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がばちょ

 死滅してる訳ではなかろうが発すれば古いと言われるであろう言葉。俗語だろうかな。不思議とどこにも載っていない。辞書はもちろん俗語を集めたHPとか俗語の語源を記したHPとかにすら載っていない。

「がばちょとお金はいるんだろ?」

相当な金額が手に入るんだろ?という風な使い方で

大層・相当・非常にとかいう意味合いの言葉である。似たような他の言い方としては「ばかすか」・「どかすか」・「うはうは」とかがあろうか。

濡れ手に粟的な勢いでぼろもうけとか笑いが止まらないといったものを感じるものである。

いつごろ発生したのは定かではないが、ひょっこりひょうたん島での「ドン・ガバチョ」というフレーズが最も印象が強い。そこから発生したとは思えないがとにかくあれで大袈裟→大層とかいう流れで「がばちょ」がより浸透したのではないかと思えなくもない。

先にも書いたが辞書・ネット辞書・俗語を集めてるサイトとかにも記載がない。

なので勝手な憶測でしか話しを進められないが

「がばっ」+「ちょ」というものなのだろうかな。

勢いを表わす「がばっ」に「すみっちょ」とか「よこっちょ」とかで使われる親しみを表わす「ちょ」が組み合わさったものなのかと。「そうしてちょ」とかいう「頂戴」の略形としての「ちょ」ではないだろうな多分。つまり「がばっと」というのを可愛くして言うという考え方。

しかしながらじゃあそれだと「がばっちょ」でないとおかしいだろうがという事になるから説得力は薄いな。

次に佐賀弁の「がばい」なら意味も「非常に」という事で意味は合うか。ということであちらからの輸入言葉という勘繰り。

これはもうほとんどこじつけに近い感じか。

まあ元を探っても正解に辿り着ける筈もないのでこれくらいにして。この言い方をする効能はというと

太鼓持ちが自身をも含めて何事にも卑下してとかおちゃらけにして物を言うのに近いような軽薄な感じがするのは私だけだろうか。プロの方ならそれを軽妙洒脱に発せられるのであろうが一般人が発すると真剣味のかけらもないふざけた表現にしかならないところである。まあ露骨な表現ではないということで婉曲を目的として使うといった用途であろうか。

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えりすぐりとよりすぐり

「選りすぐり」と書いて「よりすぐり」と読むか「えりすぐり」と読むか。まあこの記事も辞書等引いたりして一見もっともらしくの体をしてはいますがいつもの如くの勝手な想像解釈です。

「よりすぐる」{他動詞五段活用}多くのものの中からいいものを選び出す。えりすぐり。

「えりすぐる」{他動詞五段活用}特にいいものだけを選び出す。

どうも違いがよく分からん。「えり」と「より」はどう違うのだろう、「選り」と字は同じなのになんで読み方がふたつあるんだろう。他の言い回しから考えて見る。ネット辞書には

「えり好みをする」嫌いなものは捨て自分のすきなものだけを選び取ること。えりぎらい。よりごのみ。

「より好みをする」自分のすきなものだけを選び取ること。えりごのみ。

というのがあった。此処での違いは「えり」の方には嫌いなものは省く間引くという文言が付いてるということ。ただし「より」にもそういう意は含まれるらしい勢いがあり明確な違いということではなさそうだ。

「よりをかけて作る」とは言うが「えりをかけて作る」とは言わない。なんでか、答えは別ものだから。この場合の「より」は「縒り」であって「選り」ではないということだそうな。

