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時代劇

「明治は遠くなりにけり」

明治のころのお話しを「時代劇」と表するんですなあ今の若い役者さんは。

私のイメージだと時代劇=ちょんまげなんですが、ざんばら頭も時代劇ですかあ。

言葉のあやなんでしょうけど時代もの=明治・大正・昭和初期って感じがなんかしっくりくるのは私だけなんでしょうか。どんどん孤立感を感じて不安になってきてます最近。

もしかしたら言ったその人からの基準で50年前100年前とかで計算して、100年越してるから時代劇と称するルールなのかもしんない。だから人によって解釈が違っても当然ということか。なんてな。

でも真面目な話し、歴史もの・時代劇・時代ものとかって具体的にどう分けられてるんですかねえ。知りたいものです。明確なものがあるんでしょうか。

女優と役者の違いも女優の定義も知りたいところではあります。男の名優さんのことを男優さんとは言わないですもんね普通は。何故「女優」だけ特別にそう呼ばれるのか。

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業突張り衛門

「ごうつくはりえもん」

骨皮筋衛門で、~衛門シリーズがあったが忘れたと書いたが、ひとつ思いだしたのがこれ。

意味は、業突く張り(非常に度を越えた欲張り)という奴のこと。

あまりにもストレート過ぎて、他に転用しようがなく衰退した。

後、方言っぽいので遠州だけかもしれないが

「横着こき衛門」というのもある。

「おうちゃくこきえもん」

横着(ずるしたり手を抜いたりするなまけもの)をする奴のこと。

「する」を遠州では「こく」という。

いづれにしても、この衛門シリーズ、6文字を4と2に分割できれば語呂合わせが成立するのでいくらでもある筈なんですが思い出せない。思い出したらまたその都度書き衛門。

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働きマン第4話

「家族は許し合うもの夫婦は認め合うもの恋人は求め合うもの」

どこで聞いたのかさっぱり記憶が飛んでるんですけど、話半分としてみれば、結構いいこと言うなあと。それぞれの境界線が曖昧で実用的かと問われれば?ですけど一理あるような気がしないでもないような。

弘子と新二の関係にあてはめると、恋人のレベルを超して夫婦みたいになっちゃってるのかも知れないなと。だからそれになんとなしに気づいて新二が浜辺で言おうとした事は本来あるべきレベルに戻ろうよといいたかったんだろうなあと、勝手に解釈して納得してしまいました。今のままで固まっちゃうのはいいことなんだろうかという提示だと。そんな想いを知ってか知らずか仕事モードに入って別の用途で使っちゃうなんて、ドラマが始まって最初なんで結婚しないんだろうと言う疑問があったんですが、なんとなく薄々ながら分かって来たような気がしてきました。

しかしこういう状況での波打ち際というのは、シチュエーションとしてはやっぱ最高ですなあ。浜松にも全国に名高い中田島砂丘がある訳ですが、祭の凧揚げ以外に使ったことがなく、宝の持ち腐れとは正にこのことでしょうな。って自分が悪いだけのことですけど。

3話4話と後輩がらみのお話しですけど、松方弘子最前線ってお話のほうが私的には好きです。後輩を育てるってのも仕事できる人間として重要な要素でしょうけど、私の背中を見て育てって言うほうが働きマンっぽい感じがするのは私だけでしょうか。別に渚や田中が役不足と言ってる訳じゃあないんですよ。

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キャンペーン

映画の宣伝の為に堀北真希さんと山崎監督が静岡の通常ローカル情報番組に出演されていた。この映画ほっといても売れるだろうに、なのにわざわざこんな草の根運動的な地道な宣伝をされてるんだあと言うのは驚きであります。もちろん滅多にあることじゃあないので録画しときました。(仕事でリアルタイムでは見れなかったせいもあるんですけど)

堀北さんは、最近は「自分らしく」ということでTPOによってたたずまい(雰囲気)を替える人が多い中で、多少のブレはあるとしても、日本アカデミーとかの全国的な公的の舞台でも静岡のテレビ局のスタジオでも変わることなく、姿勢をピンとさせてイメージを崩すことがない人だなあと思いました。いやらしい作りものみたいで白々しさを与える人もいるけれど、堀北さんはプロとしての自然さを感じて好感が持てます。公私の切り替えで私になったらドッと疲れたりしないのかなあという余計なお世話は感じますし、そこいらじゅうまわっておられるんでしょうから、同じ質問ばかりでうんざりなんでしょうけど、嫌な顔を見せず応対する姿勢は立派だなあと感心しきりです。三十路という女優さんが一番輝くであろう時期までにはまだ大分時間がある方ですが、そこに至るまで生存競争に無事打ち勝って欲しいものです。(ってど素人がエラそうな事いってすいません。)

