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バーテンダー その8

 前回が最終回と勘違いして観てた分、この真の最終回はちょっと気が抜けて観てしまった。

まあ傑物のおじいちゃん(津川さん)が他界なさったという事もあって、もう最高のカクテルだとジャッジする人がいないじゃんという気がちらりほらりとしたもんでというのが大きいかな。

でもまあもうひとつのどっちが栄光(勝利)を手にするのかという事に集中して話しが進められていて観易くはあったな。

美和(しほりん)が最終判断を下すというところで、葛原(金子さん)が勝たないとというか勝つべきだよなと思って観ていたのでこの勝負葛原の勝ちというのは納得の結果でありましたな。

なにしろ美和は佐々倉(相葉さん)に特別な想いを抱いてるというのがモロ分かりなだけに例え実際素晴らしいカクテル作りえたとしてもその判断に情が加味されてるに相違ないと思えてしまうから、冷静かつ公平感を醸し出すとしたら葛原勝利でないとその疑念は振り払えないものなと。

問題はその後どう関係性を維持してくのかということになるのだろうけど、そこはさりげなかったけどきちんと処理?されてて後味のいい仕舞い方だったな。

勝負に負けて自分らしさを得たという負けるも勝ちという事で。

なんてちょっと醒めた目線で観てしまいました。…反省。ドラマは愉しむもので傍観するものじゃないものな。

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*じじばば

「じじばば」でひとつの言葉であり「じじ」・「ばば」と分割することは無い。分ける場合には「じいさま」・「ばあさま」とかになるであろうか。「じじ様」は無いが「ばば様」があるかどうかは微妙である。

他の地域はどうなのかは知らないが遠州弁に於いての「じじばば」は慈しみのこもった言い回しである。

労わりというニュアンスも多分に含まれている。

ただしそれは大人が発した場合であって、子供が発するとその効力はなく小馬鹿にしたようなものになる。ここでの大人と子供の境界線は微妙に曖昧であるが小学生までが子供で中学生から上が大人というのが境界線であろうか。まあ中学生は「じいちゃんばあちゃん」であって「じじばば」と発することはまずないだろうが。そうなると無難なとこで高校生とした方がいいのかな。

そして大人であっても身内のこととか知人の親のこととかでは意は慈しみであるが赤の他人に対して発すると微妙にはなる。

ちなみに悪態系の表現となると「じじい・ばばあ」という言い方になる。ただし、愚息というように身内をへりくだって言う(例えばこんぞう・むっすう)ような使い方の場合はこの限りではない。

例文

「やあ、帰りんみかんよかったら持ってってやあ。かたちん悪くて出荷でけんのだけど味はいいで。」

  (なあ、帰る際に家で作ったみかんもしよかったら貰っていってくれないか。形が良くないから出荷できない奴だけど味はいいから。)

「悪いやあ。にしたってけっこうあるじゃん。」

  (ありがとね。遠慮なく貰うわ。それにしても沢山あるねえ。)

「こらしょとあるでどんどん持ってって。」

  (いくらでもあるから遠慮せずに持って行ってくれよ。)

「仕事忙しいだにみかんやってる時間よくあるねえ。」

  (仕事で忙しいのにみかん農家やってる時間なんかよくあるもんだねえ。)

「うちんとこのじじばばん楽しみでやってるだよ。わしたんまに手え出すくらいでえの。」

  (家のじじばばが老後の楽しみとしてやってるんだ。おれはたまに手伝いするくらいなもんさ。)

「そりゃ元気でなによりだの。」

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ドリームガールズにぶちょお

 番組表にドラマとなっていたからとりあえず録画しといた。

で、視たら「ぶちょお」が出とらしてびつくりこいた。

えらいやっとかぶりで視るなあ。自分がぶちょおをこのドラマの前に観た作品はというと・・・インディゴの夜かあ。ほぼ一年ぶりってことになるのかあ。

随分と大人びて映る。

で、ドラマの内容についてはドラマというよりも新種の通販番組じゃねえのか?という疑問が湧いた。ネットで調べたらやっぱそうだった。

女三人かしましいとは愉快だねとくりゃやっぱり猫が好きがイメージとして浮かぶところで、あれと較べるとというのは後生であろうがつい較べたくなる程に雰囲気が近い感じがした。

