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*やらすか

三通りに解釈できる表現。

ひとつは、(俺が)やろうか。変形で「やらっか」

もうひとつは、やるわけないだろう。強調で「やらすかあ」・「やらすけえ」

いまひとつは、(あいつに)やらせようか。

これに「か」を加えて「やらかすか」にすると(しでかすか)という意味と(やらせようか)という意味になる。

違いを見分けるのは前後の文の繋がりとイントネーションによる。

例文

「全然できんじゃんか。」

「だめでえ降参。替わって。」

「やらすか。」

こうなるとどれにでも当てはまる。だがこういう会話は日常ではよくある。イントネーションの違いを覚えるしかない。ちなみにイントネーションでの聞き分け方のコツを文章で説明するのは難しいので私では無理。

分からなくてどうしてもと言う場合「やらすか」といって動き出せば「替わるか」の可能性が高く、腕組んだままだとそれ以外の可能性が高い。どっか顔が向いたら「他のやつにやらせる」ということにってこんなこと説明してなんになる。

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蟲師

もちろん全てがフィクションだと言うのは分かってます。分かっている上での感想ですのであらかじめご了承のほどを。

深淵な面持ちになります。心も涼しいというか身を切られるような凛とした心持になります。無条件でこの世界に違和感なく入れるのは日本人としての誇りでもある訳で、山岳信仰を持ちえない人には理解できない悠久無限の世界ではないかというような感じがしてきました。ファンタジーという空想ごととしてでなく人間と自然が共存するにおいてありえた事象の誇張されたものとして理解できるからです。存在を疑わないと言うかあっても不思議じゃないってまあそんな感じです。蟲ってなに?とか迷信の存在とかを直感で感じられない人にはそっちの方に頭が行ってしまって取っ掛かりからついてこれない世界ではありますけどね。

でもこの世界観にはまった私としては、冬のこの時期に観るのはちと寒さを覚えます。私が普段身を律してないせいなのと平地でのほほんと暮らしているからでしょう。私ごときでも山にハイキング行ってた頃はここまで鮮烈ではなくともほんの少し何かの息吹を感じ取れたりしたこともありましたから。

物語には破綻も強引さもなく、最後まで見てる側が時間を忘れるくらい話しに引き込まれていくのですが、お話しがどうのこうのといよりもむしろ人間達の生き様を描いたものだと感じました。性(さが)を感じます。生まれた場所によってほぼその人の人生が決まる。それを疑問に思うことなく精一杯懸命に生きる。金銭による地位の区別ではなく、生き様の区別。否定もしなければ肯定もしない同調もしないあるがままのものを認めた上で接しあう人同士の距離感。

金田一シリーズが日本の負や陰の風習・因習を描いているのに対して、蟲師は畏れ・観念を描いているのではないでしょうか。

「むし」というタイトルから「虫」を連想してしまってこの作品に躊躇される方もおいででしょうがもったいない話です。こういう作品が広く伝わらないのはもっともったいない話です。今年観た中ではいまのところ一番惹かれた作品です。

DVDのカバーに「蟲を感じたらお知らせ下さい」と銘打ってありましたが、一瞬「無視を感じたらお知らせ下さい」かあと読み違えてしまいました。テレビドラマの「野ブタ・・」ほどじゃないけれど、孤独感にさいなまれる人を救う人達のお話しかあなんてね。確かに蟲に憑かれたらそうなるんだから間違っちゃいないことはないなんてね。それと裏カバーに記載されている「日本人のDNAに深く刻み込まれた原風景ともいうべき世界観」というフレーズは確かにって説得力あります。看板に偽りなしです。

画がけっこいのでタイプやしーと思ってたら、キャメラが柴主高秀さんで照明が長田達也さんだったんですね。エンドロール観て気がつきましたが、私なついちゃっていますこの画の懐の暖かさに。水中シーンの江角さんえらく耽美だなあと感じたんですが、それは水中カメラマンのさのてつろうさんの画らしいのでそれはそれこれはこれですが、VFXもさりげなく凄いんですがつくりものと思わせない説得力を感じます。要はバランスがいいんですよこれ見よがしなところがなくて。私こういう画大好物なんです。

