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一件落着

あくまで言葉遊びです。冗句です。

「1件落着」

世の中なんでも数珠繋ぎ。全てが収まるなんぞ夢のまた夢。とりあえず1つの案件は落ち着いてと。そしてすぐに次の絡まった難題を解きほぐしていくというのが現実の世界。

「一見落着」

見た目は解決してるということ。上辺だけは収まってみえるが実は中というか裏側はドロドロという灰色な解決のこと。大人の世界では良くある解決結果。

「一見落着」(別バージョン)

百聞は一見にしかず。カタログなどで商品を購入しようとあれこれ悩むのも楽しいが、現物に出会ってインスピレーションを感じるのも楽しいよということ。

本当の「一件落着」は

ひとつの事柄(又は事件)については決着がついたということである。時代劇でのお白州で奉行が「これにて一件落着」と言う決め台詞が一番有名な使い方か。このセリフのイメージが強すぎて何もかもすっきり解決みたいな感覚になっているような気がするのは気のせいか。字をよく読めばひとつの事柄だけの筈なのに。

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*どうしっかな

どうしようかなと言う意味。「どうせっかな」も同じ。「どうしすかな」が短縮されて「どうしっかな」になったと思われる。基本男言葉で女性も使う共用の言い方だと「どうしっかね・どうしっかや」とかがある。

どちらにしようかなと言う場合には「どっちにしっかな」勝負しようかなだと「勝負しっかな」とかになる。

「どうせっかな」と「どうしっかな」の細かい違いを「せす」・「しす」の違いで説明すると(文法上のことではなく具体的な使い方)

「どうせすかな」はどうしなければいけないのかな・どうしたらいいのかなといったどう行動すべきかという決意のこもったニュアンスのような言い方に聞こえ若干重め。

「どうせすかなあ」となると期待をわざと持たせる・もったいぶった的なニュアンスになる。

「どうしすかな」はどうしようかなといったシンプルに決めあぐねている・判断中という言い方に聞こえ気持ち的な重さは感じられない。

まあ遠州弁での「し」と「せ」の使い分けの問題なのでこの言葉に限った話ではないが。ここまで馬鹿なこと考えて使い分けてしゃべる奴は現実的にはいない。

ただ「し」より「せ」の方が言い手の意思が強いのは間違いないと思われる。「しろ」(しなさい)より「せろ」(やりなさい)といった感じで。もちろん集落によりそこらへんは異なるであろうが。

例文1

「どっちにしっかな。」

「早くしろやー。帰れやせんじゃんか。」

「まそーいわすとお。こかあ悩むとこじゃんか。」

「なにょうこいとるだ。こんなのちゃっちゃと決めれんでどうせるよ。」

「どうもしんよ。死にゃあせんもん。」

「日が暮れるっつってんの。帰りの汽車乗れんくなったらあんたのせいだでねー。」

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天然コケッコー

夏帆さんがいいですよね。瑞々しくて人生の中でいえばほんの一瞬しかない一時期を、決してお芝居だけでは表現出来得ない時間枠というものを夏帆さん自身のリアルタイムと連なってるみたいに演じられていて「ほんまええ映画に出んさった」って云いたくなっちゃいます。芝居じみたとこがなく無欲の勝利ともとれるほど素直な印象を受けました。いわば役と同化してるというか無理がないというか素直に「そよ」なんだと心地よく騙されました。

歩き方や走り方が都会の人とは思えないほど田舎の娘みたいでした。服とかの見た目の容姿とかはあくまで増幅させるオプションであって。それよりも内面からその地に暮らす女の娘の雰囲気を醸し出していて、決して可愛い夏帆といものをを愛でる作品などではなく純粋に物語の主役としての存在感を示す感覚を感じます。実際の夏帆さんてどうみても都会の「べっぴんさんだわ。」ですからねえ。見る前はちょっと侮ってましたけど全然違和感がありません失礼しました。

映画全体が「天然」という表現を素直に感じられる空気感が心地よいです。風景描写によるものだけでなく人の存在感でそれが感じられる気がしました。証拠というかそう感じたシーンは都会に出て来た時のシーンに感じられました。登場してくる人みんな生きてる感があります。ストーリーを展開するために捻り出された様なキャラクターが見当たらないということです。

そしてなんか「みちくさ」を映画にしたみたいな感じがします。学校や家庭よりも道を歩いてる様が多く描かれたような印象を持ちます。えこひいきした道とかあったんだろうなあ多分。目的地での出来事よりも、その行き帰りの寄り道とかの間のうちに人として色んなことで成長していくのかなあと思ったりもしてしまいます。

こまごまとした出来事が紡がれながら点々と時間と四季が移ろい行くお話しですが、些細な事だらけの何も起こらない話と言えば言えなくもないけれども、中学生という大人でも子供でもない不安定な時期という精神状態を我が身の過去に振り返って問うてみれば、人を傷つけない配慮という思い遣りや異性への遭遇とか否応なく憶えていかなければならない大変な出来事ばかりのお話のような気もします。深読みすれば昔のことで忘れてしまっているだけで思い出せば必ず自分にもあてはまった苦悩が見えるんじゃないのかと。些細な事で傷つきまくってた時期。そのくせ野望は際限なく持ってて自分はなんでも可能性があるスーパーマンだと思ってたあの時期ですよ。

私は男ですから「そよ」の心情を理解するのは何度見直しても永遠に無理でしょうけど、そういうところがいいんでしょうね分からないというところが。だからこそ何度観ても飽きないのかもしれません。

言葉については単語というか言い回しは違うのだけれども、全体的な印象はなんか遠州弁と共通性を感じました。おそらくは古い日本語を使っているからだろうなあと想像します。でも「おおきに」とか「行って帰ってきます」とかは云いませんけんど。ちっちゃい子の方言はそれだけでも可愛いのでGOODです。

くるりの音楽も又良いですわ。「リアリズムの宿」でもしっくりというよりこれしかないっていう決め撃ちな感じでしたけど、山下作品とは本当に相性いいですよねえ。ホント画と同じ空気感を味わえます。

なんか観るたびになんか感覚が新しい(違った作品みてるような)感覚になるってのはなんなんでしょうねえ。どの角度からでも観れる全方位的なつくりなんでしょうか。今年観た映画作品の中で私にとって「蟲師」と共に最上級の満足感を与えてくれた作品です。さすが山下作品です。期待を裏切りませんこの監督さんは(ユメ十夜は除く)。刺激を求めたり癒しを求めるような作品ではないような感じがします。なんかただ漠然と観るって感じですかねえ。

