんたがやるという事に対して文句は出ないだろ。)

別な訳し方では(あんたがやる分には文句は出ないだろう。)

ちなみに「あんたやるだに文句出んら」という言い方は存在しない。

これらは接続助詞における「だに」・「に」の話しであって終助詞の「だに」・「に」の話しではないという事。格助詞的な使い方においてはほぼ共通語と同じだろうと思われる。

接続助詞の場合は省略した意味を含む要素が「だに」・「に」に加算される傾向がありそうだ。

むろんこんなややこしい事考えて言ってる訳ではなく習うより慣れろで積み重ねてきたものであって理屈じゃない。したがって厳密なルールとかもないかもであり助詞だあなんだあとかいうのは茶番かもしれない。

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*やりゃせんに

正しく訳せといわれるとけっこう困る言い回しである。

直訳だと「やりやせぬに」とえらく古語っぽいことになる。

もう少し今の表現に直すとなると「やろうとしないに」となりそうだが「に」ってなんぞやというニュアンスが訳しづらい。

文章の流れから考えていくと

「あいつめんどくさいの嫌いだでどうせやりゃせんに。」

  (あいつは面倒くさい事が嫌いだからきっとやらないよ。)

この場合(終助詞)だと「に」は「そう思う」・「そう思ってる」とかいう意味で使われていることになりそうだ。

「あいつやりゃせんに。めんどっちいの嫌いだで。」

と配列を入れ替えても変わりは無い。ただ訳すとなると「やらないよ」というよりも「やりはしないよ」とした方がしっくりくる。

では接続助詞の場合だとどうなるか

「あいつやりゃせんに文句だけはゆうだな。」

  (あの野郎自分はやらないくせに文句だけは言うんだな。)

直で訳せば「に」=「のに」であるので「やりゃせんに」は「やりはしないのに」と訳すのが正しい?ことになる。

格助詞での使い方では言い回しが変わることが多く

「あいつやりゃせん上に文句ばかすかゆいくさる。」

  (あの野郎やらない上に文句どんどん言いやがる。)

「あいつやりゃあせんで文句までこきゃあがる。」

といった風になる。格助詞の場合は共通語と同じなので方言性は無いと思われる。「に」=「で」ということもあり「に」より「で」を使う事の方が多いという事もいえるかもしれない。さりとて「やりゃせんに」という使い方をしないということではなく

「あいつやりゃせんに文句ばかすかゆいくさる。」

という言い方も実際有り得て正直接続助詞か格助詞かの見分けなんぞつかないというところである。もっとも書き言葉の理屈を話し言葉にそっくりそのまま当てはめてよしとするというのはどうかという気もするのであくまで参考までにという程度に収めといた方がいいような気もしないでもない。

まあいずれにせよこのように使いどころによって「に」の意味が変わるので「やりゃせんに」を訳すのは状況によりけりでこうだと決めつけできないので訳し方を説明するのは難しい。

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*もちょっと

おそらく広い地域で使われてる俗語の部類に入ると思える

「もちょっと」

訳す程でもなかろうが一応「もうちょっと」のはしょった言い方。遠州でもよく使われる言い回しであるということで記載。

辞書には「も」{副詞}「もう」の口語的表現。とあるのでちゃんとした共通語らしい。

時代劇なんかだと「もそっとちこう寄れ」とかいう台詞を耳にしたりするわけで古い言い回しということになるんだろうか。

実際の遠州での使い方は「もうちょっと」よりも「ちょっと」というニュアンスという勢いで使われる事が多い。(まあ全国どこでもこんな感じであろうが)

もう少し>もうちょっと>もちょっと>ちょい

とかいった具合であろうか。

「ちょっと」ではなく「ちっと」を使う事も多い。

もう少し>まあちっと>もちっと>ちょい

まあ他にも細かい言い回しはあろうがとりあえず大雑把に挙げてみた。

ちなみに「ちょびっと」・「ちびっと」と「もちっと」ではどちらがより「ちょっと」なのかというと微妙過ぎて何とも言えない。

ちなみにネット辞書には「ちょっと」は「ちっと」の転と記載されていた。「ちっと」は俗語の類いじゃないんかい。辞書にはそうは書かれていない。どうなんでしょね。

で、元に戻って「もちょっと」。使いどころとしては「ほんのちょっと」・「あとすこし」といった微調整を求めるもので

「もうちょっとなんとかせえやあ」だと基本駄目出し・作り直しであるが「もちょっとなんとかせえやあ」だと改良・改善を求めるといった勢いになる。

例文

「やあ、どんどん点離されてってるじゃんかあ。」

  (おいどんどん点差が開いていってるじゃないか。)

