« 2007年12月16日 - 2007年12月22日 | トップページ | 2007年12月30日 - 2008年1月5日 »

平成19年を振り返って

思い起こせば去年の12月。それまで時代遅れの男になりたい~と鼻歌歌いながらダイアルアップで他所様のページを仰ぎ見ながら覗き見ながら族してたのを、一念発起してブロードバンドの環境にしよまいと決意して。ほいてから徐々に参加するようになりもうした。ふんでも劇的にお気に入りが増加したりとか行くところが増えるのかと思っていたのが、意外とそういうことはなく、ある意味不思議ではありました。行ける環境が整ったのになんでだろうと。動画も見れるようになったけど殆ど見ないし。

そんで、年度も変わるからと4月にブログやろうじゃないかと思い立ち今日まで飽きることなく続けられている。別に野望がある訳じゃなく、これで稼げればラッキーという考えもなく、目的も明確でなくただ日課のようにだらだらと綴っている。今年コンスタントにアクセス数がさりげなく尚かつ一番多かったのが、眞○秀○さんの記事でした。意外以外の何者でもない事でした。自分なりに気合入った記事は空かしだったんですよねえ。でもニフティさんのご好意で何度か記事紹介していただいたおかげで年内にアクセス数が自分が思ってたよりも多く感謝の念で一杯です。

トラックバックは、未だに使い道と言うか意味がよく分かりません。

アフィリエイトとは、見る人にとって有益な情報をブログで提供する。その情報を発信する労力に対価として支払われるもの、それがアフィリエイトだとするならば。私のブログにそんな情報は存在しないのだから簡単に出来る小遣い稼ぎという謳い文句ではありますが、私には無用なシステムでしょう。思った事能天気に書いてるだけなんで。しかも殆どが人の作品観てああだこだという内容。でもま、こんなもんでしょう凡人としては。作り手に感謝するのみです。

今年観た作品、昔観たけどテレビ等で久し振りに観た作品混ぜこぜで印象に強く残った作品としては(発表年に関わらず今年私が観たのがということです)

蟲師・天然コケッコー・神童・暗いところで待ち合わせ・わたしたちの教科書・鬼太郎の見た戦争・病院坂の首くくりの家

何気にイメージが残ったのは

松ヶ根乱射事件・ガンジス河でバタフライ・バブルへGO

音楽では一青窈さんのベストアルバム

他にも色々ありますが挙げたらキリがなくなりそうなのでこれくらいに。

ネット上における反省点なぞ挙げたらキリがないくらい綱渡りともいえるおいおいこの素人がってことばかりでした。

その中でも特に挙げるとすれば、有名人の方のブログにトラックバックなんて気安くするもんじゃあないということ。&、BBSとかにも馴れ馴れしくしてはいけないということ。存外おおらかと言うか心の広い方が多いと言うのが分かったということでそれはそれで勉強にはなったけど、発言にはきちんとした配慮と言うものが必要だと言うことを痛感いたしました。運よく掲載されたものを読み返してみると反省点ばかりです。自分のブログ内ではそうは思わないんですけどある人を対象に読んで貰う為に書く文章としてはお粗末極まりないものばかりでホント恥ずかしい限りでした。でも作品とかに対して感動させてもらった感謝の気持ちを伝えたいと書き込んでるつもりなのですが、通じてないのがちと辛い。

だから来年は感情の赴くままにではなくてきちんとしたもので感謝の気持ちが伝わるよう努力したいと思います。文章の才能はないですけど何とか伝わるように。まあブログのほうはヨイショ記事と揶揄されようとも自分が心に残ったものだけを記事にしていきたいですなあ。勿論遠州弁も。悪口は書かないようにって言っても可愛さ余って憎さチラリってのもたまにありますけど。屈折した愛情と笑って許してもらえれば幸いかなっと。

いつもお越し戴く方々。良いお年をお迎え下さいませ。そして来年もよい年でありますようにって元旦の挨拶と混ぜこぜじゃんか。(記事は休みなく毎日書く気充分ですがとりあえず今年の締めとして。)それでは、お健やかに良いお年を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*買っちってー・買っちったい

