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犬を飼うということ その2

 ちょっと慌ただしかったんで見直しせずに一度観で感想書いてるので勘違い見間違いしてるとこがあるかもしれませんがご勘弁のほどを。ま、いつものことか。

 旦那の仕事はリストラの執行人。団地の住人は強固な動物排斥思考と、ドラマならではの幾分過激な背景設定はされているけど、地に足の付いたホームドラマに映るよな。

「決まりを守る」ということが今回のテーマと映ったけど、後ろめたさの想いというのも描かれている気がしたな。

そういうじくじくしたのを犬が癒してくれるのかとなるとさに非ずでむしろ内なる側で燻っていたものを犬という導火線がそれを外に露わにして燃え上がらせている風にも映る。

貯め込むより放出しちゃった方がすっきりする事は確かだろうけど相手によりけりだものな。そういう意味でこの家族は大丈夫な間柄のようでもある。ただし旦那がまだ爆ぜたとこ提示していないからそうだと言い切れるものではないが。といっても爆ぜるとこ観たい訳じゃないけどね。

この回は長男坊を叱るシーンがよかったな。リアルっぽくて自分が怒られてる側の目線で観てました。奥さんの突風旦那の地響きといった嵐が過ぎ去るのをひたすら耐え忍ぶ息子の気分がよく解かりましたわ。

子は親を写す鏡だから怒る親は自分を戒めてるということにもなるんだろうな。

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*古語の「に」

「たれをかも 知知る人にせむ 高砂の 松もむかしの 友ならなくに」

旧友が次々と逝ってしまって自分は誰を友として生きていけばいいのだろうか。癒してくれる高砂の松とても友というものではないのだから・・・。

とかいう意味の百人一首の中の一首。訳はどこぞのものを引用するのもあれなので参考にして自分なりに訳したものなので正確ではないであろうなのであしからず。

勝手な思い込みだが、最後の「に」が遠州弁の「に」と同じであるとすれば理屈ではなく感覚として結構分かり易い気がしてきたりなんかして。

知り合いがどんどん亡くなって友達おらんようになっただよう。高砂の松はそりゃあ和むだけえが やっぱ友じゃないで寂しいに。

とまあ遠州弁にするとこんな感じになろうか。この言い切らない余白感はおんなじなような気がする。言い切るなら「や」とか「ぞ」だろうなと。

「に」だと分かり辛いが「にい」とすると「よう」と共通語に直せる。「寂しいにい」で「寂しいよう」。これのニュアンス的に近い他の遠州弁は「で」・「でえ」かな。

同様に「やあ」とするとこの場合は「なあ」というのがはまりそう。「寂しいやあ」で「寂しいなあ」という感じに。これのニュアンス的に近い他の遠州弁は「だ」・「だよ」かな。

こういうニュアンスが実際の古語のものと一緒だったら遠州人は古文を他所の地域の人より若干読み取り易い土壌があるということになるんだろうけど、実際はそういう兆候はないので妄想なんだろうかな遠州弁の「に」や「や」は古語と同じというのは。

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2011・4月 何気に思えたこと

 フジテレビの女子アナウンサーさんは「報道」という部署に属するとブログ発信はご法度になるという掟が定かならぬがあるらしい。そういうもんなのか?なんでだろ。滅私たれということなのか?

表現が楽しみだったのにな。残念。

 2011年の浜松祭りは自粛だそうな。しかしながら密かに期待するのはどこぞで震災に遭われた人達に声援を送る凧とかをあげたりしないかなと。祭りといっても神事でもないもともとは町民が初子を祝う為に自主的に始めたものだと言い伝えでは聞いている。

そういうこじんまりだったものが次第に我も我もと膨らんできていつの間にか大事になり過ぎて警察が制御し市が仕切るようになってきたんだという言い伝えを記憶してる。

ここは再び原点に戻ってお上とは関係なくなおかつ受け狙いでもなく自主的に願いを空に掲げるという目的で凧揚げるゲリラ活動を厭わぬひょんきんな連中出て来んかな。なんぞと密かに期待してる今日この頃。まあお縄になれば来年以降出場停止喰らうだろうからどこもやらんだろうけど。

 インフォシークのアクセス解析が2012年5月でサービス終了になるとな。2010年10月に無料ホームページサービスが終了になっての今回と。縮小と映るのは気のせいか。もちろん会社がということではなくて世の流れが別のものに主流が移ってきているということを表わしているようで。

