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*「よう」と「ふう」

「なんでそういう様な物の考え方なんだ?」。

「なんでそういう風な物の考え方なんだ?」。

こういった使い方の場合、遠州人はどちらかというと「風」を主に使う種族のような気がする。

流石になんでもかんでも「よう」より「ふう」ということで「見よう見まね」を「見ふう見まね」とか捻じ曲げて言う事はないが。

辞書には

「風」(生活上の)様式。

「様」{造語}どういう風・にするか(な状態であるか)を表わす。とある。

正直なんのこっちゃでよく分からない。説明もそうだが様が造語というのもあれまである。(これは昭和の辞書での説明である)

これがネットの辞書だと随分と趣が変わって細かい説明がどちらにもなされている。

大雑把に説明の意味を書くと

「風」方式・やり方。様式・状態・ふり。

「様」有り様・すがた・様子。やり方・方法。

(あくまで「様」は「よう」で調べたもので「さま」で調べたものではない)

やり方ということで手段・手法を指すということではどっちを選んでも同じということであろうか。様式という事で「風」には決まった・お決まりの・いつものといったパターン性が加味されるという部分が有るようにも思えるところである。

「やりたい風にやりゃいいじゃん」と「やりたいようにやりゃいいじゃん」だと

自分のお決まりのパターンでやればいいじゃないかというニュアンスでいいたいのなら「風」で

自分が思い描く形でやればいいじゃないかというニュアンスであれば「よう」を使うのが辞書の理屈と合うところではあるかな。

どっちが自分勝手ととられやすいかというと遠州では「よう」とした方がそう取られやすいところで、頑固・こだわり・融通が利かないといった勢いでなら「風」ということか。

他には「風に見える」だと「っぽく見える」。「ように見える」だと「みたいに見える」という感じでどちらがらしく見えるかといったら「ように見える」という言い方の方であろうか。それと「風」を「具合」に置き換えても成立するところでもある。

「そういった風に」=「そういった具合に」。

「風」との比較ではないが「様」は「方」という意味の使い方もするところである。

「他にやり方があるだろう」というのを「他にやりようあるらあ」といったふうに。

で、まあとにかくこのような違いが「ふう」と「よう」にはあるのであるが、遠州人は最初に述べたふうに「ふう」をの方を多く使う種族である、が、その理由は上記の説明では説明となっていない。

もしかしたらきちんと使い分けをしていて「ふう」が多用されるというのは勘違いしてるだけなのかもしれない。でも「という」を「つう」・「ちゅう」と言うのが遠州人であるがその際「つうよう」・「ちゅうよう」と言うよりも「つうふう」・「ちゅうふう」と発する方が言い易いと思えるのは確かである。

結論に決め手がなくえらい歯切れの悪い記事になってしまったがしょうがない。

ところでどっちが古くからある言葉なんだろう。

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SPEC・警視庁公安部公安第五課未詳事件特別対策係事件簿 その10

 いやあ面白かった。めちゃくちゃ面白かった。ここまでくるとオールクリアーよりもこれくらい期待持たせの美人局な謎残しくらいで終わるのが丁度いい感じ。

「一十一」を組み合わせると「王」となる。「1は2の前だから二の前(ニノマエ)と読む」。なるほど手の込んだネーミングである。しかしてその実態は当麻(戸田さん)の血を分けた弟とな。出遭いは不明だけどおそらくは地居(城田さん)にすべて植え付けられた記憶と従う振りして暗に操ってでここまでの一連の出来事をやらされていたということなんだろうな。

それから、そもそも瀬文(加瀬さん)の始まりの事件がなんで起きたんだろうという疑問が解けたのが大きかったな。きもい男の壮大な作り話しの題材というのはなるほどど。凄い余裕ぶっかましだこと。

