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犬を飼うということ その4

 ごちゃごちゃこねんとこの家族好きだぞ。

「一番良いものじゃなくて一番好きなもの。」。なんて賢い子なんだろう。知恵が回るという意味じゃなくて本質を突いてるというかなんというか。ハッとする事を言うんだよな何気に。

「逃げんなよ。」。一家の柱としてドスが効いてたなあ。それでいて引き摺らないあっけらかんとした明るさがいいよな。

「貧乏なのは俺の責任だ。」卑屈じゃないと装っていても卑屈にこだわっているのは納得だよな。職を辞すというのはそういう事だよな。引け目を感じない訳がない。それでも逃避しないのは家族持ちの背負うパワー故か。男だよなあ。しかも奥さんをたてる我慢強さもある。とてもじゃないが真似出来ん。

それにしても子供の世界はストレートな分残酷で複雑なもんだ。もし今この世界に自分が投げ込まれる事になぞなったとしたらもつかなあ、もたないかもな。

ところで飼い主現る。もう180日になんなんとしてるのか。早いな。なんてこたあなかろうて。どうなるんだろ。

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無謀の喩え

「戦車に竹やりで突っ込むようなもん」。無謀な様を表わす喩え。

単なる印象だけかもしれないが以前よく使われてた風に記憶してるが最近聞かなくなったかな。戦中派の人にとってはリアル(現実的)なものであったのだろうが今は完全に過去となって嘘みたいな有り得ない話しという部類に属してるんだろうかな。

自分が若造(中・高校生)だった頃は「いつかはクラウン」という国産高級車の象徴クラウンのコマーシャルの名台詞を弄って

「いきなりクラウン」とか言って苦労することなく即ビッグになっちゃると息巻いたりして笑ってたけど。これは無謀とかいうのじゃなくて単なるアホか。それとも己を知らぬという無知か。具体的にどうやって成り上がってやるとかの青写真が無かったもんな。

就職してからはそこかしこで「聖子ちゃんカット」なるものが溢れ街を闊歩する光景が見られた。土台が違うんだからそりゃ無謀な限りだと心底思えた。思っただけで口にすることはなかったけど。なにせ口になぞ出したら洒落にも諭しにもならないのは分かっててむしろそんなこと言われなくても解かってると開き直られそうで怖ろしかったということもあったし。でもこれって無茶であって無謀ではないか。

今だと何が喩えとして使われてるんだろう。

至極不変のことわざというこであれば「虎の尾を踏む」が思い浮かぶな。

今的な喩えは・・・・う~ん思い浮かばない。なんて言ってるんだろう。

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*「いう」と「ゆう」

「言う」を「いう」というか「ゆう」というか。書くに於いて「ゆう」と書くのは流石におかしいということになるが声に出すとなるとはたしてどうなんだろうと。

遠州に於いては大勢は「ゆう」と発しているであろう。感覚的には「いう」は書き言葉の世界のものであって話し言葉ではないという意識があるような気がする。まあそうは言っても「いう」も発しているのであくまで傾向としてであるが。

「そんなことゆったって」

「なんちゅうことゆうだあ」

「よくゆうわ」

「そうゆうもんだ」

とかは「いう」だとざらつき感が大分湧くな。特に「そういうもんだ」だと「ういう」なんて発音しづらい事この上なし。

こういうのって東が「いう」で西が「ゆう」とかいう風に分かれるという訳でもないだろうな。関西だと「なにゆうてまんねん」とかで頻繁だろうし関東でも「なんちゅうこと」(なんとゆうこと)とか「っちゅうふうに」(というふうに)と発している訳だからして東と西で分かれるということではないのだろう。

「言うなれば」を「いうなれば」と書きはすれど声として発する際は「ゆうなれば」となるのが普通に感じられるのは方言性なのか。

しかしてこれが「そうは言っても」となると「そうはいっても」と発するのだからあら不思議。故に遠州は人それぞれであって、場所や都合で使い分けているわけではなくなおかつどちらかを主にして使っているという地域でもないということであろうか。まあ「ゆう」表現の方が多めではあろうが。

