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エジソンの母第五話

今回は感性の問題ですかあ。ドラマの中での良い絵と悪い絵。その違いとは絵を見る大人の側の目的によるものであって。それを描いた子供の状態を映す鏡としての心理テスト的に判断するためのものなのでしょうか。その子の状態を把握するためのチェックであって、芸術とはことなるものなのでしょうね。この場合の子供に絵を描かせる理由と言うものは。

これが芸術への追求と言うことになれば、良い悪いの問題ではなく感じるものがあるかどうかの問題なのでしょう。感性は好き嫌いの激しく分かれるものですから人それぞれでいい絵は異なるでしょう。学校教育の中における絵の存在価値は芸術とは異なるために存在しているような気がします。

だけど感情というか情緒を測るものさしだとするならば、良いから褒めるとか悪いから直せというのはまた話しがややこしくなるというか使用目的が違うんじゃないのかという疑問も湧いてきます。なんか二兎を同時に追ってるみたいで芸術と情緒の発露は紙一重ということなんでしょうか。より深く表現するための技術を伝えることは必要ですけど、こういう場合はこういう表現でみたいな形式に捉われてはいけないということでせうか。

だけど本当はこうだこうあるべきが理想というような正解をドラマでは提示してくれなかったので、現実に対する問題提起なのか、後はお好きに判断してという投げかけなんでしょうか。イマイチすっきりしない回であったような、放置された印象を受けました。家のガラス割られて怒ろうと思ったら逃げちゃった悪ガキに無性に腹が立つオヤジの気持ちが今になって分かったみたいな感覚です。ガラス割ったことに怒れてるのか謝らず逃げたことに怒れてるのか自分でも分からないという感じですか。まあその、絵が分かる人なんてそうそういませんから非常に現実的だといえなくもないお話しですけど。

いつも書いてますけどこのクラスの中に「天才の卵」がいると思ってるから秩序を越える出来事が毎回起こっても理解しようと見ていられるけど、単に教師の成長期を描いたドラマだったら子供の我儘にとてもじゃないけどついていけない内容です。でも毎回感想が思い浮かぶということは自分でも気付かないとこで印象に残るドラマなんだということでしょうか。お母さんが物腰態度の低い方なのでそれで救われてる部分が大きいのも確かです。

母親といえばこのドラマで少し不思議だなと思えることは、母親には「何故何故どうしてどうして」追求攻撃を天才の卵はあまりしないということです。まあ、「それは内緒」遠州弁で言うところの「いいとこまんじゅう」の使い方が上手いということなんでしょうけど。

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ジョージアCMの眞島秀和さん

あ、眞島さんだあ、と思って見てて。やけに長いなあと思ったんですけど60秒cmなんですねえ。ホントびつくりしました。以前コカコーラで長いの見た記憶あるんですけどそれ以来ですよねえ。15秒か30秒ばかりでイメージ凝り固まってるんで新鮮です。一瞬ですけど別のドラマが始まっちゃってチャンネル間違えたのかなと思っちゃいました。(誇張しました)

お話しそのものはよくぞまあここまで妄想広げられるものよと感心するばかりの笑える内容ですけど、これを実際の映像として興す労力考えると洒落にならない大掛かりなものだなあと感じます。前見たことのある他の同じようなcmではテストで満点だとかいってリオのカーニバル風に大騒ぎしてたなにかの清涼飲料水のcm思い出したりもするんですけど、あっちは「あ、間違えた」の落ちでしたけど、こちらはやっぱ妄想かいそれでも爽快かい、やっぱり嬉しいんだろうなというほんわかした気分になりますなあ。

眞島さん、海峡とか先週の喜多善男とか観た人だったら「これ同じ人?」と信じない方もおられるくらい小心者の優しい人になってられましたねえ。このギャップはなんと申しましょうか、人格まで入れ替わるような勢いで凄いという表現しか浮かびませんわ。こう振り幅が広いと逆に中間的な普通の優しくも無く怖くも無く目立ちもせずといったものすごく普通な人というのも見てみたい欲にかられてきます。

ところでジョージアのcmマージャンやったり打ちっ放しやったりというシリーズとは若干異なる(欽ちゃんが共通)感じがするし、なにより秒数が特異なのはなんででしょう。それも眞島さんメインでというのは不思議です。実力ある方なんでなんの問題もなく愉しめるいいcmですけど。とにかくインパクトのあるcmでした。

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天まであがれ!!

痩せて枯れてるとはいえ、一応私も浜松市民なので地元ネタの作品を観ないわけにはいくまいて。じゃによって記事にしとかまいとしただけえが、数ある日本映画の中において判断すると(人にええよと薦めると)なると、いたって普通という表現が適切かなと思わないでもない感じです。

町興しと言うほどではないにせよ、地元衆の寄り合いで「なんしょつくらまい」ってな勢いで都会からプロの方を呼ばって制作された雰囲気をメイキング見てると感じます。監督さんも言ってたけどメイキングの「凧馬鹿」の衆ら写いてたのも別の意味で面白いというのは理解できます。ある意味本編とメイキングが合わさって作る過程とを一緒に流いて実際にいごいてる遠州人を見て遠州を知ってもらうというほうが私的にはおもしろそうと感じたのですが考え方が変でしょうかねえ。

主題は「この凧あげたら、父さん見てくれるかなあ?」ということで、凧に関わった人のそれぞれの想いを乗せて空高く舞い上げようという暖かいテーマです。

宍戸錠さんは映えますねやはり。素人衆もたんと出てるだけに余計比較出来るので判り易いです。あと、源蔵役の守田比呂也さん・中山んとこに住んでるおばあさ役の阿部光子さんが印象に残りました。阿部さんは遠州弁っぽいイントネーションでセリフ言われていて地元の人かと勘違いしてしまいました。普通の人にしちゃあお芝居うめえなあと。そりゃそうだプロの方だもん。

佐津川愛美さんは静岡県出身の方ですが、駿河の方なので遠州弁ではありません。近いけど違うんです。だから標準語しゃべっておられます。

子供連は主人公の方以外は市民参加ということでみなさん素人な方だそうで。最近のドラマって子役ががんこ上手い人が多くて、自己が確立してもいない時期に他人を演じるのは精神的に大丈夫な事なんだろうかと言う疑問を抱くものとしては、これくらい他人の人格を体内に受け入れない素人っぽい方が安心して観てはいられるんですけど、お芝居として見るとなんかビミョーです。

で、以下は映画のというよりも観た感想をというか、ツッコミです。ただし嬉々として書いているので文句いちゃもんの類ではありません。充分愉しんでます。作り手の人には良い迷惑でしょうけれども。

いきなし凧の話しですが、25帖はデカイです。普通はでかくても10帖くらいですし、喧嘩凧なら4~6帖のあいさが使われるので、現実的には余程の大金持ちの初子用とかでないとありえないサイズと経費でしょう。で、絵は「ヨコ天」ですわ。天神町の凧ですわ。伝説の凧作り名人であろうとも勝手に描いていいものではありません。天神町に住んでるなら話しは多少理解できますが、天神町は風光明媚な自然豊かな場所にはありません。浜松駅から徒歩何分という街のど真ん中みたいなとこにある町です。それに凧は素人が作るものではなくその道のプロの職人さんがつくるもので、各町内におられる「凧馬鹿」の名人は「糸目」やら「しっぽ」やらなんやらの管理運用に優れている方のことを言うのです。