なんて脱線はこれくらいにして、辞書を引くと

「えり」(選り)えらぶ意の造語形。「えりすぐる」・「えりぬき」。

「よる」(選る){他動詞五段活用}多くの中から取り出す。選ぶ。

とある。

やはりよう分からん。理屈はこのさい無視して感覚で違いを考えて見ると

「えり」は主観(好き嫌い)で選択してる勢いがある。

「より」は比較の上で選別してる勢いがある。

従って宣伝などで「えりすぐりのものをご用意いたしました」となると誰が選んだんだ?というのが気になるところであり。

「よりすぐりのものをご用意いたしました」となると選んだ基準が気になるところとなる。

もしくは嫌い(マイナス要素)のあるものを取捨して残ったものが「えりすぐり」で。

良いと思えたものを

ところで「すぐり」ってなんだ?というのが次に気になる。

「すぐり」はネット辞書においては「すぐり」ではヒットせず、「すぐる」であるならば「優る」・「選る」・「勝る」・「過ぐる」がヒットする。

辞書でも「すぐり」ではなく「すぐる」で載っている。こちらはひらがなで

「すぐる」{他動詞五段活用}多くのものから(すぐれたものを)選びだす。「えりすぐる」。とある。

ってことはもし漢字をはめれるとしたらば「選り選る」か「選り優る」・「選り勝る」が思い浮かぶ。「過ぐる」はさすがになさそうか。

「優れたものを選んだ」ということであれば「選り優り」が納得感は湧く。それに語呂遊びじゃないけど「より優れた」という「より」{副詞}(一層とかもっとという意)と掛けてる風にとれるところ。

「トーナメント的に比較していって最後に勝ち残ったもの」ということであれば「選り勝り」でああそうかと。

「厳選した」ということであれば選びに選んだみたいで「選り選り」でなるほどと思えてくる。

つまりところ正解が無い分色々バリエーション豊かに駆使できる表現のようだ。

さてもさても、本当のところはどうなんでしょうねえ正解はあるんでしょうかなあ。結論としてはっきりしているのは私なんかじゃ分からん。ということ。

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*うめる

「埋める」という意味の方ではなく「ぬるくする」という意味で使われる「うめる」。

「埋める」という文字から「ぬるくする」の意味があるというのは想像しづらいところであるが、別に方言ということではなく

辞書においても「埋める」{他動詞下一段活用}の説明の中に「熱い湯に水を入れてぬるくする」という意味が載っている。

つまり遠州弁でもなんでもない共通語であるのだがなんか遠州弁らしい気がする言葉である。それは何故かというと「うめる」・「うめた」・「うめて」とかは共通語であろうが「うめす」・「うめんと」・「うめんで」とかにすると

「お風呂ん湯うちんちんだで、うめんと熱くて入れたもんじゃないにい。」

  (お風呂のお湯がとても熱いから水入れてぬるくしないと入れたものじゃないよう。)

「茶あ飲ますとしたらとてもじゃないけど うめんとちんちんで飲めたもんじゃない。」

「悪かったやあ、おいあんたあ うめんとかんもん出すじゃないにい。」

などなど「うめんと」とすることによって遠州弁らしくなる。「ぬるくする」というよりも「丁度良くする」と訳した方がニュアンスは近い。他の地域はどういうニュアンスなのかは知らないが遠州弁では「ぬるい」というのは適温じゃない状態をいうもので「ぬるくする」となると丁度いいという感じになるとは受け取れない。「うめる」というのは適温になるように水で冷まして調整するというもので「ぬるめる」と「うめる」は感覚的にイコールではないのが遠州弁での感覚である。

「ん」は「うめんとす」みたいな意思を表す「む」{助動詞特殊型}意思を表す。・・・う。・・・・よう。とも読めなくもなし。(「む」と「ん」は同じだからして。)でもちょっとひっかかるざらつき感がある。

「うめす」という言い方もあり「うめよう」という意味で使い方は「うめすとしたら」で「うめようとしたら」などである。「む」とした場合の「うめん」と「うめす」の違いはよう分からんが、

そうじゃなく考え方を変えて「うめんと」は「うめないと」と訳せなくもなくそれであれば「うめん」の「ん」は「ない」の撥音便化という考え方も有り得る。そうなれば「うめんと」(うめないと)と「うめすと」(うめようと)という違いが出てくることになる。