ちなみに、個人的には「言えば言え」だと「いえばいえ」と普通は発するが「言はば言え」だと「ゆわばゆえ」か「ゆわばいえ」と発したくなるよな。

万葉集の歌で

思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯の社の 神そ知らさむ

この場合「いわば」というより「ゆわば」の方がゆかしい気分になるのは自分だけか。もちろん昔の人が「言ふ」をどう発していたのかは知らないが。

「そういうものだ」を「さういふものだ」と昔の仮名遣いは書いた。だからなんだという話しであるが、こういう場合は「そうゆうものだ」とおそらく普通は発するだろうな。

つまり「いう」よりも「ゆう」という表現の方が格調が高いという認識があるのかもしれないところである。あくまで個人的にそう思えるということである。

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BOSSⅡ その3

 木元の生き死にについては語られる事無く次の事件に突入してたなあ。死んではいないだろうけど復帰の目は残して進んでるという事なのか。

それにしても成海さんはふてくされた(もしくははにかみ)な感じに磨きがかかってきてるなあ。ふてくされて画になる役者さんはそうは居ないと思えるのでこの「若手」と称される年代の役者さんに於いては右に出る者無しという勢いか。でも大人っぽくなられたなあ。今おいくつなんだろ、今年19歳なのか。若いよな。

なんていう与太はともかくこの回で印象的だったのは殺人鬼から4件目は俺じゃねえと言わしめた追い込み方が見事だったな。

犯人さんについては多分この人なんだろうなと思って観ててその通りに進んだので推理の妙というかどんでん返しは今回薄味だった風に思えた。

まあ社会に益をもたらしてきた優秀な人が監獄入りというなんだかなあなお話しではありますが、少年誌が続くみたいな形で終わったというのはなによりほっこりするところでもありや。

この回のギャグはコント過ぎてるような印象これあり。故に捜査との繋がりが薄味に映ったな。つまりきちんと捜査してた風に映らなかった。愉快な仲間たちというのはこのドラマの売りでありギャグをするなというのではく、希望としては会議中においてのみとかいう事で捜査においてはきちんとやってると映るメリハリをつけて欲しい哉。

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*で その2

「そんなの後でいいで」。十分共通語の範囲であろうがそれでも

きちんと訳すとなると「そんなの後でいいから」とするのが普通。

じゃあ「で」=「から」なのかというとそんなことはないだろう。

屁理屈的には「そんなの後でいいので」という「で」=「ので」ということではなかろうかと思えてくる。

遠州弁はこの「で」=「ので」という言い回しをよく使い傾向があろう。と同時に「から」という言い方をあまり用いない傾向があるとも思えてくる。しかしながら感覚で物を言うと大分曖昧なのでちょっと調べてみる。

辞書によると

「ので」{接続助詞}前件が理由・原因となって、後件に述べる事柄が起こる事を表わす。A「風が強いので埃がひどい」。

「から」{格助詞}①動作・作用の起点・出発点や、それがもたらされるそもそもの原点を表わす。「学校から戻る」。②物事の順序・範囲を示す場合の始まりを表わす。「あなたからどうぞ」③経由点を表わす。「玄関からお入りください」④原因・理由・根拠を表わす。「不注意から大惨事になる」⑤材料・構成要素を表わす。「酒は米から作る」⑥ある数量より以上の意を表す。「百人からの人が集まった」

{接続助詞}①前件の事柄が後件の事柄の原因・理由となることを表わす。(命令・依頼・推量・意思・主張など、話し手の主体的な立場で述べる場合に多く用いられる)B「寒いから窓を閉めてくれ」②(終助詞的に)相手に向かって強い決意を表わす。C「もうどうなっても知らないから」

「で」{格助詞}①その動作・作用が、どんな場所・場面で行われるかを示す。「日本で催された」②(古語「・・・においては」の変化)その動作・作用が行われ始めたのはどこからであるかを表わす。「彼の説ではこうなっている」③その動作・作用がどんな方法・手段や材料で行われるかを表わす。「鉛筆で書く」④その動作・作用がどんな原因・理由で行われるかを表わす。「病気で休むかもしれない」⑤その動作・作用がどういう状態で行われるかを示す。「みんなでやろう」⑥その動作や状態がどんな時点で問題にされるかを表わす。「現在では行われていない」