「しょんないじゃんあっちん方がつおいだでえ。あの衆ら全国行ってるだにい。」

  (しょうがないだろあっちの方が強いんだから。あっちは全国大会に出てるんだよ。)

「にしたって、もちょっとなんとかせえやあ。」

  (それにしてももうちょっとなんとかしろよ。)

「なんとかできたら苦労いらんわ。」

この場合勝てとは言わないからせめて少しは意地を見せろという意味での「もちょっと」である。「もうちょっと」だと勝てそう(善戦した)な雰囲気作れという勢いになる。

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幸せになろうよ その4

小松原さん(大倉さん)が勝ち残るとしたら二人が食い合って共倒れになるくらいしか思い付かないよな。というか別の女性との出逢いを期待する方が得策ではある哉。

なんて本流とは全く違うことを思いつつ観てるという不届きな視聴者である次第ですが、この回その候補現るってか。そうだとしたら破れ鍋に綴蓋風味な感じになるな。

でも、それでもカップル成立となればますますもって小松原さんってええ人やあって思っちゃいそう。

とかいう寄り道鑑賞はこれくらいにして、本道の方はというと

まあものの見事に間(バツ)の悪い殴り込みであらしたなあ。呆然と立ちすくむしかないのがよく分かる。顔も視れないというのも確かにだ。

ホントじれったいドラマの王道を往くが如き流れだよな。ってこういうパターンだと普通はこういう障害を乗り越えて結ばれる二人というものだけど、そのふたりってのは、どつぼにはめた高倉(香取さん)がこれで憐憫の情を抱き奮起するという線と、矢代(藤木さん)の失態を目の当たりにしてもそれでも柳沢(黒木さん)は矢代を選ぶと一途を強くするかのどっちかだよな。

まあ小松原さんが幸せになってくれればこのドラマめでたしめでたしに思えるんで、いくら三者三様でドロドロしてても気にならないからとことんもつれて面白くさせてもらえば面白いドラマだなと思えるところ。なんて書くと怒られるか。

冗談はともかく、恋愛もののドラマは得意じゃない私でも観ていられるということはうまく説明できないけどよく出来てるドラマなんだろうなと思える事は確かだ。それが「香取慎吾」の役者力によるものなのか脚本の勝利なのかはよく分からないが。それとも何考えてるか悟らせないからこそ面白いという「黒木メイサ」の腕なのか。ともすればえぐい女に映る所を寸止めで抑えて魅せてるものな。

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三国志 第18話

これで仕舞いかよ。嘘だろう。信じれん。

まあそんな事ゆうても詮無い事ゆえ内容をば申さば

陳宮と曹操の惜別のシーンは感動したな。これに尽きるといった感じか。

曹操孟徳という人の人間味が味わえる数少ないシーンなんだろうな。

泣く子も黙る張遼は描かれてたけど高順ははしょられてたな。

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JIN 仁Ⅱ その4

助太刀かあ。子をもうけるは姫の使命。その為とならば老骨鞭打って助太刀致すというのはおお~と感じ入るところ。それにしてもえらく今風でもののふらしからぬ右往左往な様のご親族衆だったな。

ところで凄いところで次回に続く、だよなあ。

あの子はどうなっちゃうんだ?龍馬はどうなるんだ?って流石放置プレーさせたら最近のドラマの中では最強と称されるだけのことはある。

といっても今回のはいい意味での手段であって次週が気になる。大昔のドラマの宇宙家族ロビンソンみたく最後必ず危機が起きてで次週へ続くだけど、翌週大抵すぐけりがついちゃうブラフなパターンでなけりゃいいけど。

確か止血とかなにもしてない状態で透明人間になっちゃったよなあ。あの子が助かるとしたら咲(綾瀬さん)が代理でするのか消えたのはほんの一瞬の出来事であって戻ってきた仁(大沢さん)が処置するのかどっちかなんだろうな。