その過激かつ過剰で不遜な自信が当麻によって崩されていく様が悦であったなも。ただしこれは津田(椎名さん)=地居ではないという仮定の上での話しだけれど。

ケイゾクの時は暗い昏いcryでどよよんとした終焉だったけど、地居のはしゃぎ振りが変な意味で明るくて、血まみれだったけどなんか爽快に終焉を迎えた感じ。もっともこれが終焉かどうかはいかがわしいが。

なにせ「癸」の回改め「起」の回となって、最後は「承」に続くのか?とかいう暗示を植え付けてるくらいだから。

それになんでしょうねケイゾクだって悪魔は体を入れ替えていってたみたいで、今回はその同じ悪魔が地居に乗り移ってたと勘繰れなくもなし。もしかしたら津田がホントの黒幕なのかもしれないし。なにかと妄想は膨らみますわな。

話し飛びますけど、記憶の操作ということで、てっきり当麻の左手の傷は地居が能力を使って当麻にそう思わせてただけで本当は無傷で動くものになるのかなと思っていたんですがそれはなかったみたいですねえ。最強の能力者を屠る為に当麻をぶつけたということであれ愛(ストーカー)する人が左手切断に相成るのをよしとするのは違和感が湧くところ。

まあ途中で好意に変わったということらしいので好意に変わる前にこれが起こってまったでホントだちかなんだっつうこんだかいねえ。

最強の能力者を屠らなくとも記憶操作して自分の弟にして兄に絶対服従とかいう事にさせてしまえば「早く逝ね」と喜ばなくても済んだんじゃないかと思えるのはど素人の考えかなもし。

そんなヲタはともかく、この回の見所は如何に「にのまえ」を封じるのかという手段と奪われた記憶の回復という二本立てであった訳ですが、どちらもなるほどという勢いで納得して愉しめました。記憶というものは頭だけに蓄積されてくものではないというフレーズは格好良かったでかんわ。

なんで嗤ったんだという謎は最後の特殊能力は誰が駆使したんだという事への伏線だったでありゃーしたか。とりあえず兄弟だし自分のスペックが覚醒しろと願ってた当麻なだけにあれは当麻のスペックだというのは十分ありうる話あろうと想像するところでゃーて。

これで話しがまだ転がるとしたら覚醒した当麻を津田が狙うという図式が勘繰られるぞなもし。ほうなってまったらどえりゃあてゃーへんだわ。

以上えせ名古屋弁まじりで失礼しました。

役者さんも印象深かったな。戸田さんと加瀬さんが特に。それにしてもひょうきんなもので兄弟だとなると戸田さんと神木さんそう見えてきてあら不思議であった。もちろん決める時は決める野々村係長(竜さん)がでんと控えてこそであるけれど。

ここまであえて書いてこなかったけど時間が止まる様は見応えあったな。

小ネタもギャグもキャラもよし。ストーリーの展開もそれを映す映像もこれまた愉しで文句を探す方がめんどくさいというよく出来たドラマだったなあ。

続があったら是非とも観たいな。なくてもこれでも十分満足というとこは「仁」とは偉い違いだ。

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黄金の豚 その9(最終話)

 この一連の出来事をする為に作られたドラマなんだろうな。これ以前のお話しはここに至るまでの道筋を作る為のお話し群だったんだろうかな。

最初(第一話の冒頭)っから一億焼くシーンが挿入されていたから多分そうなんだろうな。

昨日の敵は今日の友、今日の敵は昨日までの理解者というのも盛り上げる為の大きな要素だったんだろうな。

最後はほんわかする終わり方で久しぶりに観たハッピーエンド。なおかつここまで露骨なのは私の好み。

明るい明日の予感がするとこで終わって貰えると観てる方もなんか自分にも明るい明日がやってきそうな気がしてくる。

ムショでお勤めしてこれで晴れてお天道様が拝めるってえもんだ。多少生きてく上での過ちを犯しても性根さえ腐っていなければお天道様は照らしてくれると謳ってるようでもあり。ホント元気を貰えるところ哉。