{接続詞}それで。「で、なによう」

{助動詞「だ」の連用形}「今日は10日で金曜日だ」

格助詞と呼ばれる「から」や「で」については共通語とまったく一緒で変化する遠州弁は思いつかない。違いが出るのは接続助詞においてであるようだ。

次に辞書での例文を遠州弁に直して考えてみる。

A、「ので」{接続助詞}は遠州弁だと「風ん強いもんで埃んがんこ」といった「もんで」が使われる。もしくは「んで」と当然「で」。

B、「から」{接続助詞}①については「寒いだで窓閉めてやあ」。もしくは「もんで」稀に「にい」。「で」も当然使われる。

C、「から」{接続助詞}②については遠州弁では「もうどなっても知らんにい」といった風に「にい」が使われる。もしくは「でねえ」。

といったように、「から」は遠州弁の場合他の言い回しになる事が多く「で」に置き換えることが出来る。なので遠州弁ではやはり「から」は使わない言葉という傾向が強いといえるのではないか。

で、「で」=「ので」はどうなったんだというと「で」=「から」を否定する事ができなく「で」=「から」=「ので」みたいな感じにもとれる。遠州弁においてはそこら辺は曖昧なのかもしれない。

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ハガネの女Ⅱ その3

 いやあこの回は善かった。前回はささやかな感動だったけどこの回は大きく感動したなあ。ホントこのドラマいいわあ。

今時死滅してるんじゃないのかと思えてた「殊勝」を観た。自分の事は後にする奴なんて、しかも小学生でだよ。それだけに今の風潮や環境とかと相容れない部分が多かろうでストレスが溜まり溜まって十円禿が出来てしまうというのも解かるような気がするくらいだ。

こんないい奴が必死に耐えているのだという事を知ったなら大人としては手を差し伸べるなりなんとかしなくちゃという気にならない方がおかしいよな。自分だったらどうすべえと巡らしてみながら観てたけど、ハガネ(吉瀬さん)の対応はそりゃ見事だったな。

自分だったら悪さに引っ張るガキどもに鉄槌喰らわすくらいの敵味方を作る(善悪に分けて悪をなじる)対処しか考え付かなかったけど、自らの歩み寄りの勇気の振り絞りを後押しするという裏方(サポーター)に徹するというのは流石教師のプロだなあと感心しきり。

机に落書き・誹謗中傷と一般社会だったら(法律の事は詳しくは知らないが)器物破損に名誉棄損か人権蹂躙とかで弁償なり罪なりに問われるぞという行いをしているのに、子供だからなんて理屈とかじゃなくそういう事をする生徒を不問にすることはないだろうが罰しないで(今後)良き方へ導くというのは学校という場所は世間のルールでは推し量れない世界なんだろうな。

やられる方の身になって考えてみろなんて圧倒的に経験値のない子供には馬の耳に念仏なんでしょうかねえ。それはちょっと気になった。やられる身になった事がないから考えようがないしそれよりも感情が抑えられないという意識の方が強いんだろうな。

それにしてもあそこまで自分のことを気遣ってくれた友情に対して、それに応えなきゃ男がすたるけどそれが出来ない(足を踏み出せない)気弱な子供が意を決して何をしたかというのには驚いたな。まさか頭丸めるとは。

役者根性あるわあというのももちろんあるけれどこの手があるのかあと。想像もしてなかったな。決意の表れとしてはホントインパクトあったなあ。

ところでこれで十円禿治るのかな?

