« 2010年3月7日 - 2010年3月13日 | トップページ | 2010年3月21日 - 2010年3月27日 »

*しな

正しい訳ではないのだが「際」(きわ・ぎわ)・「がけ」。もしくは「~する時に」。方言とかではなく古い言い回しということであろうか。遠州ではまだ生きてるということで記載。男女共用。

例文

「帰りしなに声掛けてってねえ。」

  (帰る時に声掛けていってね。)

「なんつやあいいよを。」

  (なんて言えばいいの?)

「終わったで帰るでねえとかでいいよ。」

「了解。わし最後だったら店閉めるだ?」

「おおそのつもりでえ。」

「悪いの。無理さして。」

  (無理させて申し訳ない。)

「おおええよ。」

  (いいよ気にすんな。)

続きを読む "*しな"

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

ウィキペディアの遠州弁でお遊び その1

ウィキペディアの「遠州弁」の記事でちょっとお遊びを。決して茶々入れるとかじゃなく単に遊んでるだけですのでお間違いなく。なんかね、自分の使う遠州弁と違うんでそれと比較してみようかなということですわ。遠州弁にも色々あらあなということですかね。

とあるウィキの例文

「はあ、いつまでもいらんこんしとらんでちゃっちゃとうっちゃりなや」

その訳は(もう、いつまでも余計な事をしていなくていいから、さっさと捨てなよ)

私としてはなんかざらつきを感じる。ざらつく所は「はあ」・「いらんこんしとらんで」・「なや」。

訳の文を逆に遠州弁に変換するとしたら私だったら

「やあたらたらしょうもないこんしとらんとを。はあええでちゃっちゃとうっちゃっちゃいな」

とするかな。んで、例文の遠州弁を共通語に訳すとしたら

「もういつまでも余計な真似していないでとっとと捨ててしまいなあ」

あたりかな。そんな大きな違いはないのだが、でも実際ウィキの例文にはざらつきを感じるんだよなあ私。

というのも必ずこうなるというものもないのであるが「いらんこん」(余計な事)「しとらんで」(してないで)と言ってるが大抵は「いらんこん」は「すんな」(するな)という制止である。

そこのところを例文では「しとらんで」を使い尚且つ「いつまでも」という言葉までついているのだからそろそろ止めろというニュアンスで暫し否定も制止もせず黙認してたことになっているところがね。まあ「いらんこん」に対して「やめよや」(止めろ)と締めず「やめなや」(止めなよ)と言うのもあれ?なんだけど、きっとおそらくこの人は物凄く懐の大きい人なんだろうなあ。

つまり「いらんこん」は「要らぬ事」であって「余計なお世話」とか「余計な真似」という意味で普通は使われてる気がする。余分とか無駄とか意味も無い事というのではなく明らかに迷惑・邪魔という事。だから他の要因とかがない限り普通は即制止するものであろうと。他の要因とはたとえば何らかの理由で我慢をして許容していたけどやはり(これ以上)言わずにおれず堪忍袋の緒が切れたみたいなとか席を外していて注意ができず戻ってきたらやっていたからとか。

なのでこの雰囲気では「いらんこん」は使わないように思えるので私だったら素直に「くだらん・しょんない・つまらん」・「無意味な・あほな・馬鹿な」などという言い方を使うかな。それで

「あんたねえ、うだうだしょんないこんしとらんで早くうっちゃっちゃいな」

とするかな。どうしても「いらんこん」を使うのだとしたら

「やあ見てんと思ってなにょうさっきいからいらんこんしてけつかるだあ。はあうっちゃれやあ」

「黙って見てりゃあいらんこんしてんじゃねえよ。へらへらしょうもないこんで遊んでんでちゃっちゃとうっちゃれやあ」

とかにすれば堪忍袋の緒が切れたみたいなニュアンスになってざらつきはなくなるかな。とにかく「いらんこん」を使う場合最後は命令調で締めないとどうも不自然な勢いと感じてしまう。でもそれだと例文「しとらんで」の説明の意味がなくなってしうか。

