« 2010年12月19日 - 2010年12月25日 | トップページ | 2011年1月2日 - 2011年1月8日 »

わが家の地デジ奮闘記 お正月編 

毎年正月はテレビ氷河期間で手持ち無沙汰で如何せんなんだけど、今年はちょっと違って楽しめた。

それは鈴木さん一家のお正月風景。生放送で演じて投票で展開が変わっていくという趣向。ひたすらなお笑い芸人さんオンパレード一辺倒から脱却したという点がまずなによりの事であり、しかもユイカが出るとてSGフリークとしては益々以て喜ばしき哉。終えた後の解放感の表情が皆さん清々しかったな。

ハラハラ感が現われてて「正月一番お疲れ様でした。とても面白かったです」とまず労をねぎらっておいて。

やってる方はさぞかし大変なんだろうけど見る側はもっと光をという何様の立場でいうならば

裏方的ドキドキ感が面白かったという側面はあったけどお堅い某国営放送の事だからさぞかし色んなパターンを一通り万遍なく繰り返しリハーサルして臨んだんだろうなと思えるくらい至極まとまってた感があって非ライブ感を感じもしたところ。(まあそういうとこが役者力ということであろうが)

別にアクシデントやミスを期待して観てたわけじゃないけど想定外の状況に置かれた際の対処力というのをもっと楽しみたかったというのは贅沢か。映画やドラマとは違う瞬時の妙が映った方がより楽しめそうではある。

全く筋のないアドリブ三昧というのは時としてまとまろうまとまろうとする(飛躍しない)警戒心だらけの緊迫感に満ち溢れたところを愉しむもので(突き抜けてやろうばかりじゃしらける限りだから)

綿密なリハーサルのもとにというのは飛ぼう飛ぼうという冒険心とミスしないようにという緊張感の兼ね合いを愉しむものなのだろうかな。

この公開ドラマは後者の色が濃いものでケセラセラ感が薄味だったかな。アドリブとリハーサル(綿密)の中間に位置したものであろうから、おおまかなとこだけ決めといてその結論に如何に役者さんが協力して持っていくかという技を観たいところだよな。

もしまたこういうドラマをというのであれば、始まりだけはきっちりリハーサルして臨んで分岐点以降はその場で選ばれた台本を渡して大まかなとこだけ打ち合わせて役者さんの裁量とチームワークでとにかく決められた結論に持ち込んでいくという二種類の味わいのものを見てみたいな。つまり役者さんが演出家を兼ねるという妙というかなんとゆうかそんな感じ。この場合の鈴木さん一家なら西村さんがその任を負う事になるのかな。

もし万が一ぐでぐでになったとしても演じ終えた後の反省コメントかなんかで修正してけばいいだろうし、混ざりたくてうずうずしてそうだった司会の三宅さんがそういうとこをうまく取り繕ってくれそうな安心感もあるしなあと思いました。

多少時間に縛られる拘束を緩めないと収まらない部分もあるだろうからしょっちゅう観れる企画ではなさそうではあるが新しいジャンルとして面白そうだな。

まあとにかくそういうをたは置いといて、やはりユイカがというよりも西村さんを愛でるドラマであったように映った気が致しました。それにやはりお芝居というのはコンビネーションが大切なんだなあと。

ところで鈴木さん一家引っ越ししたのかな。家(居間)の作りがなんか変わった様な気がしたのは気のせいか。

リハーサルでは一度も声が裏返らなかったのに本番では裏返ってしまったと言ってたユイカだけどとても緊張してたようには見えなかったというのは才なのだろうか。まあ緊張がみえたところでどうなるものでもないが。

内容というか展開が云々よりそれぞれの人物の瞬間瞬間を愛でるという新鮮な鑑賞ができて面白かったな。必ずしも凝った展開がなくちゃ面白くないということではないのだな。でもなんだろう昔ながらのお芝居を見てるようなデジャブーな感覚もあり懐かしくもあったな。

起承転結はもちろん大事だけど結に至るまでの寄り道(道草加減)が楽しいということもあるんだろうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*やるじゃん・たいしたもんだのっ

