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トップセールス第1回

夏川結衣さんが出演なさるから観ようと思った訳ですが、これにはまっちゃうと私1月期はテレビドラマ観過ぎたという反省から4月期は抑えようとした野望が観たい欲望に負けるという結果になっちゃうんでとてもシビアに観てました。

内容はタイトル通りのセールス立志伝の一面もある訳で、営業でいい思いしたことがなくしんどかっただけでつくづく私は作業の人間であると確信したくらいなので正直セールスにおける苦労とかはトラウマっぽくて見たくないのですが、そういう面でなく、社会の風潮と闘うチャレンジャーの面と人を魅了する人格者の一面とかで惹きつけられたら面白いと感じるかもという期待はありました。まあそれ以前にやっぱ夏川さん観たいってのが一番の理由なんですけどねホントのところは御託並べんとまあ見んべえと。

で、しょっぱなから歳をさば読むのが女優さんの務めとばかりに華々しく年齢詐称されてましたなあ。とても品のあるおばあ様に化けられて成功者(人生・仕事の両面)という風格をあっけにとられるほど演じられておられてスゲーと感嘆してしまいました。そしたら今度はいきなし24歳にと変身されて。これくらい変身されるとかえってバレづらいんでしょうか特にはなんにも感じませんでした。ま、そんだけさりげなく上手いという証なんでしょうか。そいでも同級生達で集うとやはり比べちゃうのは悪い癖だと反省する次第でありました。

時代的には寿退社はOLさんの花道という感覚は理解できる時代でありました。それだけ子育てというものの重要性が社会の生産性よりも重要視されてたということなんでしょうか。しかしそういう人達が育てた子供がええ歳こいて切れやすかったり引き篭もったりと社会性が一部欠如した大人を増殖させたという結果が残っている事を考えると、結果というか母親に全て任せ夫は働きづめで家庭を振り返らないという方法は一概に正しいことではなかったとも言えるのでしょう。

そんな受難の第一弾を乗り越えてセールスマンの道を歩き始められる訳ですが、蟹江敬三さんとのシーンは迫力ありましたです。セールスの苦労シーンについては先にも書きましたがあまり見たくなかったんで、私的にはここのシーンが今回のメインの見せ場に思えました。ズルして土曜スタジオパーク見たんで、そこで夏川さんがこのシーン(蟹江さんとのシーン)のことを熱く語られていたので益々そう思えて観てました。

でまあ一応苦手なセールス苦闘シーンですけど、つっけんどんに断った旦那さんのセリフも理解できますわな。車は売って関係が終わるのではなく車検点検修理と長い付き合いになる。だから結婚退社して直ぐいなくなってしまうであろう人は信用できない。というのは当時の常識からしてみれば至極正論のような感じがします。個人の能力とは関係のないところでのハンディですからお辛いでしょうねえ。次回以降でその誤解をどう払拭していくのかが見所のひとつになるんでしょうね。それにしても車の免許もなしで仕事に飛び込むこの無鉄砲さは凄いお人です。これって実在の方がおられてその方をモデルにされてるんでしょうか。だとしたらすんげえ話しです。空想のドラマの設定ってなら漫画みたいな人いくらでも作り出せるからなんとも思わないですけど。よくわかりません。

全体の印象としては時代考証というものに非常に気を遣われている作品という感じを受けました。車はもちろんのこと小物やら、さりげない会話の中にも労働組合が五月蝿いだの鼻歌とかで口ずさむ曲が当時の流行歌だったりと神経を使っているのがわかります。でも私も社会人ではなかったにせよ当時をリアルタイムで生きていた筈ですのでその当時の雰囲気は覚えていないとおかしいんですけどなぜか懐かしさを憶えないのはどうしてなんでしょうか。やっぱり電柱とか道路の舗装とか微妙に現代なせいなのでしょうか。いっそモノクロにした方がらしく見えたりなんかして。

やいのやいの言ってもついつい魅入っちゃうのはホント困ったもんだ。また観なくちゃドラマがひとつ増えてしまった。

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オトコマエ!「許さねえ」

意外と愉しいときたもんだ。福士誠治さんが出てるってんでこりゃちいと冷やかいてみすかなってな軽い気持ちだったんですけどね。これがあんた案外いける口ってな勢いで結構なもんでさあね。

30分で全13話ってこったから長期で気軽に愉しめそうなので贔屓筋になろうかな。

登場人物は北町奉行所の与力逸馬(福士さん)と評定所勤めの信三郎(斉藤工さん)の若さ爆発の二人が遠山の金さん(柴田恭平さん)の見守る中で悪を懲らしめるという単純明快な娯楽一本劇(でいいのかな?)で肩肘張らずに観れる内容。対立するは南町奉行所の鳥居耀蔵(片岡鶴太郎さん)。他にも藤村俊二さん・浅田美代子さんもご出演なされていてとても安心して観てられそうです。まあ詳しくはNHKのサイトでみりゃ一目瞭然ですがね。

若さ爆発で爽快な展開でしかも嘘みたいにサクサク進むんでストレスなんざ堪りようがなく、言葉もお侍さんの癖して江戸っ子丸出しで気風が心地酔いですわ。

たぎる若さの暴発を切った張ったで示すと凄惨になるとこを、殺生はしねえとばかりにとんまえるだけっつうのはいささかオイオイだけど、江戸の人力パワーが満ち溢れていてとにかく観ていて気持ちいいですわ。特に会話が粋で耳に心地よいのが一番のお気に入りでしょうかねえ。へらず口叩いて返る心地よさ。返しがほんと気が利いてていいですわ。言葉の指導で落語家さんらしきお方のお名前があったんでそこいら辺が効いてるんでしょうね多分。

100%人力で世の中が動いていた世界ってのはたまあに観ると新鮮でいいですよね。情報の操作は恐ろしかったですけど。

蛇足ですが福士さんもSGで知った役者さんです。けっして朝の連ドラからではありませんっていうか観てないし。

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Aroundo 40 ・ 注文の多いオンナたち その1

とても安定した感じのする作品のイメージを持ちました。登場人物の配置が至れり尽くせりでバランスがいい雰囲気で落ち着いて観れる感じです。

結婚しない宣言しときながら突然結婚に突き進んだりとかいう出来事や本人が全く意識していないにも関わらず禁句めいた発言を作り上げられ変に気を遣われたりする周りの人の腫れ物に触るような女性特有(?)の社会性も嘘くさくなくて落ち着いて観れそうな予感がしますです。ただターゲットがやはり女性に絞られてるのかと勘繰ってしまいそうなくらい女性目線主体で描かれているようにも映って、私なんかが観ていいんだろうかという不安はあります。ドラマの中に出てくる筒井道隆さんの役どころのようなもんで無視されっぱなしになりそうですわ。