でも臭い匂いは元(てっぺん)から断っても二の矢三の矢(総理候補)が次を待ってるだろうから一時的な快晴にも思えるところでもあるな。モグラたたきの繰り返しという風にも思えてしまうのは自分がひねくれてるせいなのか。

人情劇としては面白かったけど成敗ものとしては微妙だったかな。役者力で押し切ったという勢いが強くあり、面白いドラマではあったよな。同じメンバーで違うお話しのドラマが作られるなら観てみたい気もするところであります。

尚、その8は欠番ということで。

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*あれしつれいこいちゃうやあ

ニュアンスで訳すと「なんだよ随分だなあ」といったところであろうか。要は誤解や勘違い・見くびられてるとかいう事に対して馬鹿にするなよという意思を表している。感情的には怒りの要素はほとんど無い。

「あれ」はあれこれそれの「あれ」ではなく「あれ松虫が鳴いている」の「あれ」。「あれ」を訳すとこの場合「もう」というのが無難であろうか。「あれ」を「いや」に変えるとマジに憤慨してる事になる。

普通「失礼」は「する・される」ものであろうが「失礼」を「こく」と表現する。これが遠州弁独特なのかは定かではない。もちろん「あれ失礼しちゃうやあ」という言い方もする。「しちゃうやあ」は女性がよく使う言い回しである。ただし当然ニュアンスは異なって「無礼者」と言ってるようなむっとしてる勢いとなる。

「やあ」は「や」とはならない。他にはたまに「よ」・「よう」・「にい」・「でえ」を使う場合もある。これらを使うとよりマイルドな打消しになる。つまり「やあ」だとそんなことはないとおおよそ全面否定で「にい」・「でえ」だとそう言われてもしょうがないかと認めてる部分も多少あるように聞こえる。「よ」と「よう」についてはなんか客観的(人ごとみたいな)という趣が湧くところである。なので「おめえにゆってるだあ」(お前に言ってるのっ)などと言いたくなる事になる。

例文

「あれなによを。定時で帰るのが生甲斐の人がなんでまだ仕事してるよを。」

  (おやまあどうしたんだ?定時で帰るのが信条の人がまだ仕事してるぞ。)

「あれ失礼こいちゃうやあ。忙しけりゃそりゃやるさあ。」

  (そりゃ随分と誤解があるぞ。忙しければそりゃやるよ。)

「ほんとにけえ。なんかぼけかましたもんで後処理してるだけじゃないのけ?」

  (本当かなあ。なにかミスしたもんでその穴埋めしてるだけじゃないの?)

「なんで知ってるよを。」

  (何故それを知っている?)

「あれ、図星けえ?」

  (おや、図星かい。)

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医龍3 その10

 最終回は怒涛という表現が相応しい展開で流石医龍と喝采を上げるべきか。面白かったな。食い入るように観ちゃいましたよ。

早めに朝田(坂口さん)が墓前に手を合わせてるシーンがチラッと提示されたので誰か命が尽きるんだろうな。で、それは黒木(遠憲さん)なんだろうなと思ったらやっぱそうだった。

なんでそんなチラリのシーンを差し挟むんだろうといぶかしく思えたけど、いくらなんでも黒木死すのショックを和らげるためという事でもなからろうとは思えるのだがやはり事前の覚悟を促すみたいな意図なんだろうかな。でもやはりなんでだろとぞ映りにけりないたずらに。

朝田喪に付し 浜辺でなにせん。

若干話し変わるけど、最後のシーン朝田が浜辺でなんで呆然とした勢いに感じたのはそういうことなのかな。いくらなんでも怪我の後遺症が今頃現われたとか今まで無理してたけど緊張の糸が緩んでくらっときたとかいうことはないだろうし、さてこれからどうすべえやとかいう事でもないだろうから。やはり黒木を悼んでということでいいんだろうかな。