買っちゃったあ・買っちゃったよの変形した表現。別に買うに限らず「やっちってー・やっちったい」などなど色々ある。これが遠州弁かどうかは定かでないが、よく使う言葉遣いであることは確かである。

例文

「ウリウリどうでえ、ええらあ。」

「どーしたよー。」

「かっちってー。おもいきっさ金はたいて。」

「どがんこ高いじゃないだかそれ。よー金あったなあ。」

「ねーよお。今月の生活費まで全部使っちったい。だで飯おごって。」

「ばかっつら。飢え死にしくされ!本望だら?」

「なんでえ馬鹿に冷たいじゃんかあ。」

「そりゃあおめえ冬だもんで冷たいに決まってるらあ。」

「そういう問題か?」

「そうだよお。なんしょ後先考えん奴に奢る道理はないっつーこんでえ。」

「冷たいじゃん。」

「そりゃ冬だもん。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

一青窈さんの12/28のダイアリイ

一青さんのホームページで最近ダイアリイという項目が追加されて「お気に入り」になっているのですが。いつもは身の回りのアイテムや風情を近況報告的な絵手紙便り調で綴られているのですけれども。きのう珍しく散文詩調でなんたらかんたらの映画から受けた詩想を表現されておられました。

はじめ読ませて戴いた時の印象で、流石プロは違うわぁと感嘆したんですが、なにせ午前の思考では頭が廻らないので晩下になってから再度と思ってたんですけんど。宵になってみたら何故か記事の内容が違うものになってました。それを見てふたつほど頭の中に思い浮かんだことがありました。

ひとつ目はなんか著作権がらみ等で載せないほうが良いもんもんがあったのか?これについてははっきし憶えてた訳じゃないんですが、特に気づかなかったですわいな。

ふたつ目は印象として、これって歌詞にしないのかなあ、しないとしたらちいと勿体無いんじゃないかしらむと。そう思えたのは私だけじゃあなく一青さんサイドの方でもそう思って慰留したんじゃないのかと。

ふたつ目の方がいいなあと考えてたんですが、今日訪問させて頂いたら、昨日の記事が載ってました。読み返してみてそうそうこれこれと思いましたのでこの記事ですわ。うろ覚えだったんでどう変わったのか、はたまた変わってないのかは分かりませんけど確かにこの記事だったですわ。

ふんで、今日夜の思考で改めてじっくりこんと読ませていただいたんですけんど、やっぱ曲の歌詞として成立する出来栄えなんじゃないかと思えるわけですよこれが。幾らでも湧き出る泉の如く言霊を放出出来るのかしらむと羨ましく思う次第であります。歌詞とは違って多少熱く感じますですけど私は好きですわ。でもなんかもったない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

贔屓(ひいき)

誰々のファンとかいうファンってなんなんでしょう。漢字で書けば「贔屓」。なにしてもキャーというのは「えこ贔屓」。その人だけで満足出来て掛け持ちしなくていいから「eco贔屓」とも言えなくもなし。

プレゼントという貢物を送ったり、ファンレターのようなメッセージを送り続けて自己の存在感を知らしめる。ましてや本人に会いたいとか存在を認識して欲しいなどという人としてのリンク(繋がり)を求める。

贔屓筋とか言う言葉のように、無償の愛情で見返りを求めず全面バックアップして支えること。

そういうことがファンとしての証であるならば、私は大きく外れているイレギュラーな視聴者でしょうね。基本は作品さえ良ければそれでいいのだから。会ってどうする知ってもらってどうなると醒めているのでしょうか。それともそんなの贔屓のうちに入らないんでしょうか。私は見れる限りの作品を観るというだけなんで。感激すればブログ等に記すし、う~ん?には無言。でも見続けるというのは贔屓とは呼べないんでしょうかねえ。勝手に自分でそう思ってるだけなんでしょうか。少なくとも味方にはならないけど敵にはならないってことで自分は贔屓だと思ってるんですけど。