監督さんはなんかやり遂げた満足感みたいなのが垣間見られて、充分満足のいく作品に仕上がったんだなあと言うのが伝わる感じがしました。続編というプレッシャーからの開放感なのか良いものが出来たと言う達成感なのかそこんとこは良くは分かりませんでしたが、まあそんなことは作品観て判断すればいいことなんで下衆の勘繰りもほどほどに観に行かすかいねえ。ってこれじゃ自分も宣伝してるみたいじゃんか。なんかやらしい。でも作品観てないからぶーたれようもない。

結構見てて気持ちの良い番宣でおました。

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歌姫4

冒頭の松の贈り物の中身のノート、バーコードらしきもんがついちょる!なんじゃそりゃあ。冗談きついぜよ。(ま、多分見間違いでしょうけんど)

というお遊びはおいといて、やっぱし引き込まれますなあ「歌姫」。タイトルと全然結びつかない状態なのでおそらく今後はダバっと展開が大転回していくんでしょうけど、今んところは土佐清水の風景の中でのお話しを愉しみたいです。

記憶という足かせで自分を卑下するあまり歪んでしまうのは、記憶をコンプレックスに置き換えれば誰にでも当てはまる「自分で果たして良いのか相応しいのか」と躊躇してしまう理由で共鳴できます。それでいて、気づかれないように相手の為を想う太郎の行動(待ち伏せ)は正に男ぜよ。かっくいいっす。

全身でぶつかる鈴も愛らしくて、周りが応援したくなるのも納得です。見ているほうもガンバレって思いますもん。ホント相武さんいいですねえ。家族といるときの奔放な内面(うちづら)と、街の人たちに見せる外面(よそいき)の顔。それに太郎ちゃんに対しての顔と一人で思い巡らすときの不安と決意の入り混じった顔とかの使い分けがいいですわ。正直こんな相武さん上手いとは思ってませんでした。長瀬さんはもう上手い人だって私でも知ってましたので期待通りでその長瀬さんについてきてる相武さんは発見です。

今回は風吹さんが面白かったです。どこがどうとかじゃなく、風林火山の次だけに幅の広さにおまかせです。シリアスかな?と思わせといてボケかますちょっと吹き出すシーン満載で笑えました。今んとこ家族でまともなのお姉ちゃんだけですよねえ。嫌いじゃないですこういうの。

お話しの流れは、陰でいじらしい事しときながら最後のあの決め台詞は意外と言うか「えー!言っちゃうの~。そんでそれ聞いちゃうの~。」って感じでした。さりげなく見えないところで見守るという図式をあっさり覆しちゃうってのはもったいないなあと思いました。確かに鈴を背負ってる内に決心したというのもアリだなあとは思いますが。

なんか別のところで太郎ちゃんの行動と想いが鈴の耳に入って太郎ちゃんの暖かさを知るという形かと思ってそれを知る間暫く行き違いのドラマが生じるのかなあと思ってたんですけど。次回の予告では二人がよそいきの服きてお出かけみたいに見えたんで、そこで太郎が尻すぼみするのも男らしくないし、そのままゴ~ルって訳でもなさそうだしどう進むんでしょうかねえ。

なんかエンジン掛かってきたみたいです。でもあまり劇的に走りすぎて人々の人情をはしょるのだけは無しにしてもらいたいものです。

でえ、まあた余計な話しなんですけんどお、ハイビジョンというのは凡てにおいて万々歳って感じがしません。見んでもいいとこに目が行ってしまうし、松が家に来たときに盗み聞きしようとする家族の構図の絵は照明がやけに白くみえて陽の日差しっぽく見えなかったです私には。録画の方は地デジじゃないんでそういう箇所を見直したら普通に見えましたから問題ないんですけど。

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*いびる

共通語のいじめるとかいった意味ではない。共通語にするとしたら「いる」(炒る・煎る)であろうか。

「豆を炒る」を「豆いびる」、「野菜をいびる。」(野菜を炒める)というような火を通すという意味である。そういう意味では焼く・あぶるというものも含まれる。煮る・揚げるが「いびる」に含まれるかは微妙。