ブログとホームページとを柱にしてる自分は時代遅れに固執してるのかしらむ。なんか好ましくない変化だよな。今のところブログはまだ大丈夫みたいだけど。

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ハガネの女Ⅱ その1

 このドラマもタイトル正しくは「ハガネの女」なりしが勝手な都合上「Ⅱ」と称して記事にせんとす。

前作から変わらない部分が多くて兎にも角にも見易いな。前作はなんでこんな時間帯にやるんだろうとずっと思えていただけに21時台の放送というのは納得できるところである。

ただし帰宅能はずの時間帯だからして否応にも無く録画での視聴で後になってしまうところがちと残念。なにせ木曜日はボスを始め観たいのが目白押しだから。

そんな個人的な都合はともかく、火中の栗を拾うを良策とするのが信条であるかのようなハガネ(吉瀬さん)が最初転入を渋っていたかのように映った。それを今回は校長の断にて拾う事となった。なんか守りに入ったみたいな気持ちが湧いてたのかな。もちろんすぐに吹き飛んでいつものハガネに戻ってたけど。

怪獣大集合の図は前シリーズ観てた人でないとあの恐怖は分かんないだろうな。各個撃破してようやく怪獣を懐柔してきた経緯があるだけに、あの揃い踏みは迫力あったなあ。徒党を組まれたら対抗しようがなさそうだもの。でも今回はクレームの意思表示だけで結論を強行に即求めるというとこまでは描かれていなかったな。ただ単にはしょられたのか多少なりとも信頼関係が構築されているからあれで済んだのかが気になった。

勇気の絞り方のアドバイス。匿名花盛りの今の世に対するメッセージとも取れる諭し方だったな。虚ともいえる匿名に説得力という実は果たしてあるのだろうか。なんてな。とにかく小さな一歩であってこれが最後の形というのではその勇気は実らないんだろうな。

徒党を組んでの抗議に奔る市民団体。善意の悪意として描かれていた風に映る。まあ秩序を守るというのが善意と呼んでいいのか微妙だが他に言葉が浮かばなかったので。災い転じて福となすの反対語みたいな勢いで善意転じて悪行となすみたいになってたな。これがもっと過激になれば捕鯨に反対する自然団体ということになるのだろうか。こういう軋轢というものは良いも悪いもないけれどこういう事が転がって世の中はまわっていくのだろうな。

そしてそれを覆すというようなおとぎ話のような決着にしないで子供達に現実をきちんと向き合わさせるという仕舞い方も貴重な社会勉強のようにも映る。しっかし初回のつかみはオッケーが入り用とは申せド派手な立て籠もり事件にまで発展させたもんだ。

ところで、来週からはクラス替えになって生徒の顔ぶれも相当変わるのかな。

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*やあ その3

「やだやあ」。

女性言葉であって男が発する言葉ではないのだが遠州弁の「やあ」のニュアンスを説明するのに適した表現と思えるのでこれを挙げてみる。

尚、此処で上げているのは間投助詞の「やあ」についてで感動詞の「やあ」についてではない。

「やだやあ」を訳さば「いやだよう」。ニュアンスで訳せば「参っちゃうなあ」・「困るなあ」辺りであろうか拒否・拒絶とかのニュアンスはほとんどない。

江戸風味の時代劇によくでてきそうな「ちょいとやだよう、お前さん」。そのニュアンスはほぼ同じであろう。これを遠州弁にすると「おぉい、やだやあ、あんた」とかになる。

脱線するが「やだよう」は駿河のちび○子ちゃんがよく発する言葉でもあるが、遠州における「やだよう」というのは「やなこった」というニュアンスのもので拒否のニュアンスが多くを占めることになる別物となる。ただし○子ちゃん風味の意図として「やだとう」と発せられてもニュアンスは汲み取れる(聞き取れる)もので他所の人の「やだよう」発言を誤解するということにはならない。

話しを戻して、このように「やあ」=「おい」というものではなく

「やあ」=「よう」という勢いが遠州弁に「やあ」なのである。

「やあ」ということで一見凄く拒絶してる風にとられがちだろうが拒否の要素は極めて薄い。拒否ということなら

「やだにい」(嫌だからね)「いやだでねえ」(嫌だからね)などとした方が拒絶度合いは強いのである。

文章の頭に来る感動詞の「やあ」についてはこの限りではなく、「やあ」=「おい」という勢いが多くありしかも「やあ」より「やい」の方がきつい言い方である。

例文

「ただいまぁ。」

「あれなによを。えらい早いじゃん。今日残業じゃなかっただ?」

  (え~!どうしたの早いじゃないの。今日残業だって言ってなかった?)

