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*古語の「に」

「たれをかも 知知る人にせむ 高砂の 松もむかしの 友ならなくに」

旧友が次々と逝ってしまって自分は誰を友として生きていけばいいのだろうか。癒してくれる高砂の松とても友というものではないのだから・・・。

とかいう意味の百人一首の中の一首。訳はどこぞのものを引用するのもあれなので参考にして自分なりに訳したものなので正確ではないであろうなのであしからず。

勝手な思い込みだが、最後の「に」が遠州弁の「に」と同じであるとすれば理屈ではなく感覚として結構分かり易い気がしてきたりなんかして。

知り合いがどんどん亡くなって友達おらんようになっただよう。高砂の松はそりゃあ和むだけえが やっぱ友じゃないで寂しいに。

とまあ遠州弁にするとこんな感じになろうか。この言い切らない余白感はおんなじなような気がする。言い切るなら「や」とか「ぞ」だろうなと。

「に」だと分かり辛いが「にい」とすると「よう」と共通語に直せる。「寂しいにい」で「寂しいよう」。これのニュアンス的に近い他の遠州弁は「で」・「でえ」かな。

同様に「やあ」とするとこの場合は「なあ」というのがはまりそう。「寂しいやあ」で「寂しいなあ」という感じに。これのニュアンス的に近い他の遠州弁は「だ」・「だよ」かな。

こういうニュアンスが実際の古語のものと一緒だったら遠州人は古文を他所の地域の人より若干読み取り易い土壌があるということになるんだろうけど、実際はそういう兆候はないので妄想なんだろうかな遠州弁の「に」や「や」は古語と同じというのは。

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