でも「うめんとしただけえが水がねえ」だと「うめようとしたけど水が無い」ということで「うめないと」では収まりが悪く必ずしも「ん」は「ない」だと言い切れない部分もある。

まあどっちかといえば「ない」の撥音便化という方が分がよさそうではあるが状況によりけりの両方使いということが落としどころとなろうか。

話しを変えてニュアンス。「うめる」は「ぬるくする」というよりも「熱を取る」・「冷やす」とする方がしっくりくるところであるが、実際の行為として水を使う以外で薄めたり冷やしたりした場合に「うめる」と発するかどうかについては

例えばお茶に氷入れて急激に熱を下げる事に対して「茶あ氷でうめる」と言うかとなると「茶に氷入れて冷やかす」もしくは「ぬるくする」と普通は言う。入れ物(器)を入れ替えて下げる場合や冷蔵庫に入れて下げる場合などでも「冷ます」・「冷やかす」を使う。

なので「うめる」はやはり水を使う場合に限られてるのかもしれない。

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*「さ入れ言葉」と遠州弁

「休ませていただきます」これが正しい共通語なのだそうな

「休まさせていただきます」これは一見丁寧な物の言い方に聞こえるのであるが

五段活用動詞の後に「させていただく」とするのを「さ入れ言葉」といって昔的にはよろしくない言い方なんだそうな。しかしてこれは新たな表現で間違った使い方ではないそうな。つまり間違いじゃないけれど違和感・ざらつきを感じる人も多いということらしい。

私としてはなんの違和感も感じない。というのも

遠州弁だと「かす」が入る表現

「休まかしてもうらうでねえ」・「休まかいてもらうにい」・「休まかさいてもらうにい」・「わりいが休まかすでねえ」

とかいった「かす」が入る表現と

「休まさしてもらうでねえ」・「休まさいてもらうにい」・「休まさせてもらうにい」

といった「さす」が入る表現というのがあるから、共通語は「さ入れ」かもしれないが遠州弁は「かす・さす入れ」が昔っからある。(昔とはいつかと詰め寄られると答えに窮するが)。

「かす」・「さす」を入れないと

「休ましてもらうでねえ」で「お先に」もしくは「休むからね」と宣言してるような勢いで断りを述べている(伺いを立てている)要素はない。

こういう使い分けをしているので、おそらくは遠州人は誰も「さ入れ言葉」に違和感を感じる人がいないだろうなと思える。

他の言葉で「仲間に入れて」というのを遠州弁では「まぜて」というのであるが

「まざいて」(まざせて)、多少ニュアンスは変わるが「まぜかして」・「まぜかいて」とかいう言い方もある。つまり繰り返しになるが「さ」に限らないのだがなにかが入るのは遠州弁ではごくごく普通なのである。

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*「持ち行かれん」と「持ち行けれん」の違い

「持ち行く」は遠州弁だそうで共通語に直すと「取りに行く」となるそうな。

「持ち行かれん」と「持ち行けれん」を訳さば「取りに行かれない」と「取りに行けれない」ということになる。

このふたつはどう違うのかというお話し。必ずしもこうだと言い切れるものではないがこういう傾向はあろうか。

「持ち行かれん」は本人は行く事は可能(行く意思はある)だが当人以外のところに障害(理由)があって行けれないと言っている。それとその理由が一時のものではない場合に使われる表現でもあろう。

「持ち行けれん」は本人自体が行く事が出来ない理由を抱えていると言っている。それと理由が一時のものである場合に使われる傾向があろう。

忙しくてという理由の場合「忙しくてとても持ち行けれん」というのにざらつきは感じないが「忙しくてとても持ち行かれん」だとちょっとざらつき感がある。なぜならのべつまくなし忙しいなんてことは普通有り得ないだろうと思えるから忙しいのが理由でずうっと行けないというのは方便くさいからである。「行けれん」なら手が空いたら行くよと言ってる風に聞こえるものである。