脚本協力で鈴木卓爾さんのお名前がありましたが、訳のわかんない象徴性というか観念性の塊のようなとこは鈴木さんが関わってるのかなと勘繰ってしまう私は無礼者でしょうか。書き忘れました褒め言葉のつもりです。本来画として成立しえないなにかを画にされる方と判別しているのですけんど。

監督さんも役者さんもすんごい人ばかりなのでなーもゆーこたーありましぇん。

あんたねーこれ作るのにどんだけ大変か分かってる?といわれても又同じ世界観を味わいたいと想うのは我儘な客なんでしょうか私。

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バンカース

やったー!保険金満期だあ。ウホウホってなんか唐突にバンカースみたいだと思った。そういやあ小さい頃飽きもせんとよーやったなあ。

考えてみればバンカースって同じところぐるぐる周って破産して脱落してくゲーム。勝者は勝ち誇り敗者は叩きのめされる。今思うと人生の縮図みたいなゲームだったなあ。おんなじとこぐるぐる周るなんて毎年毎年同じことの繰り返しで、それでいてそれに馴れちゃうと劇的な展開なんて望まなくなるとこなんか生き様のまんまだし。実際の人生と一緒で一度傾き始めるともう一発逆転なんてほとんどなくて。流れとはそうやすやすと変わらないものだ。勝ち目がないからもう止めたと言う訳にもいかずただ勝者を勝ち誇らせるために破産するまで怒りと苦渋に満ちてゲームを続けなければならない。

最近?それに近いゲームでいただきストリートというのがあったけど、コンプーター相手なら対戦者の感情など見えないからいたぶっても屁でもないけど。人間同士で対戦すると感情的になりやすいだろうなあ。ま、こっちは目標額に早く到達するのが勝利条件なので、バンカース程は敗者が辛い思いしなくても済むけれど。

でも少なくともバンカースで学んだ事は結構ある。喜ぶ程度で勝ち誇るな。人の不幸の上に成り立つ勝利条件だから、そうして手に入れた勝利には謙虚であれということ。でないとあいつは嫌な奴と間違いなく思われる。

負けが濃厚であっても最後まで(破産まで)やり通す根気と忍耐。

形勢が傾いてきたとしても一発逆転なんて甘いことはありえないということ。実際の生き様においても身につまされる真理である。

しかあし学んだ割には生かされていなかったのはなんでだろう。上手く行ってるときは天狗になるし、イヤになってくると人に下駄預けて放り出すし、遊びでもその日の馬券の調子が悪いと後のレースになるほど一発狙いに走るし。あれだけバンカースで嫌と言うほど思い知らされた筈なのにねえ。

でもまあいいや保険金満期だあ。悪夢を振り払って素直に喜ぼうっと。といっても雀の涙だけどでも嬉しい。でも郵便局民営化になってそんな前のことなんか知らんて言われないかちと不安(もちろん冗句)。

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*なあんにも

何もと言う意味。「なーんにも」と「なあんにも」とあるが普段はほぼ同じだが、たまに使い方が異なる場合がある。

「なーんにも」は、全くとか綺麗さっぱりとか全然といったニュアンスが含まれ、気持ちいいくらいとか見事なくらいという感じでいう時が多い。アクセントが強調される位置は「な」

「なあんにも」は、呆れ返るとか呆然とかもう知らんみたいなニュアンスが含まれ、虚しいとか残念にもとかの感情が含まれる時がある。アクセントが強調される位置は「あ」で「な」は弱く言う。

「はあなーんにも残っとりゃせん。」(もう綺麗さっぱり残ってない。)

