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この映画を観たいなと思わせる番組

 自分は映画だったらとにかくなんでも観たいぞ観るぞという意欲は持ち合わせておらず、映画館に行こう行きたいという気になる映画と行かなくとも別に困らないものとが当然ある訳で。

じゃあその選別はどうやっているかというと。選択基準はいくつかある訳で

*監督。

どちらかというと監督のファンになるタイプなのでお気に入りの監督が作ったものであれば無条件で観に行く。

この場合正直余計な事前知識は入ってきて欲しくない。さらの状態でいたいので情報は求めない。なのでこういう作品紹介の場合には舞台挨拶とかみたいな差し障りのない行事の模様を映しだす程度のものが一番ありがたい。見なきゃいいじゃないかと言われればそれまでだけど。

*原作。

最近は本を読まなくなったのでこれに惹かれて善光寺というパターンはなくなった。なので原作とどう違うのか原作の雰囲気はありやなしやとかいう比較を説明されてもう~んである。

*役者

実は密かに応援をしていても出演してるなら無条件でその作品観に行きますわということはなく、作品自体に興味をそそるかどうかで判断しているので正直影響はないな。

ただし役者さんの心意気が映し出されるのは役者贔屓という側面からすれば最も見たい部分ではあるので深夜にやるナビゲーション番組は裏側やインタビュー満載で見応えあるから役者贔屓としてはありがたい限りの内容で一番嬉しい。けどやはり映画館行くか行かないかの判断基準にはならないのもまた事実。

*テレビで情報を得て。

世間では口コミが大きな決め手ともてはやされているけれど自分は逆に人が群がるなら遠慮したくなる天邪鬼なのでむしろ逆効果。

雑誌とかの情報、特にキネマ旬報辺りだと作り手の意欲がビンビン伝わってくるけどその分引っ張られてしまってその言に当てはめて観てしまうからどうしても自分なりの感想がひねりだせない事が多い。だから観終えてから読むようにして自分の感想と作り手の意思のギャップを愉しむみたいな事してるので観るかどうかのガイド本という使い方はしていない。

その点テレビは放っておいても勝手に入ってくる情報なので避けようとしてもせんないことだし結構有益であったりするので一番重宝してる判断基準となっている。

自分が繁く観るのはめざましテレビ・王様のブランチ・深夜にやってる作品ごとのメイキング模様やインタビューを織り交ぜたナビゲーション特番。

この中で一番全くそれまで意欲なかったけどこれ見たら観たいと思うようになったという影響力を持つのが

「王様のブランチ第2部」のDVD情報。なんとかアワードとかいう冗句まじりの冠を付して紹介してるものはパス&スルーしてるけど特集と銘打たれて紹介されるものについては感化される事が多い。DVDという2次使用ということもあるのかじっくりと本編の映像を見せてくれるのがいいのかな。作品のパワーが窺い知れて自分にとって観たいという気分にさせるものとそうでもないものとの取捨選別が出来る。ここまでじっくりと紹介してくれないと判断出来ないんですわ。結構これ見たから紹介されたDVDを観たって作品多いです実際。なんで今一番信頼してるかな。

深夜にやるその映画独自の単発ナビゲーション番組は、裏側潜入という手法と作り手の思いを語るという二つのパターンが主流だけど、時として映画館で観てからこれ見た方がいいんじゃない?って思えるくらい引っ張られるんで厳しいな。たまあにお笑いと呼ばれるタレントさんが面白おかしく紹介してるというパターンもあるけど「映画はお祭りだ」という観点からすれば間違っていないけど興味が湧くことはないな。自分にとって映画はお祭りじゃないってことか。

めざましテレビは軽部さんととくダネの笠井さんは淀川さんの流れを汲んで絶対けなさないという姿勢に非常に好感が持てるのだけれど如何せん短すぎで選定の基準にならない。

王様のブランチ第1部でのLilikoさんほどにの尺の長さと選別肢の権限が与えられてたらいいのになと。男おばさんはそうらしいけど見れない環境なんで。いっそのこと男おばさんダイジェストをめざましかとくダネで流して欲しい気すらする。

つまるところ自分はご都合主義で映画情報はかくあらねばならぬとかいう信念は持ち合わせておらず役者さんへの興味が第一の場合は滅多に見れないところにカメラが入るというのが好物で、観る気もなかったものを観る気にさせるという事であるならばじっくり本編を提示するものがありがたい。