あそうそう書き忘れました。猫は癒されます。というか和みます。

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医龍2の最終回を見ての妄想的感想

艱難辛苦を乗り越えて無事手術は成功の大円段で目出度し目出度しでした。

しかし対比するかのように野口の凋落振りは劇的過ぎてマンガみたいと思いました。マンガが原作だからいいのかこれで。って働きマンでも同じこと書いたなあと。

で、ふとマンガ繋がりでドラマも繋がると奇想で面白いんじゃないかと。つまりコラボと言う奴ですな。だって野口の凋落が週刊誌の記事報道を大写しにしたものじゃないですかあ。この記事書いたのが豪胆社の松方弘子と言う可能性あっても不思議じゃないでしょうに。

働きマンのほうで院長のタレこみから始まる取材や記事にするまでを描き、医龍のほうでパーティが終わった後記者が突撃取材を敢行するって図なら、両方で登場人物共用でドラマに使えるじゃないかって。

医龍のほうのお医者さん軍団は働きマンの方には出る理屈がない分役者さんの共用メリットは働きマンが損かもしれないけど、医療問題における汚点を暴くという一話分のお話としてのネタができるのと「お金は国から戴く」と言うセリフからして国と相対していくにはメディアを味方にする戦略もあるだろうから、共同で野口という悪と片岡(内田さん)と松方(菅野さん)がタッグを組んで闘うというのも話としてはあってもつまらなくはないだろうと。でそれは働きマンの方で描けばいいんじゃないのかなと。

などという妄想話が医龍観終わって浮かんでしまいました。テレビ局も違うし放送日も一緒でないと成立しない妄想でおますが独りでウケてしまいました。

真面目に感想を書くと、面白かったです。3を観たいッス。それにしても朝田は一難去って又一難じゃなくて一手術終えて又一手術。旅から旅の渡り鳥みたいな人だと。定住すればいいのに患者さんを求めずとも助けを求めて皆やってくるのにとついつい思ってしまいます。すいません変な感想で。

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*あわっくい・あわくい

あわてんぼうと言う意味。

「あわくいがあわてくさってきぜわしない。みちゃあおれんくてホントしょんない。」

  (あわてんぼうが慌てまくって忙しない。見てられなくてイヤになっちゃうよ。)

古い使いまわしなので最近つうかここんとかあ耳にしたこんない表現。

あわをくう奴と言うほうが正しい訳かもしれない。最後の「い」には「~な奴」という意味がある。本来は「しい」であるが「あわっくしい」とは言わないので「し」を省略したものではないかと想像される。「心配しい」となれば心配性となり「かっこしい」となれば「かっこつける奴」となる。

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働きマン最終話

痴漢の冤罪をとりあげるなんて、映画「それでも、ボクはやってない」を観た身としてはまた随分と勝負したなと思いました。

「ペンは強し」というかメディアの手にかかれば真実は白日の下にさらけ出せるということなんでしょうか。確かに絵に描いたように決着をみて観てるこちらとしては溜飲を下げたというか気分爽快なんですが。一歩間違えれば冤罪と認めず出版したかもしれないわけで、限りなく猛毒にもなれば特効薬にもなるものだとメディアの力をこれでもかと見せ付けられたような気になりました。

今のところお蔭様でメディアに眼をつけられずひっそりと生きることができている私ですが、加害者であれ被害者であれ自分がそういう俎上に載せられたらと想像すると背筋がゾクゾクっとしてきます。真実なんてものは人の数ほどあるもんだと思ってるので。目線の向きひとつで悪にもなり正義にもなるという。

で感想としては、正直なところ映画と比較しちゃったので今回は特にマンガみたいと感じたんですが、原作がマンガでしたね失礼しましたこれでいいんでしたっけ。

しかし、最近つとにマンガが原作のドラマが多い訳ですが、原作に忠実であらんと欲する作品(のだめとか)と原作は原案であってドラマはオリジナルなストーリーという作品と折衷案というか中間的なお話しの作品とかに分類されるんでしょうけど。「働きマン」はどれに当てはまるんでしょうか。読んでないんで分かりませんけどおそらくは折衷案なんでしょうね特に新二との関係については。私的には好みですけど。

んで、前回までの大雑把な感想といたしましては、私新二目線で見てたような気がします。なので社会人としては尊敬できても人生のパートナーとしての松方弘子にはある意味冷ややかな思いがありました。

でも冒頭でいきなり花嫁姿での始まりは、前回からのお話の繋がりからいって夢だろうなあと思ったんですがやっぱ夢でしたね。それでも見ていて心地よかったですわ夢であれ新二と共にありたいと願う想いというものが垣間見られて。

あんないい奴いないですよね新二みたいな理解力と辛抱強い人って。それほどの奴にさえついていけないと言わしめる松方弘子ではありますがやっぱり新二がいいんだと思うところは可愛いなあと素直にそう感じます。

仕事中は常に100%男モード女モードはプライベートのみってなら別にどうって思わないんですけど、新二と別れた後職場の男子を新しい恋の相手候補として見回すシーンが以前あった通り男女を使い分けている訳ですし、彼氏がエネルギーの基となっている訳でもあるのですからありあわせの恋には走って欲しくはなかったですよ。前にも書いたんですけど、あんだけ一所懸命に生きてるんですからね。そのご褒美として恋も仕事も上手く行って欲しいものだと。

そういう意味ではまあまあ納得のハッピーエンドなのかなと。でもよくよく考えてみれば第一話の頃となんにも変わってないじゃないか、仕事に対する熱意と新二との関係が。エンドレスというか振り出しに戻ったともいえるわけで、そんなこんなで歳を重ねていくわけですね。悪い気はしないですけど。今後もこの二人ちょくちょくこういうことが続いていくのかなと。ま、いつか振り返った時に二人が繋がっていたら悔いのない良い人生だったと胸晴れるんでしょうね。うらやましいです。

後ドラマとはなんの関係もない感想ですけど、菅野さんへのどアップ多かったような気がしました。背中で芝居する菅野さんってのも観てみたい強欲な私です。沢村さんの唄声もちょっとハスキーっぽくていい声だなと。松方と荒木の女友達のシーンでは竹内まりあさんの「FOREVER FRIENDS」という曲がいつも頭の中で浮かんできました。具象化するとこんな感じなのかなと。

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*はかす

掃かすと書くと、掃こうかと(思って)と言う意味。庭掃かす。

吐かすと書くと・・ってこれはまるさら標準語。ただし標準語だと吐かせるであるが遠州弁だと吐こうかと(思って)という意味になる。

「ゲロ吐かすと便所行ったけど間に合わなんだ。」

  (ゲロ出そうだったので便所に駆け込もうとしたけど間に合わなかった。)