;それにしても黒木が主役とも思える勢いでもありましたな。終わってみれば伊集院(小池さん)を勧誘したのはチームドラゴンに風穴を開けるという勢力争いからではなく伊集院を見込んでの事だったという善意であったということで。良い奴ほど早死にするという教訓を改めて表現したドラマだったといえるのかもしれない。迫力あったな。

で、がんばれ野口(岸部さん)くん。毎シリーズ今の医療の問題点を象徴化したような権化として登場してきたけれど、このシリーズでは世を統べる権現さんになろうということだったのかしらむ。それとも海外の富裕層を取り込んで商売繁盛の恵比寿さんになろうとしたのか。もっとも暗躍してなんぼというとこが華というとこは終始一貫してるから神仏という方向ではなくむしろその逆で何かに魂を売った危ない人ということではあろうが。

ところで、本当に正直な感想を申さば、これが考え得るベストメンバーだということもあるまいにと。まだいるだろうと。大分想ってしまいました。前のシリーズで一人でも欠けたり遅れたりするものがいたらオペは成功出来ないとかいって人集めに注意が払われてたのに今回はそういう執拗さが薄かったかなと。

でもまあ加藤ちゃん(稲森さん)が復活したので2より見応えがあるように感じられたな。

医龍は朝田と加藤ちゃんがコンビ組んでこそ面白いと私は思っているに相違ない。当然だけど次があるなら当然観る。

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*方言における老人語というものについて

単純に言えば年寄りが使う言葉ということであろうが。共通語に関してはいざ知らずこと方言に関しては「老人」が発する言葉というのは

次世代に受け継がれる事なく廃れ逝く言葉なのか

廃れはしないがその年齢に達しなければ発しない言葉なのか

方言の基本を伝える為に受け継がれるべき言葉なのかで随分と趣が違うものである。

方言を扱うとよくというか大抵「そんな言葉最近の人は使わないよ」というフレーズが必然的に出てくる。

そういう齢にならなければ使わないというのならご意見ごもっともで年寄りではない人からみれば実生活に即していないという事であるが、方言の伝承というものと消えゆく言葉といったものであるとしたなら過去の歴史としてもしくは未来へに引き継ぎとして伝え残すが道理で今は使っていないもしくはもう使われてないからといって割愛する(紹介しない)というのはなんだかなあであろう。

具体的に挙げる言葉がそのいずれなのかは私では分からない事が多い。なので当初の思惑通り思いついたものをとりあえず挙げ連ねていくという姿勢を維持していくつもりであり判断は読み手に預けるという人任せに徹しよう。

それと、やはり方言の継承パターンとしては、孫がじじばばの影響を受け年頃になると一旦姿を消し、中年と呼ばれるようになって回帰して、自身がじじばばと呼ばれるようになってまた孫に伝わっていくというのが主流であろう。回帰してく段階で生活していて使われなくなった道具やそれにまつわる言葉や出来事が淘汰されて消えゆく言葉が発生していくのであろう。

そういうローテーションを考えると方言に関しては孫が駆使する言葉はじじばばの言葉であり死語は存在しても老人語(老人しか使わない語)なんて分類そのものが不必要であるようにも思えてくるというのは間違った考えなのであろうか。

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*のっける

「のせる」と言っている。

特に説明が要る訳でもなかろうが、こういう些細な標準語からはみ出た共通語句の集合体が遠州弁の一面なのかもしれない。

「のりかかる」が「のっかる」となるので、「のりかける」が変化して「のっける」となったとも勘繰られるところでもある。ただし、「のりかかる」は「のっかる」じゃなくて「のっかかる」だろうと詰められると窮すところであるが。

でもまあ半ば強引に「のりかかる」を「のっかる」ということにすればそれによって「のっける」・「のっかる」と近い言葉になる効能があるように感じられる。「のる」が「のっかる」だろうという案も否定できないが。

変化としては「のっけす」(のせようと)・「のっからす」(のろうかと)・「のっけん」(のせない)・「のっからん」(のらない)などといった共通性が生じてくる。

例文

「これ以上のっけると危ないにい。」

  (これ以上載せると危ないよ。)

