« *ぎゃーつく | トップページ | *はあ その2 »

信号待ちのねじれた悦

 交通量が少なくなる時間帯の道路での歩行者はというお話し。要は信号を守るか否かということなんであるが。効率という面から見たら車が来ないんだから止まる必然性はなく早く目的地に行く方が割がいい。遵守という面から見たら赤は止まると決められているのだから決められたことは割に合わなくとも守るべきである。どちらを取るかの問題か。もちろん地域性による違いもあろうけど。

 平気で信号無視していく大人達を見て憮然とする小学生。中学生は怒りの表情を隠さない。逆に大人達が待ってても当たり前のように無視して進む高校生。結局は大人にとっては些細な現実でも子供はそれを真似(継承)して生きていくのだから悪いのは大人なんだろうな。おそらく遵守から効率への転機は「馬鹿馬鹿しくてやってられない」って思えた時なんだろうな。個人の性格というよりも気づくタイミングの早いか遅いかの違いだけだろう。でも一度外れたたがはもう元に戻ることはない。道徳観なんてそういう脆いものなんだろうな。若い時分は肉肉肉・甘甘甘。歳がいくと白身の魚に渋渋渋。嗜好は歳とともに変化するけど倫理とかは削られて細くなる一方で増えたり入れ替わったりとかはしないんだろな。

 信号のない横断歩道で手をまさにあげんとする小学生を横目で見ながら減速することもなく車を走らせ漫然と通り過ぎてる私が書いても説得力のない話しではあるが。

 安全を作り出す側からすれば統制という管理(信号守れ)か自己責任に負う(事故にあってもてめえが悪い)のかという手段の選択になるのだろうけど。電気代の節約とか無意味な統制(車がこないのに待たなければならない)などと考えれば24時間止まれと言い続けなくてもいいじゃないかという気にはなる。だけど自己責任となると自分が悪かったなどとワシントンの桜の逸話を実践する輩ばかりじゃない。水掛け論に持ち込んで自分の非を逃れようとする。

 交通事故を経験した者から言うと(ここだけ歩行者ではなく運転手のお話し)信号が正義であって赤なのに進入した方が悪なのである。証人が現れなければ証明されないことだけれど、青ならば自分は胸を張って生きていける。赤を青と言い張って言い逃れできたとしてもそいつは一生後ろめたい気持ちを抱えていくことになる。

 気持ちよく生きるということは見つかる見つからないという運の良い悪いとかではなく、こういう細かな胸を張れることの積み重ねだと思う。

 損して得取れということはなにも商売だけの意味ではないと思える。無意味に赤信号が青になるのを待つのは確かに損だ。だけど歪んだ意識だけど信号を守らない奴を「ば~か」と心の中で蔑む(さげすむ)優越感に浸れる。人が落ち込むときってのは劣等感に苛まれることが原因であることが多いのだが誰にも迷惑がかからないであろうこういった些細な優越感を持てれば劣等感の迷路に引き込まれることは心のバランスを保つと言うことで少なくなれる手段のひとつなのではないだろうか。優越感の塊だと不遜でいつかしっぺ返しがあるけどこういうプチ優越感なら大丈夫だろう。あんな奴でも生きてるんだから自分が生きていてなにが悪いと。

 信号のない横断歩道で手をまさにあげんとする小学生を横目で見ながら減速することもなく車を走らせ漫然と通り過ぎてる私が書いても説得力のない話しではあるが。

 そういう意味で車が来ようがこまいが私は横断歩道の信号では赤は止まって無視して渡る奴を見つめる癖がある。注意はしない。心の中で「ば~か」と言うために。損して徳取れとは言わないがなにもテレビを見て「嗤う」だけが悦にいる手段ではなかろうて。憤慨するのはもったいないことであろう。

|
|

« *ぎゃーつく | トップページ | *はあ その2 »

4・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« *ぎゃーつく | トップページ | *はあ その2 »