「はあなあんにも残っとりゃせん。」(もう何もかも残ってない。)この場合の「はあ」にはため息のハアも掛けられている。

「なーんも」・「なあんも」と「に」を省略していう事も多い。より略して「なあも」・「なんも」という関西風な言い方もする。

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みんなのうた「じーじのえてがみ」

今は使われていない呼び名なのですがSGファンとしてはあえて「じゅりっぺ」と表記させていただかせてもらいます。最初聞いた印象を素直に言うと、つじあやのさんによー似とるなーと。癒しかどうかはともかくいい意味での脱力系であるのかなと。でも繰り返して聞いてみると脱力系じゃないんですけどね。なんかミュージカルの中の歌みたいだなあと。でも変に力んでないと言うか余分に力が入ってない風に聞こえるのは最初のイメージのままですけど。

「ぼく」という言葉が詩の中にあるとおりでおそらくは少年をイメージして唄われているのでしょうから、これが「上野樹里」だと言い切れないでしょうけれどもじゅりっぺらしいやと納得してしまいますた。

お芝居で見せる声とは明らかに違うとこから声が出てるぞと。お芝居でも常に決して気張ったものでなくオーバーアクションの中においてさえも自然天然らしさを漂わせる方ですが、そういうものとは違った印象を受けました。すごく丁寧に唄ってるなあと。

歌だから役者と違うアプローチをされているのかどうかは知る由もありませんが、少年というイメージは持っていたとしても少年を演じてはいない風に私には聞こえました。

流行歌ではないのですからいいとか悪いとか評価判断する楽曲だとは思えませんから好きか嫌いかの問題でしょうがそれは人それぞれでしょう。

でもなんで又歌を唄おうなんて思われたんでしょうか。いつか本格的なミュージカルとかにもし出演されるためのワンステップというか経験してみるってことなんでしょうかねえ。若いうちはなんにでも挑戦する事が大事でしょうから別に悪い事じゃないとは思うのですが、ホント自分で枠を決めない(役者しかしないとかいう)おおらかな冒険者だと感じます。

個人的には役者さんであって欲しいな。出来れば矢口作品の常連さんになって欲しいなとは思ってるんですけどね。そう言いながらもきっちり録画してDVDに焼こうとしている自分がいるのはSGファンの性(さが)か。

楽曲の作詞作曲は小椋佳さん。以前お勤めになっておられた会社の浜松支店長さんとして赴任され、一時期浜松市民であらせられました。そうそうお目にかかれる立場では当然ないのですが、駅で東京にお帰りになられるのか切符を買われておられるお姿を拝見したことなぞはあります。

勿論声を掛けたりサインを求めるような野暮なことはいたしませんでした。ただ遠巻きにちらちらと。で、その時の印象はやはりオーラというか雰囲気が一般ピーポとは違うなと。怖いお兄さんに出会って関わりあいたくないから警戒してかえってちらちら眼が行って「なんだ何見てんだこのヤロー」とかえってやぶへびになるようなもんで、そのときも思わずちらちらと。別に怖かった印象じゃないんですけどね。やはりなにかを成す人は違うなという意味です。

浜松での勤務を終了されたその後も、祭用の歌をつくっていただいたり、うなぎパイのCMにご出演されたりと多少なりとも浜松に関わっていていただけるいい人です。って最下層市民がえらそうに言うようなことではありませんが。

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歌詞を遠州弁に。私だってやってみたい

歌詞やドラマのセリフを遠州弁で。私だってやってみたいですよお、やれるなら。それこそ遠く離れた地で暮らす遠州人が余興かなにかで受けるかひかれるかはともかくとして、お国言葉で唄歌えば有名な曲なら翻訳しなくても聞いてる方は比較できますからね。

でもやはり、作者の方の想いを踏みにじる事にもなりかねない訳ですから大変失礼な事ですよねえ。勿論著作権というものもある訳だし、人の褌で相撲取る様なもんでもありますし。

書いた(改変した)ものを作者の方に見ていただいてOKもらえるようなつてとか手段があればいいのですが、私にはとっかかりさえ分かりません。面白おかしくウケ狙いにはしてないつもりで考えてます常日頃。