古語辞典にはあぶる・あぶり焼くと言う意味が載っているので方言というより古い日本語が残っているのではないかと思われる。古語辞典ではひらがなで漢字では載っていないので古語の生き残りであるとするならば「炒」という文字は当てはまらないことになるのだろうか。

例文

「あんたねえ、いくら腹減ってるっつったって、○○生で食う馬鹿どこにおるよお。野菜でもなんでもちっとでもいびっとかんと腹おやすにい。」

  (あなたねえ、いくら腹が減ったとはいえ、○○生で食べる人がありますか。野菜でもなんでも少しは火を通しておかないとお腹を壊すよ。)

どういう食材が適切か分からなかったので○○としました。

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7000越え

10/22に6000

11/2で7000と早過ぎる達成で正直驚きです。一日10から20で充分な内容にも関わらずこの数字は意外以外の何者でもないことであります。

中身的にはテレビドラマのことを書いた記事へのアクセスが殆どなんで、テレビの影響力の凄さに改めて感じ入りました。

我が道を行くでもなく、テレビと言う巨大なおもちゃ箱をいじってるだけで、甘い蜜は本来植物(テレビ局)が有益な虫(素直に愉しむ視聴者)に向けてのものなのに、うじぐちゃ五月蝿いことぬかす私みたいなのはいらん子なんでしょうけど。

とにもかくにも7000到達。とりあえず毎日。「継続は血空になり」かと思いきや、案外ひねりだせるものでそこんとこ意外。

検索エンジンはGOOGLE が断然多くYAHOO!と続きほぼこの二つで殆どを占めています。大分予想外の検索ワードで迷って来られる方が減りましたので、不遜ではありますが、引き続きコメントとトラックバックは不肖私確認の上表示とさせていただきます。エロはもちろん嫌いな方じゃないのですが、ここくらいは真面目に行きたいなあと考えてるので、そういう類若しくは連想させるものは削除させていただいてます。そのうちエロティシズムを題材とした作品の感想も残して行きたいとは考えてるんですが、私なりに真面目に感想残しとしたいので、直球ストレートなエロとか動画とかのトラックバックは排除させて下さい。

ほんと、お越し戴いた方には感謝するしかなく、「よー来たしー。まあ茶でも飲んできない。」としたいところですがそうもいかず、感謝するのみであります。

妄想・空想・現実取り混ぜて、今後も面白いと感じたことを記事にしていくつもりでありますので、何卒私の人間性を疑わないようお願い申し上げます。

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どろろ

最初観た時、えらい長いなあと感じたんですけど。DVDで家でちんたら観てたら、逆に短けえなあと感じました。138分。2時間越えてますんで確かに長く感じたのは感覚的には正解なんですけど。110分位が私には丁度気持ちいいんで。

見直して観ると、なんかはしょり過ぎな気がしてきました。原作自体、結構シビアな心がどろろとなる重量感があるんですけど、そういう部分を損なわずに映画化されているので、普通疲れる筈なんですけど何故かもう少し細かく観たい気がしました。(通しはキツイけど)

DVDのパッケージには「壮大なスケールで放つアクション・エンタティメント大作」と謳ってありますが、何故生きるんだ?生きてその先は?なんで生きてるんだ?とかいう深いテーマで問うているような気がするのでお気楽に愉しめる作品という感じはしませんでした。手塚作品なんですから当然でSHOW。取り戻した体の一部が戻るたびにもだえ苦しむ姿は、マンガで読んだとき衝撃だったんですが、得る度に苦しむって深いよなあと改めて想いました。

役者さんがいいのとセリフが聞き流すにはもったいない言葉がちりばめられていて、気が抜けないで一気って感じで。気を休める部分とのメリハリがもっと欲しかったです。ある意味邪道なんでしょうけど、会話のシーンに根を詰めてアクションシーンで気を緩めるみたいに観てしまいました。緊張感が続かないんです私。どこかで気を抜かないと。

原作にあるかどうかは関係なく、どろろと百鬼丸が旅するごとに出会う魔物のいわれや何故その体の一部なのかという説明というか状況を描いてもらうともう少し戦闘シーンに身が入るのにとも感じました。土屋妖怪さんのときだけですもんね詳しかったのは。あと殆どいきなし「ファイト!」とゴング鳴ってましたもんね。そこんとこがはしょり過ぎって感じた理由なんでしょうか。

