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赤塚不二夫さんが逝ってしまわれたのだ

タイトルはふざけてるのかとお叱りを受けるやもしれませんが、真摯にご冥福をお祈り申し上げます。

様々な愛すべき個性的なキャラクターを生み出し、そのどれもが主役たりえる平等性を持ち、悪人を持ち出すことなくギャグの世界を追求された偉大なる漫画家さんでありました。

浜松ではマスコットキャラクターとしてうなぎイヌが活躍していることも含めて、とても身近な感じがするけれども、しかして誰もその領域に続くものが現われないというのは、柳の下のどじょうを狙うあざとい現実社会に生きる凡人には誰も真似できない唯一無二の存在だったのでしょうか。

ここ最近は病気との闘いをなされておられたそうで、さすがにこの巨人の新作を拝見できず歴史上の人物となっておられましたが、病気に打ち勝って新たな赤塚ワールドが展開することを期待しておりました。

高校生の時分に友人の言った「赤塚不二夫」がギャグの可能性を全て実現させたからこれ以降ギャグマンガは流行らなくなると宣言してました。現実的には4コママンガに移行し消滅することはありませんでしたが、ストーリーマンガというかマンガらしいマンガのギャグマンガは確かに息を潜めてしまった様でその予言は当たらずといえども遠からずといった現実になりました。

今はただ安らかにお眠り下さいと願うばかりです。いい作品をありがとうございました。

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ヒットメーカー阿久悠物語その2

時代の寵児に阿久悠の存在ありといった風情を漂わす時代と共に駆け抜けた印象を与えるドラマです。番組の最後に言葉の紡ぎ方についてその時代に漂っている言葉を拾い集めて形にするみたいなまとめをされていましたが、それは時代を作ったのか時代の波に乗ってたのかどっちなんでしょうかねえ。おそらくは0から作り上げるのではなくある程度の予兆とかのあるものをアンテナでキャッチ(受信)するところから作り上げていくものだったのでしょうか。何を伝えるかと言うテーマを基にメモ(資料)や起きている事象に遭遇して肉付けしていかれたのでしょうか。少なくとも単なるスケッチではなく人間の本質に訴えるテーマありきの感じがします。でなければ時代が移り変わった今でも消耗品として消えていった訳でなく歌い継がれているのは不変性があるからこそでしょう。

物書きとしての阿久悠さんといえば産経新聞に晩年連載された読み物を楽しみにしてたのですが恒に強烈なぶれない芯みたいなものを感じて、これが昭和の時代を最先端で駆け抜けた人とは想像出来ないような「不変」というものを私は感じました。もちろん当初から確固たる型が存在してた訳ではなく自己の持つ内面を吐露するかのようなねとねとした作品とかを経た後、回帰するかのように幼い頃に憧れた映画のプロデューサーのようなものを詩に籠められていかれたようですが。

ドラマの大きな流れとしては前半部においては阿久悠さんの人生の歩みとそれにともなう言葉の接し方の変化が描かれていますが、後半部分からはひとりの物語ではなく新しいうねりを作り出した豪傑達が集い進んでいくという展開に変わったように思えます。「仲間」はいいもんだとつくづく思いますです。馴れ合い慰めあう後ろ向きなものではなく向こう傷は男の誉れみたいな前向くことだけ考えていける集団は憧れます。池内博之さんと及川光博さんがいい味出されてました。なんかこの輪の中にいたい気になりました。

画の色味がなんか心に残るなと思ったらなんと長田勇市キャメラマンだったのですね。当時の映像とのちゃんぽんだからさぞかしご苦労もあられたとは思いますがとても空気感が当時のことを思い出させてくれるようでええですわ。もちろん美術部のスタッフさんの力量によるものも大きいのでしょうけど。ちなみに同姓同名の別人でなければ、長田さんが手がけられた作品は映画で「ウォーターボーイズ」・「タカダワタル的」・「サマーヌード」・「群青の夜の羽毛布」・「がんばっていきまっしょい」・バカヤロー!私、怒ってます」・「ファンシイダンス」・「歌謡曲だよ人生は」などなど観ておりますです。非常にクリアな画でありながらなにを見ればいいのか私のような素人に対してもさりげなく誘導してくれる分かりやすさがあって私は好きです。今回の公開CMのシーンとかみたいに時々斬新な画とかも見せて驚かせてもくれますし。

一回目観た時は、時代と共に歩んだ人というイメージでしたが、繰り返し観てみると自分が時代に合わせるのではなく幼少期からの経験値の積み重ねによって表現方法に幅がでてきてそれと今の時代が合致したものを引き出しから出して歌詞としたという感覚に変わりました。しかも決まりとか常識とかは永遠のものではないという信念が根底にあるようで。この人が関わる限り組織に動脈硬化なんて症状は起きないんだろうなという感想を持ちました。まあとにかく全力で駆け抜けたお方であることは間違いのないところで凄い人だと改めて感じたしだいです。

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*ちょん

意味は三通りあって、ひとつは、きり・打ち切り・切り上げるとか言う意味。

「きりのいいところで」を「ちょんのいいとこで」とは言わないので特殊というか珍しい表現ではある。はさみで端をちょんと切るとかいう表現でのちょんに近いのであろうか。意味はなんか違うけど分断する(切る)ということでは同じだから。

まあ、本当はお芝居の始まり終わりなどの拍子木を打つことからきた区切りの合図を指すらしいのだが。

例文

「やあはあ暗くなってきただで今日んとかあこれでちょんにせまいか。」

  (おーい。もう暮れてきたから今日のところはこれで切り上げようか。)

もうひとつの意味は以前にも書いたが目がよく見えなくなった状態を指す。相手に対して使うと非常に侮蔑的表現になるので、自身を笑うような自虐的な表現にのみ使われる言葉。共通語というか辞書には「ばかでもちょんでも」とかいう使い方の知恵が少し足りない事・人と記載されているが遠州では「ばかでもちょんでも」はことわざみたいなものでこれでひとつの言葉であり「ちょん」だけの単独使用の場合には目が悪い以外には使わないので

「頭悪いもんで目も悪いだあれ」とかいうのを「あたまあちょんだもんでめえもちょんだあれ」とかいう冗句は存在しない。

例文

「よく説明書見てみい。ちゃんと書いてあるだで。」

「駄目でえ、わし目がちょんだもんでよーめえん。」

「かっこ気にせんではあ眼鏡したらいいじゃんか。」

三つ目は「ちょんのま」(ちょんの間)といったような「ほんの」という意味合いでの使い方。遠州弁としてはこういう使い方はあまりしないので共通語での意味合いということなんだろうかな。