リアルタイムではないにしてもビートルズを知って、ビートルズのように間違いない・聴いて損した事ないという経験をしてきた身としては、そういう絶対的なものに対する安心感が一番心地いいというのを知ってしまっているので、音楽に限らず他のものについてもそういうものを求める癖がついてしまっているのです。

今の時代群雄割拠でそれぞれにいいものが散らばっていて、流行とは別のもので自分に合うものを探し出す労力というものは大変なものだと思います。そういう兆しを運よく見つけたんだからそれを追うということがあってもいいんじゃないかと。ビートルズのように全てに満足を与えてくれる訳じゃなくとも可能性に一喜一憂するのもありなんじゃないのかなと。

カリスマとかスーパースターなんてそうそう世の中にいるものではないでしょう。でもそういう人がいなくとも文化芸能に接して心を育んだり癒したりと言う行為は常に求めていたいものです。音楽や小説には作家性が強くて分かりやすいけど、なりきるのが商売の役者さんには見えにくいものなのかも知れませんが、案外あるような気になって「贔屓」してるんですけど目の錯覚なんでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

天然コケッコーその4

この記事では映画での方言と遠州弁との共通点なぞを書き記したいということで。尚、遠州と言ってもそれなりに広いので全ての遠州人に共通するものではありませんのでご承知お気を。

男女問わず自分のことを「わし」と称する。遠州弁でもそうなので日本人の基本なのかとも思うのです。

全部挙げてたら堪らんので気がついた点のみと言うことで。(ホントもし台本手に入れたら全部遠州弁に書き直すくらいの根性はあります。)

共通する言葉としては(遠州でも使う言葉)

「ほいでえ」・「あれじゃろ」・「~いいよる」・「~しよる」・「~けえの」(けえのは駿河寄り)・「はあ」

言わない言葉としては(かっこ内は遠州弁)

「おおきに」(ありがとねー・悪いやー)・「行って帰ってきます」・「やんさる・やんさい」(くれるだ?・くりょう)・「こがいなもんじゃろ」(こんなもんだらあ)・「手伝いさりんしゃい」(やー手伝えやー)・「なんとのう出来んだった」(なんか出来んかった)・「おるじゃなか」(いるじゃんか・なんでいるよー)・「喜ぼうで」(喜ぶらあ)

微妙な言葉

「いかい」(でかい)意味は説明不要で直ぐ理解できるが普段使うかと言うと?

「おいでんさる」(お越しなさる)これも丁寧な表現として意味は通じるが、遠州では「~さる」は「しくさる」(しやがる)というように丁寧とは縁のない表現の「~くさる」に近いので使われることは少ない。ちなみに遠州だと方言ではないのだが「みえた・みえられた」が多く使われる。

「~さる・さい」と言う表現全体で言うと遠州でも残ってはいる。劇中の「やんさる」とかは使わないのではあるが、「とんまさる」(捕まってしまう)「~してつかあさい」とか意味は前記のように異なるが存在している。

とにかく字幕なくても意味は全部理解できる訳でそういう意味においても映画の世界に地元感覚でのんびりこんと出来る要因であるのかもしんない。これが東北や九州沖縄あたりの言葉だと異空間にいるような旅行してる感じになるのですが。

しかしこんだけ「天コケ」話しを書いてると「長澤ファン」は止めただか?と言われたりもしますが、「ファン」というのは観れる限りの作品は出来の良し悪しに関わらず観るということだと解釈しております。夏帆さんが山下作品に欠くべからざる常連さんになられるということなら話しは別ですが、そうでなければ観るのは作品の良し悪しによって考えますので私は「夏帆ファン」ではないでしょう。追っかけてるとしたら山下敦弘監督の方を追っかけてますですハイ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*やっとかぶり

ひさしぶりと言う意味。

別の言い方で「やあっとぶり」と言うのもある。こちらは「やあっと」随分ぶり。こちらは「随分と会ってなかったね」が近い表現か。(注、殆ど使わず普通は「やあっと会わんかったねー」)「やあっと」が変化して「やっとか」になったという可能性もあるがこの理屈は嘘くさい。