限りなく文化・風習が日本に近い国のお話しなんで、ガラス瓶や中近東風の石造りの飲み屋とか出てきても、違和感を感じるのはタブーなんですけど、そこんとこの「あれ?」は人それぞれなんでしょうね多分。

ただ疑問が解消されないのは、多宝丸は契約によって再びなんですが契約者が消滅した以降も存在するのは不思議だなあと思いました。百鬼丸が魔物を倒すたび景光との契約の執行力が低下してしまって、それ故に放置するなと景光に忠告したのかなと思ったんですけど。私の解釈がとんちんかんだったんでしょうか。

この作品に限らず巨大で強大な敵を倒すストーリーでいつも思うのは、組織が大きく強固になっていくから強大ってことなんで、最後のボスキャラを倒すにはその組織と言うものを潜り抜けるか崩壊させていかないとなんか説得力に欠けるんじゃないかと感じるんですけど。

親子の情というキーワード故に直接対決という理屈は理解できるんですが、理解はしても納得できないと感じました。時は今正に乱世。武力の長の行動にしてはいささか軽率であっけなさ過ぎる印象でありました。でも中井貴一さん決まってたからブーイングって程じゃないですけど、役者力で誤魔化されたみたいでなんだかなあって感じです。

出会い編・放浪編・決着編と3部作くらいにして丁度良いような感じを受けました。家で観た時、これがテレビドラマの全11話構成になってたらどうなってたんだろうと想像したんですが、やっぱ映画で3部作がいいなと。

原田美枝子さんはなんか黒澤作品を思い出すくらい存在感がありました。重厚感がいいです。我が子をかばい手を広げて阻止せんとするも、あっけなく散る光景はアップもセリフもなく画面から消えて、生きてたときの存在感が凄かった対比のように屍となりて全て無になる儚さが見えて死とはこういうもんかあと感じました。

柴咲さんのどろろと対をなす感じがしたので、ラスト辺りで遭遇するチャンスがあったような気がしたので、セリフのやり取りが成立するのか見てみたかったです。何気ない言葉でも重厚感のある母と結構重みのある言葉でも軽快に聞こえるどろろとの対比と言う奴です。勿論本編とはなんの繋がりもないただの興味本位です。

中村嘉葎雄さんはやっぱしいいです。どこがどうなんていう問題じゃなくただひたすらいいとしか表現しようがないんです。語り部がいいとお話がやはり締まる気がします。

続編はなさそうですけど、映画として、残りの魔物を倒したらどうなるのか知りたいし、琵琶法師との三人旅を眺めるのも愉しそう。法師様とて旅の人。語り部として魔物と出会いネタを拾うと言うことで共に旅することは悪い話ではないと思うのですけど。ロールプレイングのやり過ぎですかねえ、知恵者と勇者と盗賊あがりって組み合わせが絵になると思えるのは。

書くの忘れてました。百鬼丸は妻夫木さんだから良かったんです。野望が見え隠れする人では勤まりませんから。どろろの柴咲さんも当然よかですたい。

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*やたらくしゃ

とにかくなんでもかんでも・たくさんに・滅多やたらに・無秩序に・計画性もなしにとかいうニュアンスの言葉。

とあるアニメソングの一節の

「なんでもかんでも皆踊りを踊っているよ」これを遠州弁にすると

「なんしょかんしょでやたらくしゃ踊りい踊ってるだよを」とかになる。

例文

「やたらくしゃ溜め込んで捨てやせんもんで、信じれんくらい足ん踏み場んない。」

  (なんでもかんでも溜め込んで捨てないから、信じられないくらい足の踏み場がない。)

「本人わかってるだでええだ。あ!そこふんずけちゃかんにぃ。CDのケース割れちゃうでえ。」

  (自分が分かってるからいいの。あ!そこ気をつけて。CDのケースあるから。)

「うそだらあ!普通床に置くかあ?信じれん。」

  (嘘だろう!普通床に置くか?信じられない。)

足の踏み場がピンポイントになっていれば、床であろうと充分置くスペースになりうる。そんかわし人が入るとそのルートを知る由もなく非常に危険な状況になる。やたらくしゃ人が行き来する部屋では通用しない法則である。