「まあちっといいらあ。のっけてみいに。」

  (もう少しいいだろう。載せてみなよ。)

「もうのっからんて。やめときない。」

  (もう無理だって。やめときなって。)

「のっけす気いないもんでのっからんく思うだに。ええでのっけよを。」

  (載せようという気がないから載らないと思うんだよ。いいから載せろよ。)

・・・・・

「ほれみっせえ。やっぱのっかりもしん。」

  (ほらあ、やっぱ載らなかったじゃないかあ。)

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フリーター、家を買う。 その9

次週最終回とな。このままの勢いだとフリーターやりがてらの家購入は無理っぽいけどとんでもない逆転劇でも起こすのかな。

それにしても面接日に限ってというパターンが続きますなあ。

それでもまたかよって気持ちにならないとこは出来た人だ。

悪徳霊感商法?にはまっても騙されたという怒りよりきっぱりと縁を切る方を選ぶというのは争を好まず和を以て貴しとする事の表れか。

いじめばばあにも一分の理あるを聞きて憤らずという様は何かを悟ったかのようでもある。「するな」というのではなく「されても負けない」なんて凡人じゃ言えませんわな。

いづれにも被害者意識を持たないという考えに至るところが自分とは大きく違うところではあるな。

来週最終回ということでこの先どうなるんだろうという思いを巡らすことはせず、今やり残されてる事を考えてみると

引っ越しはするのか。姉貴(井川さん)と姑との確執はどうなるのか。誠治(二宮さん)と真奈美(香理奈さん)の関係はどうなるのか。就職はどうなるのか。お母さん(浅野さん)は回復するのか。おやじ(竹中さん)との関係はこのままなのか。くらいでしょうかね。

これらをどう捌くのかが最終回の見所として観ますです。

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ギルティ 悪魔と契約した女 その10

 ギルティはママの味。ってどこがじゃい。んなもの微塵もありゃしない。

温もりがないからさびしい。

まあホントはギルティは儘よな味って書こうと思っての変換違いだったんだけど。ママの味も真逆で面白いかなと。

それはさておき随分なもじりではあるが「ギルティは儘の味」。

「儘」(まま)・成り行きに任せる事。その通りになる事。その状態を変えない事。と辞書にある。

黒幕も現れて凄惨な清算も佳境を迎えつつあるこの回。下っ端の汚物処理係を屠りいよいよ最終回はその黒幕へということで。

野上芽衣子(菅野さん)の執念が変わる事無く臨機応変に成り行きに任せつつ初志貫徹の通りにしつつある。つまり「儘」よ。ということで。

真島(玉木さん)が割って入ってもぶれそうでぶれない危なっかしさもあるけれどよくぞここまでという感慨が湧きますなあ。

最終回はどうなるんだろ。何を観たいのかとかは特に浮かんでこないけど顛末がとにかく気になりますな。

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*「だがや」と「だかや」

「そうだがや」だと「そうなのだ」と訳がバ○ボンのパパ風味に聞こえてしまうのできちんと訳すと「そうであろうや」辺りになるのであろうか。名古屋の言い回しである。

遠州弁はというとこういう言い方は皆無ではなかろうが殆どしない。遠州弁ではないのでいつも以上の憶測であるが共通語の「しかし」といった意味の「だが」と名古屋弁の「だ」+「がや」の違いさえ理解すれば左程混乱することはないのであろう。

