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タレよりも君を愛すの番宣

 しぞ~か県発のドラマということで地方局からの発信力は如何ほどなものかを見る機会でもあるこの「タレよりも君を愛す」。といっても他所からのということではなく地元においてはどう盛り上げようとしているのかというもの。地元民としては期待してるだけに気になるところ。

いちんち中テレビと睨めっこしてる訳じゃないので全てを網羅してる訳じゃないのだが自分が目に入ったところを書き残しておこうかと。

*天気予報のコーナーでの背景がドラマからの抜粋映像。めざましテレビと21時台?か22時台の天気予報で背景として流されていた。まあほぼCmの映像と同じものであるが。

*コマーシャル。普通に番宣コマーシャル。冒頭に「テレしずをご覧の皆さん」というフレーズがつくくらいが地域性か。

*放送日前日の土曜日に新聞の折込チラシ。テレビドラマの番宣で折込チラシというのは初めて見たという気がする。表面はででんと出演者打ち揃っての集合写真にドラマタイトルと放送日と時間。裏面は左半分があらすじ、右半分はその他の春の新番組の事が書かれている。

謳い文句は

「ホームコメディ」×「古典落語」×ご当地名物「うなぎ」

静岡が発信する心温まるスペシャルドラマにぜひご期待ください!

私がホントに期待してるのは遠州弁かどうかなんだけど・・・。どうなんでしょうね。

*フジテレビからの告知ということではロンブー淳の食べトークという土曜お昼の番組で長澤さんと浅田さんがゲスト出演して宣伝してた。生クリーム苦手だとかなんかで見たけど「美味しい」といって食されてたな長澤さん。好き嫌いが改善されたのか大人として振る舞われたのかはてさて。

「磐田市の隣の隣の浜松市を舞台にした」とゆわれていたけど竜洋は磐田市になったので今は「磐田市の隣の浜松市」ということになる。

以上。気が付いたのはこれくらいかな。特異だったのはやはり新聞の折り込みチラシだな。その効果のほどは如何ほどに。成果が計れないだけによくぞやったなあと思えるところ。ただ手書きのメッセージとかがあればだけど全部活字だもんで有り難味は薄い哉。

なんとなく思えるのは発する言語は遠州弁じゃなさそうというのが覗える。それとどうも浜松でロケしたっぽくない。駅とかの遠景なんかは浜松だけどそれ以外はどうも浜松っぽくなく映る。

これを打ち払ってくれればもうけものという意識で視聴に臨む事になりそうだ。

最大の見所は「ちりとて」で魅せた実績を持つ脚本家藤本有紀氏と落語の相性による筋書きの妙だろうなと思ってるけど番宣からはそういう事が謳われてる気配は薄く感じた。

とにかくうなぎと親子和解のドラマだという印象を受けたな。

で、以下は完全なヲタ話し。話し半分以下で読んでくだされや。&訳無しの遠州弁だでねえ。分からんくてもとんじゃかないでわし知らんにい。

結局あれじゃんか、遠州弁の使い手「長澤まさみ」さんしかおりもしんに。遠州弁楽しみにしとった身としちゃやいやいだやあ。

出身っつうこんで混ぜりゃ「斉木しげる」さんもおるだけえが、でもやあっと前から斉木さんテレビとかで見る限りにおいちゃあ方言ぶっこいてる印象全っ然無いよなあ。はあもう忘れかあってるだらなあ多分。

でえ、遠州の出の衆ばっかでドラマ作って作れんことないだもんで。筧さんやら砂羽さん袴田さん鈴木卓爾さん(本業監督さんだろうけど)らとかど素人のわしでも知ってる衆らこらしょといるだもんで。総動員かけりゃいけるらあ。それにフジテレビ系っつうこんだでナレーション青島アナウンサーって手もあってもおかしかないし音楽だってミュージシャンやアイドルとかやってる人もいるだで親善大使とかもなんしょ集めて上手くやりゃあホントまるさら遠州人で作れて作れんことないらあ。