記事のネタの方向性として考えてはいるのですが、下書きが貯まる一方なのでいまのところはやっておりません。チャンスがあれば取り組みたいネタです。

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*みてこすか

見てこようかと言う意味。

例文 グループでツーリング中の会話

「あいつおっせーなあや。全然ついてこんじゃん。道間違えただかいやあ。」

  (あいつ遅いなあ。全然ついて来ないじゃないか。道でも間違えたのかなあ。)

「一本道だで間違うわきゃないら。」

  (一本道だから間違うことはないだろうに。)

「どっかでこけてやせんらなあ。」

  (どこかで転倒でもしてるんじゃないだろうねえ。)

「心配ならみてこすか。ここで待っててやあ。いごいちゃかんにい。ばらんばらんなっちゃうでえ。」

  (心配だったら見てこようか?ここで待ってて移動しないでね。バラバラになっちゃうから。)

「おおたのむわあ。わるいのっ。」

  (うん悪いね。たのむよ。)

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それでもいいですわ

以前の記事でエヴァが浜松では映画が上映されないとぶちぶち書いたんですが、東宝シネマズで今観れるので書いとこうかと。

キサラギもやっていて、まあこちらは上映時間が私的には厳しいので涙を呑むことになりそうですが、とにもかくにも観れるチャンスを戴けたことに感謝の念を抱くものであります。

浜松は東映はあるので東映作品は観れる安心感があるのですが、東宝と東映以外の作品だと観れるかどうか非常に不安感があります。雑誌等で評価や宣伝、はたまた口コミなんかで「いいらしい」と聞こえてきても、静岡や豊橋まで遠征する気のない我儘で根性なしの私には、正に絵に描いた餅状態で、DVDが出るまでに観たいという熱が醒めてしまうことも多々あって、一般世間の並じゃないや波に乗れないことの方のみぞ多かりき。

都会と時期がずれてもやはり映画館で煙草吸いたいのを我慢してでも観たいものです。東宝シネマズが浜松に2つある効能が出てきたと信じたいものです。

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いやせん

言わないと言うこと。「いいやせん・いやあせん」もほぼ同じ。

居ないと言うこと。「おりゃせん」もほぼ同じ。

癒せんと言うこと。これは共通語か。

と紛らわしいので聞き違いには注意が必要である。

例文

「おとうちゃんおるけえ?」

「いやせん。」

「どこいっただ?しっとる?」

「いやせん。」

「なんでえ。ナイショにしんでもいいじゃんかあ。」

「だって知らんだもん。」

「ならそういえばいいじゃん。」

「知らんおじさんだでいやせん。」

解釈は二通り

子供は最初から最後まで「言やせん」といってる。

子供は「「居やせん」・「言やせん」・「言やせん又は居やせん」と言っている。

まあ話し言葉として聞けばイントネーションが違うから分かることではあるが。

後、強引に言えばこういうのもある。

要らないと言うこと。「要やせん」と書く。「要りやせん」と普通は言うが。

射らないと言うこと。「射やせん」と書く。「撃ちゃせん・放ちゃせん」と普通は言うが。

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ちりとてちん3

ちりもつもればちりとてちん。15分と言うことに甘く見てました。リアルタイムで見れる生活パターンじゃないのでまとめて見ればいいやとたかをくくってたんですが、貯めると長い。

方言はやはり諸刃の剣ですね。はまればこれほど地域性を表現できる手段はないけれども、微妙に違和感を感じるとつくりものに思えてくる。遠州人なのでドラマにでてくる方言がリアリティがあるのかないのかという判断はできないんですが、なんか統一性というかばらつきがあって一人一人同じ言葉を話してる風には感じられない印象がありました。造語と言うか他所からみても地元からみても多少嘘くさく聞こえても家族なんだから同じものを喰って生きてるように同じ言葉を使いまわす方がらしく見えるのかもなあと。お国言葉はリアルじゃなきゃおかしいと以前は思ってた私ですが、スウィングガールズ観てからそう思うようになりました。