履かすと書くと・・ってこれもまるさら標準語。これも標準語だと履かせるおむつ○ー○ーマンとなるが、遠州弁だと履こうかと(思って)という意味になる。

「パンツ履かすと思ったら全部洗濯中だった。」

  (パンツ履こうかと思ったけど全部洗濯中だった。)

捌かすと書くと、どけるとか片付けるとか意味になる。で、今回はこの「はかす」のお話し。

辞書では捌く(さばく)ようにすることとなっているので多少遠州独特な表現の言葉ではある。

舞台のお芝居での用語で、舞台の袖などに物や者が消えることを「はける」というらしいのだが非常によく似た意味合いであるので親戚筋の言葉だろうなと想像している。

例文

「どでかいテレビ買ったはええが。さてどこ置かすでえ。置く場所ありもしんに。」

「何はかすだ?あんたの机か?」

「いやおめえの化粧台でどうだ?。」

「ばかこいちゃかん廊下で化粧なんかでけん。」

「ワシも廊下じゃ本読めん。」

「かたす」という表現もあるが片付けると言う意味合いなので整理整頓的なニュアンスになる。片付けてスペースを空けるわけではないのでこの例文では使わない。

「うっちゃる・ほかす」だと不用品的ニュアンスになるので、入用なものに対しては使わない。

したがってこの例文では、必要だけどとりあえずか確定かはともかくとして部屋にあるものを部屋から出すということで「はかす」を使っている。ただ最近はよく使う言葉ではないので普通に「どける・どかす」が今は一般的になっている。

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*またそーゆーことゆー

又そう言う事を言う。特に方言ではないがよく使われる言い回しである。下記の使い方が全国共通かどうかは知らない。

①来なきゃよかったとかこんなことならとか、ぐちぐちどうしようもないとかもう後の祭り的な発言をされた時の返し言葉という使い方。

このあとに「なんでそんなことゆーよー。」がつくことが多い。こういう場合は今更なにをいってるんだという感情がこもる。勿論根性なし・優柔不断をなじる意味も含む。

②冷やかしとか厭味とか皮肉とかを言われた時などにそんなこといわないでよと返す時の言葉。

①の例文

「こんなこんならこにゃあよかった。」

  (こんなことなら来なければよかった。)

「またそーよーことゆー。あんたいっつも少しでもつまらんくなるとぶちぶちゆーで厭だやー。」

  (嫌になるなあ。ちょっとでもつまらなくなるとゴネ始めるんだから。嫌いだよ。)

②の例文

「お!今日はどうしたでえエライ早いご出勤じゃんか。」

「またそーうゆーことゆー。勘弁してやー。」

  (いやいやいや冷やかさないでくださいよ。)

勿論遅刻してることになる。

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年末年始何観よか

この時期テレビ雑誌は年末年始いっきに掲載される事が多く。エライ先まで何観よかと言う気になります。特に夜中は映画が放映されるのでお愉しみが多い事は事実なのです。勿論静岡県での話しなので全国的なお話しではないし、書いてそれが呪縛みたいに義務となって襲い掛かるのも嫌なので、あくまで未定は予定。見落としもあるかもで追加アリアリ。とにかく自分忘れんようにとメモ代わりの記事。それにしても各局共再放送のなんと多い事か。見忘れた・録画し忘れた懺悔の念に天が報いてくれたのであろうか。

12/22

とりあえずSP第8話は当然として、ハゲタカの再放送をどうしよう。

12/23

「手紙」。去年の映画だったと記憶してるけど日曜の21時とは驚きです。確かに感動モノらしいんですけんど軽い娯楽作品ではないような気が。それなりに衿を正して観ないと。ただETV特集熊井啓監督の特集と被るんだよなあ。二者択一かあ。

被るといえば有馬記念と被るけどミイラ新発見ってのもそそられますなあ。シカンは本当に新発見って感じで島田教授が興奮を冷まそうとして煙草を吸うシーンが印象に残ったっけ。エジプトはなんか徳川埋蔵金とは違うけど結構たんたんとというか地道に発掘されておられて興奮というか驚きはシカンほどじゃあないしなあと。しかし学術的成果は大きいのだろうし吉村さんって山師っぽいけど(ごめんなさい)エジプト研究に全てをかけてる様は尊敬に値するから応援と言う意味でも見ないといけないのかな。それにしても穴掘り話しはTBSの専売特許ってか。

12/24・25・26

とりあえず箸休めって感じかな。仕事一所懸命やれってことなんでしょねえきっと。余裕があったら特命係長・只野仁Ⅱの再放送かな。BSでは金田一シリーズと伊丹十三監督作品をど~っと上映されるが時間的に無理なのと、もう全部観てるしねということで。観た事無い人は観ないと損だけど。同じ理由で26日の「ホワイトアウト」もね。

12/27

「半落ち」日本アカデミー賞とってる格調高い作品だけど、気分的にとんねるずさんのほうに流れて行きそうな予感。つーか劇場への招待で「平成中村座のニューヨーク公演」の再放送さえも観てれる心の余裕がなさそうな時期ですわあ。ギブミーリフレッシュですわいな。

12/28

市川昆監督の「どら平太」翌日は土日だからじぇったい観っどー。

12/29・30

家に籠もっとらんで映画館に行けと言う神の思し召しなんでしょうな。それにしても30日の「日本以外全部沈没」と「やわらかい生活」どっち観ようか。おおっとその前に29日はYuming Films見ないと。「菅野美穂・インド・ヨガ聖地への旅」n再放送もあったっけ。

12/31

にゃんこ・わんこスペシャル朝めちゃくちゃ早いから録画しといて後で観よう。「佐賀のがばいばあちゃん」も録画どうしようかな。泉ピン子さんはどちらかというと苦手なタイプな役者さんなんですが、これはいいですわ。映画と違って品がない分生活感がリアルだし。それでいて明言集でもある説教くさい言葉に説得力がある賢さが伺えるとこは役者力を感じます。(泉さんが品がないとは言ってません。あくまでそう演じられているということです。念のため)

後「美の壷」の一気ってのもあるなあ。

ほんで来年のことは言うと鬼に笑われちゃうので今宵はここまでにいたしとう存じます。

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ガリレオ最終話

最終回の感想はやけに作り手の意図から外れた無茶ブリみたくなってしまいました。私の勝手な印象(妄想)なんですが、木島の行動はガリレオの推理(貴方は私に罪を被せようとしている逃げようとしている)とは違うという感覚になりました。木島はそう思っていたんじゃないだろうと。