観ていいのかというのは別に入浴シーンが結構あって覗きをしてる感覚に陥りそうだと言ってる訳ではありせん。女性的目線において生きてく上での核心をつくようなセリフにドキっとしたりするということです。一例として

「周りに祝福して貰いたいとかじゃなく自分が幸せかどうかが重要。」

「自分はこのままなにも社会に参画せずに生きていていいのだろうか。」

ある意味野郎的にはそういう発想自体生じないことだらけでいちいちそれって何で?どういうこと?って質問したくなるという感覚だと云う事です。特に同窓会で「子供生んでないからじゃない?」というセリフの後一瞬で空気が冷え切った辺りは、家族のために生きてる人間に対して言ってはいけない爆弾を聡子が投げたのか、可哀想だから言わないでおこうと周りが決めた地雷を聡子が自ら踏んじゃったのかというどっちなのか理解できませんでした。

でもそんな彼女達の輪の中に、居ていいんだか悪いんだか無視されまくりの空気みたいな存在の大橋(筒井さん)の店に集まるってことなんだから私みたいなのが観ててもいいのかなと都合よく解釈して暫くはこのドラマ観ようかなと思っております。

後半、藤木直人さんが登場してきてドラマの色がガラリと変わった感じがして来週から違う色味のドラマになるのかなという感覚もあるんですが、初回というか初対面としての印象は悪くないです。

この回では加賀まり子さんと林隆三さんの存在感が光ってました。後妻だったんですね緒方晴子(加賀さん)は。血の繋がりがない分人生の先輩として立派な人らしく家族とうまくやっていけてる賢い人なんですね。説得力ありましたです。なんでええ歳こいていちゃいちゃしてても厭味がないんでしょうか不思議です。

聡子の行動でなんかあると温泉行ってお独り様にふけるっていうのもコミカルでした。確かに冷静にみたら周りの意見じゃないけど幸せそうには見えないですね。あれでご本人満足感に浸れてるわけですのでそういう意味では幸福感と満足感というものは異なるものなのかなと思えたりもします。そこいら辺がこの回のテーマだったんでしょうか。両方手に入れられるものかどちらかひとつを選択しなくてはならないのかという投げ掛けでしょうか。対比の松下さんにも迷いがあるとこみると両方掴むのは難しそうではあります。

リクエストというか鈍感な野郎としては、何故家を出て一人暮らしをしているのかその理由を説明しといて欲しいところです。小姑になるのが厭だからか、上手くいってるとはいえ後妻を貰った父親と一定の距離感が必要なのか、人生設計として自分だけの家を確保したかったからなのか。色々複雑に絡み合ってるんでしょうけど。

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キミ犯人じゃないよね?その1

この時間枠、いままでは関東より一週遅れの放送だったのが同じ日になった。素直に喜ぶべきことでありまするぞ。

ところでしほりんが出演のこのドラマ。全然ドラマと関係ない感慨というか、もうSGから大分年月が経つ中で「樹里ッペ」とはもう呼べず「樹里ちゃん」・「ユイカ」と呼び捨てももう出来ず・「ベス」だって「水田さん」などなどとそれぞれ変わりつつある中で何故か「貫地谷しほり」さんは「しほりん」と未だに呼んで抵抗感のないお方であります。脱線ついでにいえば「辰巳奈都子」さんの「罪子」に関してはガールズ最年少にも関わらず今のところグラビアアイドルとして一番野郎を惑わす雰囲気が増殖されてその名に小悪魔的な要素も加味されて磨きがかかったような気もするガールズもいるにはいるのですが。(グラビアは門外漢なので正確なことはわかりませんけども)ホントしほりんは変わらない庶民的というか雲の上の人には思えないけど実はすんごくいい役者さんという裏腹なギャップを持ったお方です。

で、戻りますがとにかく非常に自然体を感じさせる役者さんで、ホントに上手いんだろうなあと思わずにはおれない「しほりん」の印象であります。SGの頃からもう上手かったので他のガールズほどに劇的に変わったなんて部分が私みたいな素人には分からないからいつまでも変わらないイメージがあるんでしょうか。力の入れ具合というのが多分絶妙で自然な印象を受けるのでしょう。風林火山の時のような重厚なものから今回の気の抜けたようなものまでとても幅の広さを感じます。

今回のコメディタッチのドラマですけど、推理物とくくるとなんか味気ない超薄味でしかも犯人の告白シーンの長さは、サスペンス劇場の2時間ドラマにおける崖の上での告白シーン並にありまして、なんかバランス的にほにゃ?という勢いでありましたが。ただ密室のトリックのくだりは流石だなあと思います。犯人がさくらの携帯の番号知ってるってとことかなんだかなあという甘めの雰囲気もちらほらとという感じで捜査ものとしてはホント薄味に思えます。推理は面白いんですけどね。

導入部分というかコンビ誕生のシチュエーションはコメディとしてすっきり厭味なくて気持ちよかったです。コンビ間のテンポもサクサクで心地いい感じですしバイトと称して色んな仮装するお約束も愉しめそうで嫌いじゃないです。キャラクター的にも要さん扮する宇田川の裏がない軽薄さが好感もてますし、しほりんが演じるさくらの過去を引きずる(まだ謎)奥行きというか表面と内面の顔のアンバランスさが垣間見られる若干複雑なキャラで、そのマッチングが面白そうかなと思います。事件の捜査においてもアホな宇田川のおかげで警察権力ときちんと関わっていて無理がないし、捜査協力の動機においても金銭という問答無用な動機でまあありかな(コメディだから)と納得しましたし。掴みはオッケーです私的には。決め台詞になりそうな「キミ犯人じゃないよね」も使うタイミングいいです。全体的な印象は金剛地さんが鑑識やられてるせいで引っ張られているのかもしれませんがケー○イ刑事みたいな雰囲気に感じられました。

