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ao akua その2

とにもかくにも、応援してくださる方に対する感謝の気持ちというものを形にしたいという想いで尽くされていると感じるDVDでありまして。

つらつら考えるに作品にしか興味を抱かない私のようなえせ応援者がこのDVD観ての感想をああたらこうたら書くのはおこがましいなと。

なので応援者足り得ない者があつかましくもおこがましくも書いたその1は封印して、傍観者の目線として書き直ししたその2の方をアップするのなら撥は当たるまいてと。もちろんメッセージを発信してくれたことに対してのありがとうございますといった感謝の念はありますです。

このDVDではハワイの自然からパワーをもらったりそこに住む人から労わりをもらったりといった何かを吸収してる樹里ちゃんと、絵を描いたり芝居をしたりといった作品にパワーを放出してる「上野樹里」と、普段の普通に息してる樹里さんといった多面的な捉え方をされていると言う印象でありました。「上野樹里」を知らない人が「上野樹里を知る入門編」として見れるかともし聞かれてもメッセージ性が強いので正直分かりません。ただショートドラマを楽しむとかよくあるイメージビデオの類ではありませんので「上野樹里を楽しむ」ものではないでしょう。しいて表現するなら「上野樹里が伝える」DVDという言い方でしょうかねえ。

栄養素を吸収してる時のその感受性の強さは過敏過ぎるほどの勢いで、だからこそ作品という形で放出する際の強いパワーの源となりうるのかなと納得出来るのですが、普通なら見逃してしまうようなことにも煌めきを見い出す細やかさは大音量で襲い掛かってくるようなフラッシュのようなものに遭遇したりなんかしたらその精密機械のような繊細さは果たして保てるのだろうかと心配になってくるほどのアーティスト的資質に感じます。

作品に向かい放出してる時の目の輝きは印象的でした。一人二役?それとも一人を二分割?としたような二つの役の別人格提示(演じ分け)は衣装眼鏡といった容姿の切り替えだけでない生きてきた背景の違いまで想像させる感じでした。それがどこから発せられてるのかよく分かんないんですがとりあえずは眼からかなと。眼の輝きといえば特に絵と対峙しつつ絵と会話してる辺りの活き活きとした眼が印象に強く残りました。料理も創作物ということであるならば料理してる姿も手元と作品(料理)の出来上がる工程ばかり映してないで製作中の表情とかも提示して欲しかったのえという印象はあります。

普段の樹里さんはテレビとかでよく見かける飾りも気負いも無いお姿で話しされてていつもの通りいまいち説得感に欠ける嫌いがあるのですが、これが劇中で同じようなことを演技の中で発するとなるほど深いこと言うなあと感心してしまうというギャップを感じてしまいます。普段は間違いなく誤解されやすいタイプだろうなあと。まあ普段上手く伝わらない分作品に籠める想いが強くなるのかなと想像してしまうんですけどね。

全体の印象を反芻してみて改めて強く感じることはとにかく「上野樹里」はなにかを放出してる姿が画になるなと。目の輝きが印象的でした。

あと、思わずイメージが湧いてきたフレーズがあって、それは「思い込んだら試練の道を・・・・」

仕事とプライベートの切り替えなぞなく24時間「上野樹里」をしてる樹里さんなんだろうかなと。飛雄馬も泣き虫なほど繊細だったけど野球一筋ド根性だった。樹里ちゃんもそんな感じかなと。まあ体おやさんようにねとしか言いようがないとこです。体が弱ると心も折れやすいですから。

不思議なのはこれだけ揺るぎない自分を持ってる人がお芝居となると「憑依型」みたいなそういう役柄の人格(上野樹里が見えない)に映って見えるのか。理屈で納得して役作りしていくのではなく何か他のエッセンスを体内に取り込んでいるのでしょうか。それとも「上野樹里」そのものの引き出しが種類量共に多くてそこから抽出して提示してるだけで別に「憑依」してる訳ではないのか。強い感受性と吸収力を持つお方だという光景を見せられると私が勝手に決め付けてきたものが揺らいできます。しかしながら自身だったら絶対そういう行動や言動をしないであろうキャラを演じる際「そういうことはしない自分」はどこに置いておくんだろう。閉じ込めておくのか「そういうことはしない自分」を「そういうことをする自分」に改造していくのか。

絵は素直だったけどお芝居だって素直だよなあ。まあ不思議ですわ。もっと不思議なのはお宅訪問してる人がのだめや瑠可とイコールだということですけど。

どこで聞いたのか忘れましたが凄い役者さんて演じてきた役柄の人生をずうっと背負い込んでいくという話しを聞いた事があるようなないような。つまり演じた分だけその架空の人物の人生を体験したその経験が役者さんに人間味の深みとして蓄積されていくのだと。「上野樹里」という役者さんも演じ終われば一旦全てリセットクリアにして容量を空けるというのではなく何らかの形で人間の器という入れ物に蓄積してくタイプなんでしょうかねえ。別な表現で言えば頑固な割には染まりやすい。感性の鋭さと旺盛な仕事に対する情熱というものを考えると駆け足は容量オーバーで体(心)に毒のような心配してしまうんですけど。

とにかく太く短くということだけにはなって欲しくないなと。演技の源は想像性ではなく感受性かなと推測されるけどじゃあそれをどう調理して芝居という形にもっていくのかは秘伝のタレで門外不出の非公開なんでしょうか。

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