実際のところは「八十日振り」と書くのだそうで厳密には方言ではないらしい。

例文1

「あれえ、やっとかぶりに顔見せたかとおもやあはあ帰るだけ?まあちっとゆっくりしてきない。」

  (おや?久し振りに顔見せたかと思えばもう帰るのかい。もう少しゆっくりしていけばいいのに。)

「いやあそうもいかんだよ。ちゃっと帰らんとおっかさ怖いでえの。」

  (いやそうもいかないんだ。直ぐ帰らないと女房が怖い。)

「うちもでえ。」

  (うちもそうだよ。)

例文2

「あれえ、やあっとぶりかで顔見ただに、はあ帰るだか?ゆっくりしてけんの?」

  (なんだよー随分顔見せなかったのにもう帰るの?ゆっくりしていけないの?)

「おお、おっかさにちゃっちゃと用済んだら帰って来いっていわれてるもんでえ。」

  (うん、女房に用が済んだら直ぐ帰って来いって釘刺されてるから。)

「そりゃご苦労なこって」

  (それはご愁傷様。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*やってる

「お茶やってる」・「みかんやってる」・「玉葱やってる」・「うなぎやってる」

厳密に言えば~を栽培している。ぶっちゃけで言えば~を作ってる。

「商売やってる」・「工場やってる」

~を営んでいる。

例文

「あいつんちなにやってるよー。」

  (あいつの家はどういう職業なの?)

「おやじだかにいさ工場やってるってきいたにい。」

  (父親かお兄さんが工場経営してるって話だよ。)

「ふーん。どこぞの下請けだかいねえ。それじゃあ手伝いで大変だらあ。」

「いやあ、逆にさあ仕事ばっかで親んかまってくれんもんで結構小さい頃からほっぽかされで楽だっつってたにい。」

  (仕事ばかりで親に構ってもらえなかったから逆に小さい頃から放任主義でやりたいことやってたって言ってたよ。)

「ええなあ。うちはじいさ玉葱やっとったもんで収穫んとき当たり前にこらしょと手伝わされたよー。」

  (いいよなあ。我が家ではお爺ちゃんが玉葱栽培してたものだから収穫時期になると当然のようにがんこ手伝わされたぞ。)

「工場は技術いるだもんしょんないだらあ。」

  (工場は技術がいるんだから手伝いようがないんだろ。)

「そういう問題か?」

「そんなん知らんよー。なんか言いたいだったら本人に言って。」

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

天然コケッコーその3

役者さん特に女優と呼称される方というのは化けるのが技術でそれを愛でるというものだと少なからず思っていたんですよ。だからその方の芝居してない素の部分なんぞ興味持たなかったんですけど。

でもしかし「天コケ」の夏帆さんみてそうじゃない部分もあるんだと改めて実感した次第で。上手い下手とかいう領域ではなくて、その時というかその瞬間でなくては絶対表現できないものがあって、例え同じ本人であっても2年後5年後に同じ役を演じてみても無理だと言うドンピシャのタイミングというものがあるんだとこの映画みて思いました。役者さん絡みに留まらずホント見直すたびになんか見つけ物があるようで不思議な魅力を持った映画です。

中学と言う特別な時期なんだからという子役故の特別扱いすべき事なのかもしれませんがその時でしか愛でられないものもあるんだと再認識した次第でありますわ。20代でも30代でもそういうことがあるんだろうなと。少し役者さんを観る視点が変わりそうです。

話は変わるんですが、知り合いと何に今はまってる?という話題になって、「天コケ」にはまってると言ったら、どこが?と問われてしまいました。納得させて「ほいじゃわしも観てみすかな。」と言わしめるにはどう表現したらいいのか一瞬フリーズしてしまいました。