木島(久米さん)自身も吹き飛ぶつもりだったと言う前提での話しなんですが、形は理想じゃなくとも一応の研究が完成をして目的を遂げるも、その完成のために生きがいまでをも犠牲にしてしまって、生きる目的を失くし世を儚んで東京の半分を巻き添えにして自殺を図るなんて。ホント迷惑なお話です。しかも自分じゃスイッチ押せなくて人にやらせて生きるか死ぬかの賭けに出るなんて。随分なやっちゃて感じですよ。

ま、ガリレオの推理どおりだったら生き残る半分のとこでシャンパン飲んでるってことになる訳ですけどね。そのほうがやっぱり正しいんでしょうね。生き残らなくちゃ悪党らしくありませんものね。でもなんであんなまわりくどい方法でガリレオに罪をなすりつけようとしたんでしょうか。(それをいっちゃあお終いか)

しかし忌まわしい過去において、正しい倫理を以って正義の元に告発したのがガリレオではなく助手だったそうでってもしかして栗林(渡辺さん)だったのでしょうか。勝手な想像ですけど助手歴長いっていってたからもしそうだったら見直しちゃいます。いい人だけじゃなかったんですね。

爆弾を解除する様は物理学者同志ならでは心理戦みたいで面白かったです。まず最初に珈琲飲むとこなんか冷静沈着の権化みたいでしたもんね。謎解きゲームにしか見えなくもないけれど、少なくともゲーマーのような快楽というか生きがいみたいな眼はしていませんでしたから真剣という表現で正しいんですよね。最後は非論理的な決断というのは理論万能への皮肉なんでしょうか。変に深いです。って深読みのしすぎか。

画としては、もう会わないと宣言するときの、シルエットで会話が紡がれてその表情については観る側の想像の範疇で進行していくところが好きでした。どうともとれる曖昧さじゃなくて、お互いに想ってる事と言ってる事のギャップが顔に出てるんだろうなあ(無理してる・心に正直じゃない)と見て取れてそれなりに想像が膨らみました。

最初の頃の方で音楽の印象が薄いと書いたんですけど、今回は迫力というかインパクトがあるように感じました。1・2話見直してないんで変わってきたのか、観てる自分が馴れてというか世界観にはまってきたからかは分かりませんが、とにかく音と映像両方とも迫力を感じました。ゲーム音楽みたいに何度も繰り返し聞くことによって印象って変わるもんなんですかねえ。それともパワーアップされたんでしょうか。

次は映画でしたよね確か。でかい画面で観る研究室はどんなだろうとワクワクします。なんか最終回ってなってるけどこれで終わりって感じが全然してません。むしろプロローグが終わっただけって感じで。

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*しらすか

知らないよと言う意味。「知らすかー」「知らすかあ」・「知らすけー」との違いは、説明がめんどっちいのだが、まず当然イントネーションが違う。

次に、ドリフの名言「だめだこりゃ」を例にして説明すると

a「だめだこりゃ」=「そりゃしらすか」

b「だめだこりゃあ」=「そりゃしらすかー」

c「だめだねこりゃあさあ」=「そりゃあしらすかあ」

って判りにくいか。

aだと、知らんよって言い切ると言うか知るかって感じで突き放す的に聞こえる。

bだと、幾分感情がこもって、知らないなあ的に聞こえる。

cだと、知らないね(関係ないね)という他人ごとのように聞こえる。

ちなみに湖西市に白須賀という地名があって「しらすか?しらすか。」というギャグを小さい頃こきまくってて一人でウケてた。周りはしらけてたけど。

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風林火山

*風林火山35話・2007/09/03

毎週見てるんですが、今週の「リツ」役の前田亜季さんにはびっくりしました。

「リンダリンダリンダ」のイメージを引きずってるとはいえ、時代劇だからこそのけれんとはいえ、声も顔立ちも「え?」ですよ「え?」。

なんか物凄く大人になったみたいで、1・2年でこうも変わるのかとホントびっくりです。マジで別人28号の同姓同名じゃないかと疑ってしまいました。1985年生まれの方だから22歳ですよねえ。

まあ、舞台も経験されてるから役者としての引き出しを沢山お持ちなんでしょうが、それにしても見た目だけでなく漂う雰囲気までもが以前持ってたイメージを覆すインパクトを感じて「役者やのー」と叫ばずにはおれません。前田さんのHPにお邪魔したら、最終話までお出になられるとか。

しほりんが早々に逝ってしまって個人的に注目の役者さんがおられないまま、それでもドラマ自体が面白いのでズルズルとひきずられて見てたんですが、ひとつ愉しみが増えそうです。

*風林火山36話・2007/09/09

35話から前田亜季さんの「リツ」が登場されての話。、後ろに流れる音楽からして明らかに特異なキャラクター設定で、笑いを取ろうと言う訳ではないのだろうけれども、「リツ」と接しての勘助のどういった面を引き出そうとしているんでしょうか。振り回されるという点では、しほりんの「ミツ」と一緒なんだろうけど、それだったらSGファンとしては「リツ」でしほりん復活!でも良かったじゃんと思わないでもないです。

とは言え、「リツ」のさばさばとあっけらかんとしたキャラクターは前田さんこそって感じもしないでもないし、贅沢に両方見てみたいってところでしょうか。「ミツ」には母性という慈愛を持った勘助に対する想いがひしひしと伝わってきて感動したけど、「リツ」はどういう想いを魅せてくれるのか興味津々です。

いずれにせよ、姫様の登場する回はいつも、つい息苦しくなるのでこういう元気な登場人物は大歓迎です。願わくばこういう考えを持つ人が少数派でないことを祈るばかりです。重厚こそが大河ドラマの醍醐味と考える人が大勢を占めるとなると、私は明らかに少数派ですけど、バランスさえよければ両方見れたほうがいいじゃんって感じです。

*風林火山37話・2007/09/16

よくよく考えてみれば日本で最後に残った現代劇の要素をとっぱらった純度100%の時代劇なんだ大河ドラマっていまさらながら気づきました。セリフの間・言い回し全てそうなんだ。生身のリアル感を求めるよりも形式・様式を美しくするための芝居として培われた時代劇という別世界を堪能すべき作品なのだと。セリフが大仰だとか溜めがけれんだという違和感もまたをかしとしなければいけないんだと。