遠州での言い方としたら「そうでえの」・「そうだあな」・「そうだあれ」辺りであろうか。

「そうだかや」は「そうなのかな?」硬めに訳すと「そうであろうか」辺りか。これは遠州弁として使われている。名古屋でこういうニュアンスとした言い方をするのかは不明。

「そうだかや」→「そうだかな」→「そうなのかな」という流れであろうか。実際のところはもっと複雑でニュアンス通りの共通語が見つからない。

たとえば「なにゐゑ、わしやるだかや」だと「なんだよ俺がやるのかよ」

「やっぱわしんやるだかや」では「「やっぱり俺がやるのかなあ」とかになる。

つまり「や」もしくは「かや」のニュアンスが一通りではないということであろう。

これが「だか」であれば「のか」と訳してざらつき感はなく

「なに?わしやるだか?」で「なに?俺がやるのか?」

「あ~やっぱわしんやるだか」だと「あ~やっぱり俺がやるのか」

「や」もしくは「かや」に関してはまた別の記事で表わすとして

「そうだかや」と「そうだがや」。似てそうで全く違う意味。ほぼ単なる語呂遊びの領域に入る比較である。

ちなみに「だがや」は遠州弁では「だあれ」、「だがね」は「だいね」とかが同じようなニュアンスの言葉ということになろうか。

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流れ星 その9

 まず始めに勝手に空想してた展開をば。ここに至るまでの状態を事情を知らない野次馬的視点で見れば確かに臓器売買が行われたということになろうか。これをもしパーフェクト・リポートの面々が「臓器売買の実情」とかいうネタで追う事になったら蒼山は健吾達にどう訊いてくるんだろうどういう切り口で報道するんだろう。なんて妄想がふと浮かんでしまいました。まあ想像するにいくら蒼山がであろうともマスコミの餌にされてこの家族ボロボロになるだけだろうけど。

皆が暗黙の了解に近いような静々と事が行われてきたからこそここまで至ったんだろうけど、ひとりそうでない人間が綻びを招いたということだろうか。それでもいくらなんでもマスコミが通った後には踏み跡しか残らないみたいな状況を提示したりはしないんだろうな。テレビドラマだから。

なんて先週マスコミ登場という事でかく空想していたんですがメディアは異なれど想像してた方向に向かって意外。仕事は辞めるは兄貴(稲垣さん)にはつきまとわれるわ記者には嘘つくわ離婚届は提出するわ警察に出頭せんとするわで散々ですなあ。これだけ揃うと「転落」という表現が当てはまる。

しかしなによりこの状況じゃあ命を救って貰った当人が申し訳ないという気分に満ちてどうみても将来ずうっと引け目・負い目を背負いつつ生きていかなければならない肩身の狭さを味わうんじゃないのかと。執刀医は辞め兄も仕事を辞め世間に晒し者にされる。それが全て自分が原因という状態でどう晴れやかに人生を謳歌せよというのであろうかと。

でもドラマでの流れは健吾(竹野内さん)がマリア(北乃さん)に因果を含めた話しをしてそれにマリアは同意して晴れやかではないにしても笑顔をみせた。一体健吾はどう話しをしたのか。

その答えは、最大の難関を越える為に最早敵とも呼べる相手の意表を突く自爆テロまがいの行動。全ては梨沙の為にということらしいがこれがなんで梨沙の為になるんだろうというのが謎ですなあ。。

それにしてもこの展開は意外を通り越して驚きですらありましたな。余程瀬戸際に追い込まれていたということなんでしょうかね。

いくら敵とは申せ命を奪うとかいう短絡思考に走らないところは理性の象徴ということか。悲観して自ら命を絶つとかいう事をしないのは勇気なんでしょうかね。

善人や誠実は損するように世の中というものは出来ている。

そういう状況をどう打破していくかというのが最終回の見所なのだろうけど、どう展開していくのか妄想すら浮かばない。

これは来週観るしかないということか。

ふと思ったのはこれが対個人ではなく対組織であったとしたら健吾はどうしたんだろう。と思ってしまいました。

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*ほいでもねえ

大雑把に訳すとなると「ほいでもねえ」→「ほんでもねえ」→「そんでもねえ」→「それでもねえ」という流れになるだろうか。遠州弁独特という訳でもなかろうが日常よく使われる言い回しであることは確かであろう。