できれば同居とはいえ我が家なんだからもう少しくつろいだ緩さが醸し出されていればよかったのにな。服を見せるのが主なんだから言うてもせんなきことだけろうけど。

ドラマということでみたらやっぱ揉めてる要因であるオーディションの結果(誰が受かったのかとか)というか成果まで提示してそのうえで最後どう仲良き哉となるのかという展開であって欲しいよな。ファッションショーで締めるというのは通販番組としては王道なんだろうけど。

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*しんぶんがみ

「新聞紙」。あくまで遠州弁(遠州地域)でも一部地域における普段遣いでの話しです。ただしもう使われていない言い方でありましょうや。「しんぶんがみ」と言う人よりも「しんぶんし」と言う人が遠州では圧倒的に今は多いと思われるので実質昔話みたいなものです。

「しんぶん取って」と言えば記事に用があるというごくごく普通の新聞の用途として使う意図と解釈される。

「しんぶんし取って」と言えば紙を包装紙代わりにしたり・爪切るときの敷物にしたりなど他の用途で使う意図があることと解釈される。

では「しんぶんがみ取って」と言うとそれはどういう意図でそう発するのかというと、集落によって違いはあるだろうが私らんとこでは「便所紙」(べんじょがみ)と同様の汚れた物を拭いたり包んで巻いて捨てるみたいな使い捨ての雑巾代わりとして使う際にそう呼んでいた。今だとティッシュペーパーとかになるのであろうか。もちろん「しんぶんがみ」で洟をかむとかはしなかったが万が一便所紙が切れた時にはよく揉んで代用としたりは出来た。

知人に訊いたとこでは「折り紙」・「千代紙」みたいな適当なサイズに切り揃えて用途はもう忘れたが何かに使っていてそれを「しんぶんがみ」と呼んでたそうな。

複数人に訊いてみたら「しんぶんし」と「しんぶんがみ」についてはこれほどまでにそんな明確な使い分けがされていた訳ではなく、こういう際に新聞紙をつかう時は「しんぶんがみ」でこういう場合には「しんぶんし」と言うみたいな用途によって言い分けるということでもないようだ。

ただ新聞の形そのままで別の用途で使われる場合には「しんぶんし」で、切ったりして形を変えたうえで使われる場合に「しんぶんがみ」と呼ぶという傾向は私らん集落のとこではあったようだ。

「お風呂沸かすのに新聞紙を燃やいて火い点ける」とかいう場合は「しんぶんし」と言う。

「新聞紙で折り紙折る練習する」とかいう場合は「しんぶんがみ」と言う。という感じであろうか。

こういうのは一部地域のみの可能性が高いので、まあ遠州全体として無難な答えを探すとなるとそれぞれ家庭ごとに「しんぶんし」と言うか「しんぶんがみ」と言うかそれぞれだったというところに落ち着きそうではあるが。

昔は新聞といえば、包装紙としたり畳の下に引いたり洋服ダンスの中の衣類の仕切りにしたり汚れたものを拭き取る紙とかお風呂の火を点ける時とか水の吸い取り紙としたり梱包の際の緩衝材としたり家具と畳の間にはさげて畳が傷まないようにしたり傾きを調整したりなどなど挙げたらきりがないくらいな生活するにおいての必需品であった。

そうそうお弁当、アルマイトのお弁当箱を新聞紙で包んで学校にお出かけしてたっけ。必ずと言っていいほどおつゆがこぼれてるものだったけど新聞紙から漏れて教科書やノートがべとべとになるってことはなかったなあ。ちなみにこの場合は「しんぶんし」。

それが今はもう殆ど新聞の役割はニュースを伝えるというものでそれが済めば廃品回収へと流れていくのであろうか。故に「しんぶんがみ」という言い方(使い方)は今は死語となっているであろう。節約の美徳よりも「しみったれ」てる事を嫌う世の中だから。

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「おもはゆい」と「こそばゆい」

(前置きとして、この記事は推測・憶測・勘繰り・想像で書いているもので根拠のあるものではありません。あしからず。)

「おもはゆい」(面映ゆい)と「こそばゆい」(漢字表記不明)は同じ系統の言葉か?