まあ、シビアな感想言わせてもらえるならば、一回見ただけで言うのは時期尚早ではありますが、第2のトリックになりうるかというと疑問符がつきますしこの前の未来講師めぐるほどのエキセントリックな空気感が存在するわけでもなしと正直人に薦める程の勢いは第一回を見た限りでは感じられません。この勢いで最後まで進むと言うのなら評価的には役者さんについてる固定ファン以外には厳しいものになりそうな雰囲気がします。明智小五郎と怪人二十面相じゃないけどそういうライバルが出現するかトリックというか謎解きにもっと時間を割いたり、犯人の告白で動機を語らせる時間を短縮又は省略して他のアホなことに時間を費やした方が面白いのになあとは勝手に思ったりなんかします。ミスマープルも灰色の頭脳も動機や自白に深い興味がないように推理が主で事件解決が主とならない方が面白いような気がするのですが。カップラーメンから解決の糸口がみつかっているのですからそういう目はあると思うんですけどゲストの犯人さんに気を使われ過ぎておられるんでしょうか。

悪口にとられるのは本意ではなくもっと愉しみたい欲の発露でありまして決して見限るつもりはなく最後まで観るつもりであります。もっともまだ第一回。これからどんどんエンジンが掛かってくるのかもしれません。売りがまだはっきり見えていないだけかもしれませんし。少なくともしほりんや要さんに不満はございませんです。

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*とちくるう

勘違いするといったようなニュアンスの言葉。場違いとか空気を読まないとかとんちんかんなことをする・言うとかいうニュアンスの場合もあるし、より過激に狂うとか血迷うとか気がふれたとかいう場合もある。

勘違いという場合には間抜けな事しちゃったよという反省の弁のニュアンスも籠められる事が多い。

これらの意味使いが方言なのかは定かではない。遠州に限らず比較的多くの地域でも使われているらしいが、意味合いは多少異なるようである。

例文1

「なにょうおんしゃあとちくるったこんゆうてるだ。」

  (なにをこんな時に血迷ったことぬかしてるんだ。)

「なにが?」

「なにがじゃねえらあ。ここでそんなこんこいたら火に油じゃんかあ。」

  (何がじゃないだろう。ここでそんな事いったら火に油だろ。)

例文2

「やあ。わしなんかとちくるってたわあ。」

  (ねえ、俺勘違いしてたよ。)

「なにがよー。」

  (どうしたの。)

「こないださあ。単行本全47巻っつったらあ。そうじゃなくて14巻だっただよ。なにとちくるっただかいやあ。」

  (この間、単行本全47巻だよって言ったでしょ。そうじゃなくて14巻の間違いだった。なに勘違いしたのかなあ。)

「そういうこともあらあね。」

  (そういうこともあるさ。)

「あれ?やけに冷静じゃん。」

「んなわきゃないと思ってたもん。」

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ラスト・フレンズその2

第一回の冒頭において終着がまず始めに描かれていて、これから描き出される出来事達は決して想い出したくない消し去りたいような過去ではなく明日へと続くために忘れてはいけない出来事であったことが伺えた訳ですが、それでも筆が躊躇するくらい軽々しい記憶ではないということが伝わってきてました。

ある意味苦しく辛い戦禍を潜り抜けた後のような面持ちという表現であってるんでしょうかねえ。人生が変わったということは間違いないことでしょう。いづれにしてもドラマでの常套手段として終焉というか結末がまず先に描かれているということはここに至るまでの艱難辛苦というものが結構な重量感を伴う場合が多いような気がしますです。今を普通に生き抜くのにも戦場にいるような苦悩が満ち溢れているというメッセージなのでしょうか。少なくとも高みを目指す栄光への階段を昇る上での苦悩という風には見えず、ただ自分らしく生きることへの誠実を描いていくようにも思えるのですが、普通が一番難しいのは確かに真理ですけど現実には普通に生きてる人が殆ど全てですから難しいもへったくれもなく否応もない気がしないでもないのですがどうなんでしょう。なんとかなっちゃうもんですよねえ大抵のことは。

まあ、ドラマの展開に戻りますが、冒頭のシーンで美知留の左指には結婚指輪はないが妊娠している。誰の子なんだという疑問は当然湧いてきますわな。そのあとの全て意味深なナレーション。回を追うごとに解き明かされていくのでしょうがその都度振り返ってここのシーンを見直すことになりそうです。ここで予想立てたところで無粋なだけですので頭の中で済ませときますけど瑠可の存在が圧倒的に重要なことだけは私でも分かるところです。

宗祐と美知留とのDVについては見たまんまで特にああたらこうたら書くことはないしその1にもちらりと書いたんですけど。大切なものは大事に仕舞っておきたいという心理は私はなんか理解できますわ。誰にも触られたくない物ってありますから。そういうものに裏切られた他人にいじくられたと感じたら可愛さ余って憎さ百倍って勢いになるときもありますから。ただそういう想いが物だけでなく人に対しても想うってのはスゲエなとは思います。もちろん理解は出来ますが納得は出来ないんですけどね。だから擁護する気は毛頭ないんですが発想の要素は私にも持ち合わせがありますわ。

瑠可については謎だらけで何故4年もの間の空白があっても美知留を忘れることなく追いかけていったのか、(他に変わる人には出逢えなかったのか)なぜ美知留が特別なのか。性別に関わらずある一定の距離をとろうとするのか。「ただ人が怖いだけなんだ」というナレーションでのセリフ鵜呑みにしていいものか悩むとこです。

自転車でバスを追走する辺りはどういう心情で追いかけてたんだろうと考えてしまいましたわ。これを逃したら次は来ないという逼迫感なのでしょうか。それとも美知留との再会を頭の中で思い巡らしていて幸福だったのでしょうか。再会のシーンを美知留視点と瑠可目線の二方向から表現してたのがとても印象的でした。瑠可の美知留への想いが膨らみすぎて再会を畏れてきた感情というのがその大きさというものを表現しているようでなんか感激してしまいましたです。息を整えて気持ちも整えて美知留に声を掛けるまでのドキドキ感には息が詰まりました。あれで美知留がハグしてこなかったらどうなってたんだろうと思わずにはおれませんでした。

美知留には可哀想だなという感情が起こるのですがそれよりもまだ謎だらけなですけどなんとなく見え隠れする瑠可の儚い生き様の方に心が揺さぶられます。なんか誰にも理解されない報われない孤独な人生を送っているようで。それでいて決して負に飲み込まれない気丈さが儚くてじっと見ていたら涙が出てきそうです。

それぞれの登場人物が抱える悩みと言うものが全て出尽くしていないのでいい加減な解釈ではありますが、それぞれ異なる人達がどうやって物語としてひとつの方向に進んでいくのか。悩みを抱える場所はシェアハウスの中ではなく戦場は外にあり、それを癒すべき安息の場所がシェアハウスなのでしょうか。それともここから何かが発信されていくのでしょうか。可能性だらけで考えがまとまりませんです。