三つとも辞書に記載されているものであり遠州弁という範疇の言葉では決してないのであるが、微妙に使いどころが共通語とずれてるところに方言性があるのかなと思って記載。

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ヒットメーカー阿久悠物語その1

なにせリアルタイムで生きてたのでひたすらヤバイ感覚でした。特にスタ誕はね。

自慢になるか(自慢してますけど)もしれませんが私、「桜田淳子」のLPレコード全部持ってます未だに。なので中3トリオの中では「桜田淳子」イチオシで「山口百恵」はアンチでした。歳のわりに大人びていて私のような小僧を相手にしてるのではなくもっと実年齢よりも一回りくらい上の人に向かってメッセージを放っているようで。そこんところがアンチであり続けた理由だったのですが。今こうしておっさんになって「山口百恵」を観てみるとその凄みというのがよく分かりますです。

余談ですけど私一度だけ「山口百恵」の歌うお姿を生で観たことがありますです。知り合いに日楽(ヤマハ)の人がいてその人からチケット戴いて拝見させていただきました。有料のコンサートではなく会社か組合かどちらかの厚生福利・慰労の一環として社員とその家族を対象として無料で掛川のつま恋で「山口百恵」を招いてのコンサートを開いた際のチケットを譲ってくれて社員でもないのに観に行かせてもらいましたです。そのお姿は遠目でしか拝見できませんでしたけど、立ち姿とか醸し出すオーラとかははっきり普通の人間じゃないというのは鈍感な私でも分かりましたです。鍛冶町の西武のサテライトスタジオでキャンディーズを(ガラス越しではありますが)見た時のまるで生活感の感じられない動くお人形さんみたいな印象とは正反対の当時菩薩と評されたのが納得してしまうほどの泰然とした存在感を感じましたです。同じ一世を風靡したといっても随分と違うものだと。そういう意味ではドラマでのラスト辺りのレコード大賞の会場を退席する際の圧倒されるオーラというのはシチュエーションも質も異なりますが分かる気がしました。無料の慰労コンサートという超大物からすればやっつけ仕事であっても観てる方は納得出来るのにプロとしてきちんと「山口百恵」を勤め上げる姿は今でも記憶として鮮明に残ってます。何歌ってたのか何曲歌ったのか全然憶えてないですけど。

ところで「スター誕生」全国的にそうなのかは知りませんが静岡県では午前11時頃放送されてた曖昧な記憶がありますです。休みの日の特権たる遅起きを満喫してからそろそろと(ワクワクではなく)テレビのチャンネル合わせてて、その後で昼めし喰いながら玉置宏さんのロッテ歌のアルバム観てた流れの休みの日でした。

振り返れば綺羅星の如くスターが輩出された番組でしたが、ドラマでも描かれてましたけどガチンコ勝負なのでそうそうポコンポコンと量産されるように毎週逸材が出てくる筈もなく、結構淡々と進んでた印象が残ってますです。個人的にはこれはすげえ(歌うまい)とテレビ観てて思ったのは「岩崎宏美」くらいでせうか。「桜田淳子」以外はなんでこんなのが?って勢いでそれがあれよあれよとアイドルになってく様はこういう世界って団体戦なんだと思いましたです。

やはりスター(アイドル)と呼ばれてもそれは素材が元から輝いているというよりも個人の努力と周囲のバックアップの集合体で作られる偶像という素人からプロへの変化するのを愛でるみたいなのは小僧である私も感づいていましたから、そういう意味では神輿が出来上がっていく様を工場見学してるようなものでした。とにかく成功者よりも圧倒的に聴衆の面前で夢破れる人の方が遥かに多く出演してた番組ですからけっしてひたすら明るい番組ではなくむしろケチつけてこれじゃあ駄目だとか不遜なこと考えながら難癖つけることを愉しみとして観てた番組でした。

そんな中でドラマの中でも流れていた実際の映像観て今でも間違ってないと思えるのは「桜田淳子」だけは始めっから輝いていてとても目立つ存在だということです。ミーハーな私は楽曲の良し悪しなぞに拘らず存在そのものを愉しみとしておりましたです。人としてではなく「芸能人」としては晩節が見事とは言いがたく残念な部分はありますがとにもかくにも「桜田淳子」イチオシでした。

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コード・ブルーその5(第5話)

いくさ場のような災害現場での様々な葛藤を描いた回でした。そして、必要とされるとはどういうことなのかを問うような展開でした。色んな意味(立場)で。

トリアージという選別は以前究「救命病棟24時」でも扱われていましたけど、修羅場の中で半端ない勇気と即決の決断力を要し、しかも責任をも担わなければならないという洒落にならない行為ですねえ。

私素人なのでとてもじゃないけどよくやるなあという感心する立場でしか見れないのですが、現場に着くまでの功名心なぞ一気に吹き飛ぶのが痛いくらい伝わりましたです。映像に緊迫感が映ってました。

ありがとうといって死んでいった人の気持ちは自分も入院経験あるのでなんかよく分かる感情でした。もう七転八倒でひたすら痛みに耐えていたのですが病院に運び込まれた瞬間、ああこれで解放される我慢しなくていいんだと感じた記憶が私にもありました。そういう意味では助からずに生を閉じられた方にとっては救われたという想いを間違いなく得ていて、体は助けられなかったとしても心は救えたと考えるべきなのではないでしょうか。

それにしてもフェローと呼ばれる人と第一線で活躍される人と同じ医者という名称でも随分と心の持ちようと言うか精神性が異なるものです。患者さんの家族に怨まれておられる三井(りょうさん)にしても今でこそ冷静沈着な判断をされておられますが過去においては情に流される今のフェローと同じ心理状態だったらしいとこを提示されると決してもって生まれた資質などではなく経験を重ねることによってその領域に踏み込めるようなものらしいです。

つまりお医者さんになるってことはどこかしら心理思考の変化を必要とされる特殊な職業ということなのでしょうか。それはどんなにつらいことがあろうとも笑顔を絶やさないアイドルさんとかのように普通の感情や感性を制御しなければいけないということなんでしょうかねえ。でもいいお医者さんって患者の痛みがわかるってとことかが名医の条件みたいに描かれることがドラマで多いのとは矛盾してないのかと思わないでもないです。