お褒めの言葉。

どちらも方言と言う程のものではなかろうが年の初めは元気がつきそうな言葉がいいかなと思って記載。

あくまで遠州弁におけるニュアンスであるので地域差はあろうかということを断っておいたうえで細かく訳すと

「やるじゃん」は「おぬし出来るな」みたいなニュアンスで「やったね」。「やるじゃないか」というような見直したよとかいうニュアンスの場合は「やるじゃんか」という言い方になる。「やったじゃん」だと「出来たね」というニュアンスでお褒めというより祝福で褒めてる度合いでいえば「やるじゃん」の方が強い。

「たいしたもんだのっ」は「あっぱれ」みたいな「立派立派」といった感じか。「たいしたもんだ」だと感心したという勢いが強い。褒めるということであれば「たいしたもんだのっ」であろう。

とにかくこう言われて悪い気はしない言葉である。

「たいしたもんだのっ」は使用年齢が高めな傾向にあるが「やるじゃん」は幅広い年代で使われるもので若者だけの表現ではない。

例文

「あそこんさあの息子。まだ若いだに今度家建てるだって。二世代の。」

  (あそこの息子さん。まだ若いのに今度家を建てるんだって。二世代で住める家を。)

「そりゃまたたいしたもんだのっ。うちのたあえらい違いだわあ。」

  (それはまた出来た息子だねえ。うちのとは大きな違いだよ。)

「なにゆってるよを、あんたんとこの息子さんだってやるじゃん。こないだ海外旅行連れてってくれただらあ?」

  (なにを言ってるのあなたのところの息子さんだってたいしたもんじゃないの。この間海外旅行に連れてってもらったんでしょ?)

「違うだよ。自分行きたいけど金んないもんですねえかじりい来ただよ。それを自分が親孝行で誘ったみたいに吹いて周りゃがっただよ。ホントしょんない。」

  (違うんだ。自分が行きたいんだけどお金がないからすねをかじりに来たんだよ。それをさも自分が親孝行として誘ったかのように吹聴して周ったんだよ。本当どうしょうもない奴なんだ。)

これを親の謙遜ととるか真に受けるかで大きく展開が変わるところ。女性は謙遜と取る傾向にあり男性は真に受ける傾向が強いと思えるのは気のせいか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

年の終わりに

 昨年は柄にもなく「よいお年を」なんて事をばのたもうたつけがまわりしか。

今年は夏の猛暑にやられ秋をすっ飛ばしての極寒に打ちひしがれ体力的になんともはやな一年と相成った。

なので今年は大みそかとて普段通りにままで締めくくらすか。

今年変わった事といえば録画機を変えてパソコンも換えた。地出痔になったからという事からではなく単純に寿命だったから。

そのおかげでCmだけを抽出してDVDに焼くという事が新しい録画機では至極面倒くさくなって実質出来なくなった。なのでCmの感想記事を書かなくなった。決して見なくなった訳ではないのだが。なんか便利さから後退したみたいでなんともはや。

ビデオに録画したものをDVDに焼き直すというのも出来なくなったし不便になった年だったな。

まあ負の要素しか思い浮かばないのもあれなんで、ちっとは前に進んだかなというのを思い返してみると

とりあえず歪ながらもホームページが作れた。ブログに書き溜めてた遠州弁の記事のみを移し替えたものである。その目的はなんらかの出来事があってブログが閉鎖になっても残せるようにしたいというもの。でもよくよく考えてみれば同じプロバイダーさんのものなんだから接続会員じゃなくなったら共に同時に霧散しちゃうんだよなということに今頃気づいた。

来年は見易いように改良が必要なこともあるので改訂版のホームページを新たに興せればいいな。

それもこれも体力つけないとというのがまず第一だけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

火害・水災

水害とは言うが火害とは言わない。火災とは言うが水災とは言わない。

害と災とはどう違う?想像するに、災いは避けようがない(為す術がない)が害は防げるということか。それとも水の被害という意味の害であろうか。

辞書を引いてみると

「害」そのものの存在を危うくするような悪い・結果(影響)