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ふんでそんでなんで

*獲った獲物に情けなし

芸能人 上げるも叩くも 完膚なし 容赦なしとて 意志もなし 

提灯や メスにも化ける マイク持ち 今日も明日もと モノ探し 

*ヒット&アウェイ

責任を 取ればいいのだと 言い放ち 

再び出でて 言い放ち 

出るとこ変えて言い放ち 

白髪になりても 言い放つ 

責任の 数は一体 いくつある

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*ぼっち(botti)

突起物とかスイッチとかを指す。

ぽっち(potti)との違いはぽっち(potti)が比較的小さいものをぼっち(botti)が普通か大きめのものを指すことが多い。ただし集落によって比較基準が異なるのでぽっちもぼっちもいっしょくたあにするところもある。

共通語だと(でっぱり)が近いのではなかろうか。例でいうと、多少強引ではあるが顔に出来るもので、にきびはPotti、こぶはBottiって感じでどうでしょう。(実際にはこういう使い方はしない。あくまで例え。)

例文

「それらしいもん見えんくてえ、よーわからんよお。」

  (それらしいもの見えなくてよく分からないんだけど。)

「どこ見てるだあ。ちゃんと見てみい。橋の右っかわんとこに四角めのぼっちみたく見えるとこあるらあ?きいない色の。それだあれ。」

  (どこ見てるよ。ちゃんと見てみなよ。橋の右側の所に四角っぽいでっぱったように見えるところあるでしょ。黄色の。それだよ。)

「おお!なによーあれんそうけえ?どちっちゃいじゃん。」

  (ああ分かった!あれがそうなの。随分小さいねえ。)

「馬鹿こけ。あそこさあにいきゃあでかいわ。」

  (馬鹿いっちゃあいけないよ。近くまで寄れば大きいって。)

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*ぽっち(potti)

共通語のわずかとかたったこれだけとか言う意味ではない。

穴ぽこの反対で出ているもの(突起物)の事を指す。この中にはスイッチのボタンとかも含まれる。若干共通語で表現しづらい。ビニールの緩衝材のぷちぷち潰すと気持ちいいやつ、あれの潰す部分などを「ぽっち」という。

「おーい。聞こえるう?」

「聞こえるよ。」

「そこのスイッチ押して。」

「スイッチってどれよお?」

「右上んとこに赤いぽっちあるらあ、それ。」

「赤い奴ね。はいね。押すにい。」

集落によっては「ぽっちん」というところもある。

「プッチンプリンのぽっちん押すとプルンとプリンが出るだよ。」と語呂遊びができなくもない。

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美女か野獣その3

まんがみたいなドラマですよね。でもマンガをドラマにした訳じゃあない。この違いってどういうもんなのでしょうか。ドラマの台本は人が演じる事を前提とした読み物。マンガも読み物ですが人が物言う話し言葉・行動とはかけ離れた空気感があるのでしょうか。テレビ局を舞台にしているわけだから洒落にならないくらいリアルに描こうとすればいくらでも素材が転がってそうなシチュエーションにも関わらず嘘くさいほどの空気感を作っているのは確信犯的な意図ですよね。でもまんがみたいだけどマンガじゃない。なにがどう違うんでしょうかねえ。

実際の人の動きに捉われないところに面白味があるマンガを人が演じると無理っぽさが生じるのでしょうか。普通こんなとこで叫ばないよとかこんな状況でこんなこというか?ってマンガでは許されても人が実際言ったりやったりすると不自然に見えるからなんでしょうか。もうマンガという絵でイメージが固まってしまって演じる役者さんとの違い探しに眼が行ってしまうからでしょうか。

突き詰めると頭がはぜそうなのでこの先はまあいいやなんですけど、今の役者さんに求められるのは本来人の動きとして不自然に見えるものでも不自然に見せない強引な説得力なんでしょうか。そして脚本を担当される方はその矛盾をいかに空気感を損なわず、人が演じるために翻訳するかということなんでしょうか。役者さんがいくら役になりきったとしても、イメージと違うからイヤ!って評価されたら堪ったもんじゃないですよね。

原作がマンガと言う作品がぼこぼこ生み出されている今、マンガに頼らないまんがみたいな作品を久し振りに見たって感じでした。じゃこれを逆にマンガにしたら面白いんだろうかと想像してみると、あまり面白そうに見えない。マンガで実在の人物のヒストリー物をたまあに見たりもするんですが、あまり面白いと思わないんで、鶏が先か卵が先かみたいなもんで先に世に出たもの勝ちということでしょうか。