いいものは何度見てもいいものなのだからダイジェストにしてもじっくり感がなければその空気感を感じられないだけに大方の紹介コーナーは皆駆け足過ぎてそそられないっていうのが正直な実感かしらん。内容に対してというよりも役者さんを追跡してるという図式が主流のような気がするけど映画館行くかどうかの判断基準とするとなると微妙だよなあ。

まあ映画の表現ってのは言葉で表せないものを映像で表す訳だからいくら紹介が雄弁でも伝わってこないというのはありますけどね。説明じゃなく「これいい」という感情論で言う方が伝わるものだからモロ感情100%の口コミというものが重宝されるんでしょうねきっと。でもその割にはテレビに映し出される観終わった人に感想求めて良かったですとか感動しましたっていう映像には心が動かないのはどうしてなんでしょうね。いつもこいう提示必要なのかなと思って見てます。口コミって損得抜きのものであって番宣やCmの中に組み込まれると片棒担ぎとなって最早ボランティアじゃなくなるからなんでしょうかねえ。

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うぬぼれ刑事 その5

 軽妙洒脱というのはまさにこの事なのかな。作り上げられた(練り上げられた)テンポと間はアドリブでは捻り出せないお芝居ならではの世界なんだろうかな。あまり鑑賞経験値は有してないけど舞台のお芝居観てるみたいな感じ。

落語家さんの語りの世界みたいに全員が統一されたような同一感で覆われているって勢いでしょうかね。

唯一それに従わないのが惚れた相手、つまり犯人というシンプルさ。つまり浮いた空気感をまき散らすという構図が分かりやすい。異物だから故の浮いた感ということか。

あ、でも葉造(西田さん)も染まってないなこの世界観に。混ざらない効能はというと重鎮感を醸し出すところか。そう思える程同じ方向向いた浮かれポンチの集まりだもんなみんな。でもというかだからこそ恋の成就は夢のまた夢であってもみんな倖せそうに楽しく生きてる風に映る。そこが微笑ましい限りであるところか。

あさましき男達とさまざまな女という区分でないところを表す意味でのママ(森下さん)の存在も効いてるよなあ。あと名前知らないけど婦警さん。性別に関わりあいなく皆打ち揃ってこの世界観に染まってる。

そういう異物に反応するうぬぼれ(長瀬さん)ですが、もし万が一成就したりなばそっち側に染まっていくんでしょうかねえ。押しの手立てを観てる限りじゃそんな器用には到底思えないだけに里恵(中島さん)しかお似合いに映らないけど意識的には仲間を捨ててでも染まる努力をしそうな無駄を感じるところですな。

それにしても今回のマドンナ役の薬師丸さん。うめえなあ。本職は舞台の上での役者さんなんでしょうかねえ。独白のシーンはオーラ出てたなあ一人芝居って感じの。

でもそう考えてくとゲストのマドンナ役の方はお芝居が大変そうですなあ。如何に周りに合わせていくかではなく染まらずに自分らしさな演技していくかを問われてるみたいで。

この回にお気に入りは佳境に入らんとする時の「おかみさん焼うどん」とのたもうた際の車中で聞き耳を立ててたお二人の落胆の姿がツボでした。

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いつまでもあると思うな親のすね

あくまで言葉遊びです。冗句です。

「いつまでもあると思うな親のすね」。

普通だったらその意味はいつまでも親に面倒見てもらえる訳ではないのだから早く自立しなさいという教えであるのだが。

「いつまでもあると思うな親のすね」 読み手 ひきこもり

となるとその意は、「親は一生子供の面倒をみるものだろう。だからたとえ死んでも子供が困らない分は残すのが親として当然だろうから多分生きてけるだろうこのままずっと。」と読むことになる。依存度の高い楽観主義な印象を受ける。

今は親の方も「子は鎹」(こはかすがい)じゃなく「子はカスがいい」だからこう(理想通り)いう風(いくになっても手間のかかる子供は可愛い)になるんだろうかな。

そういう甘えた考えを打ち砕かせるような名言はないものか。思い浮かばないな。

実際は「そうは問屋も金次第」ってか。働かなくとも生きていけるんだからそりゃ確かに満悦なんだろな。幸せとは程遠いとは思うが。

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熱海の捜査官 その2

 このドラマって地道に見応えがあるなあ。普通ドラマ観た感想書くのに一度は必ず見直しするんですが、感想書いたらそれで終いというのが殆どな中、このドラマの第一話は感想書いた後も数度観直して愉しんでしまいました。つまり惹かれるものがあるぞと。