1回を終えた時点では、無事戦地から帰還できたのは美知留だけともとれる様に思えるのですがどうなるのでしょうか妄想は膨らむばかりです。面白いと言う表現は語弊がありますが引きずりこまれる世界感は凄いです。これがリアルなお話しなのかドラマゆえの世界なのかはこれからでしょうけど。

ファンなんだけど暗くしんどいストーリーだから見ないというのはとてももったいない話しです。せっかく冒頭で安寧を見せてくれているのですからそこに至るまでの葛藤を見ないというのは、そしてそれを役者力全開で表現しようとしている作り手の心意気を汲み取るならばファンと名乗る者でなくとも見る価値はあるぞと念じますわ。視聴率がどうたらこうたらはどうでもいいんですが観た者に深く記憶として残るような作品になって欲しいしなりそうな予感はするんですがはたしてどうなるのでしょうか。

蛇足ですけど樹里ちゃんファンでもあり長澤さんファンでもある私としては、樹里ちゃん応援サイト辺りでは好評で迎えられているけれど長澤さん応援サイト辺りでの評価はいまいち盛り上がっていないところが年齢層の違いを感じるところです。だからといってどちらのファンにも媚びることなく臨機応変・付和雷同となることなく初志貫徹で物語を展開していって欲しいところでもあります。って終焉見せてくれてるから変わりようがないか。失礼こきました。

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なんちゃって禁煙・節煙中その3

軟弱者のへたれとしてはいきなり0にするのは切なかろうてということもあって、人(知人達)に下げたくもない頭下げて貰い煙草して、その屈辱感をバネにして禁煙への道を辿ろうとしているのだが、皆案外親切。というか優しい。というか禁煙者は喫煙の経験のない人よりも遥かに喫煙者に厳しくなることを経験上誰もが知っているから喫煙の脱落を無意識に阻止せんとしてるかの様でもある。良い意味では決してない連帯感。組織を抜けるのは無理だから諦めろといった感じであろうか。同じ穴の狢か呉越同舟か。

「煙草恵んで。」

「いいよ箱さらあげる。」

と言われてその日半日以前の普通に戻った。(注、「箱さら」は「箱ごと」という意味の遠州弁)

大抵の人は止めれるならば止めたいであろう。中毒からの脱出を願望として夢見てるのであろうが足抜け出来るほど世の中そんなに甘くない。習慣性によるものだから癖と一緒で習慣をなくせばいいというような甘いものでもない。

禁煙ガムの噛み過ぎで顎が疲れて痛くなってきたので飴玉を舐めるが口の寂しさは紛れることはない。結局薬局電話局。ニコチン体からよーでんわってな感じで一時休戦というか退却戦の節煙に作戦変更中。息苦しいのでやんぴにしたいので、吸えばやっぱし息するのが切ない。

中毒品としてではなく嗜好品として愉しみの道具となりえればいいのにと言い訳がましいことを想いつつ元には戻れないだろうなという気がそぞろ。折しも「タスポ」なる喫煙者抑圧計画が進まんとしている今こそそれに屈して非買運動に参画する絶好の機会とも云える訳であり。殆ど税金ともいえる煙草を止めるとお国に収める税金が益々少なくなることにもなる訳でこれはこれでお国に対するレジスタンス活動といえなくもないか。でもお年寄りの年金から保険料平気でさっぴくくらいだから煙草がダメなら次の手考えるんだろうなあ多分。などと自分のことを棚にあげて何かのせいにするような考えにまで追い込まれているのは確かな精神状態になってる今日この頃でんがな。

禁煙ガムしいて注文をつけるなら顎が疲れない固さにならないものだろうかとぞ想いけり。

ちんたらとではあるが止める意思はまだそれなりにあり。元の木阿弥にはならぬよう顎を鍛えにゃなるまいて。とりあえずは節煙継続中と言い訳かます。

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ちょんがー

独身男。どちらかといえば結婚出来ない男として半人前的なイメージを彷彿とさせるニュアンスの言葉。基本的には男子用の言葉ではあるが男女兼用で使われることもあるらしい。結婚して家庭を築くことが成人として当然と思われていた時代は多少軽蔑的な要素が含まれていたが今はそういった要素は極めて薄い言葉。

元は朝鮮語らしい。元の言葉と日本で使われている言葉と意味合いが同じかは勉強不足の為定かではありませんのであしからず。江戸時代以前の日本人に言っても通じない言葉のようである。今現在はどの年齢層まで通用するのだろうか。

独身を謳歌する際は「独身貴族」という表現が使われていたので、「ちょんがー」は未成熟の成人という使われ方をしていたのだが、現在これだけ該当者が増加してしまうと異端児扱いされることもなくなり死語の世界に入ろうかとしている。又、俗語ではあるが差別用語に近いと判断分類され近年の過剰とも思える言葉狩りに遭い必然的に市井を描くべく映画やドラマといった公共の場からも排除された言葉とも考えられる。

使用例としては、酒の場で先輩や上司とかに「まだひとりもんか。」と問われひとくさり状況等のキャッチボール的やりとりをした後「いつまでもちょんがーじゃ男になれんぞ。」とか説教じみたことを言われムッとするという飲みにケーションでの常道パターン。

生き残るとしたらただ単純に「お独り様」と同義語としての使われ方として残る可能性くらいであろうか。

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*あいた

飽きたと云う意味。秋田を「あいた」とはもちろん言わない念のため。

空いた・開いたとはイントネーションが違う。「履いた」ではなく「掃いた・吐いた」に近い「あいた」というイントネーション。

ただし「飽きっぽい」は「あいっぽい」とは変化しない。

例文

「はああいた。」

  (もう飽きた。)

「なんでえはああいただけえ。飽きっぽいやっちゃやなあ。」

  (なによもう飽きたの?飽きっぽい人だねえ。)

「おんなしこんの繰り返しばっかでどつまらん。」

  (同じことの繰り返しで物凄く詰まらない。)

「人生と一緒。なにやっても同じだにい。」

注、私見ではあるが、「なんでえはああいただけえ」は初級。中級だと「なによーはああいたあ。」となる。上級だと「なにぃはああいただぁ?」

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ラスト・フレンズその1

このドラマは「上野樹里」の作品であって「長澤まさみ」はその世界の中で自由に羽を広げ動き回るというエコ贔屓の順位を自分なりにつけて望んだ訳でありますが。

そう思う理由としては、樹里ちゃんの盟友瑛太さんがいること。長澤さんには塚本さんがおられるようにサポートとまではいかずとも、理解してくれた上で演じやすい土壌を作ってくれるから。この作品には塚本さんはおらず瑛太さんがおられるから。