いざ揚げるとなると、凧は組織戦であって個人の優れた能力よりも統率力と判断力が物言う世界です。もちろん風を含む天候を読む力は重要ですが、そういうのは組長が最終決断するとはいえ、相談役とかの合議制で判断されることが多いです。映画の中の入院の見舞いに来た源蔵(守田さん)と中山(宍戸さん)の会話は私のお気に入りシーンですが、そのなかで「爺は邪魔だと若い衆にゆわれる」みたいなことを言った返しで「そりゃお前に人徳が無いからだ。」と言うセリフはリアルです。組長・相談役とかがしょぼいとホント話しになりませんもん。士気が下がると詰まんないもんですよ。祭って酔うくらいのアドレナリン出ないと愉しくないですから。

最初の子供同士の喧嘩凧のシーンでは、凧と一緒に揚げ手も揉み合いしてましたけど喧嘩するのは凧だけですから。くれぐれもこれ見て浜松祭りの凧合戦は人も乱闘してると思わないでくださいな。ま、いい陣地取りで多少の軋轢はありますけどね。

あと落ちた凧を拾いに行くシーンをカットなのかはしょったのか分かりませんが、それがないのはちょっとなあという印象です。別にゴミになるからとかいう意味ではなく、ある意味神事(浜松人にとっては)でもあるわけで、実際の祭りでは何があっても回収するという決まりごとがあったのです。ショッカー並みのぺーぺー戦闘員だった頃、揚げては落ち「拾って来い」といわれ、必死こいて確保帰還すれば、拾いにいってた間に揚げてた別の凧がまた落ちて「拾って来い」といわれを繰り返し、結局その日タコ糸いじったの朝の一回だけだったという経験を持つ私としては、負けて拾いにいくという行為のしんどさを描いて欲しかったですなあ。

景色はこれに限らずどの作品もそうですけどお約束の砂丘と舘山寺と天竜川の河川敷きがきっちり出てきてます。朝河川敷を通って大平台小学校まで通い近所で凧揚げると鶴見あたりの河川敷グランドで揚げてる。勝負しろという集合場所が遠州浜。お爺ちゃんとこに凧教わりに天竜浜名湖鉄道に乗って田舎に行く。一体この子はどこに住んでるんだと真剣に考えると小学生とは思えない行動範囲です。こういうのを見ると浜松の人間が観て愉しむというのではなく浜松から全国へ発信する意図をもった作品なんだろうなと感じるのですが、地元民は多少なんだかなあという違和感を拭いきれません。浜松の衆だけが分かるような内輪ネタがたくさん欲しいですわ。最近のドラマにせよ映画にせよ、その描かれてる世界の玄人や専門の人が納得するくらいの道具や背景・セリフといったもので凝り様の高いものが評価される勢いというか風潮があると想うのですよ。その世界にのめりこもうとするとそこまで追求するのがリアルに感じるものです。

中田島砂丘ですがあんなキレイに風紋が出来てるとこ最近見てないような気がします。小さい頃にくらべて小さくなったイメージがあって、もう最近は防風林をちょっと抜けるともう波打ち際が見えてくるようになっちゃってる感覚で、風紋キレイに出るとこ良く探せるものだなあと感心してしまいます。小さい頃は海辺にたどり着くのにふた山(丘)越さないとたどり着けなかった記憶があります。その時は結構風紋見たりしてたんですけど、まあそんなしょっちゅう行くとこじゃないんでいい加減なこと言うなと怒られそうですけど。

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未来講師めぐる第四話

不用意な一言で未来は変わる。ある意味未来が予知出来るからだけではなく、予知できなくともたった一言でお互いの関係が変わるのは、特に男女間においてはよくあるお話しではある訳ですが。

未来が見えるだけに今回のめぐるの選択は究極の二択ともいえるわけで、よくぞ観てる側の希望通りの選択をしてくれたなあと思える感じでした。もう充分ハッピーエンドでこれが最終回でも「ええ話しだったあ」で締めくくれる勢いの内容でした。こうなると後は「自慢」の力の制御の仕方の習得と、めぐる本人の20年後というのももったいぶらず見せてくれという気分になりますな。そうそうお母さんは出てこられるのでしょうかというのも興味はありますよ。

さすがタイムトラベルみたいなお話しだけに、出演者の皆さんの年齢の遡り・早送り加減を愉しめる構造ですが、深田さんご本人は歳と共に少しづつ変化されてたんですねえ。大学生に遡ったシーンというのを観ると10代は無理があるように見えました。(もちろん今の方が女性らしくなってお綺麗という意味です)大人の女性としてお美しいので20歳前後にしては妖艶過ぎる感じです。昔とあんまし変わってないと思ってたんですが違うんですね。地井さんの学生姿はアップじゃなければという条件ですけどらしく見えるなあと感じたので、やっぱ女性は例え同じ人間であってもある時期ごとに生まれ変わる生き物なのだなあと思えます。そういう意味では男は幾つになっても気持ちが変わらなければ同じ生き物として生きてけるのかなと、都合のいい方に勝手に解釈してしまいました。ゲスト出演の塚本さんの20年後も違和感なかったですしね。

勝地さんも今回はグレたりマジだったりと田口さんとのタッグではありますが、起伏の激しい回でしたね。厭味がないからなにやってもいいってのが魅力というか基本良い人に見える勝地さんだからギャグとして笑えるんでしょうねおそらくは。にしても動きがスムーズでシャープです。逆に田口さんの方が合わせるのに大変そうかなという気がしないでもないす自分。

あと「地獄に落ちろ」と言うセリフ。「死ね」なんかよりも遥かにましな言葉ですが、「死ね」を無くして「ばちがあたる」を広めたい私としては「罰があたるぞ」と言って欲しいところです。

地井さんの「絶対番号変えちゃいかん!」あたりのお芝居は好きです。タイプです。コタツ亀の深田さんもいいですけど。そうそう方言もいいでした。ところでどうやってあんなに大量のラブホのチケットめぐるは持ってたんでしょうか謎です。それと根本的な疑問ですけどここ最近の携帯の進化を考えると20年後はたして今と同じシステムでメールが存在しているんでしょうか。それにしても計ったようにどんぴしゃのここぞいわんばかりのタイミングでのメールの着信でありました。(だからこそ盛り上がったんですけどね)

始めの発想(自慢の存在)がぶっ飛んでのスタートのお話ですが、塾長をはじめ登場人物全てありえない人達ばかりですが、回を重ねるごとにそういう人達が織り成す出来事というのが観る側に現実的にフィードバックできるような何かを感じさせてくれる度合いが増してくるような気分になるドラマです。きちんと計算されてるんでしょうかそれとも勢いで書かれてるんでしょうか。気になるところです。

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*おたまり

醤油のこと。

非常に古い遠州弁で、明治生まれの頃の人が使っていたらしい。

初めて聞いたときなんとなく意味は判ったのでどこかでまだ生きているのかもしれないが、今は醤油は普通に「醤油」と言う。

たまり醤油が普通に使われていたからかなと想像できなくも無いがもちろん定かではない。

例文

「あんもーはあんころとか黄な粉よりかおたまりで焼いて海苔で巻いたのが一番好きづら。」

  (お餅はあんことか黄な粉よりも醤油焼きで海苔巻いたのが一番好きだよ。)

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地元好きな筧利夫さん

こないだ小國神社で豆まきされてたかと思ったら、今度は県内のCM大賞の司会をされたと筧さんご自身のブログで紹介されていた。記憶違いじゃなければだけど、去年だかも確かやってられんかったけか?