まあなんしょこれんうまくいって春華堂さんにも頑張って貰って次のご当地ドラマって話しん出たら次こそはこの陣容とかで創ってくれると嬉しいだけどやあ。そうすりゃああれでえほっといてもだあだあの遠州弁ドラマになるらあ間違いなく。毒を食らわば皿までっちゅうじゃんねえ。ご当地突き詰めるなら行くとこまで行かんとを。

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*たつ その2

「戸を閉める」を「戸をたつ」と言う。

「閉めて」というのを「たてて」とは言わず「たって」と言う。

「閉めた?」というのを「たてた?」とは言わず「「たった?」と言う。

つまりどんな時も「たつ」で表わすということになるのかというと

「閉めようかとしたら」というのを「たとうかとしたら」とは言わないが「たとうとしたら」・「たたすとしたら」とか言う。

ということで「たつ」しか言わないという事では無い。しかし「たてる」という言い方は存在しないのかな。理屈の上ではあったとしても実際のところは使い場所が思い浮かばない。

「閉めない」と言う場合「たつ」の打消し表現は「たてん」とは言わないから「たたん」であろうか。でも「たたん」って「閉まらない」だよな。「たっちゃかん」が無難なところであろうか、って普通は「閉めん」か「あけとく」だな。

冗談だが「チキンタツタ」と聞いて「鶏を閉めた」と解釈するということは決してない。

「竜田揚げ」を聞き違えて「閉め揚げた」と誤解するなんてことも決してない。

で、話しを戻して「たつ」は「戸」に対してのみ使われる表現で「閉める」行為全てに対して「たつ」と言うわけではない。

「ふたを閉める」を「ふたをたつ」とは言わない。この場合は「ふたをきせる」となる。

じゃあ「ドア」は「戸」だろうから「ドアを閉める」を「ドアをたつ」と言うかというとこれもおそらくは無い。

「シャッター」はどうだろうかとなるとこれは微妙である。普通は「降ろす」であるが「シャッターをたつ」とは言いそうな気がする。

シャッターとドアを使い分ける理由はなんぞやという事になるとよく分からんが、実際の使い方からすると「障子」・「ふすま」・「戸」・「雨戸」・「シャッター」とかは言っても不思議ではないという感覚がある。「ドア」・「サッシ」・「玄関」・「裏口」・「お勝手口」などは言わないと思える。

ちなみに辞書で「たつ」を調べたがそれらしいものは見つけられなかった。

ネット辞書には「たつ」(立つ){動詞}「閉つ」とも書く。雨戸・障子・襖などが閉まる。

古語辞典にが「たつ」(絶つ){他動詞タ四段活用}さえぎる。隔てる。とあった。

そのものの説明ということではネット辞書に載っていたが、古語辞典にあった「絶つ」での遮る・隔てるというのも捨てがたいところである。

って「たつ」ってネット辞書にあるんだから遠州弁(方言)じゃないじゃないか。そっちの方が大きな発見だよ。昭和の辞書にはなかったけど昔から遠州にはあった表現だよな。するってえとなにか?遠州弁が共通語に昇格したのか?まさかね。単に全国的に使われてたけど長い間俗語扱いされてたものが最近になって認知されたってことなんだろうかな。

例文

「おい。急にがんこな雨降ってきたでちゃっと雨戸たってやあ。」

「そん前に洗濯もん寄せる方ん先だらあ。」

「んなもん洗濯したのあんたのばっかだもんでいいだよ後でまた洗い直しゃあ。それよか畳とか濡れる方が嫌だらあ。」

「やあなんだよう随分な事ゆってくれるじゃん。」

「絨毯とか洗う方が嫌だらあ。早くしない。」

もちろんこういう選択は現実ではありません。あくまで架空の出来事です。

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*くり・くれ

「走り回る」に「くり」を挟んで「はしくりまわる」傍若無人に走り回る。

「混ぜ回す」にも「くり」を挟んで「まぜくれまわす」これでもかというくらい混ぜ回す。

「くり・くれ」が入る事によってニュアンスは不必要にとか必要以上にとか強引に意味もなくといったものが付加される。その光景を見た様は横暴・ぞんざい・我を忘れてなどといったものである。訳すとしたら「~しまくる」・「~したおす」といったものであろうか。