それとも助からないのかまったく別の医者が現われて救っていくのか。なんてことはないな。

それにしても仁と咲、出逢った頃なぞは外歩くにおいても男女の距離を重んじていたのに。それが今じゃ襖で仕切られてるとはいえ同じ部屋で寝るなんて。もう完全に世間様の目とかいうものを気にしなくなったのかな。それとも旅の恥はかき捨てってか。

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*買い物での機微

買い物の光景を眺めてるとこういう傾向があろうかと。当然だが遠州弁においてこのような法則がある訳ではないので決して以下のようなルールに則って言うのだと決まっている訳ではない。

価格を尋ねる時

「いくらんなる?」と尋ねればほぼ買う気でいる。

頭高で「い」を強く言う「いくら?」となれば買う気大だが高かったら買わないぞという勢い。

食品のイクラと同じ「ら」を強く言う「いくら?」となれば買う気は半々で安かったら買ってもいいという勢い。

平坦で言う「いくら」という言い方も存在する。使いどころは聞き直す・聞き返すときに使われる事が多い。「はあ?いくらだって?」。

同じ「いくら?」でもこういう使い分けがあるので頭に「お」を付けると頭高の「いくら?」は言いづらい事この上ないので「おいくら?」という言い方はあまり使わない傾向にあろうかと。無論おしゃまこいて共通語しゃべくってるつもりなら「おいくらですか」と言ったりする人も後を絶たない。

買う気なしのひやかしのような場合もしくは買い物に付き合ってる側の人間が発する時には「いくらよ」ということが多い。買わされる(金だけ払う)人が渋々財布を出す際に発することも多い。

話し変わって値切るにあたって知り合いの店とかでないと「まけて」という言い方はあまりせず

「安くしてやあ」・「安くならん?」・「安くならんかねえ」といった「安く」を使う事が多い。

「勉強して」という言い方もほとんど聞かない。

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*に その2

「あの人よあの人。間違いないんだから。」というのを

遠州弁はを訳す際はよくに」=「よ」・「にい」=「よう」とすることが多いのだが、だからといって

「あの人にあの人。間違いないって。」

とは言わない。こういう場合は

「あの人だにあの人。間違いないって。」

となる。つまり共通語における女性言葉(みたいな)の「よ」については遠州弁の「に」は対応していないということである。

辞書を引くと

「よ」{終助詞}主体の意思・感情・判断・意見などを強く相手に押し付けようとする気持ちを表わす。とある。意味的には「に」=「よ」ではある。

では、辞書にあった例文と遠州弁を比較してみる

「行こうよ」。これは「行こうに」とはならない。言うとしたら「行くかあ」とか。

「早くしろよ」。これも「早くしろに」とはならない。言うとしたら「早くしろやあ」・「早くしてやあ」とか。

「いらっしゃいよ」・これも「いらっしゃいに」とはならない。言うとしたら「こっちきない」とか。

「ちょっと待ってよ」。これも「ちょっと待ってに」とはならない。言うとしたら「ちょいまちい」・「ちょっと待てやあ」とか。

「これはおいしいわよ」。これは少し変化させれば「これはおいしいに」という言い方で有り得る。

「それは違うよ」。これは「それは違うに」で存在する。

「また来るよ」。これも「また来るに」で存在する。

「いいか、10時だよ」。これも「いい?10時だに」で存在する。「いい?10時よ」となると「いい?10時に」とはならない。

「今度はあなたの番よ」。「あなたの番に」とはならない。言うとすれば「あなたの番だに」となる。

「何言ってるのよ」。「何言ってるのに」とはならない「何言ってるだに」ともならない。言うのは「なにゆってるよを」・「なにこいてるだ」とかである。

「分からないのかよ」。「わからないのかに」とは決してならない。言うのは「分からんだ?」・「分からんだか」とかである。

このようになんでもかんでも「に」=「よ」であるという理屈ではない。あくまで初歩というか遠州弁を憶えるとっかかりとして「に」=「よ」とするのはいいが実際の会話になるとそれでは通用しない。理屈もへったくれもないがならないものはどういうのかというと女性言葉っぽく聞こえる「よ」は「に」にはならないというのは言えるのではなかろうか。

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