で、どのシーンが良かったよと聞かれたので観てない人に説明する術を知らない私は再びフリーズしてしまいました。「とにかくええで。」が精一杯でおました。

会話は不完全燃焼で終わってしまって悔しいので、再度考えをまとめてこの次の会話に備えとこうかなと(次あるとは思えないけど)。なので方言についてはその4に回します。基本と言うか映画そのものは漠然と観る方がやっぱ正しいと言う考えは変わってませんけど。

*「田舎の空気感がええだって。馬鹿のんびりするにい。」

*「登場人物のバランスがええだって。」

主役にばかり焦点が当たる視野の狭い作品ではなく、大人衆は「700円」しかセリフがないおじいちゃんとか(昔は無口な言葉足らずの人がたんとおったなあ)インパクト絶大なしげちゃんとかサユリのママとかの大人衆。さっちゃんのまだ幼すぎて集団生活に相応しいのかどうか非常に微妙な危なっかしさの残る動作所作。色んな登場人物追っかけても愉しい肌理(きめ)の細かさ。

*節目は描いてるけど終わり(結論)は描いていない。だからすごくリアルな「そよ」という人間のドキュメンタリーにも見える部分がある。このあとどうなるかなんて観る人毎に違うんだろうなあと。ひとついえるのはそよ達みんな明日があるってことでしょうか。その明日の連想は観た人の人生経験に照らされて違って映るんだろうなと。ちなみに私は、高校に入って最初のうちは付き合ってるけれど学年が上がる毎に距離が出来てくんだろうなと。

*お気に入りのシーン 重要なシーンである黒板になりて~と思えたシーンとかボタン付けのシーンとかはあえて省いて脇道?的に

お好み焼き屋のシーン

お好み焼き屋でそよがパイプチョコを渡した後の子供たちみんなの様子。そよは「なんかしまった」と思ってるのが背中越しの固まり具合で感じられてそれに無邪気ゆえに追い討ちをかけるようなさっちゃんのキツイ一言。男子は期待がそがれた落胆という感じで伊吹ちゃんとあっちゃん手作りのチョコに手をつける。あっちゃんはそよに気を使って、伊吹ちゃんは場を楽しくしようと陽気になる。その輪の中に入れないかっちゃんはいいなあって感じでひたすら無表情でチョコをガン見してる。もしかしたら私は背中で物語る演技ってのが好きな変人なのかも知れません。チャプターでいうと「9.聖バレンタイン」は大体全部好きです。

猫のシーン

問答無用の癒しですわな。今のところ5箇所見つけたんですけどまだあるのかしらん。矢口史靖監督も好きあらば猫を登場させんと欲しておられますが、今のところ山下監督の勝ちのような気がしてます。

バレンタインデーの日の床屋のシーン

レジでのやり取りの間は流れるようにテンポ良くスムーズで観ていて愉しいです。ま、このシーンに限らず佐藤浩市さんが出られるシーン全部そう思えるんですけど。子供の世界との対比というのがみられて、そういやあ昔は大人の世界と子供の世界が今よりもっと明確に分かれてたなあというのを想い出しました。

郵便局での会話のシーン

女性二人の挨拶にかこつけた決闘シーンは、コメンタリーで監督さんもおっしゃってらしたけど「こえ~」(怖い)でした。浮気?発見のシーンもこえ~でした。

バス停のシーン

なんでバス停?という理由が納得できるという、分からない人への優越感。答えは過去の山下作品見れば分かろうて。どうしてという意味は判りませんけんど。

*逆にツッコミを感じたシーン

はがきの期限切れを注意する。人のはがきを読む(チェックする)ってのは集落みな縁者みたいなもんだから許されることかもしんないけど、少なくとも私がそうされたら親切心から出た行為であってもちょっとずけずけとしてて嫌だなと。そよが「これで着くかいねえ。」みたいな会話があってご無礼と言いながらしげちゃんが葉書診るって方が納得なんですけど私としては。

ポストがふたつ並んでる。私だったらどっちに入れていいのか判らないので結局中に入って尋ねることになるだろうなと。コメンタリーで監督さんが気にされてたけれどやっぱ違和感ありますよ。

水色のセーラー服。見慣れればどうって事ないんでしょうけどインパクト有り過ぎですわ。

まあ、あちゃあちゃ書き連ねたんですけど、口でこける講釈じゃないんで、また人に聞かれても説明は無理と言うことだけは悟りました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

島根が近い?