以前の話だと(数ある中の抜粋)、県内のテレビ局の開局何周年とかの記念番組において軒の下とは言え炎天下の下で日差しを避けるため目を細めながらクイズの司会役をされておられたり、最近では浜松の映画祭(祭と呼べるほど確立されてないけど)で来濱されたり、勢いをかって「やらまいか大使」などという宣伝マンの任命を受けられたりと正に七面六臂のご活躍。(残り一面は凄い作品引っさげて凱旋をということで)

本当に地元に対するご本人の愛着というものが伝わって地元民としてはこそばゆいばかりにありがたいことなんですが、迎える側の対応がとても第一線でご活躍されておられる役者さんへの対応とは思えないんですけど。

別に特にこの仕事がとかいう個別な攻撃をしてる訳じゃなく、全体的ななんとなくの雰囲気として、どこぞの人気タレントさん扱いだなあと感じるわけですよ。

それというのも、浜松も含め芝居特に舞台に関しては全く縁のない生活環境で暮らしているので役者さんとしてというよりもテレビに出てる人としか認識してないからなんでしょうね多分。これでピアニストだあとかの音楽関係ならそりゃもう上を下をの大騒ぎになるんでしょうけど。

だからと言って筧さんに浜松に舞台を根付かせて欲しいなどというだいそれたたわけた事を願うつもりはありませんが、もう少し役者さんの凄さとかを知らしめたほうが待遇が変わるんじゃないのかなと余計なお世話を妄想してしまうんですわ。一応映画ドラマ鑑賞を道楽としてる者からの視点だと、ずれてるんじゃないのかなと映るんですわ。ご本人はそういうこと気になさらず嬉々としてやられておられるのが唯一の救いですけどね。

ちなみにここいら辺で芝居観賞といえばバンビツアーで名古屋の御園座観い行く位なんじゃないでしょうか。個人で東京行く好き者は非常に珍しいと書いたらウソ書くなと言われちゃいますかねえ。鈴木砂羽さんの以前のブログの記事でバーデン・バーデンでの芝居観に行くぞといふやうなこと書かれてますたけど、私の視野が異常に狭いんでせうか、殆ど初耳状態ですた。

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*知らんやあ・知いらんやあ

以前にもチラリと記事にしたが、もう少し詳しくということで。

と言っても実は共通語に訳すとしたらどう書けばこのニュアンスが通じるのか非常に悩むとこである。

知らないよという意味ではあるが、そう単純なものではない。色々とあるのでこれが全てではない。念のため。

意味1

「あんた行ってくれるだら?」

「知らんやあ。」

だと、「嫌だね」とか「知るかあ」とか「なんで私が」・「聞いて無いよ」などなどの突き放したような意味になる。

この場合のイントネーションは「知」と「や」が強く発音される。近い言葉で「知らんにい」という表現もある。

意味2

「あんた知ってる?」

「知らんやあ。」

意味1の場合もあるが別の意味合いでは「知らないなあ」とか「分からないなあ」という意味になる。

その場合のイントネーションは「や」が強くなる。近い言葉では「知らんよお」がある。

変形「しいらんやあ」

意味は「知らないね」とか「初めて聞いた」とか「でまかせ言ってんじゃないの」とか非常に懐疑的な意味になる。

「この道行くと海に出れるって聞いたけどほんとかねえ。」

「知いらんやあ。聞いたことないにい。誰んゆったよ。」

イントネーションというか言い方は「し・いらんやあ」ではない。「しー・らん・やー」で「し」と「ら」と「や」にアクセントがつく。

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鹿男あをによし第四話

面白いなあと思えるものの条件として、「時間を忘れることができる」というのがある筈。言い方を変えれば熱中集中できるということ。

その条件を今日は感じたので、「鹿男あをによし」面白いのかもしれないと思えました。無い知恵を絞りお話を反芻してみる。剣道の大会に向けての生徒達の熱い想い。己の為だけにサンカクを求めていた小川であったがそれを受け取って決意を新たにして大会に向かう。サブテーマとして藤原という理解者を得るという内容と解釈したのでありまするが。

鼠に向かって啖呵切る藤原(綾瀬さん)はかっこ良かったなあと。乗り遅れて泊まった宿での小川の決意「いざ自らを奮い立たせん」とする様も説得力あったなあと。

それくらいでしたかねえ印象が強かったのは。堀田(多部さん)は相変わらず謎だらけで行動目的もその意図する意思とかも不明のまま展開なしだし。つまりストーリー上においては大きな展開はなかったんですけどなんか見入ってました。つらつら思い起こすに、おそらく綾瀬さんが面白かったのかなと。

なんかキャラクターと綾瀬さんがリンクしてきたみたいで(観てる方がということで綾瀬さんに変化があったわけじゃないんですよね)、えらくやることなすことお約束ごと忠実に実行して笑いをかましてるのに、それ観て見事に術中にはまって愉快な気分になるんだろうなということです。玉木さんがありえない真実をシリアスに演じてるだけに、その深刻さだけだとドヨヨンとなってしまうところを綾瀬さんの能天気さで小川に降りかかる真実の重さをより浮き上がらせているのと、それに伴う重苦しさを打ち消してる効果を果たしてるみたいです。

ただ当初の小川よりついてない人生だった藤原という設定が若干かすんでるとこはどうしたのかなと不思議には思えるんですけど。別にお話しの本流には直接的に関連することではなさそうなのでどうでもいいことなんでしょうけども。

サンカクは無事手に入れることができるのか、どうやって日本を救うのか、他の使い番は誰なのか(ドラマの中で判明するのか)、ほかの登場人物は今後どう絡んでくるのか(邪魔をする奴と引っ掻き回す奴と味方になってくれる奴と応援してくれる奴と見てるだけの奴と全然関係ない奴)。

謎は腐るほど残っているわけで、やはりこのドラマは面白いのかもしれない。

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○税庁のcmの池脇千鶴さん

表現は汚いですが賛辞のつもりで書いてます。ホントに年齢詐称させたらこの人の右に出るのはいないんじゃないかという勢いの池脇千鶴さんです。

さすがにセーラー服着せたらどうなるんだろうとなると、怖いもの見たさの感は拭えないですけど、風林火山でよき正妻、ビールのcmでは元気なOLと幅の広さを見せ付けた去年。今年は頭からこのcmでやたらと生活感を滲ませる嫁入り前の箱入り娘を演じられておられる。しかも殆どセリフもないのにこういうやたらと地味に自然な存在感しかも父に言い出す際の緊張した感じから最後の「ね~え」とフニャフニャになってく変化がついてるというのは、意識して作り込まれたものであるとわかっているだけにすげえなあと感じるです。

税金たくさん払えるような稼ぎは無く消費税だけでアップアップの毎日なので私的には重要性のないcmですが、池脇さんの技を観れるということで重要なcmであります。

税金話しで脱線しますけど、国も商売して儲けた金で多少なりとも赤字を減らせば良いのにと思わなくもないです。例えば、身分証明の任意の有料発行。普通本人確認する場合お国で発行された証明書といえば運転免許証か健康保険証。だけど保険証には顔がなく免許がなければ運転免許証はない。そこでお国が証明する身分証明書を何がしかの料金を支払って作成できるようにするとかどうでしょう。

欲しくないやつは払わなくても良いわけで、資格がなくとも希望すれば取得できる。国が証明すれば充分信頼のおけるものとなるわけで、一生ものでなく運転免許みたく有効期限を設けて運用すればどうでしょう。なきゃないで生活に困るわけでもないくらいの重要性で存在すれば(盗難にあっても他に使い道が無い)どうかなと考えるわけですよ。

ときどき証明書の提出を求められても免許証も保険証もホントに持ってない人とかを見かけるとそういうものがないのかなと思うときがありましてね。こういう戯言を妄想したりするんですわ。具体的にどう実行するかまでは考えたりはしませんが。だからこそ妄想というんですけどね。

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腑抜けども悲しいよお今年もキネ旬買えなんだ

一応毎月毎月きちんと買っているんですキネマ旬報。月に二回。でも昨日は買えませんでした売り切れで。

すごすごと手ぶらで帰ってきたわけですが、なんか昨日発売で行けなかった奴が悪いという自由競争社会においての問答無用の真実は、なんだかなあという思いになる昨日を引きずる今日でありました。