大阪に出てからはそういうざらついた感覚がなくなったので、多分そういうことなんでしょう。福井の言葉は難しそうです。語尾が上がるとことかは遠州弁に近いんですが上がり方が微妙に違うんで遠い国の言葉です。役者さんは皆さん本当に大変苦労されておられるのだろうなあと推察いたします。

福井出身の役者さんだと、津田寛治さん・大和田獏さん・小木茂光さん・役者じゃないけどモーニング娘の高橋愛さん・五木ひろしさん・後は宇野重吉さんという方々でしょうか。高橋さんのイメージが強烈なので、それと比べてしまう私をお許しください。

小浜のシーンでは「おかあちゃんに謝れ。」のシーンががんこ良かったです。被害者意識の塊のような喜代美が唯一加害者になった。言ったほうもしまったと後悔、言われた方も後悔と双方立つ瀬がない状況のやるせなさが観ていてこちらもいたたまれなくなりました。家族だから又次の日を迎えられるけれど、他人同士だったら未来が成立しない状況な訳で、家族というものの深さを実感するシーンでもありました。上手い役者さんばかりで見ごたえがありました。

ま、ぼちぼち観てきますんでリアルタイムな感想にはなりません。ハードディスクの肥やしにはさせません面白いです。でもまだテンポがいまいち慣れなくて苦労してます。映画とか一時間のドラマだったらよしここからラストだあって読めて構えれるんですけど私的にはなんか突然盛り上げのシーンが押し寄せるような不意打ちをくらう感覚が抜けないんですわ。法則と言うかルールがあるんでしょうけどそれを知らなくて。

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*ささる

刺さる(ささる)。別にまんま共通語であるが使い方が多少他の地域とは異なる。場合がある。

「車がガードレールに突き刺さっていた。」の場合

「車んガードレールにささっとった。」

「車が田んぼに落ちていた。」の場合

「車ん田んぼにささっとった。」

普通棘が刺さるとか釘が刺さるといったある種鋭利な感じのするものに使うような気がするのだが、遠州ではありえないようなもんでも「ささる」を使う。無理矢理とか強引に入ってる状態と言う場合でも使うときがある。鋭利な表現にしたいときは「突き刺す」と言うのが一般的。

犬神家の人々の有名な、湖に足が浮かんでるシーン。あれを遠州弁で言うと、「湖に人ん頭からささっとって足だけ出とった。馬鹿ひょんきんやあ。」となる。

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*らろ

「やるらろ」やるんでしょという意味になる。「らろ」というのは普段はあまり使わないのでどこかしらから流れてきたものが居ついた外来種の方言かもしれないが、うちの集落ではとりあえず使うことがたまあにあるので一応記載。

強引な解釈をすれば「やるのであろう」が「やるだらろう」に変化して「やるらろ」と短縮されたと踏めなくもない。あくまで推量。

なので「らろ」というのは「~のであろう」と解釈している。「やるろー」・「するろー」とかいう使い方もあるが「らろ」の短縮形じゃないかと想像している。

「やるらろか」だと、やるのであろうかと解釈できるので無理じゃないと思うのだが。遠州弁でこういう使い方はあまりしないのが玉にキズ。こういう場合は「やるだかいなー」・「やるかいねー」が普通使われる。

例文

「そうせるろー」

  (そうするんだろ?)