状況例としては、子供が興奮してはしゃぎまわる姿を見て「くるってはしくりまわるじゃないに」(興奮してそこらじゅう走り回るんじゃないよ)。

「くり」はなんだというと上の例のニュアンスから推察してくと「走り狂いまわる」と「狂う」の変で「くり」となったというのが考えられるがこれでは「まぜくれまわす」にこの理屈はどうも合わない。「狂ったように混ぜ回す」でおかしくはないのだが「まぜくれまわす」は「強引(乱雑)に混ぜ合わせる」といったものであるからしてニュアンスが違うように感じられる。

「くれまわす」というのでひとつの言葉という事も考えられるが「無理やり」を「無理くり」と言ったりもするので「くり」という言葉として考えてもいいような気がする。

なので勝手な憶測だけど「くり」で考えてみることにする。で、「くり」とはおそらく「呉る」(くる)での「呉り」だろうなと思う。古語辞典によると

「くる」(呉る){他動詞ラ行下二段活用}与える。やる。くれる。つかはす。

        {補助動詞ラ行下二段活用}①動詞の連用形についてその動作をしてやる意を表す。・・・してやる。②その動作をしてもらう意を表す。・・・してもらう。

とある。

実際使ってる印象からは横柄・乱暴・ぞんざいといった印象になるのであって古語辞典の説明にある意味とは必ずしも一致しないのであるが、強引につなげればそのものに対して偉そうな態度(上から目線)をとっているから~してやるといった横柄・ぞんざいになると解釈できなくもない。まああくまで勝手な想像ですが。

他に考えられるものとして「刳る」と「繰る」と「来る」。

「来る」は流石に遠そうだ。繋げるのには無理がある。

「刳る」は辞書には器具を回すように使って、何かにくぼみや穴を作る。えぐる。とある。「えぐる」というのにこじつけ性を見い出せそうで容赦ないという印象と重ね合わせれなくもないが、まあ無理だろうな。

「繰る」については最初これだろうと見当をつけてみたのだが辞書を引いて

①綿繰り車に掛けて綿の種を取る。②(長いものを)順に引き出す(して巻き取る)。③順に送って動かす。④順に数える。とあって、意味に繋がりがなくてこれじゃないなと思い直すことになった。

「繰り出す」って言葉から次々という活発な様といった意味が「繰り」にはあるんじゃないかと思っててこれかと見当つけてたんだけどそうではなかった。「繰り」にはなくて「繰り出す」でしかこういった意味にならないのだとしたら「走繰り出し回る」とか「まぜくりだしまわる」とかでないとおかしいものな。でもそういう言い方は無い。「やりくり」に関しては「遣り繰り」であるのでここでの「くり」とは別種となるのであろう。

とりあえずなんとなく思える事は、「くり」を入れる言い方そのものは共通語にもあろうがその頻度の多さということになると遠州弁の特徴と成り得るのかもしれない。

それと、明確に「くり」とはなんぞやという説明書きは見つけられなかった。

実際使われてる例を挙げると(多分ほとんど共通語であろうが)