前にも書きましたが、樹里ちゃんは要領よく立ち回れるような器用な人ではなくむしろ不器用なくらいの一途さのイメージがあるので、マイペースという表現かは適切ではないのしても、どなたと芝居をされてもあまり極端に周りからの影響を受けなさそうな感じを勝手に持ってますです。逆に長澤さんには共演者や監督の空気感とかこうして欲しいという希望とかを読んだ上でその枠の中で最善を目指すタイプで「俺について来い」というタイプではないと勝手に判断しとりますです。

そんなこんなの理由でこのドラマが「上野樹里」のドラマだと読んだのですが。

いんやあ。それにしてもドラマが始まる前から電波ジャックかと思えるくらい朝っぱらから番宣で出ずっぱりでホント凄いったらありゃしない。少なくとも紹介される順番から鑑みると一番手は長澤さんで樹里ちゃんは二番手という紹介のされ方のようでありました。この時点で樹里ちゃん主役説は見当違いも甚だしいことが奇しくも証明されたも同然なのではありますが私も意固地になって22時を待つことにしとりましたわ。因みに番宣でよく使われて印象に残ったたフレーズは「みんなで作り上げた」というものでした。果たして言葉通り誰か一人が突出してそれを周りが盛り上げるというものではなくバランスの良いものになっているのでありましょうか。

そして22時がやってきた訳でありますが、いやあ見応えありましたわ。錦戸亮さんは映画とかでは拝見したことないのでその力量をば今回始めて知ったようなものなんですが、きっちり何を観る側に伝えるのかを把握した上での滅私奉公的なお芝居で伝わるもの大でした。仕事師という感じで感性重視の当たりもあれば外れもある一発屋では決してない実力をお持ちの方のように感じましたです。同棲生活初めていきなしDVかいっていう無茶振りな演出でも、暴力の源が過度の愛情による独占欲からなるものであることをしっかり表現されていたし普段の善い人である光景にも無理がない自然体に映りました。愛情の表現が歪んだ可哀想な人であって決して悪い奴じゃないんだというのにも説得力ありましたわ。

だけど、役者さんのせいではなく展開の疑問として、やっと巣箱の中に訪れてくれた青い鳥がまだ完全に手中に収めてもいない内から歪んだ愛情表現を抑えることなく(他人行儀ではなく)いきなりさらけ出す設定というのははしょり過ぎの感が拭えませんでした。そういう意味では彼はどの時点で青い鳥は逃げないという確信を得ていたのかが私には分かりませんでした。私が彼なら或る一定の助走期間で探り探りやるなと思ったもので。正直番宣でこれでもかという位DVのことを謳っていたからそれなりに理解というか受け入れられた展開ですが、なんの事前知識なしに観てたらもっと疑問が膨らんでいたのかもしれませんでした。でも今のところ青い鳥は逃げちゃった状態で終わりましたから彼の考えは勇み足であって失敗だったということなんでしょうか。

上野樹里ちゃんですが、もう言うことはありません。ただ観るのみです。それだけで満足です。ずうっと演技している「上野樹里」を観ていたいと本気でそう思わせる人です。映画でもテレビでも。バラエティとかの樹里ちゃんはあまり見たいとは思いませんが。この人はやっぱりタレントさんではなく役者さんです。

そして長澤さんですが、冒頭のいきなりな展開は非常に予想外で「あっ」と驚かされたんですが、全体的に何気ない仕草ひとつひとつが穏やかで、それでいて心に忸怩(じくじ)たる思いに押しつぶされそうなアンバランスさが上手く表現されていて見応えありました。多少脱線しますが妊婦さんの歩く様や仕草など芝居として上手く化けてて魅せるだけでなく見せる技術というものにも磨きがかけられたという感慨すら覚えました。夜の雨降る中帰る場所どころか自分の居場所すら見失ってしまって想い出の公園のベンチで呆然とする様辺りの心理表現は「絶望」という文字を連想させるに十分な迫力でした。

展開がどうのこうのはまだ一回目でほとんど序章というか紹介の部分だと思われるのでどうのこうの言い様がないので今回は雰囲気をまず第一に優先した訳ですが、どんな展開にでも(例え死人が出ようとも)ついていけそうな感じがしていますです。そう思わせる抜群の空気感を構築しているような感覚です。

とにかく初回から役者力全開バリバリな勢いで、見応えありましたわ。お話しの内容がどよよんであろうがなかろうがお構いなしの空気感を味わえます。こりゃまだ一回目ではありますが私的には当たりだなと思う次第で暫くは木曜日は周りから嫌われようとも美容師の助手ではないのでそそくさと「お先に」して22時にはテレビの前にいることになるでしょうな。もちろんこの感想は「上野樹里」優先ながらも「長澤まさみ」にもえこ贔屓する者のものであってシンプルにドラマとして愉しもうとされる方に通用というか納得していただけるものではないと言うことは承知しておりますです。

番外編的な感想をいいますと、最初この二人上手くいくのかなと思ったのですがそういう心配は作品として見る限り余計な心配のようでありました。いい意味で寄りかかることなく火花が散ってる感じに見えます。

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*ものいい

辞書にも載ってる言葉なので方言ではないが、今は「口の利き方」という言い回しの方が共通語的であり古い日本語がまだ遠州では普段使いされているということで記載。

大相撲とかで使われる「物言いがつく」とかいう使い方ではない。もし異議申し立てという風ではなく「いちゃもん」的なニュアンスだとしたら近いものはあるが。

ものの言い方・口の利き方とか云う意味。似たような言葉では「言い草」も良く使われる。あまり好意的な表現ではないのでそういわれたら言い方に注意というか気をつけたほうがいい場合が多い。

例文

「なにそのものいいわぁ。誰に向かって口利いてるよお。あんたあんましえらそうなこんこいてるとぶっさぐるにい。」

  (なんですかその口の利き方は。誰に対してそんな事言ってるの?あまり度を越すようなら注意じゃ済まないよ。)

「なんちゅう言い草だあ。まあちっと穏やかなものいいでけんだか。」

  (なんという口の利き方なんだ。もう少し穏やかに話せないのか。)

「ああそういうものいいするだね。じゃわし、はあどーなっても知らんでねえ。」

  (ふーん。そういう事言うんだ。だったら私はもう後どうなっても知らないからね。)