「災」人間社会にとってありがたくない、自然の出来事。わざわい。

とある。

分からん。

害を使う言葉で思いつくのは、塩害・煙害・被害・有害・無害

災で思いつくのは、人災・天災・労災・災難

被害の規模や原因による区別とも思えない。いくらなんでも「火害」は課外・加害・被害と「水災」は水彩とかと誤解するからということではなかろうに。

「害」と「災」の使い分けはホントよく分からない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

「いじめる」と「いぢめる」

もう完全な言葉の誤での綾の世界だが

「いじめる」と「いぢめる」は受けるニュアンスが異なって聞こえる。

「いじめる」からは虐げるとかいった陰鬱(ざまあみろ的)なものを背景に感じるが

「いぢめる」からはかまうというかちょっかいを出すというものを感じる。

古い喩えだがスカートめくりは「いぢめる」であり文房具を隠したりするのは「いじめる」であろう。

どちらも片や好意の裏返しで片や自分と異質なものへの反応といった本心からは外れる屈折した行為であろうがまだ「いぢめる」とした方が可愛げが見えてくるような気がする。もちろんやられる方にしてみればどちらも迷惑千万である事に変わりはないのだが。

本心を悟られたくないからこういう行動に出るという面もあるだろうから「本当は好き(気になる)なんでしょ」なんて核心を突かれたらかえってより本心とは異なる行動や発言に討って出るなんてことになりかねないわけで。一体どのようなところに着地したいのかおそらく本人すらもわかっていないんだろうな。

「いじめる」は漢字で表わすと「「苛める」・「虐める」。これはまごう事なく存在する言葉である。大人のそれはストレス発散のはけ口みたいなもので「馬鹿」がやる事であってそれはもうお話しにもならない愚行であるが子供のそれは子供が持つ鋭い感性から異質なものを嗅ぎ取る事から始まるのだろうかな。劣るという事だけでなく光って映る事に対しても同じ反応をしたりもするのであろう。なんとなく思えることは「いじめる」側の奴が大人になって大成するという事はほとんどなく凡庸として終わり「いじめられた」側が大人になって名を残すという事が多い風に映るところである。誰かを「いじめた」時点でその人間の器の広さの成長が止まるもしくは負けているということなのだろうな。

で、話しを変えて「いぢめる」。これは辞書にはないから妄想上の言葉なんだろうな。じゃあ妄想上の言葉の「いぢめる」にはなんという感じがはまるかと想像を働かせるに「いぢめる」というひらがながはまりそうだかなあ。カタカナじゃイメージ湧かないところである。でもなんだろう。気になるからと「いぢめて」その恋が成就するなんてお話し聞いたこともないのでほぼ自爆好意なんだろうな。

こういう感覚と同じ表現をしてる作品はというと、シチュエーションは異なるけれど「鉄○バーディ」で使われてたなあ。どれくらいの人がこの違いを感じて使い分けているんだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

「しょって立つ」と「せおって立つ」のの印象の違い

どちらも漢字で書くと「背負って立つ」になるのであるからして意味的な違いはあろうはずもなかろうが。

ネットの辞書とかでしらべると「しょってたつ」としてあって「せおってたつ」という言い方はしないようである。

しかしながら両方混在で存在してる気がするのは気のせいなのか。

そして聞こえてくる印象が異なる気がしている。

「しょって立つ」だと先頭に立って引っ張るという勢いを感じるところであり

「せおって立つ」だと責任の重さがより加味される勢いで

つまり「しょって立つ」にはトップランナー・第一人者とかのようなその世界を代表する看板というイメージが湧いて背中を見て後が育つというかついてくるみたいな。

「せおって立つ」には会社とか組織の期待を担ってのような肩にずしりとくる重みがまとわりつくイメージが湧く。後ろに扶養するものがあるみたいな。

それと「しょって立つ」だと背負う側からの視点という感じで「せおって立つ」だと傍から見てという視点に感じるところでもある。

使い分けなど存在しないのであろうが、時々テレビでこの言葉が使われたりするとその使い方のあれ?と思ってしまう自分がいる。

例えば「未来をしょってたつ将来有望な逸材」。こういう事なら違和感は感じないのであるが「プロジェクトをしょってたつメンバー」。まあ「しょって」じゃなくて「担って」を使う方がらしい表現ではあるのだろうけど「せおって」とした方が締まる感じがするのだけど。