まあそもそもの例を「ぼ~っとしとらんで はしはしいごけんだか」とかにしとけばいいのにと思うのであるが。

 他にも「はあ」と「なや」の使い方にもざらつきを感じてるんだけどそれで遊ぶと随分と記事が長くなるので結論だけでやんぴにしときます。

「なや」ではなく「なあやあ」か「なあや」の方がうちの衆らの感覚だとよく使われる。

「はあ」は「はあこんな生活厭!」という「もう」(最早)なのか「はあ三年経ったのか」という「もう」(すでに)なのかどっちなのかこの文ではよく分からぬ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*やっとこさ

大雑把にいえば「ようやく」というニュアンス。苦労したんだぞといった含みが籠もる事が多い。どちらかといえば長い期間を要したイメージを与える。

辞書には載っておらず「やっと」か「やっとこ」が記載されてあった。とはいえ広い地域で使われる言い回しであって遠州弁という訳ではないのであるが遠州でも使うよということで記載。男女共用。

例文

「あんたこれ見てやあ。手に入れるにホント苦労しただに。」

「そうなの?」

「そうだよを。やっとこさだにい。」

「なにがあ。」

「なにがあってなにがよ。」

「なにがやっとこさよ。」

  (どういうところがようやっとなのさ。)

「パソコンで調べたりネットで注文したりで往生こいただでねえ。」

「あんたねえ、普通そんなのやっとこさっつわんだに。」

  (あのねえそういうのは普通ようやくの内に入らないよ。)

続きを読む "*やっとこさ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

曲げられない女 その10

  いやあ満喫致しましたわ。最後無事バッヂを胸にされてたけどよもや10度目の正直とはならずとはねえ。その見せ方が夢とかCmまたぎとかあの手この手でじらせといてでありまして。あそこまでやきもきさせたら普通受かってるだろうと思っていたんですがあにはからんやな展開で。もっともそれがなければ璃子(永作さん)の大嘘という見せ場が存在しなかった訳でありますが。

兎にも角にも役者力でぐいぐいのドラマでありましたなあ。愉しかったです。

ホント永作さんはうめえなや。早紀を幸せにするための大嘘をついて早紀(菅野さん)の心のシャッターを全開にさせてる時の璃子の一連の目の力に惹き付けられっぱなしでした。もちろん会話のトーンとかもそれはそれはでありました。

その後の無事生まれた後のたおやかな表情がまた母親っぽくて。

ホントうまいなあと感嘆これしきりで魅入ってしまいました。

早紀の本心というのが最終回になって提示されてそれでやっと人間っぽく映ってみえました。正義の味方弱いものを助け強気を挫くというのが建前で本当は「許せない心」というのは納得するところです。理不尽に立ち向かうためにはバッヂが必要であるというのがやけに生臭くもあるところですがこういう人間居なくてはいけないという藍田(谷原さん)の発言も判った気になりました。

最近他人のガキの粗相を注意する大人が居なくなってモラルというものが無法地帯と化しているとかいうことがよく囁かれたりされているんですが、早紀はそれの大人バージョンという事なんだろうなと。

友情の大切さを謳い上げたドラマとも勘繰れますし石の上にも11年という諦めない事こそ誉なりを謳い上げていたドラマともとれる訳ですが、なにはともあれ役者さんを愛でるドラマであったように感じられました。

ここんところの「菅野美穂」出演作品にハズレなしという勢いでホント安心して愉しめますなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

どいいらあ

「凄くいいでしょう」と言っている同意を求めてる感じ。「凄くいいですよ」と紹介(お勧め)するような場合には「どいいにい」。

遠州人からしたらごくごく普通の「ど」(度)→「凄く」+「いい」+「らあ」→「でしょう」と訳せば済む話しだろうにと思えるのだが。他地域の人達からしたら連続技を掛けられてるようでついてこれないらしい。

正直これくらいでついてこれないのであれば

「ほれえ これみてみいにい どいいらあ そう思わんけえ」

とかになったらちんぷんかんぷんになってしまうのかな。

長澤まさみ氏が2010年3月14日自身が担当するラジオ番組にて、ゲストで来られた鈴木砂羽氏とお二人で遠州弁でだあだあでぶんぶんにしゃべくり捲くったそうな。そこで相当に「どいいらあ」を連呼されてたとな。どっちがかは知らねど。お互いに相当盛り上がったらしいとな。

残念ながら電波が浜松には届いては来ないので視聴すること能わずの有様にて いと残念無念至極。

ま、それはいいとして視聴した方のブログとかから憶測するに大方は好評のよう(馬鹿笑えた)に思われた。突き抜ければなんでも評価されるもんなんかなと思えたりもなんかして。女性の方言は基本可愛く聞こえるものだしなや。