「どうせっかな。」

  (どうしようかな。)

「いいじゃんか別に。いこまい。」

  (いいじゃないか。行こうよ。ね。)

「じゃ、そうせすかな。」

  (じゃあそうしようかな。)

「おし!決まり。ほいじゃいかざあ。」

  (よし決まり。それじゃあいこうか。)

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ハタチの恋人第8話

一応浜松市民なので、ユリ(長澤さん)のお在所(実家)が浜松と言う設定だったので反応しないのもなにかと思いまして書くことにしました。「実家が静岡」と以前の回で言っていたので駿河かと思ってたんですが遠州でした。現地で撮影されたものでないものをどう現地(浜松)に見せるのか興味がありましたので。なかなか他所の地だといつも上手く騙されているらしくそう思って見ちゃうので、そういう風に見せるテクニックというのを知るいいチャンスかなと。

地名に関しては(バス停に記載されてた町名)、微妙に一文字づつ変えてあって全部架空の地名ばかりでした。そういうことに気を使わなくちゃいけないなんて、細かいとこで物語というかドラマを組み立てるのにここまで注意してるんだあと感心というよりも大変そうな手間と苦労をされてるんだと知りました。勿論無駄な努力と言うつもりは毛頭ありません。大変だなあとただそれだけです。実際の地名とか使うとどういうデメリットが生じるんでしょうか。

浜松で路線バス運行してるのは遠州鉄道だけですが、違うカラーリングでした。バスに張ってあった企業広告の会社名も実在しないものばかりでした。こちらは利害関係が生じるのは私でも分かるので当然でしょうけど。

呑んでた冨士桜というお酒ですが私は酒飲まないから実在するのか架空のものなのかは詳しくないので分かりません。やけに目立った事は確かなんでなんかあるんでしょうか。少なくともあれで浜松を表現してるとは思えませんでした。

で、みかん畑の風景ですか。大雑把ですが三ケ日から引佐あたりまでの風景ですよね地元民からするとそう勘繰れます。バスの終点も三河らしき地名でしたから。つーこたあ美容室とは言わんで近所ではパーマ屋と普通呼んでる可能性が高い。ユリはちっちゃい頃「パーマ屋んとこの娘」と呼ばれてたんでしょうね多分。でもやはり名産品出してくるとそれらしく見えてくるもんなんですね。

お土産のみかんも見た事ないパッケージでした。三ケ日ブランドではなかったです。商品(ブランド)はやっぱNGなんですかねえ。

遠州弁は一切出て来ませんでした。少し期待してましたが残念です。一番地域性が現われるとこだと思うのですが今回はその手段はなかったです。

テレビドラマでこれだけ(しかもほんの数シーン)手間をかけてるんだから映画だったらもっとすげえんだろうなあと思う反面、お話しの舞台全体がその土地のお話だったら相当苦労が多いんだろうなと実感しました。逆にご当地ロケだったら中田島砂丘からいきなり奥浜名湖に行けたりと変に撮らなきゃいけない制約が増してかえって地元民からすると嘘臭く見えてしまうことがある訳で、難しくて気苦労が多くなるんだろうな田舎でロケするとと思いました。静岡だと茶畑で遠州だとみかん畑かあ見た目で説得力があるのは。

ふんで、肝心のドラマの内容については今までの回の中で一番見ごたえがあったような気がしました。別に在所が浜松と言う設定でなくても。小泉さんと長澤さんの親子の会話のシーンは見ごたえがあったと思います。最後のいきなりの展開にはびっくりしました。このドラマ見てて始めて意外性を感じました。

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黄色い涙

はじめに断っておきますが、シンプルに映画についての感想なので、いつもは書いちゃうんですが今回役者さんの名前はこの作品においては書きません。○ャ○ーズ系のファンの方が迷ってお越しに成られても多分満足される内容がなく時間の無駄でしょうから。この作品は犬堂監督作品だから観たかったので。

浜松ではDVDでしか観る事の出来ない作品です。いきなり感想書くのもなんなんですが、いい映画だと感じました。こういう作品すら映画館で観る事の出来ない街ですわ浜松というところは。

しょっぱなのバヤリースのジュース缶けっからかすシーンで引っかかりを憶えました。こりゃ時代というものを相当意識してるんだろうなと。でも平成の世の寵児達が演じるというのは相反するんじゃないのかと。舞台(景色)と人物のキャラクターをどう折り合いをつけて融合させるんだろうと。なんか物語の展開よりもそっちの方に最初視点が行ってしまいました。監督の作戦と言うか意図とは思えないんですが始まりはそう見えてしまったのは確かです。