その理由は色々あろうがまずはその映像かな。まるで映画を観てるかのようなカメラワークに思えるのは気のせいか。ことにのお気に入りは人造ヤシの葉(木)が車のフロントガラスに映る走行シーンだな。合成だったら陳腐だろうけど実写だろうなと。こういう注意していないとあっさり通り過ぎてしまうような日常の範囲での「あ、綺麗」というのが散りばめられていて見応えありまんがな。

ゴーギャンからどぎゃんへの連想シーンは重厚だったなあのどぎゃんさえなければ。

音楽とのマッチングも妙だよな。奇をてらわず煽るを一義とするみたいな映像の後押しって感じで一体感があるなあと

まあ実のところはよく分かっていないんですけどとにかく惹かれます。

で、第2話。なんで南熱海なんだろうというべきかなんで東京じゃないんだろうというのが分かってきたような気がしてきました。このあやかし加減は場末が相応しいよなあ確かにと。

陶芸教室のあやかし。手品演芸場?とその錆びついた繁華街のあやかし。黒魔術が効かないとお嘆きのあやかし。人々もそれぞれなにかどこかで繋がっているあやかし。叩けば埃の出る体ばかりってか。いくらなんでも全部が捜査を邪魔するまやかしってことはないだろうないくらなんでも。

まあとにもかくにも人間関係の疎遠な都会じゃあこの空気感は出せないよなあ。同じ場末でもこちらは逃げ場がないって感じで根無し草(所詮他人事)な感じがしない。誰もが関わっていそう。

事件の全貌が見えてこない今のところは、その事件が起こった場所と人の不気味さを愛でるが肝要であるとすれば雰囲気たっぷりで愉しいなあ。包帯をとって素顔を見せるところとかカセットの中身は?といった謎をもったいぶって明かしてくとこは王道ともいえるんかしらん。そういった手管がというかそこだけが超ミステリー調。

ところで気になるのは3年が経過してるという事。学業に復帰してたけど入学式の準備の日に失踪から3年だとするともう卒業じゃね?と。どうでもいいことなんでしょうかねえ。中学から高校という連なりなんだから成り立つにしても空白期間を考えると留年とならないのはご愛嬌というべきか。

どうでもいい事ついでに言えば提供が出てた際の魚を抱いてちょいと記念写真風な画において星崎(オダギリさん)の後姿が窓に映っていたけど角度からして違和感を感じたのは気のせいなのかしらん。通り過ぎた北島(栗山さん)の姿なんか殆ど映ってなかったし。

まあこういう気のせいなのも含めて小ネタ追っかけてたら夜が明けちまわあ。

そういう小ネタは見直しの際のお楽しみとしても展開だけでもこれはとにかくこの時期のドラマの中でぴかいちなのかもしれない。それに役者力が加わってるんだから鬼に金棒ってか。

三木ワールドの世界の住人オンパレードの中で平坂(萩原さん)だけが普通で逆に浮いてるというのは不思議だよなあ。

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*わ・わい

辞書には「わ」は女性語で自分の主張(判断)などを相手に納得させたり自分で確認したりする気持ちを表わす。「知らないわ・存じませんわ」。何かに感動した気持ちを表わす。「まあ綺麗だわ」。驚き呆れる気持ちを表わす。「雨は降るわ家には入れんわでもう大変」。みたいな例が書かれてあったが、遠州弁の「わ」はそれらには当てはまらない男女共用の表現である。

だがそれを説明するとなるとはたと困る次第で。

「それくらい出来るわい」

「それくらい出来るわ!」

「それくらい出来るわあ」

「それくらい出来るに」(それくらい出来るよ)

「それくらい出来るにい」(それくらい出来るよう)

「それくらい出来るら」(それくらいは出来るだろ?)

「それくらい出来るらあ」(それくらいは出来るだろう)

「それくらい出来るもんで」(それくらい出来るので)

「それくらい出来るたあ」(それくらい出来るとは)

「それくらい出来るでえ」(それくらい出来るから)