まあ素人の浅はかな勘繰りからするとまず一旦リセットして冷酷無比となりその後から人情を後付けして足していくということなでしょうか。温情や憐憫の情を持ったまま成長するのは無理ということなんでしょうかねえ。どんな人間にも家族や事情があるものでそれらに配慮しつつというのは藍沢(山下さん)のセリフじゃないけどトップに立って(名医になって)から言うセリフなのでしょうか。ま、そんな藍沢も来週の予告見る限りでは一度情に引き戻されそうな展開になりそうですけど。

いずれにせよどんな職業に就いたとしてもその道のプロになるためにはなにがしかの人格改造は必要ではありますが、その度合いがお医者さんは激しいということなのでしょうねおそらくは。だけど振り込め詐欺の連中みたいに仕事と割り切ってノルマ達成を使命として良心を捨てるような人格改造までを肯定する気にはなれませんし、詐欺じゃなく全うと言われる企業てもノルマノルマそのための自己犠牲で人を道具のように押しつぶす組織というのも嫌いだし、その逆の自分らしく生きるとぬかす自己中心的な協調性のない考え方も好きくないのでやりすぎもやりなさすぎもなんだかなあではありますです。少なくとも黒田も家庭の崩壊招いてるらしいですからドラマとして必ずしも正しいと言い切ってる感じはしないですけど。どうなんでしょうねえ。

今週やけに心に残ったセリフは「人は人から必要とされなければ生きていけない。」というものでありました。藍沢は必要とされるためにトップを目指すと述べたのですが、あのシーンで白石(新垣さん)が断ち去ろうとする藍沢の後姿に向かって「あなたの腕(技術)にだけ命を預けたのかなあ。」という言葉に別の話しを持ち出して言葉を濁した辺りは藍沢もぐうの音が出なかったんでしょうかねえ。家族が待ってるから帰らなくちゃという強い想いがあったからこそでしょうから「人は人から必要とされなければ生きていけない。」という言葉を別の意味(医者はその人の生きる意思[生命力]を手助けするものじゃないのか)で切り返されて一本とられた風に感じましたです。冷酷と呼べるほど冷静な藍沢でさえその心に突き動かされて懸命に助けようとしたんじゃないのかと言ってるようで。まあわたしの勝手な想像なのであってるかどうかは定かではありませんけど。

藤川(浅利さん)と黒田(柳葉さん)の次の病院探せというとこで言った藤川の「ここしかない」というせりふ。なんか昔観た愛と青春の旅立ちという映画の鬼軍曹と主人公の会話を思い出してしまいました。藤川は今病院内では必要とされてない状態ですけど今後どうなるんでしょうかねえ。浅利さんのお芝居が上手すぎてホント頼りないお医者さんにしか見えませんから。

家族に必要とされるからたとえ手術して延命できたとしても・・・というおじいちゃんのお話しも切ないお話しでした。切ないお話しでも私ももしおじいちゃんの立場だったとしたら必要とされるならということで同じ決断したでしょうね。逆に家族の立場だったら年金(お金)目当てであっても介護に暮れる気にはとてもなれませんです。私が介護した訳じゃないんですけど介護で苦労してた母とか見てきましたから。確かに身体障害者手当てとかは生活する上ではありがたかったらしいんですが精神がしんどいです。送った後、母も一時期病は気からでしたから。

「必要」と言うキーワードは確かに生きる上での重要アイテムのようです。どんなときにおいても。そう思わせる説得力のある今回でした。それにしてもお医者さんになるには夜勤明けでランニングしたり目を開けたまま寝たりと精神だけでなく鬼のような強靭な肉体も必要なんですかねえ。

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*っか

「少ししかもっていない」を遠州弁にすると「少しっかもっちゃいん」となる。

「~しか}が「っか」に変わるということである。

なんでもかんでもこのように変化するわけではなく

「ちっとばかっか」とは言わず「ちっとばかしか」と言う風に「しか」と「っか」は併用で使われている。使い分けについては法則があるのだろうがよく知らない。多分言い易いかどうかだとは思われるが。

「野菜しかはいってない」→「野菜っかはいっちゃいん」

「子供しか入れてくれない」→「子供っかいれちゃくれん」

「ばかり」を「ばっか」という言い方と共通性があるのだろうか。

例文

「ええよなあ、たんと持ってる衆はホント羨ましい限りだわぁ。」

「そんなこんないよぉ。わしだって少しっか持っちゃいんにい。」

「おんしゃの少しとうちらの少しは次元が違うだあれ。」

「そんないやみったらしいこんいわんだっていいじゃんか。」

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正義の味方第4話

ゴンゾウにも書きましたけどゴンゾウの肉汁たっぷりこってり観た次にこのドラマみるとすっきりしたデザート食べてる感じのようなお気楽さが愉しいドラマですこの正義の味方は。

オリジナルかと思ってたんですがちゃんと原作があったんですね。勉強不足で失礼しました。そう思わせるくらいこの家族が血が通ってるみたいに生き生きして見えたんで。普通どうしても漫画に近づけていこうとすると生身の人間では無謀というか違和感を感じてしまう部分があるような気がして、原案って呼ばれるくらいの適当な距離を置いた置き換え作業が人が演じるにおいてはそのほうがいいような思いをちょくちょく持ちます。その点このドラマは役者力によるものか脚本力によるものかは判断出来ませんが味があっていい感じですわ。

妹(志田さん)は健気というよりもこれが日常という感じで悲壮感がないカラッとした雰囲気を与えてくれるところがいいですね。それとナレーションもなんか説明できないですけど非常に印象に残ります。今想うと友達の家にいって友達のお姉ちゃんが妹の為に飲み物を持ってきてくれてしかも旨くないと文句いう状況に愕然とする様がえらく印象として後引くシーンがやけに記憶に残っておりますです。ところで前回慌ててはいたお父さんのつっかけから水虫は移らなかったんでしょうか。

別に私Sな性格ではありませんが、姉が何らかの理由で暫く家を離れる状況で、妹が一時のこの世の春を謳歌するが居ないとなると淋しいという展開を観てみたい気分です。それだけこの家族の仲の良さが印象として残っていますです。一人でも欠けたら詰まんないだろうなと。一人増えても同じでしょうけど。

姉が悪さを働く時、お決まりのテーマ曲が流れるとかいったこれみよがしなメリハリをつけたほうが起伏がついていいような気がしないでもないです。だって結構さりげないことが多いですから。私みたいな鈍感な人間にはくるぞやるぞなんかいうぞと予感させるサインが欲しいとこです。音楽の話でいうとテーマ曲はどこぞで聞いた事のあるような感じですが妹の行動に被せるとよくはまる感じがしますです。