まあとにかく最初地味に思えたけどいやいやどうしてパワーあるわこのクラス。一癖二癖どころじゃないよな。それに加えて教師初心者マークもどうしようもなさそうだし。

そんな中でよき理解者である先崎先生(設楽さん)の存在は大きいな。なんかこの戦場のような場所で先崎先生出てくるとホッとする。校長(高橋さん)も味方っぽいけどなんかまだ何考えてるのかよく掴めない狸オヤジのイメージが拭えないものな。

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遺留捜査 その4

穏やかに進む印象が湧く。淡々というほどではないけれどひたひたと犯人が姿を現す感じで推理ドラマとしての要素は薄味でその分人間模様を描くを主としているみたいに感じられる。

もちろんなんでそんなものに拘るんだ?と思えるような遺留品から追っかけていくというのは奇抜で予想外もつかない展開ではあるけれど。でもそれはトリックとかではないので観てて引っ掛かったとかいう妙を愉しむものではないような。

そろそろなんでこんな周りから白い目で見られていてもなおこういう突貫行動を取るのかという理由を知りたくなってきたな。

あと、本来の領分(一日の仕事)ってのがどんななのかというのも知っときたい感じがする。まあなんとはなしに刑事曰くの「出しゃばった真似」というのは理解できるけど。もうちょっと明確でありたいかな。

つまり事件のない一日ってのをやってくれないかなと思う次第。

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*「○ん○い」という言い方

「もんりい」とは「おもり番」ということ。

「今日はもんりいしにゃかんで遊びいけれん。」(今日はお守りをしなくちゃいけないので遊びに行けない。)

こういう「○ん○い」という言い方は遠州弁ではよくする。

「まり」(毬)であれば「まんりい」

「うみ」(膿み)なら「うんみい」

「あに」(兄)を「あんにい」

「ぼろい」を「ぼんろい」

「もろい」(脆い)を「もんろい」

野郎表現であり女性が発することはばか恥ずかしい(非常にはしたない)ということになる。

形としては「ん」(撥音)もしくは「っ」(促音)を足して語尾は前の音を繰り返す(もしくは伸ばす)というものであり、意図としては本来二音で成る言葉の音数を増やして語呂(言い易さ)をよくしようというものであろう。

「豚」を「ぶったあ」

「姉」を「あんねえ」

「息子・娘」を「むっすう」

「へた」(下手)を「へったあ」

この条件であれば

「ボロ」を「ぼんろう」

「カス」を「かっすう」

といったいささか強引と思える物に対して使っても違和感は湧かない。ただし嗤われることは有り得るが。

ちなみにここから先は卑猥に属すので18禁な内容だが

「つんびい」という言葉。(人前では決して発してならない淫語)

これを上記の理屈によって元の言葉に戻すと「つび」となる。で、「つび」とはなんぞやという事でネット辞書を調べると(辞書及び古語辞典には記載無し)

「つび」(玉門)陰門の古名。

「陰門」女性生殖器の外陰部。玉門。

とある。「つんびい」の使われてる意味と合致するものである。

つまり古語が遠州では形は弄ってあるが現在も生き残っているという事が分かる。

ちなみに現在は「つんびいしてえ」で「エッチしたい」といった行為を指す意味に使われる傾向が顕著である。が、正しくは体の部分を指す言葉であるのだがそれが大分応用が進んできている状況である。良いか悪いかは知らないが。

尚、「小娘」のことを「ちゃんびい」と言うのだが、これもこの屁理屈で戻すと「ちゃび」となるのだが「ちゃび」って言葉は何処を探しても見つからない。

同様に「自転車」を「けったあ」と言うのであるが「けた」が「自転車」であるということはない。

こうしたことからなんでもかんでも「○ん○い」という屁理屈が成り立つというものでもない。つまりややこしいぞと。

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リバウンド その2

なんでこのドラマにおける「相武紗季」が好いと思えるのかつらつら考えるに、Cmの印象そのままをドラマで表現しているからだろうと思えてきた。

常に好感度の上位に位置する空気感がそのまま信子として表現されてると映るからであろう。同じ演ずるということでも演技と表現は別物で、このお方の場合演技に重きを置くよりも表現を主体とした方が惹きつけられるんだろうな。といってもそれは「相武紗季」の体型によるものでブー子では出汁肉いじゃないや出しにくい気もするところ。