しかしながら「ほいでもねえ」と「ほんでもねえ」とではそのニュアンスが異なる。必ずしもこうなるというものではないが一例としてのニュアンスの違いを挙げると

「ほいでもねえあんた」(そうだけどねえあなた)もしくは(そうはいってもねえ)

取り方は二通りあって、まずはやんわりと(訊いてるふり)ではあるが実のところは訊く耳持たない風な突き放し。きつくな場合は「しいらんやあ」とかが使われる。

もうひとつには歯に物が挟まったような納得してない感が漂う。悟らせるというか自分で気づかせようとあえて明確に言わないという場合にも用いられる。

どちらも一度発言を飲み込んでから発するような印象は与える。

「ほんでもねえあんた」(そうはいうけどねえあなた)

否定・打消しという勢いではないがきっぱりと反論はしている勢いとなる。人の話しを聞きなさいよというニュアンスも多分に加味されている。より強力にしたいなら「なにゆってるよを」。

こちらも話しは一応聞いているが場合によっては発言を飲み込むことなく発する場合がある。

相手の話しの腰を折って発する場合には「ほんでも」という事が多く「ほいでも」の場合は相手の発言は最後まで聞いてからという事が多い。

なお、うちの集落では基本「ほい」は女性言葉である。他の言い方は

「ほいだってねえ」・「ほんだってねえ」。「だ」を「た」とする場合もある。

男表現にしたい場合には

「そんでもやあ」・「そんでもなあ」・「つったってやあ」・「ほんだってなあ」

とかになろうか。どれも色々バリエーションがあるのであくまで一部であってこれだけではない。

ちなみに「そいでもねえ」という言い方は聞いたことがないので存在しないと思われる。

例文

「じゃあわしんこれとこれ持つであんたそっちの方頼むにい。」

  (じゃあ私がこれとこれを持つからあなたはそっちの方をお願いね。)

「ほんでもねえ。わしじゃこれまるさら持ちおせんよを。」

  (頼むって言われても私これを全部なんて持ちきれないよ。)

「なにも一辺でなくても分けて持ちゃあいいじゃん。」

  (なにも一度に全部でなくても分けて持つようにすればいいじゃないの。)

「え~めんどくさい。一度で済ませたいやあ。」

「ほいだって持ってかにゃしょんないだでやるしかありもしん。なんだったら替えるけ?」

  (そんなこと言っても持っていかなきゃしょうがないんだからやるしかないでしょう。なんだったら持つのを交換してみる?)

「いやそれは勘弁。」

「だらあ?だでぶ~たれてんでちゃっちゃとやるかあ。」

  (でしょう?だから文句言ってないでさっさとやろうよ。)

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獣医ドリトル その8

 宇宙○艦「ヤ○ト」じゃないけれど、あすか(井上さん)の借金返済まであと何円っていうテロップ流れないのかな。

ま、出遭いの導入の際の動機なだけで大した意味をなすものではないけれど。

で、来週最終回の前の回ということで。花菱先生(成宮さん)の低迷はこれで底を突いたのかな。潮が引くように散ってく群衆の残酷さを久方振りに観たような感じでありましたな。おお怖い。こっからどうやって再起を図るのか興味が湧くところです。普通のパターンなら寵児と呼ばれるようになったお人だとこれでぽしゃって終わりでしょうから。

で、女優さんと猫。とても野良猫とは思えない高級感を感じつつもお話しは進んでいったのでありますが飼い主とペット共に病持ちで未来が見えないとなったらどうするかというお話しでありました。こういう状況で安楽死という選択肢が存在するなんて初耳でしたな。秀吉の「秀頼を頼む」じゃないけど自分が尽きた後は誰かに後事を託すというのが普通の選択かと思えるのですが、女優という職業はかくも孤独な商売ということなんでしょうかねえ。んなわきゃないかあ。でも普通の職種の人が同じように安楽死を依頼してきても誰か頼める人いないの?とまず問われるよなあ。