言葉そのものは聞き取れないようなものであってもその空気感が伝わってきてよかったらしい。「遠州これにあり」と鈴木砂羽氏は見事「やらまいか大使」の役目を果たされたということであろうか。

そうした感想の中で「どいいらあ」って何?という感想を読んだ次第で。

いやあ「どいいらあ」が判らないというのはホント意外だなあ。遠州弁を紹介説明してく上でこれくらいなら理解してもらえてるだろうと思っていたものより遥かにちんぷんかんぷんの壁は厚いようである。

でもまああれだあな教訓として「突き抜けたもん勝ち」ということを教わったということで今のままで行くしかないなこりゃ。

それにしても「長澤まさみ」で検索すると名前を利用(記載)してアクセス数稼ごうとする輩とか根拠もない下衆なネタを垂れ流ししてるようなブログとかがなんと多いことか。いやはや全うな感想を述べられているブログに辿り着くのに往生しました。負の有名税というのはこういう事なのかと改めて「たかる」という事の現実を知るみたいでいやらしい限りだと思えました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*みかん箱くらいの

箱の大小の基準。遠州人はみかんの箱を基準として箱の大きさを推し量るということ。男女共用。

例文

「ここんさあの資料とか後で送ってやあ。」

  (ここにある資料もろもろ後で送って頂戴よ。)

「大きさどんくらい?みかん箱くらいの大きさでみなきし入りそうけ?」

  (大きさはどれくらいではいるの?みかんの箱くらいの大きさで全部入りきるかなあ。)

「みかん箱くらいじゃあちっと入りおせんかも。」

  (みかんの箱じゃちょっと入りきらんかも。)

「じゃあふたつにせっか。それならみなきし入るだら。」

  (それじゃあ箱二つにしようか。それなら全部入るんだろ?)

「だいね。」

  (そうだね。)

続きを読む "*みかん箱くらいの"

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

泣かないと決めた日 その8

 当初は様子見で観始めた訳ですが結局最後まで観てしまいました。なにしろ初回のハードプレイを目の辺りにしたらば最後の大団円を観ておかないと帳尻が合わないと云うかドヨヨンのままで割りに合いませんものね。

「これでいいのか」で終わるのと「これでいいのだ」で終わるのとでは大違いですからねえ。

最終話だけ見てえらいお約束のオンパレードに映ったとしてもこれまでの仕打ちを考えればこれくらいのご褒美が与えられないとという気になりますんで多少全てが円満で出来過ぎだと感じたとしてもこれで宜しかったのではないでしょうか。

まあ多少思ったところを述べるなら会社は「人を憎んで罪を憎まず」でしたでしょうか。ほんで個人は「罪を憎んで人を憎まず」って勢いに感じられまして決して同じ方向に正しい答えがある訳じゃあやっぱりないんだなあと。

ところで、ここに至るまでどのくらいの月日を費やしたことになるんでせうか。リアル(現実社会)のいじめと較べてここで描かれた時期というものは長いのか短いのか。

今度こういう現実社会に起こっているしんどい実話を元にドラマが描かれるとしたら、このドラマのような疑似体験を味わうタイプでなくそれぞれの実際起こった出来事に対し主人公がどうその都度クリア(各個撃破)してくのかというのを観てみたい気がしますな。

疑似体験して最後は溜飲が下がるとなるとそのご褒美はこのドラマのように絵空事のようにせざるを得ないのですが、昔のすちゃらか社員のようにこういわれたらああ返すみたいななるほどうまいことやるなとか言えたら羨ましいよと頷けるような切り返しで飄々と生き抜いて真似は出来ないけど羨ましいよなあと思える主人公の物語を見て見たいな。

釣りバカ日誌とか木下部長とボクがそういう傾向にあるんですが、あそこまで素っ頓狂だと同調は無理ですからねえ。適度な現実に即した飄々感のものを観てみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*「さす」と「せす」

「こんだあ何よを何さすよを」

「こんだあ何よを何せすよを」

「さす」と「せす」の違い。

「何さすよを」だと「何させるんだ」で

「何せすよを」だと「何をするんだ」となる。

「せす」の遠州弁でのニュアンスは単に「する」というよりも「しでかす」みたいな戦々恐々なインパクトが無きにしも非ず。単純に「する」と言いたい場合には「せる」を使うことが多い。