「はゆい」(映ゆい)という言葉が存在していればそう言えるのだろうが、「はゆい」で辞書等に載ってはいない。「おもは」でも辞書にない。

つまり「おも」+「はゆい」でも「おもは」+「ゆい」でもどちらも辞書にはない。

古語辞典を引いてみたら「映ゆし」(はゆし){形容詞ク活用}まばゆい。きまりがわるい。というのがあった。

面映ゆいの意味は、面と向かってではなんとなく恥ずかしい様をいう。とネット辞書にある。「気恥ずかしい」とどう違うのかはまた別のところで考えるとして。「痒し」(かゆし)はモロに痒みを感じてるもので「映ゆし」はなんとなくもぞもぞするという勢いの違いが個人的には感じられる。

こそばゆいについては、くすぐったい・褒められたりして照れくさい。とネット辞書にある。

どちらにも共通するところを探すと露骨にというのではなくそこはかとなくといったなんとなくといった勢いがあるところであろうか。

関西の「こしょばい」のように「くすぐったい」という意で使われる「こそばゆい」は別物と考えるとして

きまりがわるくてとか照れくさくてとかでくすぐったくなるというのが「映ゆい」ということなのかな。そうであれば古語の「映ゆし」というのが「映ゆい」の元の形と想像できる。これが「こそばゆい」の場合単純に「くすぐったい」というものまで含まれるようになってきているのでややこしくなっているのであろうか。

次に部分を考えて見る。

「おも」(面)はつら、つまり顔ということであろう。でも「おもはゆい」に痒くなるというニュアンスは普通は無いわなあ。照れくさいのが顔に出るということであり「収まりがよくない」とすれば合いそうだけど。

「こそ」はなんぞやというとどこにも載っていない。なのでここから先は益々以て勝手な妄想に浸る訳であるが「こそ」が「「こし」であるとしたらば古語辞典では

「こし」(腰)衣服または袴の腰にあたる所。またはそのあたりに結ぶひも。という説明がなされている箇所があった。

照れくさい場合におけるこそばゆいところといったら襟元とか肩の辺りがイメージされるところ。衣服のあたる所と襟元ということで接点がある。とする。

つまり顔がむずむずすれば「おもはゆい」で首回りがむずむずすれば「こそばゆい」となるのではという妄想が沸き立つところである。まあ、「こそ」を「こし」とするという時点で無理はあるが。

これ以外に例えば「足はゆい」とか「腿(もも)はゆい」とかいう言葉があれば強い援軍になるんだけどないんだなこれが。もっともこれらの部位は単に痒いだけできまりが悪いとかにおいて痒くなる部位ではないからだろうが。でも「お尻を掻く」とかは多少その気が垣間見られないこともないだろうから「尻映ゆい」・「ケツ映ゆい」とかいう言葉はあっても不思議じゃあないよな。実際はないけど。

とにかくこういう勝手な妄想を巡らすと「こそばゆい」と「おもはゆい」には共通点があるという気はしてる。

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*へぼ

まんまで意味的に方言(遠州弁)の独自性がある訳ではないがよく使われるということで。

とにかく端的に下手くそだと否定したい場合に使う際に使いやすい表現として存在している。なので非常に手短に言う事が多い。

「やあ へぼ かしょう」

(おいこの下手くそ。俺がやるから変われ)と言っている。

「馬鹿」との違いは相手そのものを否定しかねない危険性のあるのが「馬鹿」で「へぼ」は相手そのものには興味がなく作業の成否のみを心配している勢いになるところであろうか。