車が無いのでという理由の場合「車ん無いで持ち行かれん」・「車ん無いで持ち行けれん」のどちらも違和感はないのだが「行かれん」だと今後もずっと行けないという雰囲気となり「行けれん」だと車さえ都合つけば行く事が出来るという風に聞こえてくる。相手がもし言い訳・方便と捉えた場合「行かれん」とした場合の方が「要は行く気ないんだろう」などとけっこうな突きあげ(反論)される事が多々ある。

ここまで明確な区別が実際は成されている訳ではないが

「あんたいつんなったら持ち行くよを。」

「ど忙しくて持ち行かれんだもんしょんないらあ。」

「忙しいたって呑み行くとか遊ぶ時間あるだらあ。忙しいなんて言い訳んならんにい。」

という風に突っ込まれやすい。物は言いようで

「ど忙しくてなかなか持ち行けれんだよ。勘弁してやあ。」

とか言えば多少はしょうがないなあという気になってくれたりもする。

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*遠州弁五段活用って何?

ネットを徘徊してるとときどき遠州弁五段活用という表現が見受けられる。

私はそういうお勉強の類いの国語は苦手で活用だあ体言だあ形容詞だあ副詞だあとかいわれてもなんのこっちゃいである。

一応記事内に於いてそういう文字は存在しているが、それは辞書等からのもので私の頭から出てくるものではない。

と前置きしたうえで、そういう人間にとって「遠州弁五段活用」というのは皆目見当のつかぬ意味不明な呪文に聞こえる。否定する意図はさらさらなく素直に理解できるように教えて欲しいという願いである。

少し掘ってみるとどうやらいくつか存在していてそのうちのひとつが

*「だら・だに・だもんで・はぁ・やいやい」。

辞書にある「五段活用」の説明とは折り合わない並びである。ちなみにウィキペディアの「五段活用」の説明には、日本語の口語文法における動詞の活用のひとつで、現代仮名遣いにおいて活用語尾が五十音図の「アイウエオ」の五つの段全部にわたって変化することをいう。と書かれてある。

例えば「読む」だと読ま(ない)・読み(たい)・読む(と)・読め・読も(う)という「あいうえお」の変化ということであろうか。

「だら・だに・だもんで・はぁ・やいやい」を共通語に直すと「だろ・だよ・だから・もう・やれやれ」であろうか。

そもそも動詞じゃないじゃないかってところが味噌(鍵)なんだろうかな。つまり辞書等にある五段活用とは全くの別物ということなんだろうか。じゃあなんだ?と推測してみる。

活用ってのは「活きて」(頻繁に)「用いる」(使われる)という意味だとすると少しはなるほどではあるかな。

でも五段については例えば「だら」は「だら・だり・だる・だれ・だろ」もしくは「だら・ぢら・づら・でら・どら」とかに変化することはない。つまるところ何が五段なのか意味不明。

「ばか」→「どばか」→「がんこばか」→「どがんこばか」→「えらいがんこどばか」みたく五段階に加速してく馬鹿さ加減の変化とかのようなものでも「だら・だに・だもんで・はぁ・やいやい」はないものな。

納得できるとしたら「五段」じゃなくて「五種」もしくは「五大」だよな。ということは「五大活用」というのがどういういきさつかで「五段活用」へと変化したということなのか。

他の方言でこういった何々弁五段活用と呼称されるものがあるのかとネットで調べたけど遠州弁以外そうそう出てこない。こうなったらもう言い出しっぺさんに真意を問うしかなさそうだが誰なんだろう。

ちなみに自分は遠州弁の特徴を端的に表わす標語みたいな感覚で(ころころ変わってるが)最近は女性ことばなら「だら・だに・だもんで・だで・ほい・おい」男ことばなら「だら・だに・だもんで・だで・おい・やあ」とかにしているのだがあくまで標語である。