しかしこの世界にだんだんと居つくことによって、そんな感覚が徐々に消えていって彼ら彼女らの生き方観察というものに引き込まれていきました。途中犬が出てきてよーこんな犬見つけてきたなあと一瞬引き戻されましたが最後の方は心地よい世界観を愉しめました。

生きると言うことを始めるための準備段階というか羽ばたくための助走期間なんでしょうかあの夏は。私なんか夢も理想もなく勿論助走期間もなく人と同じように生活したいからと職を得ましたから。そういう意味でこういう事出来る人ってのには羨ましいと思う反面、見えない将来の不安との葛藤に苦しむよりはましかなとも思えました。自分を高く売るというのはなにも芸術芸能に限った事ではありません。就職においてもやはり同じでしょう。自分の持つ能力を仕事に使ってその代償として給与を貰うことに変わりはないのですから。何かに生きるために全てを使い切りたいそのために定職につかないというやせ我慢の彼らですが、今で言うとフリーターってことになるんでしょうかねえ。

でも今のフリーターと呼ばれる人の中で目標があってフリーターしてる人と、目標がある訳じゃなく単純に社会に縛られるのが怖い人とがいる訳で。この作品の登場人物は前者ですよね間違いなく。

しかし、女子はやはり強いです。野郎なんかより遥かに波乱万丈な生き様するんだなあと改めて思い知らされた感じがしました。犬堂監督絶対女性撮る方が好きな監督だと思います。なんか気合の入り方に男女の差と言うものを感じました。もっとも、華のある人軍団ですから華を消すのに苦労してそれどころじゃなかったのかもしれませんが。

お話しそのものはこの時代だけの特有なものでなく、時代に関係なく問いかけることの出来る普遍的なものだと思います。ただ年齢というかこれからそういう想いを迎える人、リアルタイムで直面してる人、過ぎ去った思い出の人とに分かれるわけでこの映画の感想は大きく異なるものだと思います。

私はそういう時期が過ぎ去った人なので、暖かい目線でしか登場人物を観れませんけど将来とリアルタイムの人にとってはどう映るんでしょうかねえ。人生の出遅れ者・夢の脱落者として映るんでしょうか。

傷痍軍人さんとか敗戦で人生が狂ってしまった人とか傍若無人に景色の中にアリのようにいるガキが出て来たりして時代性を映してたんですけど、傷痍軍人さんとか平成の世を謳歌してる世代に説明無しで映像として見せて理解できてるのかなと思う私は間違いなくオヤジです。自問自答してそう思いました。そういう意味で観るターゲット層を若く設定していないところは犬堂監督、私好物です。

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心頭滅却すれば火もまた自ずと涼し

あくまで言葉遊びです。冗句です。

「心頭風邪引けば火もまた涼し」

意味

風邪をひいて幾ら暖かくしても寒気が止まらない様。

「怒り心頭に達すれば非もまたスカシ」

意味

怒りで頭に血が上ってしまうと、自分に非があっても認めずに気が晴れない限り利に沿った行動がとれない様を表わした言葉。

本来の「心頭滅却すれば・・・」は武田家滅亡と織田の戦後処理による逸話ってあまりにも有名すぎるので説明の必要はないか。

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*おっちぬ

死ぬということ。死んだは「おっちんだ」。全国的な言葉なので遠州弁ということではないのだが、一応記載。

あくまでイメージではあるが、天寿を全うしたというよりも、やりかけ・途中・志半ばでというようなニュアンスに聞こえる。そう思うのは私だけだろうか。

幾分くだけた言い方なので、真面目な場所で言うような言葉ではないのは確かである。

例文

「うちのおやじ早くにおっちんだもんで、財産なんかありゃあせん。」

死にそうをおっちにそうとは言わないので、本当に息を引き取る場合にのみ使う言葉のような感じがする。

「弾に当たったらおっちぬってわかってるらなあ。」

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