「せおって立つ」は存在しない表現でおそらくは「担う」というのが正しい表現なんだろうけどそこはかとなくこういう使い分けがあってもいいんじゃないかと思えるところでもあるし「しょって立つ」の使い方が少し微妙に感じるところでもある哉。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*ちみる

血を見るとかいう意味ではない。滲みるの変でもない。

「ちみくる」(つねる)の「くる」表現でないもの。まあ滅多に使われないので想像の域を出ないのであるが。

実用としては「ちみくる」で使われているのでこれで十分なのであるが。元の言葉はなんだろうという事を考えていくと「ちみくる」・「ちみくらかす」・「ちみきる」の元は「つみる」か「つむる」なのだろうかな「つみくる」・「つむくる」という言い方もある訳だからと思える次第。

元は多分そうではあろうが、しかしなところ「つみる・つむる」だと「つねる」と同じ意味で「ちみくる」という言い方とは少し差異が生じる。「つみくる」は「指でつまみねじる」で「ちみくる」は「爪でつまみねじる」という使い分けがなされているので「ちみくる」の元の元は「つみる」で元は「ちみる」と段階を踏んだ方が合点がいく。

おそらくは「ちみくる」の正しい訳は「つねってひねる」というものであり、「ちみむ」が「つまむに」に限りなく近い「つねる」であろうかと。

もっとも辞書には

「つねる」(抓る)爪や指の先で膚を強くつまんでねじる。

古語辞典には「つむ」(抓む)①指先でつまむ。②つねる。

とあるので古語のニュアンスは近そうだけれど共通語のニュアンスとは離れたものであるが。

遠州弁のニュアンスだと「ちみる」(つねる)は微細なもの(部分・箇所)などを爪で挟むようにして引っ張り上げるというもの。ひねりとかねじりが含まれてる訳ではないので「ちみむ」には懲らしめ的なニュアンスはない。

つまり「つねる」の細分化として指で挟むのを「つみる」で爪で挟むのを「ちみる」。「つまむ」においては指でつまむのはそのまま「つまむ」であるが爪でつまむのを「ちみむ」というということで。

じゃあ爪ではなくピンセットとかの道具を使っての小さいものを挟む場合「ピンセットでちみんない」(ピンセットで挟みなさい)とか言うかとなるとこれも微妙ではあるがこれは有りそう。

「洗濯ばさみでちみくられた」とかいう表現はあるから辞書の「つねる」とは違って指や爪でと限った表現ではないから道具であっても「ちみむ」という言い方があっても不思議じゃない気がする。

「ちみくられた」には故意を感じるが「ちみられた」となると結果そうなったという過失っぽい印象を受ける場合もある。

意識の強さでいうと

「ちみる」<「ちみくる」=「ちみきる」<「ちみくりまわす」

という感じか。どれをとっても「はさむ」というものではないのでされた方は痛いだろうなとは思う範囲でのお話しかと。

「ちみられたら痛いじゃん。」

「ちみんで持てばいいじゃん。」もしくは「ちみって持てばいいじゃん。」

という様な使い方であろうか。先にも書いたが今は大抵「ちみくる」という言い方をして「ちみる」は滅多に使われる表現ではないので想像上で書いてる部分が多分にあるので自信がある訳ではないのであしからず。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*ふんぞりかえる

漢字をはめると「踏ん反り返る」となる共通語であり辞書によると

「ふんぞりかえる」①{いすにかけた人などが}威張って、胸を反らすようにする。②威張る。

とある。頻繁に使われるのと、こうした意味の他のニュアンスにても遠州では使うのが些細ながらも方言かということで記載。

その意味使いとは「偉そうにして」は威張るという部類に入るとしても「居座る」(あくまで態度が)・「開き直る」というもの。「鬼の首をとったような」とか「得意げ」というニュアンスがあるかどうかは微妙なところ。