といった具合で他は訳せるが「わ・わい・わあ」」は訳すに困る。

これらに「だ」をつけるとややこしくなるので省くが「だわい」・「だわ」とかもある。

「そうだわい」・「わしの知ったこっちゃないだわ」みたいな。

ネットの辞書では、「わい」終助詞「わ」+終助詞「い」、活用語の終止形に付く。感動・詠嘆の意を表す。「ちと飲みすぎた―」「見てはおられん―」

い〔終助〕「わい」は現在では主に高齢の男性に用いられる。の二種類となっている。

遠州では「だわい」はじいさが使うと限定されることが多いが「わい」に関しては

「やってられんわい」くらいは誰でも使っている。

「わ」については、念を押したり相手に呼びかけしたりする意を表わす。とある。

で、古語辞典では、「わ」終助詞、感動の意を表わす。・・・・・よ。

「わい」終助詞、感動の意を表わす。・・・・・よ。とあった。

つまり、古語辞典の「わ・わい」が一番ニュアンスとしては遠州弁は近いのでそれぞれ強弱のついた「よ」ということにすればいいのであろうか。

だとすると「にい」と被るな。でも実際のところそのニュアンスとしては被ることはない。あまりに微妙な違い過ぎて説明しようがないんだろうか。まあ想像だけどおそらくは遠州弁の中でも「わ・わい」は古い言い回しで今は「にい」が取って代わっているということなのかしらん。

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GOLD その5

 こういう形で完全無欠に見える人間の弱点を露呈させると、いくらリカちゃん人間(長澤さん)がご陽気に盛り上げても暗ぼったい方向へとドラマはその舵を取っていくようで。

所詮世の中薄氷を踏むが如き綱渡りなもので、何一つ曇りのない想定通り進む圧倒的な勝利なんかあり得ない筈だ。

そう思えるだけに勝てない強敵が現われたというだけで命を粗末にするというのはなんだかなあと思えてくるけど、マラソンの円谷選手という歴史的事実があるだけに勝てない相手の出現が直接的な自殺の理由とかでなく周りのプレッシャーが最大の要因なんだろうなということで自殺を選択するという行為は決して絵空事ではないところでありますが。

悠里(天海さん)のその動転振りは迷走というより韜晦がばれたって勢いでありましたなあ。それとともに徐々に化けの皮がはげ落ちてきつつあるようにも見え、誰もが羨む家族像は砂上の望楼であったのか。

誰が今の窮地を救うんでしょうねえ。それとも自己修復機能がまだ機能していて自力で克服するのか。

ドラマ全体の流れが雨降って地固まるの図であるのだとしたらこの雨はまだ何話が激しを増していって降り続けるのかな。

ある意味他人は救うけど自分のとこはどうもという形で進んでくれた方が観易いんですが内外共に疾患を抱えているようでありまして。私は人の不幸は蜜の味というのが美味しいとは思わない性質なんでいささか観るによいしょと勢いつけてでないととなりつつありますな。

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*ほんだん

「そうなんだけど」・「それでも」・「そうはいっても」といった相手の発言に対しての軽い反論・不同意の際に使われることが多い。

「そんだん」という言い方も存在する。

「そうだけど」を「ほうだけど」という風に「ほ」にすると関西風味が増すところであり、「そ」と「ほ」の両方が混在する地域というのが特徴といえば特徴か。

一体何が撥音便化して「ほんだん」になったのか。想像するに「そうだが」・「ほうだが」辺りになるのかな。でも普段使いの意味からすると「そうなんだが」であるけれど。「だん」は「だけど」という意味合いで使うのと「そない・ほない」の「ない」が「ん」に変化したと考えるとで「そないだけど」が詰まった言い方という勘ぐりも成り立つな。でもつまるところよく分からん。

九州の方面では「それでも」という意味の「そんでん」という言い回しがあるようなのでそれと同系統なのかな。

例文

「これいいにい。一家に一台あると便利だにい。」

  (これはいいですよ。一家に一台あると便利ですよ。)

「ほんだん、うちそれとおんなしようなの持ってるで別にいらんやあ。」

  (でも、家にはそれと同じようなもの持ってるから別に必要じゃないんだけど。)

「そんなこんゆわすとを。最新のもんの方が絶対便利だって。」

  (そうおっしゃらずに。最新の物の方が絶対に便利ですって。)

「そりゃそうだろうけえがうちお金ないもんでねえ。」

  (それはそうなんだろうけど家は貧乏でお金がないものでねえ。)

「ローンも組めるにい。」

  (ローンも組めますよ。)

「遠慮しとくわあ。」

  (いえ結構です。)

「そおゆわすとを。」

  (そうおっしゃらずに。)

「そろそろお勝手やらにゃかんでごめんねえ。」

  (そろそろ夕ご飯に支度しないといけないのでごめんなさい。)