勿論行った事はないです、そんな遠くに。近くにも島根県人はおらんです。だけどテレビドラマで「島根の弁護士」をみて、遠州弁に物凄い近い言葉を使うとこだという感じを受けました。地元の方の言葉ではなく役者さんのせりふでのことなので確信がある訳ではないんですけれども。

単語とかは多分異なるのだろうけど、イントネーション・アクセントに違和感がない。島根を舞台にした作品として他には「天然コケッコー」があるけど田舎にはやってこないのでDVDを待つしかない。

そういやあ水木しげるさんはお隣りの島取だったっけ。こないだのNHKドラマ見直してみすかな。

・・・・・ということで、やっと「天然コケッコー」を見れたので記事に興す事にしました。で、やっぱり同じ感じがしました。どこら辺がっていうと、多分ですが古い日本語がまだ使われているというところがそう思わせるような気がします。流行り言葉に惑わされることなく、しかもじじばばから孫へと繋がる環境がまだあるからなんでしょうか。

細かく言えば遠州弁では「おおきに」なんていわないですし、「行って帰ってきます」ほど原型を留めてるわけではないなど色々地域差は感じるんですが、「行きんさる・おいでんさる」とか「ほいじゃ・ほいでえ」」とか「そうかねえ」とかはイントネーションも同じなんですよねえ。自分のことを「わし」というのも同じだし。ま、そんなこんなでもっと細かい事は「天然コケッコーその3」の記事に書くこととして、とりあえずは島根に転居しても言葉的にはあまり苦労することはないだろうなと思えたのは確かです。でもあんな柔らかくはないですけどね遠州弁は。なので逆に島根の人が遠州に来たとしたら苦労されるかもです。

でもあんな遠いところと言葉に同じものを感じるってのはホント不思議です。私だけの感覚かもしれませんが。間に名古屋や大阪という全く違う発展をした言語域があるのになんで?って想いです。共通点といやあ都会じゃあないってことくらいですか。いや島根の方に失礼でした。ごめんしてつかあさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*どべ

解釈はふたつ。まあふたつとも共通語であって特に遠州弁だと言い張れることではないのだが。

ひとつめは、最後尾・けつ・最下位と言う意味。ってあえて説明しなくても全国どこでも通用する言葉。遠州独特の「ん」をつけて「どんべ」という表現はあまり聞かないので存在しないと思われる。「どべ」は「どべ」。なので飛躍する意味とかニュアンスはない。(同じ意味でびりっけつが変化したもので「びっけ」という表現もある。)

「マラソン大会でどべ。」

もうひとつは、下手くそに「ど」がついて超下手くそと言う意味。「どべたくそ」を省略したもの。「どべた」の方が良く使われるのだが、「どべ」を使う人もいるということで。こちらは「どんべえ」という「ん」をつける言い方がある。ちなみにアクセント位置はカップそばうどんのどんべえ(DOnbei)とは異なりdonBEeとなる。

「あいつ大概のこたあ出来るだに、水泳だけはどんべえだに。不思議だらあ。」

下手くそ故に最下位になるわけだから、意味は違わないといえば違わないのではあるが、もとの言葉は違う筈。一応こういう使い分けは存在している。いづれもご愛嬌という感じであって決して非難するような物言いではない。

ただし(かっこ)内で述べた「びっけ」には多少中傷的なニュアンスになりやすい面もあるので使用の際は言われた相手が傷つかないようにする配慮が必要と思われる。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*頭やってきた

意味としては床屋さんに行って散髪してきたと言う意味になる。「頭をきってきた」という表現もある。

散髪話しは結構あって、「頭をきる」というのは髪を切ると言う意味になり、遠州では頭=髪という表現が多い。共通語でも「頭をまるめる」という表現があるので独特な表現と言うより昔の言い回しが遠州には残っているともいえるのではないかと想像される。