「こんだあ何よを何さすよを。はあもうついてけんにい。」

  (今度は何?何をさせるつもりなの?これ以上はもう無理だからね。)

「こんだあ何よを何せすよを。はあもうついてけんでねえ。」

  (今度は何?何するつもり?もう何しようとしてるのか理解出来ないからね。)

「さす」も「せす」も古い言い回しで今は

させると言いたい場合には「やらす」・「ゆう」(言う)

すると言いたい場合には「始める」・「せる」

とかを使うほうが多い。「ゆう」というのはあれやれこれやれと命令を発するみたいな意味使い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

コード・ブルーⅡ その10

 見応えありますなあ。恋の病はお医者さまでも治しゃせぬに引っ掛けて申せば、心の痛手はお医者さまでも越せりゃせぬってか。緋山(戸田さん)の葛藤が如実に出ていてそれはそれは可哀想でありました。藤川(浅利さん)なりの励ましを受けてる時は元気そうに見えたんですがね。白石(新垣さん)は父の安否に気を取られて不注意による取り返しのつかないことをしでかすんじゃないのかとハラハラしましたし。

こういう形でハラハラドキドキ感を見せるのって珍しい気がしてきます。そして、黒田先生(柳葉さん)が見守る西条先生(杉本さん)のオペの方は定番といってはなんですが時間との闘いであり、やりきる精神力を試されるといったものでそれと事故現場での模様とを交互に提示することで深みが増すというかより時間の経過が現れているというか、リアルタイムで展開が流れてるんだという感じがより伝わってくるように感じられました。

「後戻りは出来ない」というのがこの回のお題であったのでしょうか。その割には緋山はトラウマを白石は家族の安否に気を取られてと後戻り以前に前に踏み出していない風にも映りましたが。まあ来週とセットで観て初めてその心はなんぞやというのが判る仕組みになっているんでしょうかね。白石の方はお父さん不屈の根性でご無事でしたからこれで来週は立ち直るんでしょうけど。

ボードには3月25日にフェロー終了認定と映し出されていましたけどこの回描かれてるのは何日なんでしょうかねえ。カレンダーは3月みたいだけど。

気になるところは日にち的にいってもう既に判定されているのかそれともまだなのか。既にだと緋山はどうみても無理っぽい。これからなら挽回のチャンスが緋山に訪れることがあるのなかないのか。

25日以降の彼らの希望進路は。皆巣立ってどこか遠くへバラバラに飛んで行くってことなんですかねえ。

どういう終わり方が一番観てて満足なのだろうかと自問してもうまくまとまらないところでありますが。とりあえずは挫折だけは観たくはないところですな。好評につきシーズンⅢにらみで多少中途半端な余韻残しであってもこのドラマなら許せそうではあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*どっかこっか

「どこかしら」と言っている。

「どっかこっかで売ってるらあ」

  (どこかしらで売ってるだろう)

こういう言い方は多分遠州独特だろうと思えてきがちなのだが、ネットで検索すると結構な範囲で使われてるので全国的な俗語という範疇なんだろうかな。

「どこかしら」が「どっかこっか」であっても「なにかしら」が「なんかこっか」になるというものでもないので「どこかここか」という言い回しが本来の言葉であったのであろうか。まあ「どっかしら」が「どこかしら」の変形として存在してるのであろうから「どこかここか」がオリジナルなんだろうかなやっぱし。でも「どこかここか」なんて言い回しあるのか?という疑問は浮かぶわなあ。

「どこぞに」という訳し方も違和感ないのであるがこれもどこをどうすれば「どっかこっか」に化けれるのか理解できないものなあ。

一応遠州でも使われているよという事で記載。男女共用。

効能としては「どこかしら」と言うよりもよりいい加減な当てにならない印象を与えるというようなところであろうか。

促音まるけの言葉遊びを考えてみると

「ニッカボッカどっかこっかいってあっちこっち探してそっちこっち聞いたけど結局分からんかった」

例文

「こうゆう時ぱぱってやってくれる便利なのあるといいだんね。」

  (こういう時にぱぱっとやってくれる便利な物があるといいのにね。)

「そうだよねえ。そおゆうのどっかで売ってんかねえ。」

  (そうだよねえ。そういうのどこかで売ってないかねえ。)