似たような言い回しと較べてみると

「えらそうこいて」は「何様のつもり」だと勘違いしてるんじゃないよという否定の根拠を抱いてのむかっとした勢い。

「えばって」だと自分がさも正当性があるという相手の態度にいらっと来てる勢い。しかしながら気に障る側としてはそれを否定する根拠が弱いか何らかの事情で太刀打ちできない歯がゆさで苦々しく思って反論しにくいという事が多い。ちなみに「えばる」は辞書に「威張る」(いばる・えばる)とあったので方言の部類ではない。

生意気というニュアンスは「えらそうこいて」にも「えばって」にも含まれている。

「ふんぞりかえって」だと何を根拠にそんなえらそうなんだと理解に苦しむ状況か。多分にむっとする感情は控えめな状態である事が多い。「ふんぞりかえって」には生意気という要素はほぼない。

面と向かって「えらそうこいて」を使うとほぼ言い合いに発展するので陰口として使われる事が多い。「えばって」もそういった傾向にあるので面と向かって言う際には「えばりくさって」という言い回しに変えて発することがある。「えばりくさって」の方が「えばって」よりも和らげた言い回しということであろうか。

「ふんぞりかえって」は直で言っても言い合いになる確率は低い。おそらくはいつものあんたじゃないけどどうしたんだ?といったニュアンスが加味されてるからであろうか。

「かえる」を「かある」と変えたがる傾向のある遠州弁だが御多分に洩れず「ふんぞりかある」という言い方もする。ただし「ふんぞりかある」とすると「えらそうに」というニュアンス寄りになって喧嘩腰の物言いに聞こえる場合が生じる。

例文

「おい、これどけて。」

「見りゃ分かるらあ。どけれんて。」

  (見ればわかるだろう。どかせられない状況だって。)

「ふんぞりかえってなにゆってるよを。あんたの席あっちじゃん店広げるなら自分のとこでやんなやあ。」

  (なにしょうがないみたいな事言ってるの。あなたの席あっちじゃないの。場所使うんなら自分の席でやりなさいよ。)

「だで見りゃ分かるらあ。はあ自分とこ一杯だもんでこっちはみ出てるじゃんかあ。」

「あんたねえそんなの整理すりゃ済むこんだらあ。なに自分の不精棚上げてえらそうこいてるよを。」

注、ふんぞりかえってを発してる時点ではまだ多少穏やかであったが反論の言い分にカチンときてえらそうこいてという表現に変わったという図式。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*だ?

「どうせるだ?買うだ?買わんだ?」

この訳は「どうするの?買うの?買わないの?」となる。これが

「どうせるだ。買うだ買わんだあ うだうだと」

となるとその訳は「どうするんだ。買うだの買わないだのと決めあぐねて」とかいった風になる。

辞書を引くと

「だ」{助動詞・特殊型}その事柄を肯定出来るものと認める主体の判断を表わす。

という「だ」を疑問形にすることによって決意・決断を問うているという意味合いで使われる。従って訳すとしたら「のか」とするのが近いところであるし疑問の形であるなら「の?」とするのがはまるところ。「か?」としてもよいのだがはまる場合とはまらない場合がある。

これが遠州独特なのかどうかは定かではないが遠州ではよく使われることは確かである。

まあ疑問形としない「だ」にしても「のだ」・「だの」という風に訳さないと文章が繋がらない事も多いので遠州で使われている「だ」はこういったものの省略形であって必ずしも辞書にある「だ」と同じとは言い切れないところもあるが。

根拠無視でいえば「だ」=「の」としてしまえば楽ではある。

「だか」にしても「のか」で説明できるし。

例文

「やっべえ。忘れ物しちゃってえ。」

「どうするだ?取り帰るだ?」

  (どうすんだよ。取りに戻るのかよ。)

「どうせすかなあ。まあ戻るのめんどっちいでいいや。」

「でもどうするよを。無しじゃいれんら。」

「貸して?」

  (貸してくれるよね?)