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ホタルノヒカリ2 その5

 口は災いの元。でも何も言わなければ(伝えなければ)何も始まらないというのも事実。沈黙は金なりとばかりも言えないってか。

もっとも沈黙は金なりはその対比が雄弁だろうからここでの喩えとしての使い方は間違ってるけど。

まあそんなことはともかくつまりはそういうリスクを覚悟(承知)の上でなければ世の中他人と付き合えない。

ただ覚悟がなければ付き合っちゃいけないのかという問い(疑問)は生まれてくる。その答えはホタル(綾瀬さん)にありってか。

手本のような上手の山田姉さん(板谷さん)が成功には導けず、とても上手とは思えないホタルが事を成功に導く様は、人と付き合うにおいては下手だろうが上手かろうがそんなことは関係なく、要は伝えようという強い意志とぶれない心なんだろうかなと思える展開でありました。やっぱ一所懸命が一番大切なんだろうかな。

でもお座敷芸や土下座が身を救うという論理はいまいちついてけませんでしたが。

普通だと本意の何%が人に伝わるものなのだろう。ホタルの場合は100%伝わる表現力を感じるんですが。「アホ宮」(単細胞)と嗤う訳にはいかない特殊能力の持ち主なのかなホタルは。全てにおいてその意思が相手に伝わる勢いを感じました。邪念のなさは世渡りしてく上での強力な武器になりうるということなのか。なんか利用されそうで怖くもあり私なんかとても装備できない武器ですけど。

なんてためになったお話しはこれくらいにして味噌汁奮闘記には笑えたなあ。「がっくし」の連呼の様とそこに至る模様が。2日目のまず姿形から入るというところ、検索したらどこをどうすればそんな情報にたどり着くのか。嗤えた。がっくし貯金誕生の辺りもなかなか。殺しちゃ駄目だよってゴルゴからそれ取ったら何が画になるっていうんだろ。

でも最後放った結婚できないとのたまうぶちょお(藤木さん)の真意が全くもって分からないというミステリー。もっともこれが結論じゃなくて~だから結婚できないという「~だから」と言う部分は来週明らかになるんでしょうね。想像つかないけど。まさかいくらなんでも和馬(向井さん)に譲るが最良と判断して自ら降りたなんてことはないでしょうけど。

大それた紆余曲折がないのに5話に至るまで楽しく観れるというのはある意味凄いよなあ。その分山田姉さんと二ツ木(安田さん)の方は急展開していてバランスを取っているということか。

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天使のわけまえ その5

子は鎹ってか。

子供と呼ぶには相当大人の階段昇ってたけど。

落としどころは如何に許すかというところにあったんでしょうかね。それとも何を許したのかということなのか。怒りはどこに埋めたんでしょうね。

根無し草に安住の地が見つかったという周りの雰囲気でもあったし。それがご褒美というかわけまえということなのか。

何を求めて何を許せば天使の微笑みが訪れるやら。内面的に極端に成長したとかいう変化がくるみ(観月さん)に訪れた風でもなく最初から善い人だったとも思え環境だけが劇的・衝撃的に変化したという状況かと映ったけれど。

ならなんでもっと早く(若い時分)に良縁に恵まれなかったんだろうこの人はと思ってしまいますな。派遣だったみたいで特に仕事一途という風でもなかったみたいだし。決して壮大な野望を抱いていた風でもなくただ毎日を美味しい食卓で飾りたいと願うだけのほのかな幸せを望んでいたように映ったお人がこげな婚期が遅れたんでしょう。ましてやかくもお綺麗だあらしゃっただけに。

料理は一日してならずで小さなことからこつこつとでしょうからこの状況下におかれて初めて気づいて新たに始めたということでもないでしょうから。

謎は飛べて透けてないな。でも面白かったな。

つまるところこのドラマは役者力を愛でるドラマということだったんだろうな。「観月ありさ」と「大滝秀治」を愛でるが愉しきところだったということか。

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*やいやい その2

以前記事にした「やれやれ」という意味使いの「やいやい」とは別物。

「やいのやいの」と同じ意味だと思われる。まあ広い地域で使われている言い回しであろうが遠州では「やいのやいの」よりも「やいやい」を使うほうが多いという事で記載。男女共用。

「やいやい」に近い言葉では「ひゃあひゃあ」があるが「やいやい」は忠告・指示といった勢いであることに対して「ひゃあひゃあ」は文句・叱咤という感情的な勢いが籠もるという違いであろうか。もちろん受け取る方がどう聞こえるかという事であるので同じことを言っても「ひゃあひゃあ」と取られるか「やいやい」と取られるかは定かではない。