床屋さんの呼び名も、男が行くのは床屋で女性が行くのが美容院と昔は呼ばれていた。もっと昔は美容院を「パーマ屋」と呼んでいた。最近では美容室・理髪店など色々あってだんだんと呼び名が変化してきている。

例文1

「こんの忙しいときにあんたどこ行ってたよー。」

「頭やってきた。さっぱりんなったらあ。」

例文2

「ちょっと行ってくるでねー。」

「どこいくよー。」

「パーマ屋の○○ちゃんち。」

「なによをあたまやりいくだか。こないだいったばっかじゃんかあ。」

「○○ちゃんの誕生日だもんで行ってお呼ばれしてくる。」

「いやだやーあんた手ぶらで行く気?」

「気いつかわんでっていわれたもん。」

「そーゆー訳にゃいかんの。ホントに気い利かんで困るやー。」

例文3

「おめえよー見てるこっちまでうっとおしくなるだで頭きってこいよエエ加減にぃ。」

「行く暇ありもしんに。仕事ばっかさしてえ。」

「休みの日に行きゃあいいじゃん。」

「そんな体力残っちゃいんわあ。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

天然コケッコーその2

結局金曜の夜から土日と観まくりで、モッ○ガー○最終話(静岡県は関東より一週間遅れ)録画忘れてしまったくらいはまってしまいました。天然コケッコー。

「そよ」というキャラクターが都会では生息でき得ない貴重種とはいえ、その生息地である背景の田舎に対して、憧憬でも懐かしみでもなくたんたんと映されているところが好きです。そこで実際に生きてるリアリティというものが感じられて心地いい空間なんですわ私には。細かくこのシーンがどうたらこうたら講釈述べて観るようなものじゃない気がしてるのでお気に入りのシーンとかはあるけど書かないでおこうと。ただ漠然と観るのが心地いいのですわ。

こういう作品の数が少ないのは、映画というかドラマなんだから波乱万丈でなくてはいけないからなんでしょうか。でもそんな道理はない筈で、ただ普通な事を映画として描く事が難しいだけではないのかと。

でもですよ、この映画の中にいる当たり前の普通の人間にとっては進学・恋・卒業とかいうこれくらいが最大級の波乱だと思うんですよ。ましてや大人と子供を使い分ける矛盾だらけの時期を描いているわけですから、それこそ箸が転んでも可笑しい感情の起伏が当人にはあるのだから。切り取り方ひとつで充分万人に伝わるなにかが存在できると思うんですよね。それに作り手が大人になって忘れかえってしまったか、正に今丁度その時代にいる子供たちの心象というものを理解できるかどうかという頭の柔軟さが要求されると思うんですけど。この作品に於いてはそのどちらかは見分けがつきませんけど作り手の側の頭の柔軟性があるんじゃないのかなとは感じます。

そういう意味でこの映画は当たり前な波乱万丈を上手く描いている作品だと思うんですよ。主人公が女子なんで私には基本何考えてるか分からないんで感情移入して観れる訳じゃないからのめりこむわけじゃないんですけれど。なんか適度な距離をとって観てるって感じなんですけども、コメンタリーで監督さんも言われていた男目線で描いてるというのを感じますんである意味正々堂々と「そよ」を眺めていました。

こんな繰り返し観るのってSG以来ですわ。しかもオーディオコメンタリーも面白くて同じ画面で二度美味しい状態なんで繰り返しできるんですなこれが。米国映画とかの超大作こそが映画の醍醐味と信じる方にはホントつまんない映画なんでしょうけど、日本人でしか表現出来得ないものを好む人には丸はまり系の映画ですわ。海外に持ち出して海外の人に理解されるんでしょうかねえという疑問というか自負は残りますけど。

DVD特別版というのを買ったんですけど気に入ったのでもっとディープにいこうかと豪華版ってのもあるのかなと思ったんですが、これ一種類のみでした。残念です。でも監督さんも夏帆さんもこの映画に対する愛情というものが伝わってきて見ているこちらも気持ちが良くなる感じにさせてくれます。あ~やっぱ映画館で観たかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*こすい