当初甲府の最下層の人間の物語だったこともあって人間味というものに引っ張られていたから晴信がやけに浮いてるように感じてたけど、ここのところは逆に晴信がやけに人間っぽく見えてしまうほど勘助が武士という異空間の存在になっているように感じられます。影虎が出てきて益々その考えに確信を持つようになってきました。

今回は北条と長尾・上杉の両シーンが特に武士の美というものを描いていて様式美として決まっていたと感じられました。竜若丸の目が印象的でした。ただひとつ私の好みで無い点は妻鹿田が現代風のお芝居になってた風に見えてしまってそこだけ人間劇の持つ人間の感情が見えたようで、好みの問題ではあるけれども、武士は人間じゃないから面白いというところから外れてしまったように感じました。(じゃ、どうせいっちゅうんじゃといわれてもアイデアがある訳じゃあないですけど)

タイトルは「母の遺言」なので今回は大井夫人(風吹さん)が主役なのでしょう。もう上手過ぎて何も言えません。何か書くのは黒澤映画や小津映画に講釈たれるような不謹慎なことのようなものでしょう。もう堪能したのみであります。

あと凄く脱線するんですが、池脇千鶴さんが何故か今回は綺麗に見えました。(勿論いつもお美しいんですけど今回は特にということで。)

*風林火山39話・2007/10/03

私の上杉謙信のイメージは幼い頃に見た「天と地と」の石坂謙信でかたまっています。以後の様々な作品で謙信が登場したときには、謙信役でお出になられた役者さんには申し訳ないんですが勝手に石坂謙信に置き換えて物語を見てました。

なので今回もそのつもりでいたんですが、Gackt謙信も良いじゃないかと揺らいでおります。上杉謙信のストイックな部分というものがGackt謙信の方が石坂謙信よりも強く感じられるのです。Gacktさん御本人の活動は失礼ながらあまり良く知らないのでどういう点でストイックさをお見せになられているのかは分からないんですが、戦国乱世の世で私利私欲に走らないその為に女人を絶ち毘沙門天に誓う上杉謙信と、Gacktさんが漂わすストイックなオーラとが私には何故か重なって見えるときがあるのですわ。まあ多少装束が気にはなりますけどそれを吹っ飛ばすものを感じます。

今回はお芝居的にも市川晴信が諸角を許すシーンなどは正に歌舞いた芝居で、Gackt影虎がけれんなお芝居でそれを補佐する緒方宇佐美が歌舞きもけれんもしないそれでいて重厚なお芝居とあって、しかも今回は伝兵衛たちの軽いお芝居とかも混ざったりとホント色々な種類が見れて見ごたえがありました。

私の勝手な解釈で歌舞く芝居とけれんな芝居の違いっていうと、以前ウッチャンさんのコントで、何かの大御所が現代劇なのにひたすら歌舞きまくってそれが異常に浮きまくってる姿が笑えるという、(確かキャメラマンの木村大作さんがキャメラマンの役で出てられてた様な記憶が)コントがあった筈なんですが、歌舞くもけれんも仰々しくて多少嘘くさくて大袈裟でリアル感よりも説得力・存在感のインパクトを強調したお芝居で、そこのところは一緒なんですが、歌舞く芝居は現代劇にはそぐわなくて、けれんな芝居は現代劇から発生してるというのが違いだと思ってるんですよ。

そんな薄っぺらい違いじゃなく他にもある筈なんですけど、どう違うのかうまく表現できないんですけど、今回の影虎と晴信を見比べて確かに存在するというのが再認識できたような気がしました。あきらかに違うと。

なので皆さん中途半端に合わせる芝居じゃなくそれぞれ異なる表現手段をとられているような気がしてそしてそれが個性的でかといってバラバラに散漫的になっていないところが面白いというか凄いというか。

でも高橋馬場はなんか中途半端な気がしてます。高橋和也さんて現代劇だといい役者さんだなあというか、私の好きな作品に大抵出演されていてしかも印象に残るお芝居をされる方で好きな役者さんなんですが、今回に関してはなんか違和感を感じます。勿論あくまで私の感想なので評価判断している訳ではありません。素人がそんなことできる訳ないですから。

*風林火山40・2007/10/08全然ドラマの流れと関係ないんですが、福田麻由子さんがドガンコ可愛いんでホントびっくりしました。笑ったときのくしゃっとした笑顔と泣くお芝居の印象深さが特徴と言うか上手いというか。末恐ろしい才能を持った人だなあとは思ってたんですが、今日のお姫様役見て可愛いというか顔立ちの整った美しさをも兼ね備えてる人なんだと新しい発見した思いです。とはいっても年齢的にこれから青春ドラマにいざ出陣というお年頃。上手いからと言って実年齢無視した背伸びするような役とかに振り回されることなく、歳相応でいって欲しいですね。今回は歳相応な筈なのでいたいけなはかなさを感じれてとにかく印象に残りました。

母親役の池脇千鶴さんは対照的に実年齢考えると、化けるのがホント上手い役者さんだと感心しまくりですわいな。確かまだ20代で独身ですよねえ。「学校の怪談物の怪スペシャル」にも書きましたがアイドルみたいな可愛いだけ(御免なさい)の人かとそのとき思ったんですが、とんでもない思い違いで恥ずかしい限りであります。そういう意味では私の書くものに信憑性なぞないというのがバレバレなんですが、今回の子を想う母親の心というものに心が揺れました。一体幾つまで年齢さば読めるんでしょうか、流石に高校生はもう無理でしょうけど上なら100歳くらいまでいけるんでしょうかねえ。ビールのCMでははっちゃけておられるしさりげなく凄い役者さんだと改めて思いしらされました。

谷原章介さんは「出るトコ出ましょ!」を見た後なんで、正直イメージ引きずって笑っちゃわないかなと思ったんですが、きっちり今川義元として見れました。あまりにも強烈な役にはまっちゃうとそのイメージから抜け出せなくなるときもあるのだけれどもそんなことはなかったですね。よかったです。なので安心して「出るトコ出ましょ!」連ドラ化してください。見たいです。

それと平蔵とリツって今回どこに出てました?出演タイトルには名前が連なっていたけど出演のシーンがどこだか気づきませんでした。

AND ほんとどうでもいい話なんですけど、「織田信長に攻められ三河で戦のさなか」というセリフ。信長の父信秀が急死したのが1551年。三国同盟が1554年信長はこの時期はまだ尾張そのものを統一してないような気がするんですがその状態で今川に喧嘩売ったんですかネエ。なんかちょっと不思議ではあります。史実なんでしょうか。ほんとどうでもいい話ですいません。