他には「ぎゃーつく」・「ぐつぐつ」・「ぶちぶち」・「うだうだ」・「ぐだぐだ」・「ぐでぐで」などがある。違いを説明してくと長くなるので紹介だけで。

例文

A「ほ~いちょっと駄目じゃん。」

B「そうじゃなくて先にあれしな。」

C「あれえ これもしんとかんじゃん。」

D「うっさいなあ。そんな周りからやいやい言われちゃ集中できんじゃんかあ。」

A「おんめえとろくさくて見てれんもんでじゃん。」

D「いらんこんじゃん。」

C「馬鹿こいちゃかんてそれんうまくできんと後の衆皆困るだでねえ。」

続きを読む "*やいやい その2"

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ジョーカー 許されざる捜査官 その4

 心神喪失での罪逃れは確かに矛盾してると思う。罪に問われないというのは致し方ないにしても、その後治ったということにでもなれば普通に社会に解き放たれるということが矛盾してると思う。人間は野生の動物じゃないのだから欠損した部分があったとしても見捨てていい訳じゃないという理屈は正論だけど。

これが銀河英雄伝説での帝国の世ならば劣悪遺伝子排除法で抹消される事間違いなしだよなあと。あそこまで露骨ではないにしても隔離するなりなんかして檻の中に一生入れとくべきじゃないかと不遜にも考えてしまう。そうすればこの回のように装うことによって罪から逃れられることがあったとしても得する事なんかなにもないことになるだろうよ。

まあ閉じ込めれば万事丸く収まり万々歳という訳にはいかず、そんな人間を生かす分の食い扶持のおぜぜを善良な人々の税金で賄うというのは馬鹿げているけれど。

とにかくこのテーマにおいては伊達(堺さん)のような存在と行動に溜飲を下げるという気分になることは確かな最たる王道だけれど。でも、これで一件落着ということではないらしく、心神喪失を装えたという卑怯がまだ大手を振っている事に来週は立ち向かうみたい。

にしても、まあ皆心に傷持つ人々ばかりだなあやあ。課長(鹿賀さん)にしても何も語られていないけれどそれっぽい影を感じる。一体何人が神隠しに関わっているんだろうか。冴子(りょうさん)の存在が不気味だな。

今回意外だったのがラーメンすするのは事を行う前の何かの儀式かと思っていたけど、この回は事後にラーメンすすってたなあ。なんなんざんしょねえラーメン食すその効能は。

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*で

意味を超強引に訳すと「から」。

「行ってくるでね」(行ってくるからね)。

ネットの辞書で調べると

「で」{接続助詞}江戸時代に多く用いられ、原因・理由を表す。活用語、特に助動詞「た」に付くことが多い。…ので。…から。現代語では、くだけた雰囲気での会話に用いる。浄瑠璃、心中二つ腹帯「お暇が出た―、去にまする」。浮世風呂[2]「よく流してくれた―、さつぱりしました」。「ちょっと出かけて来る―、頼むよ」
広辞苑第六版より引用

とあった。

共通語との違いは「だで」という「だ」に付く事も多いのが遠州弁。もっとも「だもんで」の略が「だで」という解釈もあって区別はつきにくいところではあるが。

例えば「あなたが悪いのだから」というのを遠州弁だと

「あんた悪いだで」となる。

でもまあおそらくは古い日本語をまだ普通に使っているということなんだろうな。

「だ」+「で」という解釈があるのなら「だ」+「に」という解釈も当然あってもおかしくない。その際の訳は「だで」が「だから・だので」ということであれば「だに」は「だのに(なのに)」という屁理屈も成立しそうな気がする。ただ江戸で使われていなければそういった根拠はどこにも記されていないだろうからあくまでも想像にしか過ぎないところではある。

例文

「ここんさあにないならあるとこにわし持ち行くで場所おせえてやあ。」

  (ここにないのならあるところに取りに行くから場所を教えて。)

「まあちっとあるかどうか探いてみるでちょい待ちい。」

  (もう少しあるかどうか探してみるからちょっと待ちなよ。)

「しょろしょろしてると催促くっでちゃっとしまい。」

  (とろとろしてると催促食らうから早くしようよ。)

「持ち行くにしたって近かあないだでさあ。」

  (取りに行くにしたって近くはないんだからさあ。)