お父さん(佐野さん)の存在がお気に入りです。ただ単に姉と妹だけのお話しで妹がひたすら虐げられてるだけの展開なら見れたものじゃない所をお父さんと妹の良好な関係が差し挟まれることによって和む感じが出て心地よい気分になれます。もちろんお母さん(田中さん)ののほほんさも見逃せないところです。

とにかく内容がうんぬんとぬかすより登場人物の動く様を愉しむだけで十分な感じの魅力あるキャラクター達です。なので展開の内容とかについては特に書きませんです。

何度も書いてますが私はこのドラマはホームコメディだと思って愉しんでるんですが、原作の概要をちくっと調べたら姉の結婚にまつわるエピソードがメインとなって進行していくようなんですが、正直言うと猫被ってる姉は観ていてそれほど楽しいわけではなくむしろ高ビーな普段の姉を愉しんでる状況なので出来るなら原作からは外れてあくまでこの愉快な4人家族のドタバタをメインにして欲しいところであります。無理でしょうけど。

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ゴンゾウ・伝説の刑事その5(第5話)

まるで男祭りみたいなガサ入れの光景でした。ドラマとしてはドロドロにならずむしろカラッとしてていいんでしょうけど、現実もこうだとしたらちょっと切ないところです。警察組織とそういう世界が持ちつ持たれつのなあなあさが組織同士の温度として適温なのだとしたらそういう世界の餌になってるごくごく普通の人間が救いを求めて警察に駆け込んでも上手くあしらわれそうでなんだかなあです。

鬼平犯科帳を例にとるのも変な話しかもしれないですけど、長谷川平蔵の手下衆もそこから入る情報も確かに元そういう世界の人間によってもたらされるものですけど、彼らは更生した上での協力で、悪事を重ねる現役の悪党に馴れ合いを一切求めない厳しさがあるからこそ鬼と呼ばれ敬愛されていて、その様が清廉に映って観ていて愉しいのです。

猟犬が犯人を追い詰めるためには綺麗事ばかりではないと謳うのも理解は出来ますが、あまりなあなあなのはやはりなんだかなあです。まあお気楽なドラマじゃあないのは能天気な私でも分かる骨太のドラマですし画も好きな色味なので些細なことではありますけど。

とにかくそれで得た新情報は凶器として使われた拳銃について。ニューナンブはあまりにも有名ですがそれが採用される時の逸話が飛び出てくるのは新鮮でした。ホントなんですかねえ。それともドラマの作り事なんでしょうか。マニアではないので分かりませんがちょっと聞き入ってしまいました。

聞き取りのおじいちゃんいい味出てました。なんか意味もなく好きなシーンです。なんでゴンゾウの声は聞き取れなくておばあちゃん子だった日比野(高橋さん)の声は聞こえたんでしょうか謎です。

初回は事件発生。第2回は被害者(狙われたのは)はどっち?第3回は目撃者はいるか?第4回は被害者はどういう人物?という目に見えない成果ばかりで事件解決の糸口を殆ど見せてくれなかったのですがこの回で動きだしたようです。もちろんはずれもきっちり描くことで地道な捜査というものに説得力を増す訳ですから今までの回にブーたれるつもりはありませんです。

で、結局銃の売人逃がしちゃってあれまという展開でありますがさすがに人命尊重ですからあの行動を問責されることはないのでしょうけどクッションよく間に合ったものです。それとは別口で鶴(ユイカ)が違う方向から糸口を見つけたみたいで随分と今までの回と比較すると進展がありましたです。

事件とは違う点でいうとゴンゾウ(内野さん)の心の病の一端が見え隠れいてましたですな。飛び降り自殺とかで。なんでとかいう動機はなにも語られておりませんがおそらくこれが晴れた時が真のドラマのエンディングなんでしょうか。発作に襲われた時の様は舞台見てるみたいで迫力ありましたです。

ゴンゾウの心の病というキーワードがあるとはいえ、えらい本格的な刑事ドラマのような気がするドラマです。初回から観てると変身ショーを眺めてるような感じにすらなるゴンゾウの変貌ぶりです。個々の人間の苦悩とかもきちっと描かれていて見応えありますです。個人的にはゴンゾウで重厚感味わってその後の正義の味方でお気楽に愉しめてとディナーとデザートがついた豪華な水曜日という感じでバランスいいです。今まで水曜日はドラマひと休みの日だったんですけどね。

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*けなるい

実はこの言葉私にとっては外来種というか名古屋辺りからの輸入物で、その意味はけだるいの訛った表現だと暫く(ずっと)勘違いしてた。

正しくは羨ましいとかいう意味らしい。

古語辞典には「けなりい」{口語活用の形容詞}うらやましい。「けなるい」とも。とあった。

色んなサイトとかに伺うと遠州弁として登録されてるところもあるのだが、少なくともうちの集落では他所から入ってきた言葉という印象が強い。

意味さえ正確に知らなかったくらいというのとヒアリング専門で自分では使ってないので、応用の例文作りようがないので割愛させていただきます。

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*ひどいことゆうやあ

キツイ冗談だなあ・勘弁してよとかいった感じの意味。

「ひどいことゆう」がなんてことを言うのみたいなきつめな表現に対し「ひどいことゆうやあ」は勘弁してよーとかにも訳せる洒落の言葉である。したがって拒否的なニュアンスは薄い。

頭に「う~」がつくことが多い。

もちろん言葉のまんまの「酷い事を言う・失礼しちゃうわねえ」という使われ方もする。

例文1

「おはよう!今日も元気にいかざあ。」

「えらく元気じゃんかあ。どうせきんのうみたく早退するつもりでおって気い楽だもんでだらあ。」

  (やけに元気じゃないか。どうせ昨日みたいに早退するつもりだから気が楽になってるんだろ?)

「う~ひどいことゆうやあ。きんのうだけじゃんかあ早引けしたの。いつもじゃないだで勘弁してやあ。」

  (きつい冗談だなあ。昨日だけじゃないか早退したのは。しょっちゅうじゃないんだから勘弁してよ。)

例文2

「あれえやっとかぶり。ちいと見ん間にぶくった?」

  (おやあ久し振り。暫く見ない内に太った?)