去年も買えなかったんです。いつもは発売日でなくともなんとか店屋に置いてあるのが恒なんですけど。一日遅れただけで買えないのは珍しいことです。

そのいつもと違う理由は明白で、なにせキネ旬ベストテンの発表号で、ある意味年間のまとめともいえる号。これさえあれば大勢は読めるということで総括ほどではないにせよ重宝な号でありまする。

だからこういう時だけ買うと言うお得な人が多いともいえるのも納得はできるんですけど。そういう大勢の賢い消費者の方達とまともに勝負したところで利口に履行されたら勝ち目が無い腑抜けのずぼらな私です。

そうはいってもですねえ、プロ・セミプロ・映画通と呼ばれる方と自分の感性とどれくらいのずれが生じているのかを判断する良い機会なのでありまして。自身のひねくれ度合いを測るいいメーターとして使用するので是非とも読んでおきたい号でもあるんですよ。私基準じゃなくとも、プロと読者の選ぶ作品の違いを愛でるという手もあるわけですし。テレビ局とかが絡む基準だと色々としがらみに左右されて話しがややこしくなることのないシンプルイズベストなキネ旬ベストテンですから。

まあガソリンの無駄使いすればどこかで買えるんですが、いつも買わないような奴に自分の生活のリズムが崩されることに怒れる感情があるんですわ心の中に。食べようとしたら鼠に食われてたみたいな。これをお店の人にとかにあたれば当然自分勝手なクレーマーに変身してしまう訳で。危ない危ない。「いつも買ってるんだから歯抜けは厭だ。」なんて他の人には知ったこっちゃないことですからね。世の中は自分を中心に回ってるなんて絶対ありえない訳ですから。

って実際ゴネたわけでなくても、ここで書いてる事自体その素養ここにありと名乗りをあげてるようなもんですなこれがまた。でもまあなんですよ、書いてスッキリするものじゃ決してないけど自戒と言う意味で、「今後気をつけるように」と書き記す次第で。こういう感情は想っても口に出してはいけないことだと。次回自壊の磁界に引き寄せられぬよう自戒という展示かい掲示かい啓示かいってことで。

さて、それじゃ探しいかすかのえガソリン無駄使いしに。(注文すればいいじゃんという意見もありますが待つのは好きじゃないんで)

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*あんもう

お餅のこと。

古い遠州弁で、明治生まれ頃の人がお餅のことをこう呼んでいたそうである。ばあばが若い頃に大人衆が言っていたよというのを聞いた。どこをどういじればお餅があんもうに化けるのかさっぱり判らない。あんころ餅が短縮形になって「あんもう」と呼ばれるようになったのではないかと推察されるが、確証がある訳ではない。醤油に漬けてのりで巻いても「あんもう」で黄な粉まぶしたのも「あんもう」と言ったらしい。さすがに雑煮の餅は「あんもう」たあゆわんだろうと思うのだが、それは「知らん。忘れた。」と言われたので分からない。

試しに古語辞典を引いてみたら

古語辞典には「あんも」名詞①餅餡の小児語②転じてもち=あも。とあった。

という事はなんのことはない、これは古い日本語であって方言ではないということか。地域性として「あんもー」と「も」が長音化したということであろうか。

下手な推察するんじゃなかった。

「ええとこきた。あんもうくうづら?」

  (いいときにきた。お餅食べるでしょ?)

今は私の集落辺りでは誰も使っていない。

新築の上棟式で撒かれるのも「あんもう投げ」とは言わず普通に「餅投げ」という。

他の集落では違った意味使い方をするとこもあるそうだが噂の域を出ないのでここでは書かない。

例文(もしもアンモナイトをアンモと通称で言っていたとしたら)

「さっきいからやあーっとみんなして掘ってるけど、ここから何出るよを。」

  (さっきから随分大勢でなにか掘っているようだけどここから何が出るというんだね?)

「う~んそうさなあ、とりあえずあんもーとかでりゃいいだんなあ。」

  (う~んそうですねえ。とりあえずアンモとかが出ればいいんですけどねえ。)

「あんもうって、そりゃこんなとこからあ出んらあ。おかしなことしてるねえ。」

  (あんもうって、そんなのはこんなとこからは出ないだろう。おかしなことしてるんだねえ。)

「なんでえ。」

  (どうして?)

「こんなとこにあんもう埋める奴なんかみたこんないにい。」

  (こんな所に餅を埋める輩なんか見た事ないぞ。)

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*どんだけえ

2007年の流行語であるが、あちらは語尾が上がるがこちらは下がる。

どれくらいなのという意味であるが、非常に冷ややかに問うている感じになる。乗り気ではない渋々感に満ちている。これのパワーアップバージョンは鼻濁音ではない「なにがあ」(なんだよそれ)辺りであろうか。

例文

「ねえこれ買って。」

「はあおんなじの一杯持ってるじゃん。なんでいくつもおんなじもん欲しがるよお。」

  (もう。同じもの幾つも持ってるでしょ。どうしてまだ欲しがるのよお。)

「同じじゃないもん。全部違うのっ。」

「ほうけえ。しょんない。ほんじゃ安かったら買っちゃるわあ。」

  (そうなの。しょうがないなあ安かったら買ってあげてもいいけど。)

「うーんとね。この色のはちいと他のよりか高いだよお。」

  (うーん。この色のやつは少し高目なんだけど。)

「どんだけえ。高いと買やせんでねえ。」

  (なによ、いくら?高いなら買わないからね。)

「そんなこと言わんで買ってやあ。」

  (そんなこと言わないで買ってよお。)

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チオビタの菅野美穂さん

インドでヨガの巡礼をされ、たくさんの英気を養われてからというもの、働きマン・ユーキャンのcmと駆け抜ける様が印象的でしたが、新しいチオビタの新しいcmでも走っておられましたね。しかもとても楽しそうに。
この勢いで練習を積み重ねていよいよ次のお仕事は北京五輪のトラックを日の丸背負って翔けられるんでしょうか。その時にはぜひ金を取ってください。応援します。
という冗談はさておき、シンプルに「走る」という行為にもそれぞれ異なるキャラクターを重ねる風に感じられ、一体いくつ引き出しを持っておられるんだとプロの実力をまざまざと見せ付けられる想いです。

なかなかそんなしょっちゅう違う仕事(作品)を股にかけて同じシチュエーションの芝居をされるということなぞ無い事なので、これだけ短期でまだイメージが残っている状態で比較できるってことは珍しいような気がしています。

なんでど素人の私なんかでもその差異が分かると思えるわけなんですが、ただこれが菅野さんだからこそなのか、第一線級の方ならば当然のものなのかは知りません。

いずれにせよ、スッピンみたく見えるお顔の方に眼がつい行きがちなcmですがその前にも見所を感じるcmでした。

脱線しますけど、私が応援してる地元出身の役者さんは、以前演技として走るシーンが好きだと言っておられました。その理由として走ることによって何も考えなくて無我無欲の状態でキャメラの前に立てるからと言うものだったと記憶しております。その点では菅野さんの演技を載っけて走る姿の真逆をいく考えと判断できるのですが。役者さんの個性であり観る側の好き好きと言ってしまえばそれまでなんでしょうけど、私的には菅野さんの姿勢の方が好きです。

追記

3/1、このCmが評判らしくあまり色々なとこでコメントなり感想なりを見たりするこの頃ですが。結構多いと思われる意見が「スッピン美人」というフレーズ。野郎の性(さが)として当然の心理だけど、それは相手を身近な対象とした場合でのお話し。

役者さんということから云えば、逆に化粧が映えなきゃヤバイんじゃないのかとさえ思える。なにしろ化粧の効能は、・華麗・豪華・変身・野郎を寄せ付けない殺虫剤などなどたくさんある訳で。バッチリメイクが決まらないスッピン美人じゃ色んな可能性ではばたくチャンスを得られないような気がする。両刀使いが理想なのだと思うので「スッピン美人でいて」と役者さんに頼むのはどうかと思う話しのような気はするのであります。