それを太った体型の状態においてどうカバーするのかと思ったら関西弁を駆使しての二役演じという手法を用いてる。声だけだけど。でも最後は戻ったか。

他に気が付いたというか気になったのは、ナレーションの声である。もうちょっとどすこい調を和らげてくれないかなと思えなくもない。

で、本編。

それにしても強引に戻したなあ。今後も行きつ戻りつを繰り返すのかなあ。それもまた快ではあるか。ブー子で見慣れてきつつあったところにスリムに戻ると案外やせぎすに映るもんだ。美女は三日で飽きるがブスは三日で馴れるというけれどブーも結構馴れるもんなんだな。って元がいいからに決まってろうがでしょうけど。

でも性格は全方位的に明るさを振りまいて自分の首をどんどん絞めていくという損な性格というのには応援したくなるよな。

底抜けに笑えるコメディじゃないけれどキャラが光ってていいよな。親友のいる生活、鍛えてくれる上司、優しい両親、ちょっとやばそな先生。メリハリの激しいものだけど充実してる感があるよな。ほんわかした気分を与えてくれるドラマなのかな。

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*くっちゃべる その2

「無駄話をする」とかいった宜しからぬおしゃべりに対して発せられる言葉である。全国的に使われてる言い回しで遠州弁ということもないのだが。

この「くっちゃべる」ってどこをどうすればこうなるのかというのを考えて見る。

意味は当然違うが似たような言い方としては「くっちゃぶい」というのがある。

これはおそらく「くそさぶい」の変化したものであろうと想像できる。

したがって同様に「くっちゃべる」は「くそしゃべる」の変といえるかもしれない。

「この忙しいだになにくっちゃべってるだあ。」といったような不快に思ってるから出る表現であるので「くそ」という言葉はおかしくはない。

この「くそ」はどういう意味をとなると

中身のない(栄養のない)という意味。「くそみたいな話をしてる」という勢い。

人をののしって言う語。「こんな時に話してるくそ」という勢い。

とかが想像される。意味的には繋がるんだけど「ちゃべる」となんで「しゃ」が「ちゃ」になるんだという疑問が解けない。別に「くっしゃべる」でもいいんじゃないのかと思えるのだが「くっしゃべる」とは言わない。

「くそ」じゃないとしたらなんだろう。「食いつく」の変での「くっ」かな。

「食いついてしゃべる」つまり夢中になって手が休んでしまうというのは状況的に無理はなさそうだ。

まあどちらにしても単なる妄想であって正解でもなんでもないだろうが、ホントのところはなんなんでしょうね。

「くっつく」とか「くっつける」とかは共通語だろうからそこら辺から答えが出ないかなと思ったがよを分からん。

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三国志 第17話

 陳珪と陳登親子が大層曹操寄りでというか手下という印象を受けたな。あれだけだとえらく性悪な知恵者(役者)にしか映らない。

自分の記憶してるこの親子は劉備を評価している劉備派の人だと。陳登はよく出来た人で徐州に必要な人だと。行いは確かに呂布を欺いてのもので見知ってる通りの事してたけど。これだけ見た人だとこの親子は奸臣だと思うだろうな。

ところでいつのまにか趙雲が居なくなってる風に映った。えらいはしょり様だと思う。

曹操と劉備の関係は理解に苦しむよなあ。先週分かれる際に徐州を巡って敵味方を宣言したと思ってたのに。

それにしても陳宮はなぜあそこまで劉備を信用していないんだろう。曹操も袁術もほぼ似たような評価してるもんな。陳宮だけじゃないってことだろうけどそんな劉備って胡散臭い人物像に映ってたのかなあ。単なる成り上がりの人間に対するプライドとか嫉妬という勢いには感じられないもの。呂布を見限って再就職先探そうかと悩んで思いあぐねても劉備のことなんかもう歯牙にもかけていないって感じだったものな陳宮は。