「う~ひどいことゆうやあ。ぶくっちゃいんにい。」

  (失礼しちゃうわねえ。太ってなんかいないって。)

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モンスター・ペアレントその6(第Ⅴ話)

なんか完全犯罪を暴く推理物のような印象を受けた回でありました。正義が逆転するってのは色々と伏線が張られていないと唐突過ぎてついていけないんですけど、そこは言い出せない校長シンパのお母さんが存在してましたし、先生の目とかも泳いだりしていたり校長のやけに強気な自信の固まりも(結局は保身でしたけど)保護者の狂気一歩手前みたいな押しの強さもあいまってよくでけてたなあと思いますです。

最初のどうみても保護者がモンスターだと思わせるような教員室でのひと悶着からドラマが始まり今回もかいと思わせておいての最後のどんでん返しは見事たばかられた感じです。ま、雑誌社へのタレコミで誰が裁判回避のためにやったか読めた時点でそこはかとなくは分かりはしましたけど。で、伝家の宝刀タレコミが見事功を奏し周囲からのプレッシャーから保護者の心が折れて、ついに長いものには巻かれろという決着でなんだかなあと思わせといての実は・・・・という事実が出てきた時。高村さんどうせすべえと思っていたら凄いタイミング(晴れの舞台)で説教食らわす高村(米倉さん)がおられました。天国から地獄へ一気に落とすなんちゅうお人だと感服いたしました。そこはさすがドラマ、劇的でした。その後特に追い詰めることもなく武士の情けとばかりに後は貴方の良心にという決着のつけ方はおよそ弁護士さんらしくはなかったのですが、それだけ教育の現場のことを分かるようになってきたっていうことなんでしょうか。この依頼を受けるかどうかの相談してたシーンで教育長さんが退出間際に何か言いかけたけど呑み込んでしまったのは一体何を伝えたかったのか私にはよく分かりませんでした。なんだったんでしょうねえ気になりました。

それに一度マスコミで白い目で見る癖が植えつけられた周囲の目というのが、校長の一身上の理由というのでは悪しき傾向が拭えずにいるに違いなく。両方痛み分けではなく痛み負けで終わってしまったともとれますです。まあこれ以前から監視カメラの設置だのプールの温度管理の徹底を要求したりだのモンスターらしき兆候をみせてはいたのだからひたすら可哀相にという不憫な情は起きませんでしたけど。

いづれにせよ今回のモンスターは私にはマスコミはやはり怖ろしい凶器の存在とだいうのと保身に走るとろくでもない結果に陥るんだという二点を感じましたです。素直に生きるのと正直に生きるのは必ずしも一致しないものだと。立身出世名誉欲に対して素直に生きるとなると事実をもねじ曲げることは正当化される言い訳になるのかしらむと。思惑通りに進んでたら晴れてカリスマの道を堂々と進めたでしょうしドラマの展開の通りに事実隠蔽がばれても蛙の面に小便な心持ちでいれさえすれば思惑通りと同じ結果になれたんですから。示談(手打ち)が済んだ以上良心があるかないかだけですものね。これが奉仕の精神の教育現場だから職を辞す決着が善ですけど、商売繁盛ノルマ達成こそ至上命題な世界だったら絶対結果オーライ、よくやったと評価され飲んで忘れてさあ次だ!ですものね。なにしろ法で裁かれて無いんですから。そういう意味では民間から来られたとはいえ心は教育者だったんですね校長は。

この回まで観てて思ったのは、本人(生徒)がどう思ってるのかとか事実はどうだったのかって聞いたほうが早くね?でも親と先生の対峙ばかりでなんでそうしないのかという謎。

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太陽と海の教室第2回

なんか惹きつけられるドラマです。さすがに高校の学園生活という状況は青臭いんで見てられないとこも節々ありますけど観てて愉しいです。

この回は愛情の屈折した灯里(吉高さん)と自らの感情を押し殺して見守るしかできずにいた八朗(濱田さん)のお話し。後押しする櫻井(織田さん)の説法が気になりましたです。「本気で好きになるってのは馬鹿になることだよ。」。それって大人に言われる話しなのかと。普通そんなのいつまでもガキじゃないんだから社会の中で生きるために押し留めて大人になれって逆の説教される筈なのにねと。そんな逆のことあえて言われなきゃならない彼らは無理して大人(社会)の都合に合わせてる状態ってことなのでしょうか。

ある意味まだ自分はなんにでもなれると思い込める時期であって、しかしの現実とのギャップが納得できなくてそれを埋めるために訳のわからん自分を変身させるアイテムの通販に興味を示すような頭の中と現実との距離が物凄く広がってる時期じゃないですか。おそらく人間なんてそうは昔と変わるもんじゃないでしょうからドラマの中に出てくる彼らは相当頭の中を押さえつけて現実を優先させていてストレスがさぞかし溜まってるんだろうなと想像されます。

皆賢くなりすぎたんでしょうかねえ。物事には段階というものがあってそれを一段づつ確実に登っていかないとどこかなんでもないところで挫折したりしてしまう脆さが出るんでしょうか。大人の言いなり(現実の都合)になって子供としての時期にすべきことをせずに大人の階段昇っちゃ駄目だよと櫻井は言いたいんでしょうか。自然回帰ってことなんでしょうかねえ。まあ確かに最近の犯罪のニュース見てるとガキじゃあるまいしって話しが多くて明らかに経験値が少ないと思える事柄が多いのは確かですけど。

そういう若気の至りの失敗を見守る大人がいなくなったからしょうがないと言う被害者達なのですけどはたしてそれを一手に引き受けることが出来るんでしょうかねえ櫻井さんは。少なくとも校長はそう期待してるみたいですけど。

理事長(小日向さん)の行動とかはドラマっぽくて、櫻井(織田さん)の破天荒な行動・思考もぶっ飛んでいてドラマっぽいんですけどそれなりに観たことあるような設定で斬新さがあるという感じではないのですがこれに生徒たちのそれぞれの動きや心のブレが重なることによってはじめて観るような群像劇でニュータイプ性を感じさせる不思議さがあるドラマみたいな感じになります。それに胸に手をあてると櫻井なにかに変身するみたいだし。やはり役者陣が豪華だと見応えがありますな。誰をいじっても話しになるし、いじらずに自由に泳いでいてもそれはそれで伏線っぽく見えて深みが増すし。

きちんとしたホテルで煙出したり廊下で大声だしてりゃ普通注意が飛んでくるでしょうにとかいう至極当然なツッコミはありますが、こんなシンプルな櫻井の挑発にいとも簡単に乗る生徒たちってよっぽど待望していたんでしょうかねえこういう大人を。彼らの破顔一笑の姿を見るとなんか逆に切なくなって参りますです。