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トラックバックの効能

私が自分のブログにおいてコメント及びトラックバックを承認制にしている理由は、記事と全く関係ない内容の物が多々あり、それが検索ワードでヒットしてしまうことで、ここ来て無駄足だったと損した気分にならぬようにするためです。

特に誰々の丸秘映像とかで男心を思い切り刺激するようなトラバが多く鼻の下は伸びつつも削除している日々です。

ところが今日はいつもと異なる趣旨のブログからのトラバがありました。内容は幼児虐待の告発と思われるものでした。もちろん私の記事にそれに関連するものはなく、明らかに無作為にトラバされたものでありましょう。大変申し訳ないのですが削除させていただきました。

でも、こういう告発の手段もこの世界には存在するのかと知った次第です。これが事実であり被害が止むことなくいまだ受けられているというのなら社会の中に生きる人間の倫理としてそういう行為を行っている人を諌めるべきでしょう。社会から抹殺するのではなく。

私に何が出来るのかという問題はともかくとして、自分のブログの秩序を維持するために、こうした声を削除したことははたして良いのか悪いのか真剣に悩んでいるところです。

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獲らぬ狸の皮予想

フジテレビの次回のドラマで「長澤まさみ」・「上野樹里」・「瑛太」の御3人方の出演による作品が決定したそうな。

内容に関しては観てナンボなので今のうちからとやかく言うことではないのですが、この話しを知った瞬間の頭の中を巡った考えを記録しとこうかなと。尚、敬称が異なるのに深い意味はありません。

*長澤さんと樹里ちゃんが共演?

両雄並び立たずの言い伝えが今も生きているのなら、近い将来(もうすでにかもしれないけど)日本映画を支える中心辺りにいてくれそうな二人が人間的にというのではなくお芝居上で上手くウマが合うのかしらむということ。根拠がある訳じゃなくて感覚でそう感じたんで。観てるだけ~の素人ですから納得のいく説明なんかは出来ないんですけど、一生横並びで出会うことのない印象だと勝手に描いていたんでしょうかねえ。

樹里ちゃんは限りなく己を排除して演出家の描く役に近づこうと努力するタイプだと推測しているのですが、長澤さんは演じていて凄く気持ちのいい瞬間というものが訪れた時役者やってて良かったとどこかで述べておられた記憶があります。かように明らかに違うとは言わないが同じとも思えない。表現が違うだけで本質は一緒かもしれない。良い悪いとかでも当然ない。結果が違うとは思えないが至る経過は異なるのかも。てなことでスタイル・スタンスとかがなんか違うイメージがあるんですよ私には。あってるかどうかは知りませんけど。

樹里ちゃんって「のだめ」で代表されるようにありえないものを擬人化ではなく人化させて違和感を観る側に与えない説得力があると思っていて、長澤さんは「南ちゃん」の時のように南に見えるかどうかじゃなくこれが南だといわれたら納得するしかない説得力があると思ってます。

私の勝手な都合としてですけど。SGファンとして樹里ちゃんは17人の中の旗頭的存在でいいときだけファンである私としては当然期待してる方だし、長澤さんは遠州人として良い時も悪い時も応援してる訳だけど。正直私の意識の中では全く違う世界にいるお二人というイメージを持っていたらしく、共演ということを聞いたとき、あ、同じ世界の住人なんだと気付いたようなもんですわ。視点が違うのをどうやって一度にふたつ同時に見なくちゃならんのだ?という観賞方法が分からないってこともあるし。いつもえこひいきしている贔屓されてるもの同士が重なってしまったら、そんときゃどっちをえこひいきすりゃいいんだという究極の選択って奴ですかね。

*これで樹里ちゃん矢口監督のハッピーフライト出演の目が「はい!消えたぁ。」か?

実はこれを一番密かに期待してただけにがっくし度は高い。

*「長澤まさみ」映画はいつ出る?

去年はわずか1本。脇もチョイもなし。今年はとりあえず1本確保。まさかこれで終いじゃなかろうねえ。

*上野・瑛太ラインは堅固だ

長澤・塚本ラインも強固だけど今回はこっちのラインかあ。ちなみに私は良ければいいんでマンネリとかとは決して思わないほうです。

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*どばか

直訳すれば凄い馬鹿となるが、意味としては当たらずといえども遠からずだが直訳とは異なる。

相手に対し発した場合は、共通語の「おばか」関西弁の「どアホウ」と同じ「何やってるんだよう」とか「真面目にやれよ」的なニュアンスとして使われる。

自分に向けて発する場合は、「失敗した」とか「ミスした」と宣言もしくは反省するようなニュアンスになる。

「どばかやあ」と言う表現の場合は、直情的な感想とか宣言的な要素が強めとなり

「どばかこいた」の場合は、反省・評価的な要素が強くなる。

「どばかだらあ?」と言うのは道化っぽい笑ってくれよみたいな使い方となる。他人に向けると当然悪口と化す。

例文1

「あ!わしどばかやあ。」

「どうしたでえ。」

「中身入れんと蓋閉めたった。」

例文2

「こないださあ。どばかこいた。」

「なにしたよー。」

「中身入れるの忘れて先蓋閉めちゃっただよお。はあボケただかなあ。」

「よくあるこんじゃん昔っからだにいあんた。自分で気いつんてんかもしれんけど。」

例文3

「こないださあ。ケーキ焼いただけど砂糖と塩間違えてさあ。」

「そりゃ喰えたもんじゃありもしんに。」

「どばかだらあ?ふんとに自分のこんだに笑っちゃったあ。」

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あしたの、喜多善男第五日

こういう類にも無知なんですが、ひょっとしてこういうのをハードボイルドって言うんですかねえ。そんなに甘くないってことで。冴えない男のハードボイルドってことなのかなもしかして。

終わりがハッピーエンドであると分かっているのなら物語の始めがどうしようもなくしんどいものでも(生理的に拒絶感がなければ)右肩上がりでドラマが良い方向に進んでさえいけばついて行けるんですよ私でも。

でもこの作品って11日目が善男の願い通りだとしたらハッピーエンドとはとても呼べないじゃないですか。しかも独り黙々と人生を閉じようとしてたのに次から次へと「パンダの箱」を地雷のように行くとこ会うとこどこでも踏んづけて中から色んな欲望とかが出てきてしまってるみたいで。粛々とかひっそりとなんてどこにも無い感じです。

そんなげっそり感を味わいながらも観続けてきてた訳ですが、先週あたりからこりゃ「ヘタレのヘタレなりのハードボイルド」なんじゃないのかと思えてきて、それならそれでエンディングがもしも「死」であっても男らしけりゃハッピーエンドかもと感じ始めてはきました。いつもの妄想気味な考えかもしれないですけど。見事男の華をぶち上げてくれるのでしょうか。散花は見事というのも男の本懐でもある訳ですし。

で、話しは変わりますけど、眞島さんが出ておられましたなあ。モロまんまのその道に生きてる人で怖ろしいったらありゃしない。ちょっとトロトロしただけで狂犬のように噛み付かれそうな雰囲気プンプンでおました。これだけ見たらこういう関係専門の役者さんと思われかねない迫力でした。あれだけ脅かされちゃあそりゃあ殺し屋頼むのも分からなくもない切羽詰まった追い込まれ方ですよねえ。それにもめげずに泣きもせず憤懣の感情が発露する長谷川(栗山さん)は心底強い人だと驚嘆します。