ただし「馬鹿」には「ちょっと待て」という使い方と「何してんだ」という使い方の二通りがありここで述べてる「馬鹿」は「何してるんだ」という使い方の場合である。

つまり「馬鹿」といわれるとへこむけど「へぼ」と言われたら「やいやい」(あ~あ)くらいの気持ちで済む。

ちなみに「下手くそ」と言われるのと「へぼ」と言われるのではどっちがましかという事でいうと、「へぼ」と言われる方がまだましであろうか。目くそ鼻くそではあるが。

へぼ将棋・へぼ医者とかいった突き放していない感が使い勝手がいい。

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*だでゆったじゃん・ほれみっせえ

どちらも「人の忠告聞かないからだよ」と言っている訳であるが。

この違いは

自業自得だねといった勢いなのが「ほれみっせえ」(そらみたことか)・(いわんこっちゃない)。もう俺は知らないよという思いが暗に籠もってる事が多い。

それなりに心配してるのは「だでゆったじゃん」(だから言ったでしょうに)。こうなってもなんとか手助けしようという勢いが含まれる。ただしこの後の主導権は奪われるものと覚悟した方がいい事が多い。

この他には「ほれみい」という言い方もあるが、こちらは前の二つの中間みたいなニュアンスである。見捨てたとも助けるともどちらとも取れるものである。

「もう~ゆったじゃん」・「あれほどゆっただにい」とかになるとヒステリックな状態になっていると思った方がよくそっちをなだめる方にも神経を使わなければならなくなるのでここに挙げた中で一番言われたくない表現である。

いずれも言われたくはないものだがせめてどうせ言われるなら「だでゆったじゃん」がいい。というかマシ。

例文

「やいやい失敗こいちゃってえ。」

  (あ~あ、失敗しちゃったよ。)

「ほれみっせえ、人のゆうこんちゃんと聞かんもんでえ。」

  (いわんこっちゃない。人の忠告ちゃんと聞かないからだよ。)

「やいや失敗こいちゃってえ。」

「だでゆったじゃん。ちゃんと人んゆうこん聞きない。」

  (だから言ったでしょうに。ちゃんと人の言う事聞きなよ。)

「やいやい失敗こいちゃってえ。」

「ほれみい。人のゆうこんちゃんと聞いてりゃ良かっただにい。」

  (ほらあ、人の言う事ちゃんと聞いてればよかったのに。)

「やいやい失敗こいちゃってえ。」

「もう~ゆったじゃん。なんで人の話し聞かんよを。」

  (も~あれほど言ったでしょうに。どうしてそんな自分勝手にやるんだよ。)

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Dr. 伊良部一郎 第8話

 出掛けてから「あれ煙草の火?」というのがいつも気になる私としては、過激な症状とはいえ共感する症状でありました。で、それをどう癒すというのか注視して見てたんですけど。

なんかはぐらかされたというか参考にしようがない処方戦でした。

物語りの流れはとても意外性もあって面白いものでありましたが、興味がどうやって治すのという方にいってた分その面白さを堪能してたとは言い難い視聴でありました。

なんでもかんでも抱え込んでしまうからであって、そういう意味で人生を分け合う存在である奥さんとよりを戻すのが特効薬なのかなと思って見てたんですが、偶然犯人検挙といういい加減さが薬だったというのはなんかすっきりしないというか苦いぞと。

でも伊良部一郎の方はよりを戻したみたいで、まあいいかあ。ってなんだそれ。

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三国志 第12話

呂布が徐州に来たの回。

まずもって驚いたのは貂蝉が生きてるよ。詳しく(演義における史実的に)はいつ亡くなったのかは知らないけど、てっきり呂布が都を追い出されたドサクサの辺りまでで消息不明になるものだと勘違いしてた。