で、来週最終回とな。感覚で物申すならば土門(國村さん)の野望の結末・富沢教授(石坂さん)との確執の行方、花菱先生の新たな方向性、あすかの将来、土門家のお家騒動の顛末などなど締めなくてはいけない出来事が満載であり。しかも瀕死の動物を救えるのかという本業の方の結果と安楽死の予兆も気になるうえにドリトル(小栗さん)自身海外へ一年という決断も加わるというよもやのあすか放置プレーかという波乱もありということで。

これを一話で全部クリアにすることが出来るんだろかという余計なお世話な気になりますな。まあ、描ききれなくてパートⅡに続くというパターンでもこのドラマならアリというか許容範囲内ではある哉。

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*遠州弁で一句

「師走だに なんでいるよを 嗚呼五月蠅っ ぷーんとがんこに 蚊あ飛びくさる」

十二月というのにどうして居るのだああうるさい。嫌な音出して沢山蚊が飛び周る

今年はいつにも増して異常気象だな。12月にもなって蚊がブンブンというのは記憶がないぞ。

店屋に行っても今更蚊取り線香が店頭に並んでいる筈もなく、なんとかこの夏の残り物で蚊を除けている今日この頃。

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*「の」抜き

共通語だと「春だというのに」

遠州弁では「春だというに」・「春だっつうに」

共通語だと「買いに行くのに便利」

遠州弁では「買い行くに楽」・「買いい行くに楽」

といった風に「の」を抜いた言い方をするのが遠州弁である。以前にも書いた「ら」抜きが遠州弁の特徴であるように、「の」抜きも特徴のひとつであろうか。もっとも「行くが男のど根性」とか「するが堪忍」とかいう全国的なフレーズもあるくらいだし、「親を早くに亡くし」みたいな使い方もあるから遠州弁だと言い切れる訳ではないがその傾向が顕著というところが特徴であることは確かであろう。

では「の」を抜かずに言った場合どういう風に遠州人には聞こえるかというと

大袈裟ではあるが「のに」というのはどことなく言い訳っぽく聞こえる。「言えばやったのに」みたいな。

「やるに便利」と「やるのに便利」とでは言い切り具合が違うという印象を持つものである。

印象ではなく意味的にはどうかということで共通語の「のに」は辞書をひくとふたつあった

A「のに」{接続助詞}やむを得ず・(意外にも)後件に述べる事柄が事実であることを表わす。(終助詞的にも用いられる。「よせばいいのに」・「金もないのに贅沢をする」

B「のに」①(ことの)ために「旅行するのに必要な物」②(の)ものに「君のにしよう」

とあった。どちらに対しても「の」抜きするのであるが、印象の元はAに因るものであろうか。

では「の」とはなんぞやということになると

「の」{格助詞}③上の語を体言として扱う事をあらわす。「来るのが遅い」・「安いのがいい」。

⑤まで説明があったがここでの「の」は上記の説明のものであろうと思われる。例文を遠州弁では「来るに遅い」・「安いがいい」といった風になる。

「の」抜きは「のに」に限ったことではなく「のが」・「ので」などでも起きる。完全に省略される場合もあれば撥音便化となる場合もある。

「そうせるのんいっちゃんいいって」(そうするのが一番いいって)

「先行くで出る時玄関かっといてよ」(先に行くので出る時には玄関の戸締りしといてよ))

他にも「の」を「だ」に変えるという言い方も存在する。

「先行くだで出る時玄関かっといてよ」

ただし解釈としては「だで」=「「から」という事にもなるので別種であるともいえなくはないところではあるが。

例文

「あれえ珍しいじゃん先いるじゃん」

  (おやこれは珍しい事に先に来てるじゃないの。)

「遅いじゃん。あんた何やってたよを。」

「いっつもあんた来るに遅いもんで早めに時間ゆっといただよ。たまにゃあ時間守るだねえ。」

「馬鹿にしてんの?」

「事実をゆってるじゃん。」

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