でも私だったら、サラ金事務所出た後にエステ券引きちぎって怒りあらわにするよりか、事務所出た後電車の行き交う騒音に紛れて嗚咽するように泣いて萎縮と絶望という負の感情を涙で洗い流したあとくらいに電話がかかってきて、後戻り出来ないという覚悟をきめたかのように「早くやれ」くらいなセリフを言って貰ったほうがもっと怖いような気になります。

今回「死ぬかと思った」のお約束が無かったですけど、ほんとに死ぬとこだったのに気付かないのはギャグの部類に属するんでしょうか。笑っていいものかどうかよく分かりませんでした。

身代金で寄付をする。ネガティブ善男の提案ってこういうことだったんですねえ。これが世のため人の為かというと、お社で言ってた「申し訳ない」という感覚の方が私的には共感できる資金洗浄の世界です。

今後は閉ざされた謎が現われるような予告編で、それと喜多善男がどう絡まってくるのかが面白そうです。本来蚊帳の外の喜多善男がお邪魔虫となって動く事によって色々とかき混ぜられて新たな真実が導き出されるのか、それとも全てが喜多善男を中心に廻っていて玉を奪い合うように金の卵を産むかのような喜多善男を巡って様々なことがひき起こっていくのか。静から動へ一気に動いていく展開になるのでしょうか。波乱万丈な喜多善男の残り火はあと6火。

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薔薇のない花屋その4

薔薇のない花屋は注目されるがボラのない魚屋はだれも気付かない。

ブラのない下着屋は変だと思われるが蔵のない質屋は不思議に思われない。

タネのない手品師は嘘だと思われるが種のない葡萄はありがたいと思われる。

裏のない花屋は商品見え見えだが薔薇のない花屋は在庫すら読めない。

一体どのくらいネタを隠し持ってるんだろうと思える程先読み出来ない展開ですわ。しかも唐突というか嘘くさいこじつけと感じさせない流れるようなことの連続で、まだ誰も全容を現していない風にも感じる。小出し小出しで最後までって勢いですかねえ。それともドカンと一発大花火ってか?

殺人事件でなくとも推理(予想)物語は構築できるという証なんでしょうかねえ。

冒頭の「良い事が起こると反動で悪いことが起こるかもしれない」というフレーズ私の口癖です。なのでいきなり美桜に親近感が湧いて参りました。そういう軽い私です。にしても今回は良いフレーズ目白押しでしたね。

「名も無き戦士」は自らの過去の鏡。元名も無き戦士ゆえに予知できるデジャブー。院長先生の恨みも逆恨みとも思えなくなってきました。

「貴方の目は」というブラフ(期待持たせ)はともかくとして全てが繋がっている構成は凄いと素直に思えます。正直口をあんぐりさせて観るしか術はないんですが、意地でもこじつけでも記事書いてやろうとしてるんですがもう限界ですわ。

もう刮目して観よ!状態です。

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水田芙美子さんについて

水田芙美子さんの特徴はその重たそうな瞼(まぶた)から魅せる鋭利な瞳だと思います。決して放出系ではなく吸収系の観察眼。その放射先は文字として噴射される感覚です。そういう意味ではお綺麗ではあらせられるけれど体から放出してナンボの役者さんとかミュージシャンというイメージではないのですけど、何故かご職業は役者さん(でいいのかな、確定申告では職業なんて書いてるんだろう)をされておられる。もしかしたらカメラマン?まさかね。

当然ですが田舎に住んでいる限り直接お会いできる事は永遠にないんですけど、メディアを通して見る限りにおいてそう判断しております。SGのDVD3枚目のアメリカでのプロモーションのためのロスでの演奏。その後におけるインタビューで他のガールズ達の多くが「愉しかった・興奮した」と感情がまず第一声として溢れていた中で、水田さんの第一声が「間違えちゃったけど愉しかったからいいや。」という発言をされてたのが印象的な冷静さを持つイメージの人です。

役者さんとしての力量については如何にせむ出演されておらるる作品数が少なく判断する時期にはあらず、今後に期待ということで。以下は物書き「水田芙美子」としての私見であります。

詩集を発表されておられますが、私は購入しておりません。がんこ高価なものではないことは存じておりますし、買いづらい環境でもないことは認識しております。しかし、私にはへし曲がった信念というものがありまして、便利で豊富だからと言ってネットなどでモノは買わず、あくまで地元で手に入るもので文化を享受するというたわけた想いです。

なので水田さんも谷島屋(浜松の本屋)に並ぶとこまで早よ上がれという気持ちです。(そのくせブログは享受してるという矛盾は抱えていますが)

基本私の立ち位置としましてはSGのファンであり、それに伴ってガールズ17名(男子含む)を俯瞰で見てるという感じです。なので「箸が転んでも許容する」(真摯に応援されてる方ごめんなさい)程ではなく良いと感じたものを単純に良いと述べる良いときだけのご都合ファンとも言えるいい加減な立ち位置にいる恥知らずのつもりです。そういう立ち位置から水田さんの文章を拝読すると以下の想いとなります。

私は物読みとしては未熟者と充分に自覚している次第ですが、理屈ではなく感覚で書かせていただきます。

山頭火の
「まっすぐな道でさびしい」
や、宮澤賢治の
「雨ニモ負ケズ・・・」
などの表現が私は大好きです。心に響きます。
書き手の姿かたちが目に浮かびなおかつ自身にも重なり膨らむ感情を呼び起こしてくれる言霊に導かれる気分になります。

水田さんの言葉では今のところ「萌え燃え~」が私には当たりです。そういう表現の才の素養をお持ちの方では?と思っています。

SGファンは年齢層が高く私もその部類に入りますので、年齢差というものはあるのかもしれませんが、本当に言霊が宿る言葉であるのなら時代年齢を超越できるものと確信をしております。
詩人として成すならシンプルイズベスト。もっと文章をダイエットした方が良いのでは。
ストーリーテラーならば言霊にこだわらず登場人物を自在に操り、分かりやすい絵を描かせるべき。
私には今のところ試行的に水田さんは二兎を追っているのではないかと思えています。だから未完成ではないのかという疑問を持ちました。勉強不足かもしれませんが長文と短文両方に卓越した作家はあまり記憶にありません。

なんでも屋ではなくいつか方向性を指し示して欲しいなと考えている次第です。個人的には長文よりも短文のほうが引き寄せられる感覚はあります。(といっても長文の世界はまだ始まったばかりなので大分様子見の域ですけど。)

「文体」という表現については、シンプルに誰が書いたか直ぐ分かるということです。匿名であっても誰が見たってこいつが書いただろうと分かることです。そういう意味ではかに座さんのおっしゃられるように完成の域に近づいているのかもしれません。でもまだ揺れてる感じがしてます。理屈ではなく直感です。なので根拠はありません。

いづれにしても要観察人物だということに変わりはありません。そういう想いです。みたまんまをスケッチするタイプでなく一度飲み込んで形にするタイプの方だと想像しています。(その割りには結構過敏ですけど)

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*くらぼったい その2

薄暗い・明かりが微妙に必要くらいの暗さといったニュアンスの意味。

野暮ったい・暗ぼったい。嫌ったいといった~ったいと言う表現は~みたいだ・~っぽいと言う風に訳せばいいのだろうか。

「くらったい」(暗ったい)というと暗い・明かりが必要と言うニュアンスになる。

「くらぼ」の「ぼ」はなんなのか。「暗暮」なのか「簿」(うすい)という字なのか。定かではない。

例文

「そんなくらぼったいとこで本読んでると眼え悪くせるにい。」

  (そんな薄暗いとこで本を読んでたら眼が悪くなるよ。)

「昼っから読みっぱなしだったもんで気付かんかったやあ。」

「たい」を「てえ」と変えて「くらぼってえ」(薄暗いなあおい)という言い方もある。

「たい」を「たく」に変える場合もあり

「わざとくらぼったくして眼え悪くしたいだか?」

  (わざと薄暗くして眼を悪くさせたいのか。)