*風林火山42話・2007/10/22

なんか久し振りに佐藤慶さんを拝見したような。若干声が変わられたような印象を受けたんですが、佐藤さんが画に入ると決して重苦しくない重厚感が増すので、これからもお元気で沢山の作品にてその存在感を観てみたいものです。

今回は「一方は己を高く一方は己を低く見過ぎておる。まるで天と地じゃ。」と言うセリフに何故か過剰に反応してしまいました。

前回で雪斎が後の家康に述べた信玄評に全く同意する謙信派の私としましては、「天と地と」という表現は謙信を表わす言葉と同義な重みのある言葉なのです。

「天と地と」とは、正しき道や心の持ちようを「天」戦国乱世の現実を行き抜くことを「地」その両面を「と」と言う文字でつなぎ自らを生きた上杉謙信を表現した言葉と私は理解してきました。それは小さい頃大河ドラマ「天と地と」を観て、それなりに大きくなってから海音寺潮五郎先生の本を拝読しての私なりに至った解釈です。

NHKには受信料払ってることだしお金払って観る映画やDVD並みにとツッコミ入れて品の悪い自分勝手ないいがかりをつける客と思われても仕方ないんですけど。上杉謙信の生き様を表わす言葉として刷り込まれている私としては、どうもなあと言う気がしてならないのです。

天の反対語が地というのは知っています。使い方が間違っていないのもわかります。でも思わず連想してしまうので影虎と勘助を比して述べる言葉にしては欲しくないというのが率直な気持ちです。他の番組ならともかく同じ大河なんですから。

以上いちゃもんチェックでした。多分誰も同調することはないでしょうけど。

*風林火山最終話・2007/12/17

受信料払ってるから民放ドラマと違って多少悪口とも取れるようなこと書いても罰が当たらないだろうと考える罰当たりな私です。役者さんに対して異議申し立てしてるわけでは毛頭ありません。お芝居に関しては素直に感動しました。

でもねと単純に違和感を憶えること。大仰な時代劇にして往々にありがちなこと。雑兵は一太刀で絶命するが偉い人ほどちっとやそっとの太刀数や矢数では死なない。まあ上にいる人ほど強い精神力があるからといわれればそうなのかもしれないですけれども、戦場でのリアルな臨場感を削ぐ結果になるので劇的ではあるけれど私の好みではないです。

勘助の遺体を重臣たちが囲んでそのあと勝ち鬨を上げるとき、そこにいるのは重臣と信玄のみで他は草生す屍のみという光景。一応戦場ですよ。忍者がとまではいかずとも命を狙われる危険はある訳だからあれだけの人数ってことはありえないでしょうに。勝ち鬨だって全軍でやるべきイベントであって勘助への野辺送りという筈もなく。

視聴率的にも悪くないドラマだった筈ですよね確か。それにしちゃあ合戦のシーン省エネというか人が少なかったなあと。こじんまりとした合戦みたいでした。歴史上において激闘が繰り広げられた川中島の決戦にしてはということです。

役者力を愛でるドラマなんだからぐちぐちゆうなという反論はごもっともですが、大昔の事とは言え戦争という殺戮の場を描くわけですから、戦争は無情で悲惨なものであってしてはならないと言うメッセージとしての部分も描くべきなんじゃないでしょうか。侍の美学といった綺麗ごとだけで済ましては欲しくない想いがあります。

洋画とかでいろんな特殊効果を駆使してありえないことでもリアル感で魅せるこの時代にリアル感を無視した昔ながらの役者力だけに頼るというのはどうかと思います。時代劇はもう形式として完成しているのだから時代遅れでいいという論理なのでしょうか。

それにしても終わってみれば全部見た大河ドラマなんて何10年振りだろう。しほりん目当てで観てそのままずるずると引きずられて最後まで観てしまった。謙信ファンなので信玄は敵キャラなんですけどね。今年はちりとてちんと風林火山ずっと見てるからなんか久し振りに受信料払ってる元は取ったかなって気分です。

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*わしんやらすだ?

私がやるのか?厳密にニュアンスも含めて言うと、私にやらせようとしているのか。

「わしん」の解釈が「わしに」か「わしが」によって異なるが上記は「わしに(ん)」の場合。

「わしに」には極端な事を言えば誰でも出来そうな事を私にやらせるというある種「なんでわしが」という想いがこもる。

「わしが」だと出来そうにもない困難なとか厭なことなどをやらせようとしているというニュアンスが強くなる。共通語だと私がやるのか。

まあ余りたいした違いはないのだが。微妙と言うかかすかにね。

いづれも「やらす」は「やらさす」つまり「やらせる」という命令口調でいわれたときの受け手の表現である。

例文

「さあ食うもん喰ったではあええら。あたあ片付けだの。たのむわあ。」

「なにや。わしんやらすだ?」

「そうだよー。客人に皿洗えなんて普通言えんらあ。」

「なんでわしんばっかやらんとかんよー。なんかおこれるう。」

「ぶちぶちいわんでちゃっちゃとやりい。」

「自分わあ。」

「わしみんなとゲームせるだよ。使い方教えんとかんだで。」

「うーどずるい。」

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ハタチの恋人漠然とした感想

まずは遠州弁で素直な感想。

はあ終わった話だで冗談で済むでいわしてもらうけどねー。

あのさ~、まあちゃさあ。あんたせっかくお在所遠州っつう設定だっただに、なんで遠州弁で芝居してくれんかったよお。遠州弁の使い手の役者さんっつったら数えるほどしかいもしんにぃ。ここで使わにゃはあ使うときないかもしれんじゃんか。

それに方言可愛いなんて映るの若いうちだけだにい。大人のおんなんなったら封印しんとかんくなるだで今やらんでいつやるよー。

と、ドラマのストーリーとはなんの関係もない感想が真っ先に浮かびました。最終回のシリアスな会話シーンが遠州弁じゃ様にならないので勿論冗談です。

全体的なお話の流れとしては初老にむかいつつある男にハタチの女性が恋愛感情を抱くという設定に大分時間を費やしたような感じがしました。そこに至るまでに嘘をついて繋ぎとめるという様が長く感じて正直しんどかったです。嘘がもっと早めにばれてその後の瓦解という方に焦点を当ててくれた方が観やすかった気がしてます。