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幸せになろうよ その3

おいおいという展開だが成る程なと思った回。

あえての無茶な要求、嫁がいるのに何故にという疑問が解消された。邪魔して元鞘に収まろうという魂胆だったのか。

辻褄は合うなこれまでの突飛な行動が。上手く成就したとしても奥さんとの事後処理(どろどろの愛憎劇)が大変そうだよな。それは矢代・柳沢両者にとって火中の栗を拾っても余りある甘い未来なのだろうか。

さてこれで小松原さん(大倉さん)の倖せがまた遠のいた次第だがどうなっちゃうんだろうといのがまずは気にかかる。

高倉(香取さん)の悶々はまだまだ続く次第でもあるがそれはどうせ最終回まで続くだろうから二の次という気分。

柳沢(黒木さん)がどういう選択をするのか(何考えてるか)なんてのは予想しない方が面白そう。振り回される人間模様を楽しむ気でいた方がいいようだ。もちろんそのふらつき加減が嫌味に映ったら台無しだから柳沢が与える印象は重要で「黒木メイサ」の腕の魅せ所はここにありであろう哉。

とにかく分からせない事が肝であろうな。そうなることによってその分高倉の心根がモロ分かりというのが悦になろうかと。

でもこの回は因果を含んで歯が痛くなくなったというのについては、ちょっと、そんなもんなのか?と思えたりなんかして。

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*「にぎやかい」の「い」

「賑やか」・「華やか」・「爽やか」・「健やか」・「冷やか」・「穏やか」などの形容動詞に

「い」を付す言い方は方言なのか?というお話し。

共通語なら「な」が付く、賑やかな・穏やかななどということになるであろう。

それが、賑やかい・華やかいといった言い方をするのは方言なのだろうか。ネットで検索すると案外広い地域で使われる言い回しという印象を受けた。特に遠州弁ということではないらしい。

でもまあ遠州弁での使い方について述べてみる。もしかしたら独特なのかもしれないので。

理屈は「い」を付すことによって形容動詞を形容詞に変化させる効能となるそうな。

それって単に「な」が「い」に変化した(訛った)って事を言ってるということか。

しかし最初に挙げた言葉が全てこう変化するのかというと「爽やかい」・「健やかい」などとは言わない。つまり変化する語としない語がある。変わるものと変わらないものの違いは何かの説明がないとよく分からんぞということになる。

実際の変わる言葉を考えてみると

もし共通語の「美しい」の理屈が「美し」(もしくは愛し)+「い」で「うつくしい」であればこの「い」の理屈の中の表現類に含まれるのであるが「うつくし」も「うつくしい」も形容詞と分類されてるからとんでもないこじつけになるか。

でも「やわらか」+「い」という形容詞化というのは共通語にあるよな。そう考えると全く方言独自の変化ではなく単に形容詞化する種類が共通語よりも多いというだけの事になる。

遠州弁っぽいのだと名詞だの形容動詞だのごちゃごちゃいわんと挙げ連ねば

「じょうぶい」(丈夫い)・「じょうずい」(上手い)・「にぎやかい」(賑やかい)・「ひややかい」(冷やかい)・「おだやかい」(穏やかい)・「ぶしょい」(不精い)。「けっこう」+「い」で「けっこい」がこれに含まれるかは微妙。微妙といえば「冷やかい」(ひやかい)は普通は「ひゃっこい」だから存在はビミョ~。

などがとりあえず思いつく。もちろんこれで全部という事では無い。

逆に変わらない言葉を考えてみると

「すこやかい」(健やかい)・「はなやかい」(華やかい)

ん~並べてみても変化するものの傾向は読めないな。

視点を変えて、ニュアンス的にいうと例えば「賑やかな」と「賑やかい」では受ける印象が違うと感じる事がある

遠州弁における「賑やかな場所」と「賑やかい場所」だと「賑やかな」は「活気のある」といった勢いで「賑やかい」だと「騒々しい」という勢いの違いを感じたりもするところである。「い」ではなく「し」で「賑やかし」だと「盛り上げ要員」みたいな勢いが影響しているせいかもしれないところでもあるが。