「ほじりだす」→「ほじくりだす」

「連れ回す」→「つれくれまわす」・「つれくりまわす」

「弄り回す」→「いぜくりまわす」・「えぜくれまわす」

「舐め回す」→「なめくれまわす」

「捏ね回す」→「こねくりまわす」

「触れ回る」→「ふれくれまわる」

「やり倒す」→「やりくりたおす」

言ってもおかしくはないのだが言わないのは

「掻き回す」→「かきくりまわす」

「撫で回す」→「なでくりまわす。」言うのは「なぜくりまわす」

「振り回す」→「ふりくりまわす」

ところでこうやって挙げていくと必ずしもではないが前が「い」の音だと「くり」、「え」の音だと「くれ」となる傾向が覗える。

「まわす」を外して言うとそのニュアンスは、例えば「つれくる」・「いじくる」・「なめくる」という言い方になるのだが

これらは存在する表現であり、ニュアンスについては強引さは同じであるが「まわす」を外した分激しさは薄いものとなる。

ということで、なんとなく思えるのは遠州弁に於いて「くり」はひとつにまとめられるものではなく

「はしくりまわる」の「くり」は「走り狂いまわる」という「狂う」の変じたもの。

「つれくれまわす」の「くり」は「連れ呉れまわす」という上から目線の意を持つ「呉る」。

「やりくり」の「くり」は「繰り」。

この三種類が存在していんだろうなと想像される。

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BOSSⅡ その1

 正しいタイトルは「BOSS」らしい。が、前シリーズと混同してややこしいので記事を書くにあたって勝手にⅡの文字を入れてしまった。

しかしこの第一話の話しは後日談であってまだ実のところ新しくは始まっていないからして「BOSS」であることが当然でもありんすな。この後日談が終わったらオープニングタイトルも一新されるのかな。そん時タイトルも変わるんだろか。

しっかしまあなんと申しましょうか、ギャグが冴えてる。

吉瀬さんはハガネの女に出るからこのシリーズはお出ましにならないだろうなと想像してたが、けじめとして出演されててきっちり寿退社と偽ってその実「ハガネの女になります。」と宣言してたし。(こういうのは大好物だ)

でも今回も弾けてた大澤(天海さん)との女の火花バチバチな光景がもう観れないのかと思うと大分寂しいな。

大澤と野立(竹野内さん)の関係というのがやっぱいいな。あんだけ女と見れば馬車馬に進む野立なのに大澤だけにはそういう行動を取らないというのはある意味性を超越した同志というか真に信頼する仲間なんだなというのが覗える。

でもそれを表現するのにあの寝起きシーンとは。ホントに覗えた関係性なんだろうなと思っていいんだろうかと不安に思えてくるくらい可笑しいよ。

しっかしまあ野立のギャグはホントことに冴えてたなあ。「三時間寝れるな参事官だけに。」が一番のツボだけど、「42だぞ、バカボンのパパよりいっこ上だぞ。」も嗤えたなあ。ここで言うかと。

たばかられたのは

お偉いさんが狙撃されたのがフジテレビで、こりゃ経費節減にでも勤しんでるのかなと思ったら紐育でロケ敢行してるし。

フジテレビ探索かって気もしないでもなかったけど、ビルの裏みたいなとこばかりで見学の参考になりゃしない。

メンバーの入れ替えは「ハガネの女」故にだけかと思ってたけどいま一人居られるみたいだ。死してか療養によるものかが気になる所である哉。

相変わらずスピーディーでこれこれって感じでわくわくしてくるな。これは愉しみだ。木曜日はこれで楽しみが出来た。

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*ねぶつ その2

「ねぶつ」の意味に関しては別記事で述べたのでそれを参照していただくとして、今回は出来物・腫物などを「ねぶつ」となぜ言うのかという事を考えて見る。

あくまで勝手な想像なので正しいものではありませんのでそこんさあなんしょよろしく。

「ぶつぶつ」という言葉がある。辞書には記載がなかったがネット辞書には

「ぶつぶつ」{名詞}表面にたくさんある小さな穴や突起。「肌にぶつぶつが残る」。とある。

「ねぶつ」の「ぶつ」はこの「ぶつぶつ」の「ぶつ」であろうと推測してみる。じゃあ「ね」とは?ということになるのだが

「根付く」の「根」で「ぶつぶつが根付く」・「根付いたぶつぶつ」とすると意味はなんとなく繋がる。

この解釈の欠点は、根付くとなると一過性のものは含まないことになるが、実際使ってる限りに於いてはそういったものに対しても「ねぶつ」と呼んでいるところにある。

巧くいかないので話し変えて次に。

「ぶつ」というと「仏」という字が思い浮かぶ。いまひとつは「物」。

咽喉仏・仏ほくろといった体に対して「仏」は使われる。じゃあ「ねぶつ」で「寝仏」・「根仏」・「値仏」とかいう表現で体のどこかなにかを指せばこれであると思えるが古語辞典に「念仏」を略して「ねぶつ」と言うと書いてある以外に見つからなかったのでこれは無しだろうな。