「さあ。どっかこっかで売ってるじゃないの?知らんけど。」

「それんどこにあるよを。買いい行きたいやあ。」

  (それはどこにあるの。あるなら買いに行きたいんだけど。)

「だで知らんっつってるじゃん。そうゆうのぱぱって分かるのあるといいだんね。」

  (だから知らないって言ってるでしょ。そういうのがぱぱっと分かるものがあればいいのにね。)

「そうだよねえ。そうゆうのどっかで売ってんかねえ。」

  (そうだよねえ。そういうのどこかで売ってないかねえ。)

「さあ。どっかこっかで売ってるじゃないの?知らんけど。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

特上カバチ!! その9

 こういうむきになる役やらせたら櫻井さんは見事にはまるよなあ。こういう役柄って20代辺りの血気盛んなお年頃の方が演じると往々にしてそのツッパリ具合が鼻につくものだけど櫻井さんに関してはそういう事はないように感じられるんですよね。無理してる具合が感じられないのかしらん自然過ぎて。ニュース番組とかにも出てらっしゃるので役(演じてる)というよりもまんまを見てるような気になってるのかもしれないですね。きっとこういう人なんだというイメージが出来上がりつつあるのかもしれない。色んな役を演じ分けるというよりも一発必中の専門職的役者さんなんでせうか。

とにかくこの回で最終回でもおかしくない展開だよなあと思えました。挫折・離脱・仲間の応援・復帰・新たな一歩。お約束を殆ど踏襲した流れのように映りまして普通はこれで大団円だろうと。不協和音のゴタゴタがあっさり風味だったので明るく見れたりもしましたしこれで十分という勢いでありました。だとしたらこれで後最終回何を描くと言うんだろ描くことあるのかなと思いました。みんなで力を合わせればということでVS警察とかVS権力とかいう壮大な話しくらいしか考え付かなかったのですが、ここへ来て親父が登場するとは。

色んな人を巻き込んでの壮大な親子喧嘩というものが描かれるということなんでしょうかね。さすがにそんな能天気なエンディングではないでしょうから子が親を越える瞬間とその想いを描くということなんでしょうか。まあ親父=権力といえなくもなさそうですけど。

後まだ描かれてないところといえば、思いつく限りでは試験の合否と田村と住吉先生(堀北さん)の関係くらいでせうかね。大先生(中村さん)と検備沢先生(浅野さん)との間柄というのもまだ未処理案件か。試験に受かったら栄田(高橋さん)との関係がどう変わるのかというのは見てみたいところですし落ちたら落ちたでそれもありのような気がしないでもないところです。

ところで今回の詐欺の話し来週も続くんでしょうか。このまま無罪放免で暫くしてほとぼりが醒めたらまたいかにも悪い事しそうですしここまで追い詰められて報復されかねないという気もしないでもないところでありまして。これで引導渡すことなく来週全然別な話しで物語が構成されていたらとてもなんだかなあという気分に陥りかねないところです。

基本的に人生そんなもんという嗚呼無情な現実を描いているとは思えないので勧善懲悪の決め事で進んで貰わないと楽しくは見れないんですけど。はてさてどうなるんでしょ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*おりた・おりる

「卒業した・卒業する」と言っている。非常に特別な言い回しで

「去年高校おりただら?」

  (昨年高校卒業したんだろ?)

といった風にほぼ修業に関してのみに使われる。なので

「いつまでも子供じゃないんだからもうそんなことは卒業したんだ。」というのを

「いつまでもガキじゃねえだではあそんなんおりただあ。」という風には使わないということである。

くれぐれも勘違いして欲しくないのは「やばいことから手を引く」みたいな「やばいことからおりた」とかいう使い方とは全く違うものであるということ。

例文

「なにとろとろやってるよを。」

「これんうまくでけんくてさあ。なんでこうなるだか頭爆ぜそうだわ。」

「なんでえ がっこで習わんかっただけえ。」

「はあ忘れちってえ。」

「なによをこないだおりたばっかだらあ。がっこでなにやってたよを。」

「うたた寝と早弁かな。」

「それじゃしょんねえの。」

続きを読む "*おりた・おりる"

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2010年3月7日 - 2010年3月13日 | トップページ | 2010年3月21日 - 2010年3月27日 »