「標語」という言い方を置き換えるとしたら「繁用」で「遠州弁五種繁用語」もしくは「遠州弁五大繁用語」とかになるかな。固いから普及はしないだろうけど。

それはともかくとしてとにかく「五段活用」をなにかに掛けたひねり言葉であるような気もするところでその心はというのを知りたいものだ。

その他には

*サ行五段活用い音便

これは細かい説明は省くがサ行五段活用動詞が「燃やした」→「燃やいた」とか「返した」→「かやした」→「かやいた」とかに変化する傾向が遠州弁は顕著だというものらしい。

これがはしょられて遠州弁五段活用と呼ばれるようになったとしたら、なるほどではあるか。

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*遠州弁に「えごい」なんて言葉はない

「えごい」という言葉を遠州弁としては聞く事はない。なので近い言葉を想像してしまうのだが。

「えぐい」。「えぐい味」とかでの「えぐい」の変で「えごい」となる表現が遠州弁にあるかというとそれはない。「えぐい」は「えぐい」である。ネット辞書によれば甲州弁で「えぐい」=「えごい」というのがあるが遠州弁はそういうことはないと思われる。(ただし、甲州弁と遠州弁は共通点が多いので遠州は広いから地域によってはもしかしたら使ってるところがあるかもしれないがうちらんとこでは使われていない。

他に「えご」から連想される遠州弁は「えごえご」であるが

くねっている・軋んでるような様(つまり歪んでる)を遠州弁では「えごえごしてる」と言うのであるが

「えごい」という言い方は存在しない。「えごむ」・「えごく」とかも存在しない。「えご」・「えごみ」とかいうのも無い。「えごえごしい」とかも無い。

「えごえご」のみである。

「曲がりくねった道」なら「えごえごした道」

「床が軋んでる」なら「ゆかんえごえごしてる」

「くねる」で「くねくね」・「軋む」で「きしきし」とかいう連なりで「えごい」で「えごえご」とかいうことではないのである。

とにかく「えごい」という言葉はない。そういう「えごむ」みたいな使い方をしたい場合には「歪む」(ゆがむ・えがむ・いがむ)を使っている。

あと考え付くとしたら方言でもなんでもないけど

「エゴ」の変で「えごい」となったとか?

独善的ということであれば遠州では「どずうずうしい」・「ばか勝手」・「きちがい」などが使われておりかような造語は流通していない。

つまるところやはり遠州弁に「えごい」という言葉は無い。

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三国志 第13話

曹操が献帝を手中に収めるの図。はなから利用する気満々だったな。

袁紹はというとその優柔不断さが描かれていて田豊と許攸の確執が描かれていた。意外だったのはこの回においては献帝を迎え入れるべきと進言した許攸に理があったこと。

偏ったイメージなんだろうけど正論を唱えるのは田豊でその進言を取り入れなかった袁紹が後で随分悔やんだという話しが強くイメージとしてある。そのイメージとは逆の光景が描かれていた。

ところで劉備にも皇帝は呼びかけたとなってたけどなんで劉備は結果として応じなかったのか。というか応じられる状況になかったのか。それが描かれてないから不思議。次週にでも描かれるのかな?

最悪でも(劉備が行けれなくとも)呂布が馳せ参じてもよかったのにと思ってしまいます。

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遠州弁に変換 福岡の「よう」

「泣きよう」。なんかいいよね。ほっこりしてくる。細かいニュアンス分からんけど。

テレビの情報番組で、福岡から上京する人と見送りに来た人の会話の模様が映しだされていてのその会話の中の一フレーズ。

共通語に直すとなんだろね、あの雰囲気から推察するに「泣くの?」・「泣いちゃうの?」・「泣くのかい」・「泣いてるの?」・「泣くんだ」・「泣いてる」とかが思い浮かぶ。

つまりよを分からんその細かいニュアンスが。「泣きよう」の連呼で言い合いになってたけど多分それぞれニュアンスが違ってるんだろうな。

状況をもう少し細かく説明すると、バス停にてもうすぐお別れでしんみりした雰囲気になりかけた頃に旅立つ人が見送りに来た人を見て「泣きよう」と発す。そしたら違う違うという素振りを見せながら今度は逆に見送りに来た人が旅立つ人に「泣きよう」と発す。そしてどちらも「泣きよう。」・「泣きよう」と指さしあいながら言い合うことによってしんみりを吹き飛ばすという様であった。