その1でもこれは遠州弁か?と疑問を呈したけど、やはりこれは違うような気がする。

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*浜松ついこないだの昔話12

今はもう跡形もないが、昭和の時代には東田町という町があって、そこを通る道で「春雨通り」と呼ばれた道があった。今の「中央」と称される辺りの話である。

何故そのように呼ばれたかというと、「春雨」という営業当時浜松においては高級旅館の部類に属する有名な旅館があったからである。旅館という呼び名でもわかるとおり純和風の佇まいで、敷地内には蔵もあるつくりであった。

私が物心つくころ時分にはもう「昔そういう旅館があった。」という言い伝えみたいな話しであったので、往時の状況は知る由もない。

それでもタクシーで「春雨通り」とオーダーして運ちゃんが「なにそれ?」といわれる事はないくらい定着した呼び名であった。

経営された方は旅館経営ののち会社を興してそちらに事業が移られたとかで、旅館としての機能が終了したあとも売りに出され更地にされる事も無く、静かに建物は自然に溶け入る様に穏やかに朽ちていく趣があった。

街へ出るために春雨通りを歩くことが近道だったので道から建物が見えるだけで中に入ったことなぞもちろん無く、往時の豪華さは想像できないのだが、有名人はどうだか知らないが身分の高いお方が泊まられてたという話しは聞いていた。無人の建物ではあったが陰鬱なイメージは無く、町内に住んでた同級生に聞いても「お化け屋敷」というイメージはなかったとかいってたような記憶がある。

旅館の隣には東田町の屋台置き場と公会堂があって凧の準備のころになると人の行き来が賑わしい感覚が残ってる。道そのものは広くはなく普通車同士が行き交うのに丁度くらいの幅だったような記憶がある。道路的には大通りでの信号を避けて通れる利便があるらしくタクシーなどの業務で走る車は昼夜問わず利用していた。ただし東西南北を正確に向いていたわけではないのと街方向からの入り口がわかりづらいため知らない人には非常にわかりづらい道でもあった。入り口を説明する際は「駅越して板屋町の陸橋の交差点越したら、なんしょ右に寄って走りゃあタクシー訳わからんとこでみんな曲がるで、一緒んなって曲りゃあそれん春雨通りだで」とかいって説明する感じであった。

繰り返すが今はもう跡形もない。

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ロス:タイム:ライフ第一話

非常によく練られたお話しでしたね。最後は大分そりゃせつなかろうてって感じでしたけど。そもそものロスタイムという発想の勝利である訳で、取りようによっては悲劇でもあり人生の清算でもあり。一話完結で主人公が変わってロスタイムを使うのだろうけど、人によっては必ずしも満足して旅立つわけじゃないのかなとも予想出来る感じです。色々バリエーションというものが膨らみそうですがレフリーでいいんでしょうか審判の人(?)の存在感には笑えます。シリアスな展開でも持ってきようによってはコメディにも化ける可能性を感じました。

我が身に置き換えて考えるに、ロスタイム貰ってもいつもと変わらない生活するような気がしますわ。無駄にした時間ということならもしかしたら人生まるまる二度目に突入するということだし、逆に無駄なことすらないのかもしれない。

今回の主役中山はその時間をまず仕事に費やす訳で、男と言うかその道のプロとしてまあ当然の選択だろうなという共感は出来ます。それにしても突然の家族の出現で、男だったら守らなくちゃという責任感が湧いてこようと言うものを、それが叶わず最後を迎えるというに、満ち足りた覚悟の表情で終わりを迎えるというのはちょっと不思議な気がしました。最後に会えて良かったってことなんでしょうかねえシンプルに。

で、どうでもいい話しなんですけれども、DVD焼くにおいて少しでも詰め込みたくて余分なとこ編集して(CMはCMで別にと分別してるんで)るんですけど、「ここからは・・」で始まる提供読みは普通カットしちゃうんですけど、この作品ちょっとした小ネタをそこにはめてあって、今回は削らずに残すことと相成りました。スポンサー思いの作品だことと思いました。普通は短くこの先の展開をチラリですもんね。いつもだったら削りますもん絶対に。

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*ええだかいやあその2

「ええだかいやあ」(いいのかなあ。)

「なによーいかんだけ?」(えー駄目なの。)

「まあええかあ」(まあいいかあ。)

「ええらあ」(じゃOKね。)

よくある日常会話である。なし崩し的に納得する場合に使われる。

「いいのかなあ」と口では言ってるが、内心はほぼ「いいんじゃない?」って想ってる場合が多い。

内心「駄目だろう普通」と否定的に想ってるばあいには

「ええだか?」・「ええのけ?」・「ホントにけ?」

「絶対駄目だろう」と言う場合は

「いかんらあ」・「だめだらあ」・「駄目にきまってるじゃん」・「よかないらあ」

例としてあげたもの以外にももちろん他にも色々とある。

内心否定的なものを結果肯定する場合には

「しょんないなあ」を付加して行動の正当性とすることが多い。

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佐々木夫妻の仁義なき戦いその2

第三話を観て、やけに橋の上での情景が多いなという印象が残りました。おそらくなにかの象徴なんでしょうけど、ハタチの恋人のときにもそういう印象があったので、TBSドラマのお約束ごとなんでしょうか。実をいうとあまり観てないので知らないんですわTBS系は。性に合うと言うかフジが得意分野なんでTBSはちょっとね。

で、今回「戻って来いよ。」のいいセリフで離婚回避ということで、もうハッピーエンドで良かった良かったって勢いで今回が最終回でもいいような気分になり申した。

他のことでウマが合わずトムとジェリー並の仲良く喧嘩しなってことならそれでも割れ鍋に綴じ蓋ってことでまたやってるよおって感じで深刻にならずに観れるんですけど、ナレーションを含めてなにかと離婚だ離婚だと煽られるととてもじゃないけどお気楽に見れるもんじゃあありません。

来週の痴漢騒ぎはそうでないことを祈ります。夫婦で助け合うというのもたまには描いてもらわないとしんどいっす。

ところで痴漢といえば働きマンでも痴漢冤罪取り上げてましたけど、ここでもやりますかあ。「それでもボクはやってない」が素晴らしかっただけに後発としてそれより感動的なものがテレビドラマの時間枠で出来るのかしらむと思わないでもないですが、期待していいんでしょうか。

本筋とは違うとこでドラマが愉しみという悪い癖が出始めておりますが、希望としては明るいドラマとして観たいのであります。

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憑神

面白くやがて儚き男意地。2007年の作品です。

お話し自体が大変よく出来ていて面白いです。それに加えて役者さんが上手い人ばかりだから、金返せこのヤローということは決してない愉しい作品です。みんな生き生きとして江戸の町で暮らしていてすぐタイムスリップできる感覚です。

画が好きです。箱庭みたいな画面の隅々まで作り手の息がかかってるような小宇宙の世界です。野郎はミニチュアの世界に限りない妄想を膨らませて愉しめる生き物ですから、こういう世界は大好きです。細部にまでこだわりというか手(気)を抜かないつくりだから、私みたいなひねくれた性格の人間が画面のはじっこに目を凝らしてても画になってるとこは凄いです。それだけに「ここだけを観てちょ」といったお仕着せな映像ではなく、どこみてもこの幕末期のお江戸の世界観の中に自分がいるような気持ちにさせてくれます。