「うん、ドタキャンで仕事無くなったもんで普通に帰れた。」

  (それが仕事が直前取りやめになったものだから定時で帰れたんだ。)

「やだやあ。晩御飯いらんと思って作ってんよを。そうならそうで電話くらいしてやあ。」

  (も~参ったなあ。夕食いらないと思って作ってないよ。そうならそうで電話してくれたらいいじゃないの。)

「んな、近いだもんでそれっぱかのこんでしんでもいいじゃんか。ふんで自分らわあ。飯どうするでえ。」

  (そんなもの。近いんだからこれしきの事で電話しなくてもいいだろうに。ところで自分たちはどうするつもりだったんだ夕食は。)

「外食べ行く気だったもんで。」

  (外食するつもりでいたの。)

「なにおを。」

  (何を食べにいくつもりだったんだ?)

「回転寿司かさわやか。」

  (回転すしかハンバーグセット。)

「やあなんでえ随分じゃん。おれんいん時ばっか。」

  (なんだよそれ、俺が居ない時には豪勢なのかよ。)

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BOSSⅡ その2

 打つ手が空振り空振りでなんとしょうのあげくに切羽詰まって直接交渉に及んだと思いきや、実は確実に追い込んでいたという手立てが凄かったな。BOSSならではという勢いで気持ち良くたばかられた。

でもこの成功の成果も部下を育てつつの伊達で気立てのよい野立の診立てによる手立て企てで韋駄天の如き早期決着をみたとを隠し立てなしと泡立ててナイスな手柄として上奏されるんだろうなきっと。変な文章になってしまったが、もっと「だて」尽くしで語呂文章作ろうとしたが二階建て・献立・函館・巣立てなどがつなげれなかった。残念。

でもおそらくするであろうその行動がいやらしくならないところがいいな。大澤(天海さん)と野立(竹野内さん)のツーカーの間柄がよく表れててもいて気持ち良かったな。こういう相棒がいてくれたら仕事も楽しいだろうなたとえ困難尽くしでも。そう思わせる二人だった。

オープニングタイトルの画づらが変わったからこれがフルメンバーということであろうかな。ハガネの女はともかく、木元(戸田さん)は殉職という訳でもないし後任も保護観察下に置かれたうえでの捜査協力(そんなのアリか?とは思えるが)という警察官ではないのだからいつか復帰する目を残しているという設定っぽく映るところ。

それにしても今回のギャグはちょっと滑ってたな。ま、カツラヘルメットが滑ったからこそ助かったという滑ったことの実利の提示はあったけど。って自虐ネタかい。

それにしてものそれにしてもで竹野内さんいいなあ。発表の場での実の無い話を無理繰り伸ばすしどろもどろ具合がよかったなあ。前作観たのは大場大尉殿。という連なりのギャップが自分としては硬軟どちらもイケてるぞという役者さんの幅を観れてるようで愉しいや。

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*やあ その2

「やあやあ遠からん者は音にも聞け云々」

遠州弁の「やあ」は多分この「やあやあ」の末裔もしくは一族であろう。これを遠州弁に直すと

「やあなあ、遠くにいる衆は声え聞けえ。近くにおる衆はよく見よやあ。」とかになる。

流石に「やあやあ」は言わない。関東では「やいこのとうへんぼく」・「やいやい耳の穴かっぽじって云々」といった「やい」となっているのであろうか。関東は「やい」で遠州は「やあ」という形で変化してきたと勘繰ることが出来よう。ちなみに遠州弁で「やいやい」は「やれやれ・あ~あ」とかいう嘆息という意味になる。共通語としては決めつけはできないが「おい」というのが近いものとなろうか。(おい・こらは薩摩から明治になって関東に持ち込まれたという事らしいが)

普段遣いにおいて「やあ」の使い方は

「やあばかっつらちゃんと聞け。」(おいばか野郎ちゃんと聞け。)

江戸風味だと「やいやいちゃんと聞きやがれ」で

昔っぽいなら「やあやあしかと刮目せよ」とかになるんだろうかな。(刮目は見るだけど)

辞書等には「やあ」は以下の説明がなされている。

感動詞、呼びかけを表わす。驚いたとき、また、思いついたときに用いる。文の最初に用いられる。

以前にも述べたが「やあ」には他に

「や」=「よ」・「やあ」=「よう」と変換することになる「やあ」。間投助詞、呼びかけの意を表す。文末につく。

というのもあって

「やあばかっつらちゃんと聞けやあ。」(おいばか野郎ちゃんと聞けよう。)

と最初と最後に「やあ」がつくという同じ言葉の連呼と聞こえるが呼びかけということでは連呼であるが感動詞と間投助詞という別物ということになるようである。

この二つ以外に「やあ」という言葉はあるかといえば「嫌」を「やあ」と発したりも稀にする。

なので

「やあばかやあやあ」(もうホント嫌だよう)