次に遠州弁で「割と丈夫いじゃん」・「けっこう丈夫いにい」という表現。

この場合共通語に直すのに「い」を「な」にすればいいというものではない。「割と丈夫なじゃない」・「結構丈夫なだよ」とはいかないという事である。文章のまとまりとしては「な」は余分となる。もしくは丈夫な○○とか丈夫という対象物をいれなければならない。

はしょる表現として用いられてるとかいうこともあるのかな。

と、まあ色々考えてみたけれど、詰まる所は無秩序を整理するのは無理なようだ。それでもなんとなく言えることは

別に方言じゃないのではないか。単に頻度が抜きんでてるだけだろう。

言うものは言うし言わないものは言わない。法則・傾向は不明。

言葉ごとに「い」を付ける(形容詞に変化させることによる)用途・効能が違っているような気がする。

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*「いい」と「よい」

例えば「やりいい」という場合の「いい」。

「いい」は「易い」と言っている。

「これがんやりいいで使ってみい。」(これとてもやりやすいから使ってみなよ。)

「良い・好い」ともとれなくもないが「~し易い」と言っている。

「良い・好い」という場合には「やりよい」と発する。

つまり遠州弁においては「よい」と「いい」は使い分けられているのである。どちらもイントネーションは共通語とは異なる。「いい」の最初の「い」、「よい」の「よ」を強く発する。

どちらも訳す際は「易い」とすることが多く一見違いはないように思われるところであるが、ニュアンスとしては異なるものである。

意味的にどういう違いかというと

「持ち易い」なら「もちいい」

「持つのに良い」なら「もちよい」

「やすい」(易い)は誰にでも容易で簡単

「よい」優れている好ましい

などという違い。

つまり誰が持ってもという勢いと自分が持ってという勢いの違いである。

強引にいえば「やりいい」は誰にでも簡単、「やりよい」は自分にとっては得手であるといった感じである。

最初の例文でいうと「これがんこやりいいで使ってみい。」を「よい」に変えて「これがんこやりよいで使ってみい」とすると自分が使ってよかったからあなたも使いなさいよといった軽い命令口調(お仕着せ口調)になる。

柔らかくするには「これがんこやりよいであんたも使ってみい」とすれば自分は良かったからあなたもどう?という勢いが増す言い回しとなって角がたたずに済む。

で、「易い」を全て「いい」と置き換えて言うかというと(言って言えないことはないのだろうが)そんなことは無い。「よい」は殆どの言葉で使える。

例えば「話し易い」は「はなししいい」とは普通言わない。「はなししよい」と言うのは有る。

他には「言いよい」とは言うが「言いいい」とは言わない。「買いよい」はあるが「買いいい」はない。こういう場合は「易い」を使う。といったような「いい」と「易い」は前の言葉によって使い分けがなされている。ざっと挙げると

「いい」を使っても違和感のないのは

「当てやすい」→「当ていい」・「やり易い」→「やりいい」・「持ちやすい」→「持ちいい」・「打ちやすい」→「打ちいい」・「着やすい」→「着いい」・脱ぎやすい」→「脱ぎいい」・「使いやすい」→「使いいい」・「売りやすい」→「売りいい」・「出しやすい」→「出しいい」・「寝やすい」→「寝いい」・「起きやすい」→「起きいい」・「蹴りやすい」→「蹴りいい」・「弾きやすい」→「弾きいい」・「取りやすい」→「取りいい」「撒きやすい」→「撒きいい」・・などなどきりがない。

「易い」としか普通言わないのは

「言いやすい」・「買いやすい」・「話しやすい」・「放しやすい」・「犯しやすい」・「捕まりやすい」・「転びやすい」などなど。(他にもあろうが。)

これがどういう法則で「いい」にならないのかはいまいち掴めていない。今後の宿題である。

例文

「やあなんだあここんさあの荷物おもいきっさけっからかいちゃってえ。どいてえやあ。」

  (おいなんだよもう、ここにある荷物思いっきり蹴っ飛ばしちゃったじゃないかよ。すごく痛いぞ。)

「ちょう、頼むにい、壊さんでよ大事なもんだで。」

  (ちょっとぉ、お願いだから大事な物なんだから壊さないでよ。)