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笑っていいとも!春の祭典スペシャル

ドラマというか芝居でしかお目にかかれない役者さんをバラエティという枠の中とはいえ素の意識が垣間見られるのがウリのひとつでもあろうこの番組。

今回はまあしかしいつにもまして物凄い面子だこと。大御所がおられれば視聴率の王様もおられる。実績を積み重ねた重鎮もおられれば始めの一歩みたいな人もおられと、まさに史上空前の空気の読み合いで愉しむどころじゃなかったような雰囲気がそこかしこに映って見えました。ここまでくるとご本人の性格以前に気後れからくる無口(ビビリ)で、出てるお方も観てる方にも微妙にそういう緊張感を感じたりもし申した次第でござ候。

そんな中で見てるだけ~ではありますがよくお伺いしている(拝見させて頂いている)樹里ちゃん応援サイトでの印象は何故か不評的な色合いに満ち満ちておられました。司会の方が樹里ちゃんに対してヤンキーとまではいかずともそれに近い感じでの強めの馴れ親しい対応をされていた事に起因しているのですが。

私的には、「上野樹里」は役にのめりこむ憑依タイプの役者さんだと思っているので、もうそういうとこまで役作りとして固まっていてしかもぱっと見てそういう雰囲気を醸し出していたのを司会者の方が敏感に感じ取ったからこその対応のように思えてどっちもスゲエなと思わずにはおれませんでした。(もっともそうそうバラエティ番組見てる訳ではないので司会された方のいつもの司会進行手段についてはよく知らないんですけど。)

あまた出演されてた役者さんの中で明らかに役柄に憑依してみえたのは樹里ちゃんくらいだった印象がありまして、他の皆さんはカチンコの音と共に変身される職人肌のお方が殆どのような気がしました。もっとも役作りにのめりこみたいタイプの方がこういうところに来られることは普通ないのでしょうけど。そういう意味では撮影中は専念された方が精神的にいいんじゃないのかなと余計なお世話を感じてしまいました。余分な事で傷ついたり気疲れてしまう必要があるんだろうかと。

対照的にひときわはしゃいで映った長澤さんがやけに元気に見えました。だからなんだといわれても特に意味はないんですけど。明らかに樹里ちゃんに寄りかかる(頼ってる)印象が伺えたのでドラマ的には火花飛び散る女優の卵二人のせめぎ合いではなく全くタイプが違う故の相乗効果が生まれていそうで作品が愉しみにはなってきました。予想通り樹里ちゃんが構築する世界の中で長澤さんが泳ぎまわる感じになってそうでなんか上手くいってそうだなという感じがしますです。

とりあえずの番組全体の印象としては毎回思うんですけど時間に追われまくってるようでなんか忙しなく感じるのでもう少しゆったりした時間の流れの中で観たいものです。観覧者を入れてるから楽しく陽気にさせようという努力を感じるんですけど、シビアなドラマを構築したい出演者の方にとっては迷惑のような番宣番組のような気もいたします。

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剱岳(めざましテレビ)

観てもいないどころか出来てもいない映画について書くこと自体、非常に嘘くさい眉唾物な内容ではありますが、そんだけ期待度が滅茶苦茶高いということで願望をばひとくさり。

今日めざましテレビの芸能情報コーナーでチラリと撮影模様の映像が流れておりました。キネ旬でも何度か情報が載っていましたが、動く様というかスタッフの方々のうごめく様を初めてみて益々期待度が膨らみましたわ。

ガチンコ勝負はなにも切った張った殴っただけの世界だけではなく、遠大で深淵なる自然と対峙する真摯さがテレビからでもひしひしと伝わってきて早く観てえなあと想わずにはおれません。監督の気迫を想像すれば映画館で眼にするものは渾身の映像に違いなく、家に籠もって小さい画面で悦に入るものでは決してない劇場用の作品であろうことは容易に想像がつきます。

ストーリーの展開とかの情報は殆どなく想像の範囲内ですが、人間味も加わった味付けになっているのでしょうか。もし主役が山なら時代が明治(?)であっても「剱岳」は今も変わることなくその勇姿を示しているのですから物語の展開が波乱万丈なものではなく淡々と自然としての日常を描いていくのかもしれません。もっともその日常というものが人間にとってみればとんでもない波乱万丈な出来事の連続なのでしょうからそれを描くだけで充分スペクタクルな展開なのでしょうけれども。いづれにしても時代考証から考えて人間が山に挑むという傲慢な姿勢ではなく山という未知なる世界に畏敬の念を持って接する空気感が漂っていてくれたら嬉しいなと思います。

本当に期待大なんでおますが、いい映画に限って上映しない浜松ではたして上映してくれんのかって不安あったんですけど、東映作品なんですね安心しました。ただ音響の割れ具合が気になるとこではありますが。

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DAKARA名刺交換編

「初めましてあまみです。」というセリフ。「天海」じゃなくて「甘味」なんでしょうかね。こういうしょーもない洒落は大好物です。勝手に深読みしてもよしとばかりになんのこれ見よがし的な説明をつけないところが奥ゆかしいとこで好きですわ。

余分三兄弟も強大かつインパクト大で非常にユニークです。必死こいてどかそうと体当たりに近いくらい押してもびくともしないのにDAKARAをひとぐびりすると、舌打ちするかのようにすごすごと退散して行く様が滑稽です。クライアントの遠慮会釈なしの「すっごく余分だ。」の渇いた言い回しもグーです。

商品については飲んだことないのでなんともいえないんですが、天海祐希さんの出られるCmってクスっと笑える圭作が多くてはずれがない印象です。

ホントは商品の写真ではなくCmの画像を貼れたらいいんですけどそうもいかないみたいなので。

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*店屋

「みせや」お店のこと。

店だけだと呼び捨てっぽいので「お店」と普通いうのと同じように遠州では「みせや」と言う。

したがって店屋という表現は一応丁寧(?)な表現である。「お店屋さん」という表現は遠州では物凄く丁寧な表現である。

例文

「いい色してる服じゃんかあどこで買ったよお。」

「あそこんさあの店屋。」

「あそんこんさあじゃ分からんよお。」

「ほれ、あそこ。六間の坂ん上がった辺りんとこに店屋あるじゃん。」

「一杯あるじゃん。どこんさあの店屋よお。特徴とかいわんとぉ分からんやあ。」

注、具体的な店屋の話しではありません。あくまで作り話しです。

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無理な恋愛

夏川結衣さんがおそぎゃーくいいだがね。(by名古屋調)