もっと具体的に書けば2011・4・4のめざましテレビでの「新人女優・大野いと15歳の旅立ち」という中での一シーン。丸写しすると

A「泣きよう?」

B「・・・・・?」

A「泣きよう?」

B「泣いてないから。」

A「泣きよう、泣きよう・・・」

B「泣きよう、泣きよう・・・」

この状況を遠州弁に置き換えてみるとどうなるんだろ。(注、少しいじらないと伝わらないので上と同じになってはいない。)

A「あ~泣くだ?」

  (泣いてるの?)

B「なにゆってるよを、ちがうよを。」

  (そんな訳ないでしょう。違うよ。)

A「泣くだ?」

  (泣くの?)

B「そっちこそ泣くだ?」

  (そっちこそ泣きそうでしょ。)

A「泣いてるらあ。泣いてる泣いてる。」

  (泣いてるでしょう。絶対泣いてる。)

B「そっちこそ泣いてる泣いてる泣いてるにい。」

  (そういうあなたこそ泣いてるでしょうに。)

とかになろうかな。たとえ同じ15歳の若さで発しても博多弁?ほどには可愛げが出ないな。まあおっさんが考えるには限界もあろうけど。

とにかくこう解釈いたしました。博多弁の使い手さんとかからそんなニュアンスじゃないぞというのであればごめんなさいです。

それにつけても博多弁?畏れ入る。「泣きよう」ひとつでこれだけバリエーション豊かに表現出来るとは。

いずれにしても方言はやっぱいいな。同郷故の心緩やかさが解放されてるようで。

違うお国同士での、例えば片や博多弁こなた遠州弁で話すとかだと会話が成立しないから共通語の存在は重要だけど。

英語やらなんやらに力入れるのもいいけど二か国語を話すとなれば外国語と日本語というよりも自分のところの方言と共通語とをマスターした方が心にはいいような気はするな。

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*遠州弁に変換 コマーシャルの台詞

なんしょわたしんやれるこん。(今、わたしにできること。)

使ってんののコンセント抜いときまい。(使っていない電化製品のコンセントは抜いておこう。)

しょうもない電話とかメールとかは控えるかあ。(無駄な通話やメールはひかえよう。)

デマに踊らされるなんてあんた馬鹿のするこんだにい。(デマに惑わされないようにしよう。)

必要な衆んとこに行くようにしにゃかんらあ・やたらくしゃ直ぐいりもしんの買うなあよしなよを。(必要がないのに買うのはやめよう。)

あれだにい皆でやりゃあがんこになるにい。(みんなでやれば大きな力に)

当初フリップの表示だけだったものが有名人さんがフリップを持って口頭でも訴えるというのが追加された。

種類を増やす策ということで各地域の方言バージョンとかあればもっとバリエーションが豊富になるんじゃないかとふと思えた。

そこで私なりにいたって真面目に遠州弁バージョンを考えて見た。いかんせん遠州弁は舐めた物言いと聞こえるかもしれないが努々おふざけしたる意図に非ぬ由。 

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*ほかしつける

「放りつける」・「投げつける」といったぞんざいに寄越す様においても使われるがここで述べるのは物にあたるといったような様で使われる「ほかしつける」。ちゃぶ台返しみたいなものか。

似たような表現の「寝かしつける」は共通語だが「ほかしつける」となると方言の部類に入るであろう。

味噌(共通点)は「つける」であり「ほかしつける」(放かしつける)以外には普段は滅多に言う事は無いであろうか。強引に探せば「沸かしつける」とか古くて言う人はいないが「申しつける」とかが浮かんでくる。