という「やあ」羅列の言葉遊びも考えられるところである。残念なことに実際においてはこういう場合「嫌」は「やあ」ではなく「いや」なので

「やあばかいややあ」と言うのが普通であるが。

話し飛んで、北海道の方言においても「やあ、しばれるねえ」とかのように「やあ」がよく使われるようであるが、その勢いはなんか違う感じがする。

「やあ、しばれるねえ」だと訳は「まあ今日はしばれますねえ」とかであろうか。

これを遠州弁で「やあばかさぶいにい」などすると「もうホント寒くて嫌になる」といった感情の発露な感じであり日常の何気ない挨拶とかには遠州弁の「やあ」は適さない。

従って使いどころによっては北海道の人が北海道弁?の勢いのつもりで遠州で「やあ」と発すると「なんだこいつ堪え性の無い奴だなあ」と思われかねないことになる。

遠州弁の「やあ」を訳すと状況によって違うが「なんだよ」・「おい」・「こら」とかいう事になろうか。脱線するが遠州弁の「おい」は「ねえ」・「ちょっと」とかいうニュアンスで共通語の「おい」とは異なるニュアンスである。

話し戻してこの場合での北海道弁?ニュアンスに近い遠州弁は「まあ」か「おい」ということになろうか。他には「ホント」・「けっこう」とかもあてはまりそう。「しばれる」は遠州では使われないが

「やあ、しばれるねえ」とかいうあいさつということであれば

「おいあんたしばれるねえ」。「まあほんとしばれるやあ」とかいう風になろうか。

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遺留捜査 その2

主なき物語って感じがした。

被害者の存在が薄くて。遺留品は被害者を知るものということであるのならもう少し被害者の心情とかを描いた方がよかったような気がしなくもなかった。残された家族の憤慨(誤解によるものだろうけど)にけっこう時間割いてたけど。

これは決して被害者を演じられた役者さんの影が薄かったという事を言っているのではなくあくまでバランスの問題だと思えるところ。

もしくは周りの人の印象でどういう人なのか想像させるという搦め手をもっと強化するとか。結局どういう人なのかよく分からなかった。

でもまあ目の付け所のおみくじについては直接犯人逮捕に関わったものではなく、その後の家族の和解を手助けする道しるべだったというとこは単なる事件解決ものということではなく人情ものというドラマの方向であることは覗えたところ。

それにしても聞き込みでキャバレーになんでいきなり向かったのかよく分からなかったな。見直してみたら遺留品の中にお店の名刺みたいなカードがちらりと映っていたとこしか提示されてなかった。凄い細かく見とかないと置いてけぼりくらいそうな繊細なドラマなのかな。

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しょんないTV 第7回

 いやあこれはまずもって素晴らしい。

なにがというとあんなしょんない親父ギャグをこつこつと彫刻にするというどえらい手間を掛けて形にしてるというのが。普通消えものだよな親父ギャグって。しかも彫刻が趣味にしては巧い。

道楽もここまでくると尊敬しちゃうなあ。道楽ってなんの得も実入りもないから道楽っていうのだけど、確実に道楽道の本流を逝ってるよな。テレビで紹介される資格確かにあるわ。ホント珍しくホンモノのしょんないものだったな。

それにしても広瀬ワールド見事なくらい炸裂してたなあ。無条件で笑えた。これで元気が出るんだからホント助かる。番組の最後ご本人へこんでられたけどそう気にする問題じゃないような気がする。

彫刻を見て親父ギャグのタイトル(作品名)を当てるという極めてシンプルな催しなのにまあものの見事にあえて地雷を踏んでくみたいな炸裂具合で面白かったな。瀧さんはきっちり正解を連ねて頭の柔軟さがすげえな。でないと広瀬ワールドにツッコミ入れられないものな。一緒に外しまくってたらつっこめないものな。

玉の輿に乗りそうな人1位ってどういう中学生だったんだ?周りがそう映って見えたという事で本人の意思とは関係のないものではあろうが、一体どういうオーラ発すればそういう風に映って見えるんだろう。

ところで曜日が変更になったら放送時間が短くなった。これって後退か?週一の布石ならいいんだけどネタ切れということだと残念だな。まそんな事はなかろうてと信じたいところではあるが。はて、実際はどうなんでしょ。

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*のそい

「のそい」という表現は広い地域で使われてるもので遠州弁ということでもないのだが遠州で使われるニュアンスをとりあえず書こうかと。ちなみに使用頻度は低めであり日常で聞く事はあまりないがかく発せられても意味は通じるというもの。どちらかといえば切羽詰まったような際に発せられるものではない場をゆるくする効能で使われるものであろうか。