「んなもん なんでこんな蹴りいいとこなんか置くだあ。」

  (そんなものどうしてこんな蹴り易いような処になんか置くんだよ。)

「とりあえず置いただよ。丁度に置きよいとこないもんでえ。」

  (好い置き場所決まるまでとりあえずそこに置いといたの。)

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JIN 仁Ⅱ その3

 牢獄での匂い立つ空気感やら責苦の本当に痛そうやらで、実が濃い事よのう。

にしても権力闘争(勢力争い)の足の引っ張り合いに巻き込まれたのかと思ってたのにそれが見事に違って、思い返せば前回嗚呼勘違いな感想書いてしまってと見事な赤っ恥。真相は嫉妬たあのう。見事たばかられ候の由いたく感じ入り候。

どうこの窮地を乗り越えるのかと算段を予想したけど気持ちいいくらいことごとく外れたな。天晴れというべきか。

ところで野風(中谷さん)はその名の如く風のように去って行った。これで縁切りということでもなかろうが今後どうなるのやら。

「咲さん(綾瀬さん)は大人だあ。」とのたまう仁先生(大沢さん)。「大人」とは感情に流されない制御心ということなのか。そういう意味じゃ現代人は退化してるというか子供ばっかの世界かもな。もっともそれは社会の風潮によるものだろうけど。

ところで最大の懸念事項の「金欠」は?

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*微妙な遠州弁 行くんだら

例えば「今から病院行くんだら?」と言う文章。

訳さば「今から病院に行くのだろ?」とておかしくはないのだが、なんかざらつきを感じざるを得ない。違ってはいないのであるが普通は次のようになるであろう。

「今から病院行くだら?」

つまりつらつら思うに「だら」の前で文章が完結していなければ違和感を感じるものである。

「行かない」ということで「今から病院行かんだら?」ということであれば違和感はない。

例を変えて「もちろんやらんだら」。「もちろんやらない」+「だろ」といった念を押すみたいな付け加えの様相を呈していないとなんか違和感を感じるものである。

これを共通語に直す際にとにかく一文にまとめようとすると「もちろんやらないのだろ?」と格助詞の「の」をはめてしまうことになる。

したがって共通語を遠州弁に変えようとすると「行くんだら」みたいな余分なものが付いてしまうことになりざらつきを覚えるのであろう。こうしたざらつきを解消するには先のように「行くだら?」とするか、もしくは「病院に行くんだら?」と共通語に近い言い回しにするか。

ところがこれが「あいつのこんだで行くんだら」ということになれば

これを訳さば「あいつのことだから行くんだろ」ということでなんのざらつきもない。

それは何故かというとこの場合共通語に訳すと「行くんだら」は「行くのであろう」ということになるのだが、遠州弁的には「あいつのことだから行くんだ」+「ろ」という事になるという正しいかどうかは根拠がないがそういう解釈が成り立つからである。つまりこの場合は「だら」ではなく「ら」であるからとすれば違和感がないのである。「ろ」ではなく「ろう」としたいのなら「ら」を「らあ」とすれば「行くんだろう」ということになる。

最初の例文に戻って「今から病院行くんだだら?」という事になれば歪ではあるが違和感はない。

「今から病院に行くんだ」+「だろ?」

という形になっているからである。歪さを解消するには「今から病院行くだあだら?」とかになろうか。

こういった風にややこしいことは確かである。

さらに輪を掛けてややこしくすると、ところがこれが旧遠州弁である「づら」とするとあら不思議、「今から病院行くんづら?」・「今から病院行くづら?」・「もちろんやらんづら」・「あいつのこんだで行くんづら」とどれにも違和感なく当てはめることが出来る。唯一「今から病院行くんだづら」だけはおかしくなる。

単に言い方が「づら」から「だら」に変化したということではなく、助詞の使い方とかまでもが変化していると勘繰られる程である。一体何が起こってこうなったのかが分からずまったく不思議としか言いようがない。取り様によっては片言言葉化してると云えるのかもしれないが。

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