どうも漫画の三国志に引っ張られてたみたい。ネットで調べたら三国演義ではまだ生きてるのが正当らしい。

それにしても呂布は随分とすれっからしになったもんだ。それまではなんか孤高の剣士といった雰囲気漂っていたのに・・・。まあこの方が呂布らしいって感じはするんだけど。だったら最初っからこのキャラでいって欲しかったな。私としてはとんでもないけど憎めないお人好しな奴というイメージなんで。

ちょっと疑問に思ったのは陶謙に跡継ぎとか居なかったのかな。いきなり劉備に譲るというのはそりゃお堅い劉備なら断るに決まってると思えるだけに、後継者の補佐を頼むとかいう順序がスムーズと思えるのだが。

まあドラマだからこれくらい劇的な方がいいのか。それにしてもこのドラマでの陶謙は善人として描かれていたなあ。

それと曹操軍の虐殺は殆ど描かれていなかった。あと一連の戦いでは劉備軍は結構蹴散らされていた筈という風に覚えていたんだけど。このドラマではそういう風には映らなかったな。

でももしこれ以降ずっと劉備と呂布がタッグをがっちり組んでの曹操と覇を競っていたらどうなってたんだろうといつも思うんだよな。仲たがいはああ勿体ない。

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*のぼせかある その2

長風呂しすぎてのぼせるとかいう使い方の「のぼせる」。

ネット辞書によると漢字で書くと「逆上せる」・「上気せる」と書くそうな。

意味を大雑把に挙げると、「のぼせる」は、頭に血がのぼるとか熱中・夢中になるとか思いあがる・うぬぼれる、などが辞書に記載されている。

遠州弁の場合「のぼせる」だと頭に血が上ってくらくらしてるという意味と入れ揚げているという意味両方使われるのだが傾向としてはくらくらするという場合が多く、熱中・夢中という我を忘れてといったような意味使いは「のぼせかある」という方を使う事が多い。つまり「のぼせる」と「のぼせかある」は度合い(程度)の違いとかではなくて使いどころ(意味使い)が異なって使われているということが言えるのではなかろうか。

「のぼせかある」は夢中・熱中の他にいい気になるとか思いあがるという意味でも遠州では使われている。というか「のぼせかえる」という言葉は共通語にはないらしい。先にも書いたが「のぼせかえる」は江戸の文献に出ていた言い回しなので古語の部類に入るものかもしれない。

それはともかく、共通語においては「逆上」・「上気」両方の意味使いを「のぼせる」で済ましているということなのだろうが、遠州弁では「上気」は「のぼせる」で「逆上」は「のぼせかある」をと使い分けているという事がいえるのかもしれない。

「かある」というのは「まくる」という言葉に置き換えてる事ができそうで「のぼせまくる」とかいった訳になりそうなものだが、しかし先にも述べたように「のぼせる」の程度が増したという使い方ではなく、使いどころが異なる場合が多いので「のぼせまくる」という共通語が「のぼせかある」の訳という風には単純には言えない。「むせる」と「むせかえる」との関係とは違うのである。

どちらかといえば「のぼせ上がる」=「のぼせかある」であろうか。「いい気になって」・「調子に乗って」というニュアンスで使われることもあるから。

普段の使い方だと「こないだたんまに上手く行ったと思ってはあのぼせかあってる」(この間はたまたま上手くいったのを実力と勘違いしていい気になってる)といったものでありそれを「こないだたまたま上手く行ったと思ってもうのぼせてる」とはあまり言わないものである。

「長風呂し過ぎてのぼせかあった」と言った場合そのニュアンスは思いあがって(調子に乗って・いい気になって)長風呂した・長風呂して失敗したというものであり、「のぼせかある」は「のぼせる」を強調したような言い方という訳では必ずしもないのかもしれない。つまり「かある」を付けるとのぼせてしまう事(その理由)がよからぬ(失敗した)事ということ。この場合だと長風呂なんかするもんでよくないんだ(なかったんだ)と暗に言っている。

単にとても頭に血が上ったといいたい場合には

「長風呂こいてがんこのぼせた」(ばかでもえらいでも可)