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あんどーなつその4

國村隼さんはやっぱしれっと上手いっス。人間の付き合いの深さを挨拶ひとつで表現してしまうあたりなんざもう脱毛ものです。余分なものが映えてないってことで。シンプルイズベスト。しょっぱなの「うな勝」の旦那との挨拶するシーン観てそう思いましたです。

しほりんも親方とかおかみさんとかへの神妙な表現と恋人?友人?に対する弛んだ表現が使い分けられていてしかもカマトトぶってる風に見えてしまうえげつない訳でもなくニュートラルな内面(うちづら)と外面(そとづら)のメリハリが自然でさりげなく上手いっス。

裏表のないおかみさん(風吹ジュンさん)。しかも気配り上手ときたもんだ。恩着せがましく厚かましくもなく気づかれ(ため息)いつするんだろうと変なとこに興味がいってしまうほど良く出来たお方です。そういう意味でかくあらんと願う理想みたいな人物を厭味なくよいしょと景気づけせずとも何気に肩肘張らず演じておられる風吹さんもすんごいス。

この回のドラマの展開は、住み込みとなって浅草の住人となったなつ。そうなったことによって今までのお客という目線だけでなく歓迎会されたりの普段付き合いの輪の中に入りそれなりの息遣いを感じることとなる。そんな中で目に見えない成長の成果というものに人生の勝ち負けという要素がこんがらがって目先が霧に包まれしかも後輩の存在との比較で優劣まで妄想してそこから逃げ出すように思わず飛び出してしまった同じ境遇の職人の卵と出会う。人の振り見て我が振り直せ。そう思っていたら今度は自分が凡ミスかまして人の事言えた義理じゃないことになりへこむ。はてさて明日に向かってどう心を立て直すかなつ。という展開。

「そういうことだ」という親方の言葉でその意を汲み取れるなつは賢い人のようです。何?それ。食べてないから分かんないじゃんと思いながら観てましたが、その後迷える弟子同士の遠く見つめてのぼやきの中で答えが呟かれていたようです。ですが当たり前すぎてなんか分かったような分かった気になっただけなのかよく分かりませんです。言わんとしてることは分かるんですけど、職人の道は深いです。技術を持たない人間には計り知れない領域ですこと。私らいつも同じように上手くいくはずがない、トラブルを如何に上手く潜り抜けるか臨機応変こそ命という人種なので。もう根本的に発想の元が違うようです。

飛び出した弟子が気まずい中戻った際の土下座は誠実でありました。土下座は屈辱・屈服を表わす行為ではなく誠意を表わす行為なのだと。それを迎える親方の「言葉にしなきゃ駄目だ」と諭された上での「言葉」は感動しましたです。オールクリアって勢いで気分爽快でおました。

色々となんとかにまつわるホントか嘘かの由緒話しが一話にひとつ差し挟まれていて、ためになるのかならぬのか。少なくとも現実に観光で行く時には趣が増すワンポイント観光アドバイスみたいな要素がありますです。前回は「お猿さん」今回は塔の元建ってた所での願掛け。その前はなんでしたっけ?見直す暇ないのでその内にということにしますですが、

決してとんでもない出来事が起きるわけでもないのに一気に引っ張られるこの感覚はどこから湧いてくるのでしょうか。役者力によるものもとても大きいのでしょうけど江戸風味を嘘くさくなく自然に表わしてるとことかも結構大きいような気がしてくるご町内の皆さんの雰囲気です。王道のドラマは私好きなほうじゃないんですけど決めのセリフがホントはずれなしでこれは観れますです。イケメンも美少女も出てこない作品ですので若い衆がついてこれるかは知りませんけどこれはよくでけたドラマでおます。私にはそう映っておりますです。お金や欲より大事なものがあると想って生きてる人達を観るのは羨ましいと思えるのか心が和らぎます。怒る叱るということがどういうことなのかしっかり見せてくれるところもいいですよね。

ただ相変わらず真っ白いお天道様の光りってのは理解できないですけど。

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*ふんだだこんあらすかあ

そんなことある筈ないだろうと言う意味。

「そんだだこん」(そんなことが)の「そ」が「ふ」に変化している。

「あらす」という表現が非常に特徴的でもある。「あらず」ではないところが味噌。

どこぞの方言(多分名古屋)で「何を言ってるんだ。」を「なにゆーとらす。」という「らす」と同一とも思われる。

例文

「今日もまた早く帰るだか?残業もしんで。マイホームパパさんわ。」

  (今日も残業もしないでマイホームパパさんは定時で帰るのかい。)

「ふんだだこんあらすかあ。家じゃ邪魔者扱いでえ。」

  (そんなことはないよ。家じゃあ邪魔者扱いされてるもの。)

「じゃなんでいつもちゃっちゃと帰るだ?仕事うっちゃって。」

  (なら、どうしていつも仕事途中で切り上げてとっとと帰るんだ?)

「こんぞうの塾の送り迎えしんとおっかさにどんじかられるもんで。しょんねえだよ。」

  (息子の塾への送り迎えしないと女房にこっぴどく叱られるものだから。しょうがないんだよ。)

「そういうのも含めてマイホームパパさんっつうだ。幸せかどうかなんてとんじゃかねえわ。」

  (そういうのも含めてマイホームパパさんって言うの。本人幸せかどうかなんて関係ないよ。)

「そんなもんかねえ。」

「おっかさ怖いつったってあんまし度が過ぎると会社でいらん子だっつって嫌われるにい。」

  (奥さん怖いからと言ってあまり度が過ぎると会社の上の方に目をつけられて居づらくなるよ。)

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ルーキーズ第11話

もし原作が存在してなくていきなりこのキャラクターがテレビの中で飛び跳ねていたら、間違いなく現実から離れすぎていて引いただろうなと思います。

原作で道を作っていてくれたからこそ実際の人間が飛び跳ねても違和感なく熱さを堪能できたし原作に近づこうという努力が作り手にもあったなればこそ楽しめたのではありますが、先が読めるというか知ってる通りに進む多少醒めた部分もあり、マンガとの比較をついついしてしまう悪い癖に火が点いたりして、原作のある作品の中でもいつも以上に一長一短あって、どう愉しめたと表記すべきなのか難しい作品でした。結論からいうと「え?もう終わりかよ」って感じです。