「つける」の意味するものはと辞書を引くと

強い勢いでそれをする。「しかりつける」・「なげつける」。

という意味でのものとなるのであろうか。

これに関してはちょっと違和感を感じはするところである。それは例えば「寝かせる」が強い勢いで出来るといったものではなかろうにというところにある。

むしろ「寝る」という穏やかな行為に「つける」を付す事によって「寝させる」という強引性を表わしているのであろうような気がする。「無理やり寝かしつける」とか「急いで寝かしつける」とかいった使い方で「眠そうで可哀相だから寝かしつけた」とかいう使い方はしないものな。蛇足で単なる投げ掛けだが「寝かせつける」と「寝かしつける」はどう違うんだろ。

では「ほかしつける」だとどうか。

「ほかす」は「放る」という意味であり「つける」を付すと辞書での意だと「強い勢いで放る」ということになるのだが、その意だと遠州弁では「ほかしなげる」の方が近い表現である。

「ほかしつける」は強引もしくは無理やり(無茶)に「ほかす」といった勢いのもので必ずしも激しく(強い勢いで)放るといったものに限ったものではない。蛇足だが放ってから押し付けるとかいうことでも当然違う。

こうなると微妙に辞書にある意とニュアンスの違いがある。「申しつける」や「ねかしつける」とかは、似てはいるけど辞書にある「つける」とは別種ということなのであろうか。

なのでここで述べている「つける」は辞書には無いということとして述べることになる。(つまり根拠はない)

ここでの「つける」の意味は強引に・無理やりに・都合によりという意味合いのものであるとする。

そして前につく「かし」という言い方も「かす」(かせる)といった強行的要素の強いものであり「寝かす」・「ほかす」は言い方を代えれば「寝かせる」・「放かせる」というものである。

つまり「~かしつける」というのは無理やり何かをするという事であろう。それはこちらの意図を強引に通すということであって寝かせる行為が顕著なように強い勢いでというものではない。

で、じゃあ「ほかしつける」とはどういう事かと言うと、こちらは大いに不服だという事を態度で表わしていてそれが放るという行為に及んでいるということであろう。

別の視点でいくと例えば「沸かしつけとく」だと「沸かせておく」という意味であり「申しつける」等と同じな同じ厳命といった勢いのものであろう。これも辞書に有るような「しかりつける」の強い勢いで言うとはどことなく異なる気がする。

立場的に分けると、上の者が下に指示命令など下す際に「~つける」で厳命を表わすことになり、下の者が上に対し反抗のような様・態度(つまりなまいきな態度)を示すのを上の者が見てその態度を「つける」と表現する。

「ほかしつける」の場合上の者が「ほかしつけ」れば投げて寄越すという尊大なものとなり下の者が「ほかしつけ」たら不服を示す反発の行動ということになろう。

この解釈だと「叱りつける」も「申しつける」も「寝かしつける」も上から目線からという共通点が出てくるし「ほかしつける」は下から上へのぞんざいな反抗の態度を表わす(反逆)という理屈も無理がなさそうだ。

ちなみに古語辞典での「つく」{他動詞}の説明の中で、言いつける・命令する。というものがあり、これがニュアンスとしては近いような。

ただし遠州弁の「ほかしつける」は目下も取る行動なので古語辞典との矛盾点は生じるところ。

尚、当然だが「ほかしつけ」られた人は「なんてことしやがる」と腹立たしく思っている。もしくは「呆れている」か。

従ってくどいようだが「つける」の意味は立場によって申しつける・命令する。というものと反抗するというふたつの意味があるという形になると妄想されるところである。合ってるという確証はないが。

例文

「むっすうどこいっただあ。」

「帰ってきて用事頼んだだに気に入らんだかカバンほかしつけて出てっちゃった。」

「反抗期かあ?」

「知らんだあ。」

「変なこと頼ますとしただらあ。」

「そんなことないよを。部屋んどんぎたなかったもんで片いたで出てきたゴミうっちゃってきてやあっつっただけだにい。」

「微妙だなあ。」

「なにがあ。」

「本人にとっちゃゴミじゃないだらあ多分。」

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