しかしながら、「ねぶつ」を辞書等調べていたら「ねぶつ」のそばに「ねぶと」というのがあった。古語辞典では「ねぶと」(根太)はれもの。

辞書には「ねぶと」(根太)太もも・しりなどに出来る根の大きいはれもの。などとある。

これが変化して「ねぶつ」になったと考えるのがしっくりくる。もちろんなんで「と」が「つ」になったのかの説明はつかないしはれものが出来る箇所が必ずしも「ねぶつ」と全く一致してる訳ではないが。

多々相違はあるがおそらくはこれだろうな。なので「物」で「根物」とかを調べるのは止めてこれ(根太)に(相違点はあるが)相違なかろうと勝手に解釈してしまおう。

結論、「ねぶつ」とは「ねぶと」(根太)の訛ったもの。

最初にも書いたけど勝手な想像なので正しいかどうかの保証はない。が、とりあえず溜飲は下がったのでこれでいいかあこれで良しとしよう。

ホームページの方にも遠州弁と思われてるが実は古い日本語という区分としよう。

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遺留捜査 その1

 上川さんが主役張るドラマはスワンの馬鹿以来で随分やっとかぶりだ。

2007年の10~12月期だから随分というのも大袈裟ではないな。なんて耽っていてもその間順不同だけど中岡慎太郎や柳生十兵衛や赤鼻のセンセイの院長先生とか他諸々で禁断症状起きることなく拝見仕っていたので上川さん自体は久方振りに拝見という訳ではないけれど。

ところで脱線するけどスワンの馬鹿に詠KB四八の方が出てらっしゃったんですねえ。そんな前から旋風が吹いていたのか。そんなの当たり前田のあつこちゃんってか。全然知らなんだ。今もだけど。

ま、そんな前置きはともかく、久し振りの連ドラという飢餓感もあったかもだが期待を裏切らない空気感がぶんぶんでこれは嬉しいぞ。

最近のドラマでよく見る新手の手法を駆使する者は現場の刑事に疎まれるというお約束は堅持されているみたいだが、それに対して馬耳東風な勢いで観易くていいな。

要らん子扱いされてまでなんでそんな懸命に捜査に向き合わなきゃならないんだという不快感を抱きながら見るのはどうしてもどよよんとして見づらいものでこれはそういうのがなくてさっぱり観れる。

「遺留品に訊く」というのがスタンスのようでブレない姿勢なのかな。ケースバイケースで四十八手を繰り出すというのもいいけれど、一に遺留品二に人物という偏屈一徹というのも悪くない。

目の付け所が違う事による推理の構築が今までの刑事ドラマにないもので謎解きものとしても面白かったな。大抵は人物像から絞り込んでくものだけど物言わぬ品から証言を取るというのは指紋やらなんやらの分野とは別種で新鮮かも。

それにしても役者さんの面子が揃ってるなあ。しほりんが霞んで見えらあ。こんだけ揃うと群像劇としても観れそう。

中山忍さん相変わらずお綺麗でありんした。しほりんが三歩下がって奥ゆかしくしてるように見えらあ。(霞んでるなんて言ってませんよ口が裂けても)。毎回ゲストを華やかにするのかな。あまりゲストさんに経費かけると容疑者の数が減ったりなんかして推理物としては楽しみが減るんだけどなあ。

経費といえば領収書が落ちる落ちないネタがあったなあ。矢部謙三を思い出しちゃいましたよ。だからといって「犯人はお前だ~」なんて決め台詞いう事はないだろうと思うけど。

気になったのはズック靴。映画マークスの山の刑事さんの時の白いズック靴よりかは青色な分やけに目につくとかいうことはなかったけど、なんかね。警らの自転車とでフットワークを示す物なんだろうけど、好みの問題でしょうけどなんかね。

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*まるけ

よく使われるのは「ほこりまるけ」・「どろまるけ」。

この「まるけ」を共通語に訳すとしたら「だらけ」がいいのか「まみれ」がいいのか。

「血だらけになって」を「血まるけんなって」とは言わない。ではどう言うかというと、「血いだあだあで」とか「血だるまんなって」などと言うのは少数派で普通は「血だらけになって」とそのままである。