「遅い」といってる訳だが、動きが緩慢という事で遅刻とかのような遅れる事を指すものではない。遠州弁でのニュアンスとしては「遅い」というよりも「とろい」・「のろい」といった方が近い気がする。

「やることがのそい。」とは言うが「のそい。遅刻だぞ。何時だと思ってんだ。」という言い方はしないということ。

もっとももっさりしてるから時間に間に合わないんだという流れもあるから関連性がない訳ではないが。

単純に考えれば「おそい」が変化して「のそい」となったと想像出来るところであるが。

ネット辞書には大阪弁で「のそい」とは「のっそり」と「おそい」の混合語と説明されているのを見た。遠州では人によっては「のっそい」という使い手もいるのでこの説明はなるほどなと思える。遠州弁的解釈だと「のろい」+「おそい」の合体といった方がよりしっくりくる。

「のっそり」があるのだったら「もっさり」と「おそい」で「もそい」という言葉があってもよさそうなものだが、無いとは否定できないが現実には聞いた事がない。「もさい」になるのかな。これならありそう。でも遠州弁ではなかろうな。

例文

「なんかこの回転ずし雰囲気他と違うと思わん?」

「まったりした感じするねえ。」

「回転がのそいだかいやあ。次来るのにぬぶくなっちまうわあ。」

「そこまでじゃないらあ。でも近いもんはあるな。」

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三国志 第14話

袁術起つの図。というか気が触れるの図という感じか。

袁術に諫言として献策してたの誰だったっけ?閻象だったかなあ。

孫策の玉璽と引き換えに四人の将軍をというのはお初のパターンに思えたけど勘違いなのかな。兵馬を借り受けたとばかり思っていたんだけど。

いずれにしても恰好良過ぎな交換条件に思えたな。それとも将軍=配下の兵士も込みということか?いやでも袁術が心変わりするといけないから直ぐ出立するぞと言ってたよなあ。部隊の移動という感じじゃなかったぞ。

ところで、整理すると劉備を倒しに行って。それを呂布に制止させられ憤慨してるところに孫策活躍の報が入る。独立を画策する孫策が玉璽を質に入れて目的を果たさんとす。袁術ははんこを手にして孫策の願いを聞き入れる。よいしょの勢いにも乗って帝位についてしまう。それを嘆くは文官独り。

徐州を狙ってた筈なのに随分と予定が変更になったような感じだったな。そこらはっちょうでいくさしてるということか。徐州が駄目なら他にとかいうことじゃなくて徐州戦線が停滞したというだけの話しということか。

次はどうやって転げ落ちてくのかというのが見所なんだろうかな。詳しくやってくれるんだろうか。そこら中から不評を買って干されて消滅してくという風にしか覚えてないから詳しく提示してくれると嬉しいな。

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*きよる

自分は使わないのでらしいという事しか言えないのだが

「きよる」の意味は「格好つける」ということらしい。

ずうっと「気負う」と言ってるのかと思ってた。

「お~お~なんか高そな服着てえらいきよってまあ。」

という文章、知識なしの頭で考えると判断が二通り湧くところ。

ひとつめは、「気負う」。いつも違う服着て随分と気張ってるじゃないかと判読できる。つまり気合が入ってるという意味かと。もしくは「気負いよる」の短縮形なのかなと。

気負うだから気張る・気合が入る・意識してるとかいう意味使いだろうと解釈していた。「格好つける」も近いものだから結果当たらずといえども遠からずであったのだが。

でもまあ気負うは悪い事ばかりに使われるものではないが格好つけるは褒め言葉に使われるためしが少ないだけにニュアンスは場合によっては大分異なるな。「頑張ったねえ」と感心してるのかと思ってたが冷やかしだったということで相槌の打ち方とか結構な勘違いしてたかも。

ふたつめは、「来よる」(来やがった)。別の言い方だと「来くさる」。高そうな服を着て豪勢に来たじゃないかとも判読できる。「ようやりよる」(よくやるよ)とかでの「よる」の使い方かなと。

実際のところは「きよった」とかでないとこうは判断しないけれどこう判断しても意味は大きく外れているが驚いてるというニュアンスということであれば左程とんちんかんではないか。