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夏の恋は虹色に輝く その3

 愛すべきキャラの群像劇でほんわか観れて楽しい。

とくに大雅(松本さん)がいい奴だよなあ。別に彼の部屋の本棚にスウィングガールズとハッピーフライトの絵コンテ集が鎮座ましましてたから急に親近感が湧いてこいついい奴だと思ったという訳ではなく、この回においては決して理想が高過ぎの不遜という要素が影をひそめて色々努力して頑張ってる奴だというのが明確になりつつあるところがそう思えた理由でありましょうや。

足の引っ張り合いみたいなえぐさがないところが観易いところでもありますな。嫉妬心メラメラの伊良部(永山さん)にしても子役上がりという言葉に過敏に嫌悪感を抱く桜(桐谷さん)にしても、その役割は大雅の想う順調を妨げる存在でありましょうが観ていてむかつく印象を与えないところが観易いところでしょうか。

素直に応援したくなる大雅というキャラに仕上がっているのがなによりだな。しょっぱなから「好きだ」という姿勢でぶれてないとこもうじうじ感が薄くて楽だし。でも決して肉食系でない。草食系でもない。ごくごく普通。だから思考が分かりやすくてホント楽。楽ってのは理解しやすいという事。だから諸々の行動に至る姿勢に違和感がない。

全身これ不思議ちゃんという詩織(竹内さん)の存在感からもこのドラマの目線が大雅目線に固定されて迷走しないところも楽なんだよな。

このまままったりじわじわ進む展開が希望だな。

ただこの回よく分かんなかったのは、桜の芝居を観て心持ちを新たにした大雅であったとさというところで、そこはもっときちんとした完成品の画をも提示してなるほどと思える説得力を与えて欲しかったな。いまいち素人にはあの映像からその演技の素晴らしさとかいうのは伝わってこなかった。もっとももう一度と言われて「何度でも」という姿勢に感激したということが第一であったならこの限りではないですが。

それにしてもプールの監視員という役貰ったら呑んでる最中でも関連本読んで知ろうとしてる様は完ぺき主義過ぎて空恐ろしいというか細かいとこ気にし過ぎだよなあ。リアルが欲しいなら本物さんを担ぎ出せばいい訳だし役者がするからこそ表現できるものがある筈でなんか間違ってるような気がするのは素人の浅知恵か。リアルへの追求という姿勢はいつ治るんでしょうねえ。どんな名優が演じてもその道のプロからみれば作り物にしか映らないものでしょうから。本物(ドキュメンタリー)では表現できないものを役者が演じるのが本筋だと思えるのですが。米国留学して勉強してきたという事になってる筈ですがこう思うというのはやっぱり素人の浅知恵なんでしょうか。

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*なっぱ

「菜っ葉」。辞書によると「野菜の葉・葉を食用とする野菜」とある。別に方言でもなんでもないところではあるが。

遠州で言う「なっぱ」とは大根の葉っぱとかほうれん草とかのイメージであって辞書にあるような広い総称という使い方はしていなかった気がする。もっとも昔の食糧事情からして豊富な種類が手に入るような生活をしていなかったせいでもあろうが。

インコの餌に「菜っ葉」というイメージが昔あったな。今はどうか知らないけれど。

白菜キャベツを菜っ葉と呼んでたか?ということでは白菜は言ってたかもだけどキャベツはどうだったかいやあといった程度で確信がないところではある。食べれる野草とかも菜っ葉と言っていたのであろうかも定かではない。

最近は浜松の農家さんがチンゲン菜とかの中国野菜とかを積極的に栽培してるとかで葉物の種類が相当数増えているので大雑把に「なっぱ」ではなんのこっちゃという事なんだろう。

それにしても最近言わないよなあと。もちろん日常の普段使いでの話しで専門職の方とかそれなりの齢を重ねた人達はまだ使っているのだが。まあ方言と言うより「昭和」の言い回しなんだろうな。

例文

「たっぱあになっぱいれっぱにしてえ。もうほんとにい。」

  (タッパーに菜っ葉入れっ放しにして。もうしょうがないんだから。)

「そんな怒らんだっていいじゃん。」

  (そんな怒らないでよ。)

「なんで食べんよを。せっかく作ってやってるだに。」

  (どうして食べないの?せっかく作ってあげてるのに。)

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GM 踊れドクター その3

 情報番組とかで取り上げる病気の話題は、大抵が病気への不安を煽るというか掻き立てるというか明日は君が身と言わんばかりの取り上げ方である。

それと比べればこのドラマにおける病魔は普通にはありえないもしくはまずもって我が身に置き換えてとかいうものではないだけに、ある意味安穏として犯人捜しという趣向で観ていられる筈なのだが。