「汗まみれになって働く」を「汗まるけんなって働かす」とも言わない。「汗だくんなって働かす」というのが普通。

「烏合の衆だらけで話にならない」を「ばかまるけで話しんならん」とは言わない。「ばかばっかで話しんならん」と普通は言う。

つまるところどっちだと言い切れない。よく分からないので辞書で「まみれ」と「だらけ」の違いを調べてみる。

「まみれ」

辞書には「塗れる」{自動詞下一段活用}(血・汗・泥・ほこりなどが)体中につく・ついて汚れて見える。「一敗、地に塗れ」。

ネット辞書には「塗れ」他の語の下についてそのものがべったりついて汚れる意を表す。「ほこりだらけ」・「血だらけの男」。

「だらけ」

辞書には「だらけ」{接尾語}(もとのものの表面が分からないほど)一面に、そのものでおおわれること。「どろだらけ」・「借金だらけ」。

ネットの辞書には「だらけ」{接尾語}名詞に付く。①そのものが一杯であるさまを表わす。ばかり。「借金だらけの生活」・「紙屑だらけの部屋」・「欠点だらけの人間」。②そのものが一面についている様を表わす。まみれ。「泥だらけの服」・「血だらけになる」。

とある。

大雑把にいえば、「汚れた」状態になるのを「まみれ」と言い、そういう限定なしにとにかく全面覆われたりした状態を「だらけ」と区別できそうだ。

じゃあ「まるけ」はどっちなんだ?となるとこの区別にあてはまらない。つまり長々と書いてきた割には何もわからないということ。明確なものが見つからない以上「だらけ」・「まみれ」になる状態をなんにでも「まるけ」に置き換えてもそれはおかしいとはいえない。しかしながら実際は言うものと言わないものがある。

判定するにはなんでもかんでも言いまくって周りから「変」と言われるかどうか試していくしかない。アンケートとかとれれば楽なんだろうけど。

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*「いる」と「おる」 その3

書き忘れたことがあったので追記。

長々と書いている「いる」と「おる」のニュアンスの違い。これは「居る」という場合に限定したものであって

例えば「やっている」→「やってる」、「やっておる」→「やっとる」といったものには該当しないものである。

「やってる」と「やっとる」などの違いは全国的に感じられる「やっとる」・「見とる」・「しとる」・「生きとる」などなどは使用年齢がお高めの言い回しというものであり若年層が「やっとる」とか発するというのは関東の人々が抱くのと同じで違和感を伴うことになるのは遠州でも同じである。

「やっとりゃせん」とかいった名古屋系の表現とは遠州は異なるものであろう。遠州弁だと「やってえへん」・「やっちゃいん」などが使われる。

他にも「見てみたくない?」だと「みとうない?」とは言わず「見てみたいらあ?」とかで「いる」と「おる」を主に使う境界線があるとしたら遠州は「いる」を使うエリアに属する気がする。

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*「いる」と「おる」 その2

「いる」と「おる」の記事は御託が長かったので分割してのその続き。

先の記事にも書いたけれども根拠を示して述べている訳ではなく、あくまで個人的な想像による推測によるものであります。

具体的な会話で違いの傾向をみてみると(大分誇張しているが)

「いる」の場合

「さっきいまでいただんいんくなった。」(さっきまでいたのにいなくなった。)と言われて

「どこ行ったよう。」(どこに行ったのさ。)と問うても

「さあ、知らんだあ。」(知る由もなし。)と返される事が多い。

次に「おる」の場合

「さっきいまでおっただんおらんくなった。」と言われて

「どこ行ったよう。」と問えば

「よくは知らんだあなんか忘れたみたいでどっかへなんか持ち行っただらあ。」

  (細かいことは分からないんだけど何か忘れ物したみたいでどこかへ何かを取りに行ったんじゃないの?)