どちらにしても過去を振り返ってうまく相槌打ててたのかなというのが心配になってくる。

この「きよる」。遠州に於いてどの集落辺りで使われる言葉なんだろう。それとも自分が無知なだけか。

例文はよく知らない言葉なので間違った使い方になるといけないので略します。きよって書いて恥掻いてもねえ。今更だけど。

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*おぞい

意味使いがふたつに分かれるところであるが

ひとつは「粗悪だ」と言っている。

いまひとつは「おぞましい」と言っている。「おぞましい」を省略した表現で方言ではなく俗語の範疇なのであろうか。ニュアンスとしては「気持ち悪い」というものである。

おぞましいとは辞書によると、嫌な感じがするとかうとましいという意味。

 「粗悪」という意味使い。

「おぞい」という言葉は各地域で使われてるのであるが面白いことにそれぞれに地域(とくに東海)での意味使いが異なっている。ネット辞書によると

甲州弁では「ずるい」

名古屋弁では「みすぼらしい」・「劣悪な」

四日市では「ばからしい」・「おろかしい」・「なさけない」

京ことばでは「ずるい」

鳥取弁では「賢い」

北海道弁では「粗末である」・「使い物になりにくい」・「良くない」・「くたびれている」

とある。

方言としての遠州弁ということでは名古屋弁に近い「粗悪」というこちらの意味使いが方言の範疇であろうと言われている気がする。

 「おぞましい」という意味使い。

古語辞典に「おぞし」という言葉が載っていて

「おぞし」(悍し){形容詞ク活用}①気が強い。強情だ。=おずし・おぞまし・おずまし。②ずるい。悪賢い。③恐ろしい。こわい。気味が悪い。とある。

古語の生き残りとするならばこちらが正しそうではある。

先に挙げたネット辞書に記載されている各地の意味使いを一部を除いて「おぞし」は網羅している。

「おぞし」の「し」がい音便化して「おぞい」となったと勘繰られる。屁理屈こねればこういう流れが考えられるが感覚としては先にも述べたがただ単に「おぞましい」のはしょった言い方という方がすっきりくる。

はしょった言い方といえば遠州弁では「おぞい」・「もぞい」・「のそい」などといった言い方をよくする傾向がある。他にも「ちゃらい」・「たるい」・「きもい」・「きしょい」・「うざい」・「もさい」など。これらはほとんどが俗語という部類に入れられているものであり方言とは呼ばれない。が、数撃ちゃ(頻繁ということであれば)それが特徴となるものであろう。

ちなみにこの二通りある意味使い。両方共存しての使い分けをしているのではなくて集落ごとにどちらか一方を使っているという地域差が生じているものであると思える。

わたしらんとこは「おぞましい」の方で、なんとなくな感覚(根拠はないがイメージ)だと三河と隣接してる集落なんかでは「粗悪」という方を使っているみたいである。「粗悪」という意味では「ぼっこい」と言う事がわたしらんとこでは多い。

なので例文に関しては「おぞましい」という意味使いの方を挙げる。

しかしながら並び立たずとてどちらかを否定するという事では決して無い。もしかしたら全く別の言葉がたまたま読みが同じでこんがらがっているということも考えられるし、実際そう使われて不自由ないのは事実として重みがある。

例文

「うわっ、天井に顔が浮き出てるにい!」

「ただのシミ。」

「いやだぁ、風んなまぬるい。」

「換気で窓開けたでねえ。」

  (換気の為に窓開けたからなあ。)

「なんかおい、さっきからなんかおぞいだけど。なんかよかないこと起こった虫の知らせかねえ。」

  (ねえちょっとぉ。さっきからどうにも気持ち悪いんだけど・・・。これってよくない事が起こった虫の知らせなのかねえ。)

「さっき観た映画のせい。怖がりの癖してホラー映画なんか観るもんでえ。なんでもかんでもやたらくしゃ怖くめえるだあ。」

  (さっき観た映画のせいだろ。怖がりの癖にホラー映画なんか観るものだから目に映るもの全てが怖く見えるんだよ。)

「だってしょうがないじゃん。あの人出てただもんで観にゃあファンたあゆえんらあ。」

  (しょがないじゃないの。あの人が出演してたんだから観なくちゃファンとはいえないでしょ。)

「全部観んだって別にいいじゃん。全部観にゃあファンたあ呼べんっつうわけでもありもしん。」

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JIN 仁Ⅱ その1

 正しいタイトルにⅡの表示は無いけれど勝手にⅡと付す。

「仁」。Ⅰは最終回以外はホントこれはすげえ作品だと唸り続けたけど最終回で最近観た中で三本の指に入るくらいの放置プレードラマだと思った。つまり評価の判断が迷うドラマだった。