ひたすらこれに尽きる訳ですが、続けて見るかと云うと疑問符がついてしまいます「無理な恋愛」。というのも、なにせハタチの恋人で痛い目に遭ってるんで。さすがにそう度々修行に耐える根性は持ち合わせていない軟弱者なんで。それにしてもどうしてこのタイミングで年配の恋愛感情を描く作品が続くのか不思議なとこでおます。ブームになった(作った)訳でもなし。むしろ評価は高い方ではなかったような記憶が。「恋愛」というタイトルが一歩引く感じになるのが拭い去れませんです。

老いらくの恋を美しく描かれてもはたしてそれを愛でて愉しいかというと、やっぱ「後は若いもの同士で」って勢いの方が楽しいです正直なところ。多少は生きる勢いを取り戻すための手段として恋愛感情を用いるという方向性が感じられるので最終的な到達地点が惚れたはれたワールドではないかもしれないという救いは垣間見えるのですが(成就するのかどうかは知りませんが)ストレートに好意から必要へそして愛へと移り変わる成就の変化を中心にして描かれていくとしたら厳しいもんが感じられます。

そんなこんなで録画しておらず一度見ただけで書いてるのでいつも以上に上っ面の感想しか思い浮かばないのですが、

ほいたって夏川さんがどがんこええだって。(by遠州弁)

最近見た中で、「天然コケッコー」でのお母さん役もがんこ良かったんで当然といえば当然ともいえる役者力の持ち主のお方なんですけんど、夏川さんと鈴木砂羽さんだけ見て愉しめりゃいいという訳にもいかないのでしょうから、はたして録画しとかんかった事を後悔する出来映えのお話しになるのでしょうか。

堺正章さん演ずる立木正午の行動如何でこのドラマが面白くなるかどうかが大きな鍵になりそうです。私的には恋愛はエネルギーの源であって最終目標として進んで欲しくないところです。

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揚一番

最近はまっている米菓子であります。始まりというか出会いは、お寺さんが檀家の衆らに配ってたのを食うたところからスタートしたのでありますが。これが予想に反していけたのでありますわ。普段スナック菓子と呼ばれる範疇の食品は手を出さない私ですがこれだけは習慣性を持ちましたです。

どこぞの名言で「嫌いなものには理由はあるが本当に好きなものに理由はない」とかいうのがありました筈です確か。まあそんなこといってたら記事にならないので強引にこじつけでなんでお気に入りかを書くわけですが。

味は醤油味。(塩)からくなく、しつこからず。かといってコクがほんわりと口に残る。歯ごたえの固さが固からずふにゃからず。一口サイズが2個づつ個包装されていて、はちみつとかが効いてるんでしょうか他では味わえない甘さがあるのです。一人で食すとだいたい2日で一袋を空けるついつい手が出る感じですが、一日で全部食すのはさすがにないです。一口サイズではありますがひとつ丸ごと口にほおばるにはちとデカイので半分に割って食べとります。割る事によって中に閉じ込められていた風味が飛び出してくる感じがそこはかとなくしますので、そういう意味では計算されたサイズなんだろうなあと思わずにはおれません。パサつき感がないので茶請けというかなにか飲み物とセットである必要は感じられないのでどういう飲み物と相性がいいのか考えた事はないのですが多分なんにでもあうかもしれないです。ポカリとかの水分補給ドリンク系とはさすがに厳しいですけど、珈琲でも果物系ジュースとかでも違和感ないです。

パッケージにこれまた味がある。こんなとこに味わい深さを求めてどうすんだろうという疑問は残るが味はある。最初見た時ヘタッピーにすら見えた「揚一番」の字。食べ慣れて必然的に目に入る回数が増えてくるようになると「名は体を表わす」という表現がまさにはまるように見えてくるからこれ不思議。パッケージに踊る謳い文句は

「コクのある醤油味・カラッとおいしく揚がりました!・ザクザクとここちよい食感・次から次へと手が出るおいしさ。」

言い得て妙。

ちなみに下は以前のパッケージ

なんて書いてあるのかいまいち読み取れないのではありますが少し異なるようにも見えます。進化か深化かして真価が発揮されるべく変化しているのでありましょうか。

食べ比べてこれが一番と決定したわけではないのでもしかしたらもっと美味しいものが世の中にはあるやもしれませんが、私は冒険しなくてもこれ食べてれば十分いいかなと満足しとりますです。

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*あからん

開かない・開きゃしないという意味。「開かん」というのは共通語的表現であろうが遠州弁では古い日本語的表現の「あからん」ほうが一般的である。「あかん」の場合のみで「ひらかん」とかでは「ひらからん」などとは使わない。ちなみに「あかん」なら空かん・開かんどちらでも「あからん」という表現を使う。

開けられないは「開けれん」という表現が多く使われる。「開からん」と「開けれん」違いは「開からん」のほうが開けたいのに開かなくてくやしいといった感情が強いニュアンスになる場合がある。

例文

「いんやあ参った。蓋ん馬鹿堅くきせてあっててちいとも開からんやあ。」

  (いやあ参った。蓋が物凄く固く締まっていて全然開かないよ。)

「かしてみっせー。わしんやってみるで。」

  (貸してみなよ私がやってみるから。)

「がんこだにい。」

  (凄く固いよ。)

「まかしょう。こう見えても結構握力あるだで。」

  (まかせなさいって。こう見えても結構握力あるんだから。)

「ほい。・・・・・開きもしんにい。」

  (って・・・・ちょっと・・開かないじゃないか。)

「今日はたまたま調子悪いだよ。」

「またまただらあ?どうせあけれんならはあ返せやあ。」

  (今日だけじゃないんだろ?結局開けられないならもう返して。)

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なんちゃって禁煙・節煙中その2

貰い煙草オンリーで一日約2本ペース。休みの日は完全禁煙日でしんどいが、二週目に突入。相変わらず食後の空虚感は去りがたく、なんで止めなきゃいけないのかという疑問との葛藤に勤しむ時間帯が切ない。

性格的にMだとは思っていないが、それでも健康に良くない煙草を吸うて(体をいぢめて)喜んでたのだから、異なるM的要素で吸えない苦しみに耐えるという呪縛も喜べるかと思ったのだがそういうわけではないらしい。

酒は止めれたのだから煙草も止めれない筈はない。酒を止めるのに2~3年を要した経験から鑑みればまだまだ序の口という期間(2週間)ではある。

しかし絶対に同じ依存症からの脱却であっても珈琲や酒とは煙草は違う気がする。それがなんぞやと思いつけばたいした発見であろうが知恵がない。つうか吸いてへなあといふ想ひで頭ん中が占拠されていて知恵が巡らない。