みたいになんとなく答えが返ってきたりする。

くどいが必ずこうなるというものではなく傾向として

「いる」・「いん」は関知していないと暗に言ってる要素があるので素っ気ない返事しか返ってこないことが多い。無論ちゃんとした返答が返ってくる場合もあり「いる」=「関係性希薄」を表わしている訳ではない。まあ「いる」は共通語なので万能に使えるからそれとちゃんぽんになってるところであるが。

「おる」・「おらん」は大なり小なり関知してる勢いがあるのでなんらかの返答が返ってきたりすることが多い。「おる」・「おらん」を使っているのに素っ気ない返事をされると冷たいと思われたりもする事も稀にある。

「この中に怪しい奴はいん」と「この中に怪しい奴はおらん」だと「いん」は共通語の「いない」と同じなので説明を省くが「おらん」とした場合「この中の人」は全て見知った人物達という風に読めることになる。

「この中に知ってる奴がいん」というよりも「この中に知ってる奴がおらん」という方が感覚としてしっくりくる。

こういったものは明確な使い分けが存在しているものではなく、どちらをどう使おうが何の問題もないのだが、無意識のうちに感覚的な直感によって選択されるものであろう。なので法則とか決まりは存在しない。

傾向という事ではこの他に

他人といった距離なら「いる」・「いん」。身内や仲間という距離なら「おる」・「おらん」を使う傾向もあるし。

「あの野郎いんじゃねえか。どこ行っただあ。」とかのように興奮したような状態には「おる」・「おらん」はどちらかといえば使われない傾向とかもあろうし。

「おらんたあ何事だあ」というよりも「いんたあ何事だあ」と言った方が怒ってる感がある。

「いん?」(いない?)と聞かれて「いん」(いない)と返す。「おる?」と聞かれて「おらん」と返すように同じ言葉で返すのが普通で「いる?」と聞かれて「おらん」と返すのは珍しいという傾向にある。もっとも「おる?」と聞いたのに「いん」もしくは「いんわあ」と返されると「あ、怒ってるんだな」と解釈できることになるが。

「おる」・「おらん」は印象として穏やかな雰囲気があり緊急とか怒ってる時とかでは発しない傾向にあるともいえそうだ。「おった」というよりも「いた」という方が切迫感がある。

まただらだらと長くなってしまったが

「いる」は共通語でありどんな使い方でも違和感は湧かないものであるが、「おる」は辞書等に記載はあるがどちらかというと方言の部類に入るものであって「いる」ほどには万能な使い方ではない部分がある。

「いる」は共通語がもつ感情が読みにくい部分があり方言の特徴である感情が読みやすい部分をもつ「おる」とをそれなりに使い分けて関係性・緊急性等の違いを表現してるといえるのかもしれない。

くどいようだがこういったものはあくまで無意識での直感による選択によるもので決まりがあって発してる訳ではない。

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*「いる」と「おる」

全くの感覚で物を言っていて根拠もなにもあったもんじゃないけれど

遠州弁の感覚での「いる」と「おる」について、例えば

「そこにいる」と「そこにおる」では微妙にニュアンスが違う。尚、「おる」が年寄り表現で「いる」が全年齢の表現というのは遠州弁には当てはまらないと思われる。

必ずこうなるというものではないけれど傾向としては

まず距離感、部屋の中に居るとかいうある程度の距離を感じているのなら「いる」で横に居るとかいった近い場合には「おる」を使う。

次に把握度合、何してるか分からんがとにかく視野の中に入っている状況なら「いる」で一緒になにかしてるといった何してるか分かってる状態には「おる」。親密度・協調度合いの違いという事もいえようか。

先の把握度合度とは相反するものであるが、ぼ~っとしてなんとなくそこに存在してる場合は「おる」、なにか用があってここに居る場合は「いる」を使う。

この相反する使い分けは自分がぼ~っとしてる立場なら後の形になり、自分が忙しくなにかしてるとかなら前の形での言い回しとなる。つまり自分と同じ境遇・状況であるなら「おる」、自分と違う事してるとかの場合であるならば「いる」になるといえる。