父親を知らずに育ったとか、都会に一人で住んで温もりを求めていたとか相手は著名人などといった色々な設定をつけて異様な年の差カップルという現実性を模索されたんでしょうね。説得力を高めるための苦心で苦労されたんだろうなあと思います。男親への想い・娘ではないのかということにもう少し早めに心情の変化を切り替えた方が良かったんじゃないでしょうか。お母さんが登場してきてから急にドラマが締まった感がするので余計そう感じました。(まあ本音はもっと早くから小泉さん見たかった)

終わり方はそれなりに明るいエンディングだったのはとりあえずよかったねって感覚です。こういう決着なら第一話の冒頭でユリの結婚式シーンから始まってそういえば出会いはこういう始まりだったねというところから始まるってのもアリかなと考えたりしました。由紀夫ちゃんも圭祐も正装で(ついでに風太も)誰が婿殿か分からない状態で、そのあと過去に遡って物語が始まるって感じで。

私は「長澤まさみ」を応援すると勝手に名乗りを上げてる身ですので、いいことばかりヨイショするつもりはありません。応援するということは長く観続けるということですので、私的に物足りないと思ったところも素直に書くことにしてます。(なにしろ私にはなんの影響力も説得力もないので書いても問題ないんじゃないかと)具体的にじゃあこうしろああしろと注文をつけてるつもりは毛頭ありません。ただそう映って見えたということです。

役としての心情の変化の変節と言う点では、①有名人へのお近づきへの計算ずくの愛想・②暖かく優しい温もりに心が揺れ地位に対してでなく人として興味が湧く・③嘘だと分かり思惑がハズレ怒りのやり場を探しきれない・④もしかしたらこの共鳴する感情は父親だからではないのか。という流れを演じ分けなければならなかったのですが、②の部分が分かりづらかった感想を持ちます。③から④への変化が急激過ぎていまいちついてけませんでした。野郎の視聴者目線なので女性の方の視聴者目線だったらそうは見えないのかもしれませんが私にはそう感じました。

お在所(実家)でのお母さんとの会話シーンがよかったです。多少気の緩んだ家にいる安堵感が感じられて。それでいて話してる内容は凄く真面目な話をしてて、いい親子だなあと感じました。

全体としては終り良ければ全て良しってことで。まあそんな感じです。美辞麗句で飾って推奨するほどの感激は・・・・だよねえ。

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そんな悪いとこじゃないですよ

ちいと調べ物でもと検索してたんですけんど、そんときに眼に入ったのが「今度浜松に転勤にあいなりまいた。ネットで調べるととんでもないとこみたいなんですが・・・・」云々という心配な相談ネタが結構あることに気づきました。

そんな悪いとこじゃあないですよ浜松は。

治安に関しては普通だと思いますし、食べ物だってそう悪くないと思うんですよ。まあ高いと寄り付かないんで高級なお店は流行りにくいですけどね。それとドーナツ化現象で若者がたむろするような場所もないし文化を発進する中心点も存在しないんですけどそれなりにみんな生きてますから。

まあただ言葉がね。口も悪いが手癖も悪いじゃ最低ですけど口だけですから。身の危険を感じるような事は決してないでしょう。でもまあただ言葉がね。

よく知らない人に対してはよそいきの言葉で標準語しゃべってるつもりなんですが、いかんせん方言丸出しみたいなんですなこれが。自覚がないから始末に負えないという事も確かにあるんですけど、それなりに気は使ってはいるんですよ。

で、顔見知りになると遠州弁出てくるんですけどこれがやっかいなんでしょうね多分。解釈と言うか聞き取りようによっては喧嘩売ってるか非常に馴れ馴れしいかどっちかに聞こえるみたいですね。追い込んでるつもりも入ってほしくない心の領域に遠慮なく分け入るつもりもないんですけどねえ。

自衛隊基地もあって、昔は紡績会社とかの寮がたくさんあったりと色んな地方の人が集まっていたんですが、今も製造業が盛んでよりワールドワイドになって日本人じゃない人もたんとおるでねえ。

はっきし言って遠州弁はむつかしいと思います。いきなし来て憶わさるのは無理でしょう。ヒアリングだけに集中して話す言葉はその人のお国言葉で話されたほうが無難だと思いますよ。すけなくとも他所から来た衆と認識すればちったあ加減しますから普通は。(漁業と建築関連の方は特異なので覚えるしかないんですけど)他所から来てる人は結構おられますので左程苦にならないものですし案外その人の特徴として名刺代わりになって得することも多いような気がします。

気質としてはなんかしてないと「あいつはなまか(ぐうたら)」と言われてしまうほど気忙しない部分があって静岡県人は穏やかという常識は通用しないとこですが、人は人他人のやることをとやかく言わない風潮はあると思います。「やらまいか精神」とよくいわれますがやってみた上での失敗とかにはおおらかな寛容さを持つと自負してるんですけどねえ。

文化圏ということでは関東の最西端って感じで、うどん屋というより蕎麦屋と普通呼びますし、(私の周りでは)大阪や名古屋の関西風気質に違和感を感じる人が多いです。観光地じゃないので遊ぶには知恵がいりますが息してるだけなら住み易いと思いますよ。

何度も言うようですが浜松はそんな悪いとこじゃないですよ。もの凄くいいとこだとは思ってませんが。

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歌謡曲だよ人生はの3

*第四話

凄い複雑な心境になる作品です。曲には想い出こそないけれど、がきんちょの頃に旋律がお気に入りでよく頭の中廻ってました。写真として映画全体の中で一番ツボにはいる画ですし。でもお話しは訳わかんないという。一番訳のわかんないというか歌となんのリンク感も感じられない不思議ワールドの作品です。歌の持つ切ない感じを表現するとこういう画になるのかと想像されますが、プロモーションビデオでよく見る手法なような気がします。CD屋さんとかで何気に流してる映像だとしたら引っ張られて足をとめるインパクトはありますが、映画として構えて観るとなると私的にはついていけないかなと。ただしあくまで音と画の関係性での話しであって画としては面白いなとは思ってます。

音も画も極上な素材で出来ているといえど、日本酒をおかずにしてご飯食べる様な感覚です。いくら元は同じ米といわれても一遍に食べて味わうには勇気がいります。

*第五話

御本人を引っ張り出すなんてある意味反則技のような気もしますが、四話のぶっ飛び具合を引き戻すと言う意味では正解なのかもしんないです。ホントなんでもありなんですよねこの映画は。画と歌が同化しているというよりも存在そのものが同一なんですからなんともいいようがありません。コラボという枠から外れているような感じです。勿論お話しとしては面白いですよ。ただ私怖いお方系は嫌いなんでじっくり観ようという気になれないのが玉に瑕(私のせいですけど)。醤油と豆腐の組み合わせみたいで無理は当然ありません。