狡いと書く。ずるいという意味で辞書にもある共通語だが普段あまり使われなくなっているが、遠州ではまだ日常のなかで普通に生きている言葉である。

ものすごく狡いを「馬鹿狡い」という表現もあるが、「ずっこい」・「ずっけー」という言い方もある。こちらは「ずるがしこい」の省略形と思われる。穿った見方では「ずっこすい」の変形とも勘繰れるが正当性はきわめて薄い。

例文

「あいつずっこいだでえ。限定商品どうしても欲しくて、早くに並んどった衆に倍で買うっつって頼んだらしいに。」

「こすいやっちゃなあ。そんで手に入れただ?」

「いやそれがの、みんな欲しいもんで並んどるだでってけちょんけちょんに無視されたらしいに。」

「当然だの。いい気味じゃん。でどうなったよー。」

「結局手に入らんかったもんでちんぷりかあって店の人にあだけくさって。ほんでやっきりこいただか知らんが看板けっからかいて壊いたもんで警察呼ばれて連れてかれたらしいに。」

 (結局手に入れれなくてそれでふてくされてお店の人に逆切れしたんだって。それでも気が治まらなかったらしく看板を蹴っ飛ばして壊したもんだから警察に通報されて連行されたらしい。)

「馬鹿じゃん。」

「だらあ。」

こういう輩の要求には絶対屈しない社会でありたいものだ。たとえ商売としてお客さま第一と唱えようとも。公共の場である事をわきまえるという意識を持たないことが自分らしく自分に正直に生きることだと勘違いしているのは間違いではないのかと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

SP第8回

嵐の前の静けさというかこれから起こるであろう出来事の大きさを予感させる休題閑話的な回のような気がしました。

しかし画が青みがかっていて、とても醒めた印象を持ちます。机はいつも綺麗なままだし。命を賭した仕事仲間ならもっと距離が近くなるものかと想像するんですけど、なんか独立独歩でみな各自がそれぞれ全力を尽くすイメージが強めに感じられます。

そんな中で一人残っているのに電気を消される繰り返しギャグは仲間としての愛情表現の裏返ったものなんでしょうか。SPという職業のことは殆ど知識がないのですが普通というか凡人にはなれない特別な人達ばかりだと認識しているのですが、そういう世界でもいじられキャラってやっぱリアルに存在するんですかねえ。それともお話を面白くするために導入された現実のSPには存在しないキャラなんでしょうか。

どんな場所や立場においても人は均一にはならないということなんでしょうか。人が集団を形成すると必ず役割分担が生じると言うことなんでしょうね多分。同じ役が被らずにみな得意分野が異なるのが理想なチームでしょうけど、そうなるとばらばらなそれらを束ねるリーダー力というのが重要になっていくわけで。

上がアホだとやってられんってのはどこでも一緒なんでしょうねやっぱし。

醒めた青の世界見てたら自分まで醒めた目線で観てしまいました。アツい展開にクールな画は合うけど、穏やかな(?)展開にクールな画は冷えるかなと思う回でありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*らあ

「づら」から「だら」へ。そして最近は「だら」から「らあ」へと移行しつつある遠州弁。

行くんでしょを例にとると

「行くづら」・「行くだら」・「行くらあ」と言う風になる。もっと省略されて「行くら」といのもある。

言葉はホイホイ変わるものである。がんこ人がいても、瞬間的ではないにせよ10年一昔で変わっていく。

じじばばから孫へ連なっていった時代はもう昔の事。同年代の同じ時代の共有者同士で形成されていくようになっている今日この頃。だから世代によって物言いが違う。いいか悪いかの問題ではない。昔の方が地域性があって懐かしいというつもりでもない。

私の遠州弁は今の時代の言葉ではない古臭いものかもしれない。でもこれで生きてきたんだから違ってはいない・・・・筈。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2007年12月16日 - 2007年12月22日 | トップページ | 2007年12月30日 - 2008年1月5日 »