もちろん俯瞰視線じゃあありませんから、魅せるべきところはきちんと寄って邪念が入らないで(ほらよそ見しないって怒られてる子供みたいな感じで)お話の流れをいうものをストレートに分からせてくれる親切なとこはあります。そこいら辺は役者力を吸い取ろうとする吸血鬼みたいな感覚を持ちますけど。でも吸われてる方も決して厭なわけじゃないというかむしろ本望みたいにも思えるのであります。なんていうんでしょうね、花の蜜(役者力)を集めてもハチミツにはならなくて蜂(演出とキャメラ)が介在することによって美味しいハチミツが出来上がるってイメージでしょうか。舞台とは違った映画だからこそという思いがします。

私的には群集の画がとにもかくにも好きです。子供をいじめてる風に見えればたとえお侍さんであろうと「ちょいとあんた・・・」と義を見てせざるは勇なきなりって江戸っ子気質を感じますし、堤防現場の嵐の去った翌日の人々の疲労感(難は去ったという安心感と疲れたという感情が混ぜこぜになった空気感)が全体に広がる感じとか、江戸のパワーというのがビンビン伝わってきて快感でした。江戸のマナーって狭苦しいとこで大勢の人が接するときのお互いが不快に感じないためのルールのような気がしてるので、正直もうちっとそういうとこ多めに見せて欲しかったなあと欲深いこと想いましたけど。

まあ、個を描いても衆を描いても善しってことでとても好きな画ですわ。

ラストの江戸っ子の心意気を見せる妻夫木さんは、「かっこいい」・「ええ顔してるわ」と素直に思えました。目が輝いてるというか、お芝居でこういう顔作れるってのはやっぱいい役者なんだなと思った次第で。馬に乗ってるだけでそれのアップだけで惹きつけられるんですから大したもんです。セリフなしですよアクションも。絵になるとはこういう事を言うのかなとふと感じました。

エンディングのクレジットは、初めてでいいのかなあ?こんな手があるのかと感心しちゃいました。どうみてもご本人方の自筆署名群ですよねえあれって。音楽も米米クラブさんで軽妙で言葉遊びが映画とリンクしてるようで、映画の持つ世界観と重なってる感じがしてナイスです。DVDで見直したときまずチャプターで最初にエンドクレジット観ましたもん。

それにしても降旗監督といえば「鉄道員」のイメージで凝り固まってる私としては名は体をあらわすというか随分と降り(振り)幅が大きい意外な感じがしたんですが、原作が浅田次郎さんで一緒なんで、偏見というか了見が狭いと反省する次第で。考えてみれば原作・監督・撮影他スタッフの皆さん同一だったんですけど、それにしては全然違う印象を受けたのは確かです。いい意味で裏切られました。江戸のちゃきちゃき感がそう思わせるんでしょうか。

前作はとても叙情的幻想的な記憶があって、今度は疫病神すらひたすら人間っぽく描かれていて、特に香川さんの蕎麦屋の親爺なんて今は絶滅したであろうモロ感覚に素直に行動する典型的な江戸っ子というものを今の世に生き返らせたみたいと思わせてくれますからねえ。生きてたわけじゃないんで決め付けは危険ですけどそう感じたんだからしょうがない。

こういう強引でもなくスムーズに展開して行く物語の進み方とか破綻することなく行き詰ったら勢いで済ますなど決して無い錬り上げた印象を受けます。アイデアと言う名の思いつきではない手練手管の賜物として安心してみていられるのは、さすが活動写真の職人さんという表現が適切な感じがします。私より年長の方が作られるから無意識に大人のやることに納得するというのが染み付いているせいかもしれませんが、間違いなく全てが監督さんの手の内で世界が構築されてるなという感じは確かでしょう。

まあ、長い反抗期抜け出せずに今日に至るひねくれ者の身としては、ご出陣の際の大見得は、もう城内は官軍に支配下にある筈で、あんなことしてたらいくさ場に行く前に見つかって逝っちゃうんじゃないかとボソっと言うくらいが精一杯って感じです。あれがないと締まらないのは確かですけど。

寿司でいえばオオトロみたいな素材が命といよりもコハダみたいな仕事して手間かけた分だけ美味しくなるって喩えでしょうか。でも結構味付けは若いです。色んな事してる感じです。かまぼこにチーズ合わせたみたいな。

別にお仕着せなテーマがあるとは解釈していないのでこの作品観て何を想い感じたかなどと言う気はありません。映画として単純に愉しんでナンボという感想です。勿論、士が死を覚悟したとき如何な覚悟が大事かとか生きるとは死(終わり)を意識してこそ意義が見えてくるとかいうことを、考えれば思い巡らせられないことはないのでしょうけども、深く考えないでストレートに愉しめた者に価値と勝ちが微笑むような気がします。なんか悩むと疫病神がやってくるぞと。

唯一よくわかんないのはオーラスの部分です。意味は理解できてるつもりだけど、必要なのかなという疑問が払拭できません。

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フルスイング第三話

いよいよついに本人の意思に関わらず周りの期待としてこの地に呼ばれた訳(元プロ野球のコーチ)による軋轢と葛藤というものが描かれた回です。ドラマゆえの脚色というのは当然あるのでしょうけれども、フルスイングというタイトルに偽りなしの余計な飾りのない真っ正直な感じがしてきます。

実話がベースだと知っていなければ嘘臭い作り話じゃないのかとさえ思える程の絵に描いたような感動ものなお話しです。セリフがちくちくと心に訴えかけてくるような引力で惹きつけられます。ホントにこんな人がいたんだあと。

私は野球はあくまで高校の部活のひとつであって特別なものだとは思わない考えなので、全校挙げて応援するにおいて他の部活やってる生徒たちの練習を割いてまで(まあ自主参加ですけど)行う特別扱いってのは好きくないですけど。

そういうことを差し引いても、好きなもの・ことをやれる喜びと感謝の心によって人はより輝いて見える。それは周りを巻き込んで幸せになれることなんだと。そんな輪の中に自分もいてみたいと思えてくる感じです。それにしても何事にも前進でめげない感じに見える方です。愚痴もなければ批判もない。反省と目標に向かって邁進する馬力の力強さ。スポーツマンとはかくたるものかと元文科系帰宅部員にはそう思えてきます。

例えそれがはったりであってもかませる事が出来る人が素直に自分羨ましいッス。好きで始めたことであってもそれが仕事になったら好きな事ばかりやって済む話ではない筈です。だけど恒に好きだからやってるという心を忘れなければ、その方に重心がいっていれば、くじけることなく進んでいけるんだろうなと思わせてくれます。

ほんと人の背中観て勇気を貰うとはこういうことなのかなと思える方であり、そういう部分を上手く抽出して魅せてくれているドラマです。頑張るとか精一杯とかってのはこういうことなのかなということを見せてくれてるようで。

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*CHAN BEE

小生意気な小娘(ガキ)と言う意味。まあ、こういう言葉もあるということで。

「憶えてろこの野郎」みたいな捨て台詞的要素が強い。大人同士で言う言葉ではなく、中学生くらいがそれに当てはまる年代であろうか。いい年こいた大人が子供に言うような言葉ではない。子供に向かって捨て台詞吐く大人なんて見苦しい以外の何者でもないため。

言う方は左程強めな悪意はないが言われた方は怒りを感じる場合が多いため、非常に侮辱的な要素がある。語源は不明。「ネンネ」と言う共通語があるがこれよりも遥かに賤しめる言葉なので不用意どころか使えば必ず自爆することになる。

したがって当然一般的(日常的)に使う言葉でもないしね。じゃ書くなよって言われても一応残しとくのもアリかなと。

大人は使わず、高校生くらいまでが主に使う時期なので、今まで廃れることなく連綿と言葉が受け継がれてると言うのは不思議ではある。誰が教えてるんだ?自分は周りの同級生からであったけど。

例文は記載しないが一例として、言い合いなどで女子の正論に対して引き下がらずを得ない男子が、それでも感情的に納まらないので捨て台詞的に放つ弱犬の遠吠え「このCHAN BEEがあ。」。

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