不幸なことに途中何度も中断期間があって燃える勢いが持続せず多少冷静な目で見てた節もあるのと、原作の川藤という人物がやはりお気に入りで、その川藤のキャラクターは普段はすっとぼけた可愛げのある人物で肝心のいざという時ここぞ言う時にはまるで変身するかのようにキリっとしてきっちり決めるという二面性が好きなんです私。ドラマでは熱血一本槍で幾分キャラに馴染めないうちにエンディングに突入してしまったのが残念な部分でありますです。これはこれで否定するつもりがなかったので馴染める余裕が欲しかったところです。そういう意味では大分はしょった部分とかの処理が私の感性に合わなかったです。

でも、愚痴はともかくとして最終回は、いなくなってはじめてその存在の重さを知るという展開、やせ我慢の美学とそれに応える心意気。精神が肉体を凌駕する目的遂行の為の根性。野球を通して感動を周りに与えるという本道的な展開でした。選手達だけでなく試合の行方に一喜一憂する周囲の様の描き方は好みでした。

それで今度続きが映画化されるとのこと。役者さんの面子がこれだけ揃ってるのだからあって当然というお話しではありますが、ドラマのしょっぱなの部分を映画にしたほうが良かったんじゃないかと思わないでもないところです。喫煙ばかばかだし迷走で喧嘩だらけの荒廃した風情だし、決してテレビ向けの状況ではなく、どうしても手加減せざるを得なかった部分も多かったんじゃないのかなと想う訳ですよ。でもこれが映画なら多少はそう言う制約とっぱらえるのでもっと自由闊達に描けたんじゃないのかと。したがって映画→テレビ→再び映画って流れの方がよりスムーズだったんじゃないのかなと勘繰ったりもしますです。

役者さんについては文句ないのですけど、音楽と試合の緊迫感が一致してなくて情感を描く方に傾きすぎてた印象がありますです。選手の荒い息づかいに臨場感が得られなかったのは遠大なクラシックぽい音楽でかき消されたのかもしれないと思いました。それと全体通して、耳をそばだてる立ち聞きシーンががんこ多いような印象があります。面と向かって言えないことでしょうけど結果としてみんなに伝わっていることで話しが進んでいるのなら作為的に聞かせようとしてわざと気づいてない振りして聞こえるように物を言うというのはいやらしくていいとは思いませんが、偶然聞いてしまったパターンばかりでなんか他の伝達方法がないものか検討していただければ嬉しいんですけど。

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27時間テレビその2

調和を求めない。無意識にぶっ壊しをしようとしてるのはたけしさんだったみたいでした。さんまさんは総合司会という立場がやはり重いのか刹那的ではありますが全体の流れを重要視されてるようでした。ネプリ-グの決着への顛末みてたらそう思い直しましたです。

その1書いてた時はネプリーグ見てなかったのですけど、ネプリーグと19時台の反省会みたいなトーク見てたらなんとなくそう思いました。

それにしてもめちゃいけと合体すると何故か野蛮で粗野な印象が増す感じになります。めちゃいけは若気の至り的な要素が開始当初から衰えずキープしてるからそれはそれですごいことなんでしょうけど、喧嘩とか感情のぶつかり合いを楽しんでる様は本人の一所懸命を茶化し囃し立ててるようで残酷な印象を受けます。

車への落書き・エンディングでのぶち壊しとたけしさんのぶっ壊しとめちゃいけ+さんまさんの人間関係ぶち壊しとは異質だなあと思いました。ま、これについては正直他人及び他人の物を傷つけて悦に入ってる悪趣味じゃないかという感覚が私にはあるのでぽん菓子での乱入以外は好きな部類ではありませんけど。

思い起せば昔のレンジローバー弄りもリアルタイムで観てましたけど、あの時も不快な気分が湧いたのを思い出しましたです。あれを思い出のシーン1位に持って来る感性の違いが私にはあるようです。

それと明確に大御所と中堅と若手という区分があるものなのですねお笑いの世界って。師匠と弟子の関係性なんて薄れてきていると思ってたんですけどどっこいしっかりと生きてるんだと改めて感じましたです。そういう大御所さん達が素人さんや半素人みたいな人達を弄っている番組を最近多く見てるから棲み分けが進んでいて、前座から始まりトリまで進むという同じ土俵で違いを見せ付けるパターンを最近見ていないのでその「腕」と称される違いをある意味感じたのは確かです。

全部制覇して見た訳ではないのですが、その中で1番を挙げろというならば、「今夜も眠れない」での中居さんとのトークが相変わらず一番愉しめました。聞き上手なんですねえ中居さんって。改めてそう思いましたです。突っ込むわけでもないせいか変に攻撃的でないさんまさんもいいです。二人の会話を邪魔する役どころの佐々木さんへの攻撃的なアプローチも対比的でだらだらとずうっとこの会話が続いてもいいなあと思うコーナーでした。

グランドフィナーレでのビギンさんの歌も感動的でしたしその後のたけちゃんマンの乱入はフジテレビでしか味わえない世界だなあと思います。これを善しとする社風がある限りフジテレビは私のお気に入りの作風を創造してくれるテレビ局だと思ってついていけますです。

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*つみくる・ちみくる・つみきる

「つみくる」と「ちみくる」は抓る(つねる)。

例文

「いやだやあ。蚊にさされちってえ。痒くて堪らん。」

「ほんなもん掻いたりちみくっちゃ駄目だにい。かえってずうっと痒みん収まらんくなるでえ。」

「ムヒかなんかない?」

「それがないだよ。だで爪で十字切っとけ。」

「ちみくるのとどう違うよお。」

「知らん。知らんけどそうせる奴いるにい。効くかどうか試しいやってみい。」

続きを読む "*つみくる・ちみくる・つみきる"

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Tomorrowその4

このドラマは展開が妙で冴えわたってる感じがしますです。

大きな流れは現代が抱える地方の市民病院の病院経営の理想と商売のギャップを描いているのですが、それと平行して挫折した人間の再生をも描くという両輪ですが、それ以外にも地方であればこそ病院に求めたい希望を具体的に映すこと、人は人を許せるものなのかどうかとか、愛子(菅野さん)と森山(竹野内さん)との関係はどうなるんだとか。結構欲張りじゃないのかと思ってしまうほど描き出そうとするテーマが多いのですが。交通整理が行き届いているのか雑多に煩わしくなく分かりやすく描かれていると思いますです。