「いやいやあ。」

  (冗談じゃない。)

注、「いやいやあ」は共通語の「いやいやご謙遜を」とかいう「いやいや」とは全くの別物。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*だい

あくまでこれは珍しい使い方という前置きで。

例えば「もう寝る事にするよ」というのを遠州弁で言うと

「はあ寝るだや」・「はあ寝るわ」・「はあ寝るでねえ」などと言う。

極稀に

「はあ寝るだい」

という言い方をする使い手がいる。これが遠州独特かというとそうでもないだろうが少なくとも共通語ではないだろうからということで記載。

「わしねぶくなったではあ寝るだい」(眠くなったのでもう寝る事にする)

自らの事を言う場合には宣言とまではいかないがそうする事にしたという決意を感じる効能が湧く。

この「だい」の使い所は共通語の「そうするんだい」と同じものであろうが、共通語と異なるのは共通語は「んだい」(のだい)となるのが遠州弁では「ん」(の)がないところにある。省略されたものなのか古い日本語がこうだったのかは分からない。

それともうひとつ別の意味使いとして他人に対して言う場合には「もう寝なよ」という軽い命令的なニュアンスで使われる事がある。例えばじじばばとかが子供を寝かしつける際

「こんな時間だであっちゃんはあ寝るだい」(こんな時間だからあっちゃんもう寝なよ)

といった具合に。厳密には「もう寝る時間だよ」というニュアンスなのであるが指示や命令を和らげて諭す効能がある。もちろんいくら諭すニュアンスといっても指示・命令の表現であるので目上の人に発して良い表現ではない。

尚、この「だい」は当然だが「寝る」に限ったものではない。

「だい」に近いのは「だや」であろうが「だや」が「~するよ・しなよ」と訳すとしたら「だい」は「することにした・しなさいな」と訳す勢いで和らいだ印象を与えるところがニュアンスとして違いがある。

例文

「おおもうこんな時間だや。あっちゃんはあ寝るだい。」

  (ああもうこんな時間かあ。あっちゃんもう寝る時間だよ。)

「まだねぶくないもん。」

  (まだ眠くないもの。)

「明日ちゃんと起きれんくても知らんにい。困るらあ。」

  (明日ちゃんと起きれないと困るでしょうに。)

「別にいいもん。」

「そんなことゆわすとを。じいじママに怒られちゃうもん。はあ寝ない。」

  (そんなこと言わないで。おじいちゃんママに怒られちゃうからもう寝よう。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*ゑ

普通はわ行で「わ・ゐ・う・ゑ・を」(WA・WI・WU・WE・WO)と一般的にされているけれどここではや行「や・い・ゆ・え・よ」(YA・YI・YU・YE・YO)の「え」の部分を「ゑ」として説明している「ゑ」。もしかしたら「ヱ」かもしれないが「ゑ」として話しを進める。

とにかく遠州弁での発音は「YE」。

ひらがなで別な表記を考えると「いぇ」であろうか。とにかく発音は共通語にはない発音であろうから地元民でしか理解できないところかもしれない。

この「ゑ」という字、勝手な勘繰りであるがじっと見てると

「ゐ」と「え」が合わさってできてるような気がしてくる。単なる目の錯覚か。

で、意味としてどういう風に使われているかというと

「ゑ~勘弁してくれやあ」(も~ホント勘弁してくれよ)。

「そうだのうゑ」(そうだよねえ)。この場合暗にそう思うだろ?という同意を求めているニュアンスになる。

注意点としては「そうだのえ」(そのとうりだ)というのと混同しやすいところで、こちらは「もっともだ」という強い同意を表わしている別物であること。

「どうするゑ」だと「(あなたは)どうするのかな」と問うている勢いで

「どうするえ」だと「どうするんだ」と問い詰めているに近い勢いになる。

ニュアンスで訳すと文章によってそれぞれ異なる「ゑ」であるがどれにも当てはまる訳を考えるとしたら「おい」か「なあ」であろうか。

これに「ゐ」を足して「ゐゑ」とすることによって強めの表現とすることができる。

「ゐゑ~なにやってるだあおんしゃあ」(やあもうなにやってんだよお前は)