終わりにこそドラマの妙が有るという事ならなんだよこれであり

過程にこそドラマの真価が有るという事なら見事というものであり。

ビミョー。な、Ⅰだった。

そんなこんなでⅡが始まった。

で、観てみるとやっぱ凄いぐいぐい惹き込まれる。無力感がいと切なきや。やっぱ面白いよな。

佐久間象山(市村さん)迫力あったな。劇を観てる程に大仰だけど納得感ありましたわ。

それにしても佐久間象山知らないなんて・・・医者になるようなお人というのは世間一般じゃないのかな。ま、特別なんでしょうな多分。

神という言葉が飛び交っていたけど、仁先生(大沢さん)は売瑠寅男のやうに使命を帯びてこの地に舞い降りたということなのか。それは神のみぞ知る使命という事也哉。

ところでフライングして予告編見た限りにおいては、来週は「迫害」が描かれるようだ。この回は「障害」だったけど。

治療したい一心なのに

武家の心が邪魔をする。

歴史を変えてよいのかと邪念が入る。

戦火が及んで邪魔をする。

身分の格差が邪魔をする。

武士たる心得が邪魔をする。

刺客が襲って邪魔をする。

薬がなくて邪魔をする。

結果救えたのは西郷さん(藤本さん)と奥方様(麻生さん)と長州藩士。奮闘努力の甲斐もなく無力感に満ちた回だったな。それでももう迷わないといった決意めいたものは固まったみたい。そういう意味では自身の心の病も救えたという風にも読める。そうと決めたらいきなり「迫害」つまり足の引っ張りかよ。あまり見たくない気分だな。(観るけど)。

でも先を予想して観るドラマじゃないからシンプルにこの世界に叩きこまれるという臨場感の快を愉しむことに専念する方がよさそうだな。

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タレよりも君を愛す!

流石落語を礎としているだけに人情味が溢れていたな。

淀みなく全ての事が繋がっていて緩みない流れで非常に練れていた展開であった哉。

落語の話しを幾つも取り入れたかのようでありながらてんでばらばらにならないのは腕というものか。それにしても火まで出すとは、相当劇的な一日だよな。過激ほどじゃないけど火劇だよな。禍劇でも華劇でもむろん歌劇でもない事は確かだけど家劇であった事は間違いなかろうってか。些細な日常の中においての泣き笑いを予想してただけにこれほど派手とは驚いた。雨降って地固まるどころか火吹いて復興を期すという勢いだった。

テーマは兎にも角にも「仲直り」と読めた。長年の友・夫婦・親子。近しく似たもん同士なだけに起きてしまう衝突とその修復の機微がなるほどという勢いで描かれていた。

家族だなあと思えたのはその発想と反応の共通感。親子三代よく似たもんだ。

ミッキー・カーティスさんが落語の世界の具現者のようで秀逸だったなあ。えらい印象に強く残った。淡路恵子さんとの掛け合いも絶妙。

と、ここまでは素直な感想。

で、以下はヲタな感想の箇条書き。なので真に受けないでくだされや。

他の地域はどうなのか知らないけど静岡県ではドラマが始まる五分前に昇太師匠が落語との関連性を説明されててそれが大分落語素人の私には助けになった。なるほどと。

脚本家さんを愛でるという事重視であれば出来得ればキャストはお父ちゃん松重さん、お母ちゃん和久井さん、華子しほりん、落語家青木さんとかいうので観てみたかったな。そう「ちりとて」の再来とて。

長澤さんを愛でるという事重視であるならば叶得ればキャストはお父ちゃん筧さん、お母ちゃん砂羽さん、駆け落ちした旦那袴田さん、落語家鈴木卓爾さんとかいうオール遠州人キャストで観てみたかったな。そうすりゃあほっといても遠州弁だあだあだら。

やっぱ遠州弁皆無だった。台本手に入らば遠州弁に翻訳してみたいぞ。ホームページかなにかで公開してくれないかな。地域性を醸し出すんなら方言は必需だよな。ぎこちない(よそよそしい)会話は共通語でそれ以外は方言でという方がより関係性が計れていいのにな。

絶対浜松じゃないと分かるところ。欄干に街灯がついてる橋。そんなの浜松で見た事無い。単に気づいてないだけかもしれないが。まあとにかく浜松でロケ行われていた訳でないのは確かであるがそれが正解だろうな。なにしろ浜松じゃすわ有名人現るとかになると人(野次馬)だけはうじゃいじゃいるから話しにならないくらい蟻のようにたかってきて掃うのに手一杯で撮影どころじゃなくなるだろうからして。

キャラクターが遠州人らしいかどうかなんて分からなかった。みんなごく普通に浜松歩くってそうなキャラに思えた。地域性なんて地元民には分からんもんだろ。まあ強いて挙げればお父さんがじゃ俺が出てけばいいんだなという考えに至る所辺りかしらむ。まあその後の待ち時間については普通だったら橋の上でしょぼんとなんかしてなくてコンケルドにでも変身してパチンコ屋にすっ飛んでくのが筋ってなもんだだが。