告知と言う表現は適切ではないのでしょうけど、森山が愛子に医療ミスのことを告げるのが今回のヤマ場だったのでしょうか。森山から告げられた時の事実と状況(最も信頼している人が実は最も対峙すべき相手であった)を飲み込めない菅野さんの表情がやけに印象に残りましたです。もちろん告げる側の竹野内さんの背筋を伸ばした姿勢もインパクトありましたけど、まあここは複雑怪奇な祝事と弔事が同時にやってきた運命の皮肉に対してどうしたらよいのか決断できない心情をきっちり魅せつけた菅野さんがよかったなあということで。

でもまあなんですかねえ、こういういやあな展開。雨降って地固まるどころか台風一過の爽快さを得んがための二人にとってのとんでもない試練なのでしょうけど、甘ちゃんな私にとっては観ててしんどい限りなのでそそくさと休戦して欲しいところです。しかしながら脚本家という名の神様はまだ来週以降もこの試練の決着を引き延ばすおつもりのようでちとしんどいとこではあります。もちろん姉妹にとっての怨みつらみの対象者である訳なのですから、そうホイホイと簡単にしゃんしゃんと手打ちできるほど安易な怨念ではないので両者の葛藤というかしこりは当分続くのは理解できますけど。暗雲は当分晴れそうにないんでしょうね。決着はともかく多忙でそれどころじゃない状況が続いてまずは一時休戦にして気がついたらいつのまにか許し許されるというなあなあの展開でもいいからこの話しでお互いの葛藤を描く時間をかけては欲しくないところであります。やはりメインは病院の再生であって欲しいなと。

それ以外に印象に残ったのは「朝陽を観ろ」という説教辺りとかは説得力ありましたです。確かに朝陽浴びると今日一日頑張ろうと言う前向きな気になりますもんね。夜行性の私がほざいても説得力ないですが反面教師ということでこれは真実だと思いますです。よからぬことは夜の思考からであって、世の中広いとはいえ朝から絶望してる人あんまりいないですから。

それと雨の中のシーン。このくそ暑い時期の雨降らしは納涼で涼しげに映りました。普通に考えれば傘指すなり合羽着ろよと突っ込みたくなるドラマならではの光景ですが気持ち良さそうに見えた不届き者な私です。おばあちゃんを探すヒントの写真で、おばあちゃんが見ていたものが灯台と舟の勘違いから発見するのに手間取る展開はその前の「朝陽」の話しがあっただけに確かに勘違いするわなと納得しましたです。

その今回の主役ともいえるおばあちゃん。波乱万丈の晩節でありました。人を二人救い(少年と森山)おとうちゃんの後を追おうとするも周りの親切に支えられ立ち直るも生命力続かず再び病院に戻りて生を終える。おばあちゃんの言葉で決意した森山の未来もこれと同じように暗転してしまうという暗示なのでしょうか。

気になったというか違和感を感じたのが「しちょう」という言葉。「看護師長」だから「師長」と理屈で考えれば当然そうなんですけどいまだ「しちょう」と言われれば「市長」をイメージしてしまう私にはざらつき感がありましたです。その「しちょう」さんの言われた「適正な患者さんとの距離」というのが森山達のマンツーマンな距離よりも確実にリアルだと思えます。あまりひとりひとりの患者さんとの距離が近すぎると嘘っぽくみえるのでそこいら辺のさじ加減によってはこのドラマの評価が大きく変わるような気がしますです。患者も医者も同じ町に住んでるむこう三軒両隣を拡大したみたいなつきあいで暮らしてるような狭いエリアならありえそうですけどそんな過疎地でもなさそうなんで。

とにかくこれで森山の味方はかろうじて仙道(岸部さん)くらいなものでまた孤立してしまうのでしょうか。それと遠藤(緒川さん)の母親(?)の植物状態は今後どうなるのかそれによってどう医療に対する考え方に変化が生じていくのか。相変わらず相当の腕がある筈なのに地方病院の再建に関わるという二束のわらじを履いているのかと言う疑問。お金が必要というのなら腕一本の方が稼げると思うのは素人の浅はかさなのでしょうか。

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27時間テレビその1

昨日からひたすら観ておりまして、ドラマは録画して後で観ようと優先順位がいつもと逆転したバラエティ優先の土日を過ごしておりまする。

それにしても時代が遡ったみたいで、懐かしいのだけれどパワーは懐古だけに留まらない凄さを感じますです。基本ひょうきん族のパワーそのままにという勢いなんですが。

私は全員集合を観てた方なのであまりひょうきん族は観ておらず全員集合終了後のひょうきんでも後期の部類しか知らないのですがそんな数少ない筈の記憶が甦るって感覚になるくらいなのですからこれはやっぱり凄い話しです。

もう少しリアルタイムを思い起すと、ずうっとお化け番組と呼ばれた全員集合が視聴率でひょうきん族に抜かれたと衝撃と時代の移り変わりをもって大々的にニュースになった時も、最早学校での「昨日のあれさあ」という話題がひょうきん族一色に染まりまったく会話についていけず浮いた感情を味わっても私は最終回まで全員集合観てました。ひょうきんはとにかく実験的で即興的といってもいいと思うのですが感性が売りの雰囲気があり全員集合は練りに練られた芸という技術が売りという違いが私にはあって、ひょうきん族の当たればでかいがはずれもあるという質の一定化があるわけでないとこよりも、ドカンというものはなくてもはずれなしという安定感のある全員集合が当時の私の好みでありました。

最近のバラエティには究極の空気読みショーというイメージがありますが、ひさびさに自身の感性に正直に動き喋り空気は読むものではなく入れ替える方が新鮮で美味しいという、予想外の先のことより今全開、後先考えないで今全開という終わりやまとめを意識しない予定調和や役割を破壊しまくるこの光景はやはり新鮮です。若さに任せての粗暴な振る舞いならば反感も買うのでしょうけど今はみんな大物クラス。そういう人達が率先しているのだから説得力がありますです。

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*こねくる・こねくりまわす

捏ねる(こねる)・捏ね尽くす倒すの俗語的表現ということで方言ではないのだが、古い表現なので全国的にはもうあまり使われていないであろうが、遠州では普通に現役として生きている表現である。

似たような表現に「いじくる・いじくりまわす」というものがあるが、どっちにせよ上品とはいいがたい表現である。

「くる」・「くり」の解釈については「くり・くれ」という別記事で検討しているところである。(私見であって正しいかどうかは定かではないが)

例文

「この知恵の輪難しいわあ。解けやせん。」

「そんなもんこねくりまわしゃあとれるらあ。」

「そうゆうの知恵とは言わんだにい。」

「はずれんくてやっきりこいたまんまよりかはずっかええらあ。」

  (はずれなくてイラついたままよりはずっといいんじゃないの?)

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