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5/7の記事 無限の色彩と小さな革命。を読んで

水田さんの「芙響和音」の5/7の物語。第一印象として、これはいい文章だなと思えましたです。物書きらしい文章だなと。尚あくまで私の薄っぺらな感想なので共鳴して貰うためのものではありません。そしてあくまでこれは創作物であって実話が土台となっていたとしても作り手がつくりあげた世界という前提で読んだ上でのものです。自叙伝とかには興味はないのであくまで創作だとして読んどります。反論がおありの方もおられましょうがあくまで私の限られた色彩の中での色使いの中での感想です。なので私にしか分からない散漫な文章でしょう多分。あくまでメモ残しですんで。

人見知りの主人公が活発な子との出会いによって視野や世界感が広がり、そしてまた別れを知るというこの年齢にしては小さいどころか波乱の出来事を丁寧に感情を抑えて描かれていますです。旅立ちに必要な導きの書は「ウォーリーを探せ」。

ストーリーとしての柱心がしっかりしているから軸がぶれずにすらすらとテンポよく読み進めました。その楽できた分の余裕で読み手自身が主人公となってあゆみちゃんを見てる感覚で読み進めるという読み手がその世界にいる感覚になります。私の年齢からすると随分昔にルーラしないと辿り着けない年代の筈ですが何故か自分に置き換えて遡れることができました。

作者の意図を読み取ろうというよりも、作者はこの遡った空間を提示提供するのみであって、作り手の手を離れて読み手である自分の空間で物語が構築できる感覚です。つまり自分がお稽古事の生徒としてその場に居るような感覚で「水田芙美子」の存在なぞいなくてもいい。というかまだ「水田芙美子」の人格が形成されるまえの話しだから存在してないということも言えるんだろうけれども。

今までの芙響和音は水田さんを詠むというのが基本姿勢だったのですがこれは純粋に提供「水田芙美子」という感じです。だからどういう捉え方しようとも読み手の勝手で正解はない筈だと。

自身が変化する事象の瞬間を写し取るために描かれていて、それを読み手も疑似体験してるような錯覚を与えてくれます。そうそう自分が変われる機会なんて訪れる訳じゃないだけに擬似ではあれどこういう経験を積めるのは本やドラマ映画を観る醍醐味でもあるのです。

そういう意味では、プロの文章に近づいているんだなと思えてきますです。お仕着せな結論ではなくこの出来事をどう捉えたのかは読み手の自由というとこもプロの(売り物になる)仕事だなと。この寸止め加減がいいんでしょうか。結論ありきなら結論だけでいい。投げかけで後知らないという突き放しのような冷たさとかがない温かみを感じる空気感があるのは良い想い出が基になっているからなのでしょうか。あゆみちゃんを勇者、大人(先生)を竜王と決め付けない傍観者的立ち位置も革命前のおたおた感が彷彿とされて身につまされます。事は違えど大なれ小なれこういう出来事は誰しも経験したことかもしれないです。だからその後大きくなってこの出来事が今の自分にどう影響があったのかということをあえて深く記さないところが読み手自身にも置き換えられる要因なのでしょうか。

自分の信じたことは何があっても曲げない信念につき動かされた。本の読み方や教師の放つ大人の意見に出くわして答えはひとつではないと悟った。など他にも読み手の数だけ想う事があるやもしれぬ。私は譲れるものと譲れないものというよりも答えは多面的なもので決してひとつではないことと捉われましたけど。

ただ個人的には鍵になる導きの書であろう「ウォーリーを探せ」そのものの重要性があゆみちゃんの存在と同じくらいだとは思わずに読んでるので、この本が後にどういう導きを与えてくれたのかが想像膨らませられなかったですけんど。とりあえずはものの見方(楽しみ方)はひとつではないことを知ったってことなのかと解釈したのではありますけど。あゆみちゃんに感化されたのかあゆみちゃんに教えてもらったものの見方に感化されたのか。そのいずれもでしょうけども、私は本からヒントを貰ったのではなくて、あゆみちゃんが本を使って自分を変えるヒントをくれたと云う風に読んでいったのでもう少し描くバランスの比重に順位をつけてくれたらもっと分かりやすかったなあと読解力のない感覚読みの私としてはそう想えましたです。もう「ウォーリー」を読んでも愉しくないということで別離の寂しさを表現されてるのは不可欠ですけど、別のつまんない本でもあゆみちゃんから教わった見方をしてみたら違う世界に読めたとか。「ウォーリー」が特別なんじゃなくて見方を教わったことを私は重要視したんですけど。

あとあゆみちゃんの目の輝きをもう少し映してくれるとありがたかったとこです。いつもどんな時でも自信に満ちた同じものなのか。それとも休み時間・無茶して大人に怒られてる時・最後の授業それぞれで目の輝きに違いがあったのか。記されていたら私みたいなものでもあゆみちゃんの心情が垣間見れただろうなあと。それとも読み取る必要がないからあえてはしょったのか。

なにかの制約で書き足らない部分もあろうかとは思いますが場面描写がそれなりに丁寧なので展開の流れが一定で澱みなく読み進められ、急に早くなったり立ち止まったりということがないからテンポ感よくとても読み易い。深めに勘繰れば掘り下げたとこからボロボロと何かが埋まってそうな言葉使い(選び)は相変わらずで、そういう迷路にはまる様を愛でる作者の無意識のトラップは感じるけれど今回はいつもよりその穴は浅めに掘られてるようにも見えました。もっともこれがないと水玉色の文章らしくないのだけれど。

こういう作者の存在が消える文章を好むかどうかは「芙響和音」の読み手からすれば賛否分かれるかもしれませんが、我が身が投影できる共鳴感が私は好きです。文章で賞を獲る宣言はパルプンテを唱えたのかと思いましたが今までの攻撃的な放射的表現とこういう人を巻き込む包み込み的な表現が両立出来ればありえない話しでもないのかなと思えるようになりました。ギラやバギといった攻撃的な呪文ばかりでなくホイミやルーラの補助系も使えなければ勇者にはなれないと言うところに近づいたというところでしょうか。だからといって浜松の本屋に著書が並ぶ日が近づいた訳じゃないでしょうけど。

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