*第六話

歌の持つドラマ性を画として具現化した印象を与える作品です。一話と似た感じですがこちらは反復というかこういう経験からこの歌が生まれたみたいな(勿論そう思えるだけで実際は違うでしょう)感じを受けました。一話をバトンというかたすきを繋げるみたいと表現したんですが、こちらは画と言う靴から音という靴に履き替えて同じ人が延々と走ってる印象を受けました。ただ個人的に暗くなるお話しと歌は好きくないので深くは観てれません。時代設定も音にあわせているのでしょうか違和感もなく説得力は感じます。そのせいでしょうか若い頃に見た歌を題材にしてつくられた映画みたいな感じです。この歌からでなければ生まれないお話しだと思いました。

*第七話

四話のぶっ飛びと共に直接的な歌との因果関係を感じさせない作品です。しかしこの曲の背景みたいなものに狂気というか過激な社会秩序を打破したい欲望のような若さを感じられたのでしょうか、それとも監督の本業の漫画と共通する空気感を感じたからでしょうか何故か音にも画にも同じ匂いを感じる作品です。走るも殴るも踊るにも手加減なしって勢いで。作家性を一番強く感じる作品でもある訳で、音も画も強引なアーティストという印象でした。しかし監督さんの漫画を実写化するとこういう過激な画になるんでしょうか。別の作品も観て確認してみたいです。好きか嫌いかと言うとビミョーなんですけど納豆並みに後引く作品です。

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歌謡曲だよ人生はの2

音楽は映像に寄り添うことは出来るけれども映像は音楽に寄り添えない。そう私が普段思っていることです。

音楽は細切れにされても伝わるものがあるけれど映像は細切れにされると創った人にしか判らない領域に入ってしまうという感覚を持ちます。プロモーションビデオというか音楽を主(あるじ)とする映像には一過性の衝撃はあっても永続性をあまり感じられないものが多いとも思います。無論意図的にそういう作りをされておられるのでしょうけれども。期間限定のインパクト勝負ですから。

なので音楽をテーマというか主(あるじ)として一過性ではない永続性を持つ映像とはどういうものなのかを観るチャンスでもあった訳ですこの映画には。最初は単純にオムニバス映画として眼に飛び込んでくるものに対して無防備に何も考えず観て面白いかどうかって感じで観てたんですけど、繰り返し観るうちに普段思ってた音楽と映像の関係と言うものに気がいくようになりました。音楽に描かれた世界観に共鳴してひとつの映画が生まれると言うのは、まあ、たまにある話で、そういう関係ではなく短編というかほぼ音楽と同じ時間枠で共存する作品というのはほとんど知らないので。

この映画は全体の流れを観るべきであって各話をばらしてどうたらこうたら言うのは愉しみ方として邪道じゃないかと前の記事に書いたのですが、今回は邪道と知った上で書きます。

で、書いたのを読み返してみて自分で言うのもなんですけど、意味がないことやったなあと思いました。素人らしくシンプルに面白い・つまんないだけでいいんじゃないのかと。でもまあせっかく書いたから一応ボツにしないで載せとこうかなと。なんで以下の文はパーぺキな与太話しなので馬鹿なこと考える奴だと嘲笑するつもりでお進みください。

それと、あくまでそういう風に見えたということであって、そういう風につくられたんじゃないのかという詮索ではありませんのであしからず。

*オープニング

コラボ作品と申しましょうか音と画に直接的な繋がりがある訳ではなくご陽気にというか盛り上がろうぜという心意気が合致したという共通性なんでしょうか。意外な組み合わせな筈ですが何故か違和感がないのは踊ろうぜというテーマが同じということから来てるんでしょうか。着眼点の勝利と言う感じと、強引な感じがしないのは編集の勝利ということなんでしょうか。残った印象というか後味としては画の方が強く残りました。なので画が主、音が従というイメージです。

*第一話

画に力があって無声映画としても充分観れるところに、音が入って感動倍増と言う感じに思えました。昔の演歌ショーの前口上みたく「歌は世につれ・・・・・さあ歌っていただきましょう。」って感じの盛り上げ上手でさあ歌だお次は画だってキャッチボールをしてるような感覚をイメージします。そういう意味では相乗効果で盛り上げて共鳴し合ってるようで凄く安定して落ち着いて観れた作品でした。そういう意味ではリレー走のようでもあって画も主、音も主というイメージです。時代が当時に遡っているので違和感がないのでしょうか。まさしく昭和です。(私の時代じゃないけど)

*第二話

一話とほぼ同じで、青春というイメージを膨らませてバトンを渡す的な感じがしました。違いと言うのは一話が同じ時代のランナー同士のバトンリレーですが、こちらは時代が異なるバトンリレーでした。平成と昭和のコラボですからざらつき感があるのは当然なのでしょうか。少なくとも登場人物に歌謡曲は聞こえていないのは確かでしょう。あまり同調感は感じなかったです。でも画も音も青春でした。ありあまる何かが空回りしてるロール感を感じました。

*第三話

構成上四・九話の前でないと意味が伝わらなかった作品のような気がしました。一・二話で曲と画との繋がりが存在すると思って観ているので、どこかで何かが繋がってるんだろうという目線がありましたから最後のオチというか展開で「想い出」が繋がるんかいっていう騙し絵が成り立った感じです。画が主で音が効果という印象を受けました。懐かしさを醸し出す効果があるのかなと。音と画が必ずしも一致しないものもあるぞと覚悟してたらオチが分からなかったかもしれません私の知能では(ちとオーバーでした)。オチが強烈な分二度目以降はつまんなくなるかなと思ったんですが大杉さんのお芝居観てるだけで愉しい作品であります(音楽のコラボとは関係ない話ですが)。

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*わるさ

漢字にすると悪さ。人に害を与えるとかいたずらという意味。って辞書に載ってるくらいなので遠州弁ということではない。ただ共通語よりももっと幅広い意味で頻繁に使われる言葉である。基本人に迷惑掛けること全般を指して使う。

「わるさせるじゃないにぃ。おとなしくしてなさい。」

  (動き回らないでじっとしてなさい。おとなしくしてなさい。)

「わるさして泣かいた。」

  (いじめて泣かした)

「わるさしてとんまさった。」

  (悪い事して捕まった。)

「若いときゃあわるさしまくって手におえんかったでの。」

  (若いときは手に負えない不良だったからね。)

勿論共通語的な

「性格の悪さ棚にあげといてよーゆーわー。」

という使い方もする。

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