そして、丁寧な物言いということでは「いらっしゃる」と言うよりも「おられる」を発する。例えば「奥さんいますか?」という場合「奥さんいる?」というよりも「奥さんおる?」と声かけることが失礼がない。ちなみに「いらっしゃる」だと「お見えになる」と解釈する傾向にある。

他には、打消しの「いん」と「おらん」とした場合、「いんとかん」は「いなければいけない」、「おらんとかん」は「いないといけない」。蛇足だが名古屋的な「いんでかん」・「おらんでかん」という言い方は遠州弁はしない。「いんもんでかん」・「おらんもんでかん」・「いんくてかん」・「おらんくてかん」とかいう言い方をする。

これら使う状況によりこういったニュアンスの違いが加味されるということであるが全て条件を兼ね備えていなければならないということはもちろんない。例えば「おる」を使うには相手を把握しつつ近い状態にいてかつそれなりに丁寧に言いたいという条件が整った時にのみ使われるという事では無い。

遠くにいるけど見えていて何してるのか把握してるとかで「おる」を使ってもおかしくないし

すぐ横にいるけどなんでここにいるのか承知してない時に「いる」を使ってもおかしくない。

どれかひとつが条件にあえば別にかまわないのである。

といった風に「いる」と「おる」は使い分けがされることが遠州弁ではある。

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*わすれかある

完全に失念してたと言っている。思いっきり忘れてたという勢いである。

「~かある」という言い方はどうも方言らしい。訳すと「~しまくる」という事であって裏返るとかの「返る」ではない。遠州弁では他に「ちんぷりかある」・「ぶすくれかある」・「ふんぞりかある」とかいう言葉も有る。

「忘れかあってホントしょんない」を訳すと「忘れまくりで本当にどうしようもない」という風になる。

近い言葉を探すと「静まりかえる」・「あきれかえる」といったものと同じに思えるところでこれらの「かえる」は「反る」と書くので「わすれかある」も漢字にすると「忘れ反る」と書くのだろうな。蛇足だが「そりかえる」は「反り反る」と書くのかなと調べたら「反り返る」だった。なので「ふんぞりかある」の「かある」は「わすれかある」とは別物かもしれない。

「反る」(かえる)

辞書にはその状態以外のなにものでもない事を表わす。とある。

古語辞典では(動詞の連用形に付いて)動作・状態のはなはだしい意を表す。とある。

どちらでも当てはまりそうだが、古語辞典での「はなはだしい様」という方が勢いとしては近いか。その状態以外のなにものでもないとかだと「ど忘れしてた」が当てはまりそう。

そういう意味では「わすれかある」の訳は「はなはだしく忘れる」とするのが妥当となろうか。

この表現の効能はウソ偽りなく状況を正直に告白してるという風に捉えらえるので「ど忘れしてた」だとむかつかれるが「忘れかある」と発すれば呆れられる勢いになる。もちろん怒られかどうかはその状況によりけりであるがそれでも言い訳してない分多少は怒られる程度は小さくなるであろう。もっとも以下の例文のように別の理由をつけられて上げ足取られる(怒られる口実を与える)事はあるが。

例文

「君こないだ頼んどいたのはあでけたかね。」

  (君この間頼んでおいた件はもう出来たかね。)

「あ~、忘れかあってたもんで今必死こいてやってます。」

  (え~とですねえ、すっかり忘れてまして今懸命にやっております。)

「困るなあ君。頼むにい時間迫ってるだで。」

  (困るじゃないか君。もうホント頼むよ時間迫ってるんだから。)

「すんません。」

「ところでいつ気づいただ?」

  (ところでいつ忘れてたって気づいて始めたんだ?)

「いやあ、今言われて・・・。」

  (実は、今言われて・・・。)

「おい、それじゃやってますじゃありもんしんに。やりますだらあ。」

  (おいそれではやってますじゃないだろうやりますだろう。)

「そうともゆうわなあ。」

  (そうですねえ。)

「ばかっつう。なにもやっちゃいんっつうこんじゃんか。なんしょ間に合わんかったら後で説教だでなあ。」

  (ばかもん!何も手を付けていないって事じゃないか。とにかく間に合わなかったらただじゃ済まさないからなあ。)

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