物書くのも気の利いたものがなにも思い付かないで至極味気ないものしか書けない報告文になりつつある今日この頃。節煙と禁煙の使い分けを切実にどう言い訳しようかという心の状態になりつつある。自己管理のしっかり出来る人なら決めた時だけ吸って愉しめる愛煙家になれるのであろうが、人の迷惑顧みず吸いたい欲望の赴くままに吸ってきた報いが今まさに訪れんとしているのであろうか。

その前に風邪だか花粉症だか知らないが、息苦しいのがなんとか治らないかなと云う方が切実かあ。痰の方は楽になったから禁・節煙の効果はあるんだけど息苦しいのは変わんないんだよねえ相変わらず。頭もぼ~っとしたまんまだし。

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キャンディーズ大同窓会

日曜日のプレミアA。月曜日の今日はとくダネで、取り上げていたキャンディーズ大同窓会の模様。自分もリアルタイムで生きてた割には彼らの萌え方にについていけない私でおます。つま恋での拓郎にも燃える事ない他人目線を維持できた私でありますわ。田舎者の出不精ゆえ都会でのイベントには縁がなかっただけでなく、地理的にそんなに遠くない「つま恋」にも反応しなかったのは本性が興奮の彼方のところへと集う人達とは違うからでありましょうか。

否定するわけではもちろんないのだけれども。世間体に対して恥じることなく感激した様を人前に見せて尚且つ共有するというのはある意味勇気のいる事ですからねえ。根性なしの私からすれば胆のすわった人達だことという印象です。

キャンディーズそのものはガラス越しではありますが、大昔浜松西武のサテライトスタジオとかいうラジオの公開放送用のブース(名前等違ってたらごめんなんしょ)で2~3mの距離でご尊顔を拝し奉ったことがあります。素直な印象は顔色がとても一般人と異なった白さを感じて「生活感がない」とはこう云う事をいうのかと思った記憶があります。動物園や絵画展でも腕組んでまじまじと見たことないのに結構な時間しげしげと見てたのはやはり人を惹きつける魅力というものが間違いなく存在されたんでしょうねえおそらくは。

だからといってキャンディーズのファンになったわけでもなくその後の解散において発せられた「普通の女の子に戻りたい」という暗号も解読とか理解とかすることなく言葉のままに解釈してましたです。そんな輩がこのコンサートのことについてどうたらこうたら意見述べる資格は当然ないのでしょうが、コメントをされた女子の方達の半ばあきれた好意的な表情がとても印象的に映りました。

仕事は仕事で家庭は家庭での顔があり、何10年かぶりに記憶の中から引っ張り出してきたキャンディーズ用の顔も時間がこれだけ経過しているにも拘らず色あせることなく錆びついていないのはすげえなあと思いますわ。いろんな顔を持つ方が人として魅力的に映えるものですからねえ。

自分もそういう輪の中に入りたいと願うことはないですけど色んな顔の種類を併せ持っていても普段はじっと隠し持ちここぞという時に錆びずに飛び出すってとこはかっこいいなあと憧れてしまいます。踊る方も踊らされる方も両方幸せになれてそれを傍目から見てる方もにんまりした三方丸く収まるいい印象のイベントという感想です。

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*かいね

例文

「あの人行くだかいね。」

「知らんやあ。聞いてみんと分からんやあ。」

「行く気満々だっつってたにい。」

「誰があ。」

「誰だか忘れたけどそを聞いた。」

「ほんとにい?」

「行くだかいね」を例にとると、行く・の・かね。という訳になる。「ね」と切る場合と「ねえ」と伸ばす場合だとニュアンスが異なる。

「ね」の場合だと確認・問いただすという感じのニュアンスになる。

「ねえ」の場合だと予想・質問という感じのニュアンスになる。

「行くかいね」と云う「だ」を省略する表現もあるが、この場合確実性が薄く予想的なニュアンスに近くなる。

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ルンペン

浮浪者・失業者のこと。よく解釈すれば放浪者。悪く解釈すれば乞食をかっこつけて言ってるともとれる。元は独逸語でぼろ・古着とかいう意味のものであったそうな。イメージ的には孤高な感じはする。乞食=ルンペンかというとそうではない感覚がある。

現代に置き換えて考えてみると、ダンボールハウスに住んでおらるる方はこう呼ばれる範疇であろうか。ネットカフェに居住されておらるる方は微妙だがこれには含まれないと推察される。

食すら乞う(施しを受ける)といういわば社会人としての尊厳を放棄したかのような印象が乞食という表現からは取れるが、何故かルンペンというとそういう尊厳はまだ残っているあすなろの木のような印象を与える。

引き篭もりという種族の方は社会の中の一員という視点からみると家族にすがってる分孤高というイメージは薄いのではあるがこの表現を当てはめても違和感は薄い。が、こういわれることはない。

ただ人を騙したり出し抜いて生活している人よりかは心優しい人物のイメージが湧くので悪人ではなれない種類の人かもしれない。いずれにしても死語である。単に使われなくなったのか差別的表現ということで封印されるようになったのかは不明であるが、テレビでアナウンサーの人が決して言うことのない言葉ではあろう。今は難民という表現に変わっているのであろうか。社会の歪みからはじき出された被害者ということなら理解できるが、戦争や災害に遭われた境遇の方々と同格のように「難民」という表現をするのはいまいち理解しづらいところではある。

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*ばば

漢字で書くと「糞」。これを無理矢理読んで「ばば」とすると考えるか。この場合例としては「猫糞」(ねこばば)というものがある。

馬糞通り(まぐそとおり)と云う地名があるように、馬や野良犬が普通に町を歩いていた頃(私は知らない)はよく「ばば踏んだ。」とかで使われていたらしい。当然匂うからみんな距離を置いたりする訳で嫌がられるということにつながる。

それとも「屎」と書いて「ばば」とするか。「ばっちい」とは「ばばちい」が変化したものと推察される言葉で、遠州では「ばっちい」は幼児用語で「ばばっちい・ばばちい」が大人使いの言葉と分けられる事が多い。

それ以外にも「婆」をあてるか。「ばばを掴んだ」と云う表現はトランプのジョーカー(婆)を掴んだということで解釈が成り立つが、ついてないと云う意味では「糞を掴んだ」と云う解釈も否定できないかもしれない。

いずれを選択するにせよ、特に遠州弁だというわけではないのだが他の地域では死語と化しているやもしれないがここいら辺はまだ希少ではあるが生きてるということで。

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