一番無難なのは、キャラだけいただきでストーリーは別物。もしくはその逆、というのだと思うのですが、「のだめ」みたいに徹底してマンガに近づくという信念の作品もある訳で、世の中なんでもありで面白いです。自分がどういうものを見たいのかという自分のツボがどこだかわからなくなるという他人まかせになっちゃう欠点はありますけど。まあ自分に合うものを探さないずぼらな奴が悪いといわれればそれまででグーの音もでない。

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映画監督・森田芳光「椿三十郎」を撮る

ハイビジョン特集と銘打ってあるからその再放送的な地上波放送なのでしょう。

森田監督と言うことに興味があって録画しておいたのだけれども、はたして見ていいものかどうか非常に悩むところである。

「椿三十郎」は映画館で観るつもりではあるけれども、宣伝程度ならともかく、監督やスタッフ役者さん方の想いやら願いやらがもし映ってるとしたら、自分が映画観に行って「そうかこういう風な事を目指したのか」とか「確かにそう見える」とかの先入観と言うかそう言う目で見てしまいそうでなんか厭。自分の感性を大事にしたいから、もしそういうものが植えつけられるとしたら予備知識ではなくて洗脳といえなくもないような気が。ネタバレという姑息な意味ではなくて、「これはこう見るんだよ。」・「ここの解釈はこうだよ」となると自分の感性は働かずに答え合わせに奔走してしまいそう。「監督の心客知らず」と嘆かれようとも自分の眼と感性で観たい欲の方が強い。

映画って見る前に宣伝とか情報とか見て「お!面白そう。」って直感で想うものがたまにある。結構そういうのってヒットすることが多いので私は充分一般ピーポーであると自負できるのだが、なんで面白そうって想うんだという直感の理由を説明できない。

正直な事書くと今回直感は働かなかった。でも観に行けば満足できそうな気がする。その理由は説明できる。森田監督作品だから。肩透かしはあってもハズレがないもん。

こんなことを平気で書いてる無知なる素人の自分が映画のことを良く知るためにも、見たい。見なくちゃいけない。でも見たくない。見ちゃいけない。

・・・悩む番組である。どうしよう。

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*浜松ついこないだの昔話10

小学校から中学に上がると言うのは、単純に坊主頭になるということだけでなく、いろんなことの決別と変化が重なることだった。

小学生は部活というか学校でスポーツをするときは同級生とのつながりであったが、家に戻れば近所の子供たちというつながりで遊ぶ事になる。嫌なやつもいれば性に合わないやつもいたが、選ぶ権利はなく運命だった。

低学年はなにやってもついていけず色んなことで「お前無理」といわれてはぶせになってて早く大きくなりたいと指をくわえていた。

真ん中あたりは高学年には勝てないまでも大抵の遊びの輪の中に入れたし、下の面倒を見ることなく自分さえ楽しければそれでよかった。

高学年になると、義務が自然と発生して、下のチビ助どもの面倒と責任が伴うようになる。なんかあったら真っ先に連れ出したお前が悪いとなるのである。

そういうトップを経験して中学に上がるといきなり一番下になるのである。かといっていつまでも小学生と遊んでいてはいけない風潮があった。自然と自己と対峙するようになり内向的になっていく。

中学は校区で行くとこが決まるので頭の良し悪しもピンキリで色んな奴がいてそれなりに人間の縮図というか様々な人間を見れた。勉強の出来ない奴には奴なりの信念があり、なんでも器用に出来てしまう奴には人が出来ない苦悩というものが理解出来ない。アホでも賢くもないどっちつかずの奴は両方の気持ちは分かるがどっちにも偏れないやじろべえ。

高校に進むと学力別に分かれるのである意味似たり寄ったりの類は友を呼ぶ感覚の付き合いであった。選び探す選択の余地が存在してた。

中高は自分と向き合うことに重点がいって、人として他人との付き合いと言うものを経験したのは小学校のころが一番だったかもしれない。歴然とした力の差、グループで動く協調性とそれに伴う役割分担と責任。学校の制度がどうのこうのいうつもりはもうとうないが、もし小学校が9年生だったとしたら自分はもう少し社会性を身につけてたかもしれない。