で、こちらなら反省の色とかはなしといった趣になる。

とにかく「のぼせかある」においていい事になる例(ためし)はない。自身の事を言えば反省、他人が言えば批難といったものである。

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*制止の言い回し

「いい加減にしろやあ」・「いい加減にしてやあ」

「大概にせろやあ」・「大概にしなよを」

どちらも「やめろよ」と言っている訳であるがどう違うのか。あくまでも遠州弁における場合。

「たいがい」から受ける印象は「そろそろ」といった潮時というかタイミング。

「いい加減」から受ける印象は「我慢の限界」といった度を越えての発言。

他の言い回しで「ほどほどにしなよ」だと加減をしろであって「やめろ」とは限らない。

「仏の顔も三度まで」の場合これを言い換えるとすれば「いい加減にしろ」なのか「大概にしろ」なのかどっちが適当なのか。

ちなみに辞書を引くと

「いい加減」{副詞}限度を超えていてそろそろなんとかしてもらいたい感じだ。

「大概」{副詞}常識で・当然だと思える(がまん出来る)程度。適度。

とある。遠州弁でもこんな感じでまあ大して共通語と離れたものではなかった。

これから想像するに仏の顔が三度目までが「たいがいにしろ」で四度目以降が「いいかげんにしろ」という事になるんじゃないのかと。

理屈はそうなんだろうが、実際のところは「たいがいにしろ」と発していても十分怒ってる事が多くすごくは差が生じていない。つまりどっちが言い易いかという人によりけりで意味的に違いは無いという感じがする。

まあ「大概を」使うと幾分まだ余裕がある雰囲気にはなるし「いい加減」は切羽詰まった印象が湧くところである。

それと「大概」は年配の人が発するもので子供は言う事は少ないという事も違いとしてはあろうか。

それはある意味おもちゃとなればすぐ欲しがるというような若ければ若いほど「大概」という概念が薄いものだとも勘繰れなくもないが。

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何にもかえがたい

「何にも変えがたい」

「何にも替えがたい」

「何にも換えがたい」

「何にも代えがたい」

唯一無二。代用できるものはない。とかいう意味で使う時、果たしてどの字が適切なんだろう。ネットで検索すると十人十色(といっても上の四種だけど)。なのであくまで個人的な感覚で考えてみる。(なので正しいとは限らないのであしからず)

「変える」は流石に遠そうだな、変化とかで物そのものが姿かたちを変えるみたいな印象を受けるから。これを使った場合だと強引な読み取りだけど二通りの勘繰りができる。やっとこさ自分色に染めた(変えた)のにそれを手放してまた新たなものを自分色に染める手間を掛けたくないという風に受け取れる。いまひとつは変えようとしてもなんにも変わりようがない(変えるに困難)という風に受け取れる。従って「何にも変えがたい」は無しと思える。というかこれがいいんなら「化えがたい」でもアリということになるよな。どうなんだろ。

無難なとこなら「代える」かなと思えるがどうなんでしょ。辞書には「代える」は「替える・換える」とも書くとされている。

「替える」がどうだろ。代用と代替とで較べると代用とは本来使うべきものの代わりにまにあわせとして(臨時に)使うこと。代替とは他の物で代えること。かわり。と辞書にある。

「換える」だと空気を入れ換える(換気)とか部品を交換するという使い方から思うに代わりのものがあって当然でなければならないものという印象があり、「換えがたい」となると駄目じゃんと思えてくる。電池とか蛍光灯のような消耗品の交換のような場合に「換える」が使われるのであろうかな。

つまり「代える」か「替える」というのが「何にもかえがたい」の場合にはイメージ的な破綻が感じられない。

漢和辞典を調べると

「代」の意味で此処に該当しそうなのは、かわる。かえる。いれかわる。なりかわる。

「替」は、かえる。とりかえる。同意語で「代」。

とある。

どっちを使ってもよさそうであるが、「いえれかわる・なりかわる」という意味がある分擬人化というかそのものに対して情(愛着)がこもっているものに対しては「代」を使った方がそのものに対する愛着度合いが含まれそうな気がする。