だけど味付けが犯人(病名)探しというよりも運ばれた患者の事情をみっちり描く人間ドラマの要素の方が強い感じがする。まだチームとしてばらんばらんでまとまりがないからといったハンデが克服されていない時期だからあろうが。とはいえ全員が犯人探しに向かって邁進する構図じゃないから真摯な感じがしないんだろうかな。

各自の思惑が複雑過ぎてるのと患者への入れ込み具合が勝っていて、名探偵活躍名推理という印象で観られないのがちと残念だな。

今回の同類相憐れむの構図はきしょかったな。「優しさ」は「弱者」の証しというのが現代なんでしょうかねえ。善人は搾取されるものというのも今の世を語っているんだろうかしらん。

「優しさ」に報いるのは「労わり」(いたわり)ではなく「激励」(励まし)ということでもあるような。手を差し伸べるような甘やかしはしかちゃいかん。ってか。自分の世界を堅固な壁で守っていてその分他人が入り込む余地なぞないということか。

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*「こ」と「ばか」の違い

遠州弁のニュアンスが共通語と一緒なのか異なるのかは定かでないが少なくともこういうニュアンスで使っているという事で記載。尚、「ど」や「がんこ」・「うんと」まで含むとややこしくなるので今回は省く。

例えば、近くの子供がいつもはしゃぎまわっている。それに対して

「こうるさい」という事になれば、本心は苛立ちを含んでいるが対外的にはお行儀よく和を乱すことなくその親や子供に対して平常を装って接する事が可能な状態と読める。こういった場合普通は「こうるさいでいやんなっちゃう」と続くパターンか一般的か。他には「参るやあ」・「勘弁して欲しいわあ」とかがあろうか。

「ばかうるさい」という事になれば、対外的にも言わずにはおれないところまで苛立ちが来ており出くわしたら一言「ホント迷惑してるだにい」くらいな事をつい言ってしまいそうな状態になっていると読める。実際言うか言わないかはその人の資質によるが。こういう場合には「ばかうるさくてやっきりこく」という流れが考えられる。他には「怒れる」・「どあたまくる」とかいうのもあるか。

次に、例えばお邪魔した家の様子を見て

「こぎれいにしてるじゃん」という事になれば、細かいところまで行き届いてるねという旨を言っていることになる。つまり多少なりとも褒めているということ。

「ばかきれいにしてるじゃん」という事になれば、自分が入って汚したりしたらなんか言われそうでちょっとなあというやり過ぎじゃない?という気持ちがそこはかとなくある感じになる。つまり左程褒めてはいないということ。もちろん汚かったのに頑張って予想外に綺麗にしたねという見直したよといった使い方もあるにはある。

例えば今度はちょっと趣旨を変えて「馬鹿にするんじゃないよ」という時

「こばかにすんじゃねえよ」と言えば、上から目線するなとかいったせせら嗤われてるかのような種類の馬鹿にされたことへのムッとした反応となる。

「ばかにすんじゃねえよ」と言えば、見くびるんじゃないよ過小評価するなとかいった無能・戦力外・期待されてない事への見てやがれとした反応となる。

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何気に思ったこと 2010・7月

*「そばにいてほしい」というのを漢字で書く時

「側に居て欲しい」とするよりも「傍に居て欲しい」とした方がなんかいい感じがするのは気のせいだろうか。

「側」だと立場みたいで「傍」は「傍ら」(かたわら)ということで寄り添い感が違うような気がするところですわ。理解者と共存者の違いというか。

*「ピーポー」と書いてみる

「人」と思う人もいれば「救急車の音」と思う人もいるだろうかな。

掛詞になるんじゃないかとも思えたりもするけれど、いまのところこれを掛けた作品をみた事はないな。歌にしても詩にしても。

*7月に入って土曜日の宵の口以降は全く見るテレビがない。

外に出ればいいじゃないかというのはごもっともなれどホームページ作りをしこしこしてるを第一としてる今日この頃なのでそういう訳にもいかない。性格的に飽きっぽいので根を詰めて何時間もパソコンとにらめっこなぞ出来ない性質なんでちょこちょこ息抜きが欲しいのだが。それにしてもここ数年なんのかんの言ってもどの曜日でも少なくとも一作品はお楽しみが有ったのに。見事というほど観たいどころか見たいものすらない。そうなるとかえってパソコンに向かおうという意欲が削がれるもので、なんかだりい。

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