Cm全部春華堂だった。全国ネットでもそうだったのかな。もしそうだとしたら春華堂さん気張ったもんだ。

しっかしホントよく出来てるよなあ。今見直ししながらこれ書いてるんだけど、普段見直ししてると自分だったらこういう筋書きにするのになあとか思い付いたりして観たりする事になるんだけどこのドラマ弄り様がない程に見事に全部が合わさっている。台詞もきちんと練られてるんだろうな。そんな中に於いても自由闊達と映るミッキー・カーティスさんは凄いや。

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犬を飼うということ その1

なんか久し振りにホームドラマらしいホームドラマを観てる感じがする。それはなにかといえば生活感。

奥さん(水川さん)がきちんとちゃっかりしっかり主婦してるところが表現されてるところにそう思わせる理由があろうかと。

無理解に怒る、目標に向かって気張る、毎日をきちんと生きてくために叱る、世間との確執のなかで惑う。そういった主婦は忙しいという様が描かれていた哉。

旦那のほうはというとリストラを申しつくる因果な役回りなんて自分の行いの何処に正義や意義を見い出せるというのであろうか、という職務に苛む亭主。

こういうのって誰かがやらねばならぬというものじゃないような気がするのは世迷言なんだろうかな。

家に帰れば妻に従い旦那はなにをする人ぞという居場所の無さも滲んでた哉。

少なくともこの家族に外はともかく家庭内に於いて波風立ち騒ぐらむとか隙間風吹きすさぶらむという兆候は窺い知れなかったけど、これからなんかあるのかな。

保健所?での係のおじさんの説法は説得力あったな。子供だからというのではなく未熟ながらも一人の人間とみてきちんと怒る様は昔の大人を彷彿とさせたな。昔は誰彼かまわず(見知らぬ相手でも)悪さしたガキを見たら注意してた。たとえ今回のように誤解によるものであっても道理として間違った事を言ってないから学びとして身に沁みた。親や家族の叱り方は子供としてというもので別物だった。最近見ない光景だから懐かしいや。

タイトル見て思ったことは180日と期限をきってあるということは一陣の風。犬が運んでくれる新鮮な風ということなのかな。

180日後にどんな答えが導き出されるんでしょうね。って家庭内に於いては問題がまだ提示されてない風に映ったんですけど。

ホームページの作品紹介には崩壊しかけた家族が奇跡的に再生してく道のりを描くと謳ってあったけどそうは見えなかったなあ。外は殺伐としてるけど家の中においてはなんかあったかいいい家族にいまのところ映ってみえる。

その家族が崩壊する危機をどう繰り出すかによってこのドラマが面白いと思えるか否かの分かれ道になりそう。この家族の雰囲気が観ていていいなと思えただけに。

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*くたんくたん

「くたくた」は疲れる様を表わしているものであり

「くたんくたん」はくたびれた様を表わしている。もしくはしおれた様。

ただししおれるというと花などがイメージされるのだが植物のみに使われるのではない。あくまでその物の見た目が貧弱に映るというものである。

例えば道具を長い間使っていてくたびれた状態であることを「はあくたんくたんになってる」(もう随分とくたびれてる)と言う。

「くたびれた背広」なら「くたんくたんな背広」

身も蓋もない事を言ってしまえば「くたくた」に「ん」が付いて「くたんくたん」となったといえるのかもしれない。意味的にはそうであろう。

ただ遠州弁において「くたくた」と「くたんくたん」とでは受けるニュアンスが違う。

「くたんくたん」には長い時間の末にというような勢いの劣化を表わすものであり他の言葉に言い換えるなら「年季の入った」といった趣がある。

「くたくた」は使用が激しいという勢いで消耗を表わすものである。

従って激務の果てのつぶやきで

「はあどえらいくたくたやあ」と発すれば疲労困憊を訴えているものであり

「はあどえらいくたんくたんやあ」と発すれば疲労蓄積を訴えているものである。

なので「くたくた」になってる人に「ちっと休みない」というのは労わりの効果があるが「くたんくたん」になってる人に「ちっと休みない」といっても労わりという効果はほとんどない。

例文

「久しぶりに釣りでも行かすかな。どうよ、行かん?」

「行くはいいけど、道具長い事仕舞いっ放しだら。はあくたんくたんになっちゃいんけえ。」

「みばあくたんくたんでもいいやつ買っただでそんなやごかないらあ。使うに問題ない筈だでいいらあ。」

  (見てくれはくたびれててもお高い品買ったんだからそんな簡単に駄目になったりなんかしないだろう。使うには問題ない筈だから大丈夫だよ。)

「ま、どっちみち大物なんか釣れんで大丈夫だろうけど。」

「ゆってくれるじゃん。」

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