「ゐ」はうんざり感を増す効能があるかのようである。(「ゐ」の発音はWIでもYIでもないので「い」が正しいのだが特異性を表現するためこの字をはめました。)

あくまで勝手な想像だが、「ゑ」という字が存在してたくらいだから古い日本語にはこういう言い方が方言としてではなく広い地域で使われていたのではなかろうかと思えてくる。それが何の因果か知らないが遠州では未だ後生大事に使われてるということのような気がしてくるのである。繰り返すが勝手な想像であって根拠はない。

実際の使い方としては「ゑ」よりも「ゑ~」・「ゑ~ぃ」となる事が多く、これが語調を整える為の長音化によるものなのか伸ばす(もしくは繰り返す)事によって異なるニュアンスを発生させているのかはよく分からない。

「ゑほんとかや」(おい、本当かよ)

「ゑ~ほんとかや」(お~い本当かよ)

「ゑ~ぃいい加減にせよやあ」(あのなあいい加減にしろよ)

とかいった違いは確かに有ろうが。

ちなみに現在も使われている「ゑ」・「ゑ~」・「ゑ~ぃ」であるが傾向としては「やい」・「やあ」・「やあい」に移り変わりつつあるように思える。

例文

「やあ○○切らしちゃってるじゃんかあ。ちゃっと買い行かんとかんじゃんかゑ。」

  (なんだよ○○切らしてるじゃないか。これじゃあすぐ買いに行かなきゃだよなあ。)

「ちゃっと行くだ?ほいじゃわしも一緒に行った方がいいだかゑ~。」

  (すぐ行くの?それじゃあおれも一緒に行く方がいいのかな。)

「行ってくれるだ?おお頼むわそうしてやあ。行ってくれるならわしここに居るで。」

「ゐゑ~なんでえ一緒に行くじゃないだ?」

  (え~!なんだよそれ。一緒に行くんじゃないの?)

「これっぱかのお使いつるんで行くほどのもんじゃありもしん。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*かや

「そうだかや」(そういうもんなのか)

「ちったあ残ってるだかや」(少しは残ってるんかい)

「だか」+「や」なのか「だ」+「かや」というものなのかよくは分からないところであるがおそらくは「そうだかや」は「だか」+「や」で「残ってるだかや」は「だ」+「かや」のような気がするので両方存在するような気がするところである。

「だ」+「かや」だと「かや」は呼びかけで「なのか」もしくは「のかな」とするのが違和感が少ない。

古語辞典における「かや」の説明では、疑問の終助詞「か」に詠嘆の終助詞「や」のついたもの。疑問の意味を表わす。反問の意味を表わす。とある。

「だか」+「や」だと「だか」(だろうか)と「や」(な)としとけば破綻が少ないか。

「や」は詠嘆の終助詞なんだろうかな。

この二つの違いは例えば「あるだかや」という場合

「ある」+「だ」+「かや」の場合はほぼ無いと思ってる度合いが強くというものと意に反してあるという使い方がある。「あるかな(ないだろな)」と「(なんだよまだ)あるのかい」。

「ある」+「だか」+「や」の場合はあると期待してる度合いが強い。「あるのかな」。紛らわしいので普通は「あるだかいや」という言い方をすることが多いのではあるが存在はしている。

ちなみに期待度が強い場合には「あるだらな」という言い方になる。より強いと「あるらなあ」。これらを発してもし期待に反してなかったりするとあだけるかちんぷりかあることになる。

「かや」で期待に反した場合は残念とか落胆ということになる事が多い。

例文

「おおさっぶい。」

「お疲れ。随分遅かったじゃんか。」

「おおそこで呼び止められちゃってさあ。ところで弁当。わしの分まだ残ってるだかや。」

「和食の方はあるけど洋食の方ははあないにい。」

「やあ随分だなあ。肉食いたかったなあやあ。」

  (ん~残念。肉食べたかったなあ。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2010年12月19日 - 2010年12月25日 | トップページ | 2011年1月2日 - 2011年1月8日 »