合ってるかどうかは知らないが私としては「何ものにも代え難い」とするのが落ち着きどころに思える。ものは「物」でも「者」でもはまりそうだからどっちでもいいように「もの」として茶を濁しておこう。

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ダーツの旅 竜洋編 の遠州弁

全くの余談から始まるのであるが、このブログは個人で書いてるのであるが遠州弁の記事については何人かの知人に協力者みたいな立場として相談・確認等したりして書く場合が多々ある。

そういった内の「志○未来」と「宮○あおい」好きの知人が数日か前に「笑ってコラえて」という番組を録画したDVDを「貸しちゃるでこれ視てみい。面白かったにい。」と貸してくれた。ちょっと前に借りておきながらそれを今になって見た。彼の嗜好から鑑みてご両人のどちらかがバラエティ番組に出演されたものなのかと思ってしまい、私はどちらかというとタレントとしてのこのご両名には興味が薄いので暫くうっちゃらかいてたんだけど連ドラが続々終わってしまいあまりにもする事がなくなったので今頃になって見たという次第。そしたらそうじゃなくて遠州弁の参考になるというものだった。ちなみに「志○未来」も「宮○あおい」いずれも出演されてはおられなかった。ああ勘違いという図。というのが放送されてから大分経つのになんで今頃という時期遅れになった理由の説明というか言い訳。

で、本題に入って「ダーツの旅 竜洋編」。

この番組を視たという人でなければ分からないかもである書き方をするが、とにかくなんしょ竜洋の衆らが映っていた。はっきしゆってみんな「ひょんきん」な衆ばっか。でもモロ遠州人。これぞって感じがしてくるだいね。まあとにかく笑えた。

ゆってる言葉(単語)はそんな方言こいてる訳じゃないけど絶対共通語じゃない。このビミョーさが遠州弁なんだよな。

語尾に付く「だ」・文中に大抵挿まれる「もんで」・「だもんで」とかいった遠州弁独特の表現はあったけどそれ以上にイントネーションと言い回しだよな。そうそう「やらしい」も出たな。

「だ」。番組内では「いや(自分は)生で食べた事ないだ。」と使われいた。この「食べた事ないだ」というのは「食べた事ありません」(食べた事ないです)というニュアンスよりも「食べる事はないです」(食べる事はしない)といったニュアンス。ちなみに「食べた事ありません」というニュアンスは遠州弁では「食べたこたあないわ」・「食べるこたあしんわ」とかであろうか。「食べたことないだ?」と語尾を上げて疑問の形にすると「食べた事ないんですか?」といった風になる。他にもイントネーションの説明が難しいので説明はパスするが言い方によっては「ふ~んあんた食べたことないだ」で「へ~食べた事がないんだあ」ともなる。「だ」だけでもかようにバリエーションがあるもので多分これ以外にもあるだろうな。

イントネーションについてはこればかりは文字では表現できない。

言い回しについてはなんとか写し取っていきたいものだ。

例えば番組でうなぎの幼魚獲ってた人の言い回しなんかホント遠州弁らしいものだったなあ。「獲れるかなあ・・・無理だな。」といったパターンは「そう思わん?・・・思うらあ?」といった遠州弁でよく使われる反語(もしくはもどき)の形態である。

自問自答でなくとも

「買い行かんだ?行くかあ。」

「いや止めとく。」

「なんでよをいいじゃん行くかあ。」(なんで行かんよを行くかあ)

とかも反語もどきの範疇に巻き込んでしまえばの話しであるが、こういう言い回しが遠州弁らしくなるポイントであろう。

言葉の並びも独特なものがあろうな。番組では顕著なのはなかったけど例えば

「今買い物に行ってきたところ」というのを遠州弁だと

「今行ってきただ、買いもんしにい」とかいう風になる。

こうしたものをきちんと拾っていけたらいいな。当たり前すぎて気にも留めてないから気付くのは多分無理だろうけど努力はしよう。

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