今は塾やらなんやらでそういう繋がりが小学生においても崩壊しているので、意味のない回想ではある。

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*あなぼこ

漢字で書けば穴凹。漢字で書ける位なので当然方言とはいえない。

遠州弁っぽい表現としては、あなぽこ(anapoko)・あなんぼこと言うのがそれらしく聞こえる。が多分どれも広範囲で使われてる言い回しだろうな。遠州でも使うよという事で記載。男女共用。

例文

「道んどんでかいあなぼこあいとってよー。それ知らんでけったーこいどったら、丸はまりよ。ど痛かったけど周りん人ようけおったもんでこっぱずかしいもんで、痛くない顔してちゃっと逃げてきただけど。見てみいこれひざっこぞう。すりむいて血い死んでるらあ。だあたーきた。」

  (道に大きな穴が開いていてね。それに気づかず自転車走らせてたらもー丸はまり。物凄く痛かったけど周りに人が沢山いて恥ずかしかったから、涼しい顔作って立ち去ったんだけど。見てよこのひざ小僧の辺り。すりむいて内出血してるの分かるでしょ。ド頭にきた。)

「あたーきたって、なにんおこれるよー。知らん衆らの前で恥じかいたもんでか?へんなとこん穴ぼこあってそれんはまったもんでか?」

  (頭きたってなにに怒ってるんだい?大衆の面前で恥じかいたから?それとも穴にはまったことが?)

「どっちもでえ。誰んあなぼこ開けくさっただ。ほんと怒れるう。」

  (両方にだよ。どこのどいつが穴開けやがったんだ。むかつく。)

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*はっつく

貼り付くが訛ったもの。別にはニュアンスは異なるが「ひっつく」という言い方もある。

這いつく(ばる)が訛ったもの。という意味で使われることもある。まあこういう場合は「はっつくばる」と言うのが多いのであるが。

イントネーションが異なる。まあ全国的に分布しているので遠州特有の言葉ではない。が、遠州弁らしい感じはする。

例文1

「ガムん踏んづけて靴にはっついちってえ。とれりゃせん。」

「だからっつって犬のふんなすりつけるみたいな真似するじゃないにぃ見苦しいで。って腰振って踊るじゃないっつーに。」

例文2

「コンタクト落といた。」

「はっつくばってでも探せ。」

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*浜松ついこないだの昔話9

まるかき・四人ドッジ・ビー玉落とし、どこでもやってた子供の遊びかと思っていたがそうではないらしい。説明する筆力がないので、まあそういうのもあるんだふーんということで。

そんな中で名前もないような遊びをひとつ。

いたるところに町工場があった頃。工場が休みの日曜日とかに会社の敷地に潜入して、広く大きい屋根に転がる物を投げて、転がり落ちてくるのを誰がキャッチするかというのを競った遊びがあった。

誰が勝った負けたと言う勝負の遊びではなく、ただひたすら落ちてくるのをキャッチするというものだった。

私の時代ボールといえばテニスの軟式のボール(ゴム鞠と呼んでた)。それでキャッチボールも三角ベース野球もなんでも使えた。バットがなくても手で打っても痛くならないしグローブも要らないからホント万能ボールだった。ただそんなの個人で買える奴なんか当然いなくて、学校の備品で川に落ちちゃったとか草とかに隠れて発見できなかったものを「拾った」と称してガメッていた。家に持って帰ればどんじかられる(物凄く叱られる)ので、秘密基地に置いて共有していた。

そのボールを屋根に投げてバウンドする音でどこに球が今あるのかどこに落ちるのか予測してここだろうというポジションを探してた。ボールがないときは小さい石とか使っていたが、失敗して顔に当たると痛いし手で見事キャッチしても手が痛いので、小さい子供が仲間にいる時は、はぶせ(仲間からはずす)にするか止めて他の事するかしてた。はぶせと言っても村八分と言うわけじゃないから空いてるとこで別の遊びを始めたか、つまんなくて家に帰るかして、また明日と言うこと。

音に集中して予測し的中する事が快感。うまく投げないといけない難しさもあり。勢いが良過ぎると屋根の反対側にボールが落ちてしまって、それはそれで今度は宝物探しの始まり。で、見つけたら自慢気な顔をしても許される。勢いがないと弾まないのでころころと雨どいに落ちてボールロースト。学年の5・6年生がいれば、屋根によじ登って拾ってきたりしたがいない時は意気消沈で遊び終了。

あとでそういっておくとガキ大将というかリーダーは自分らの知らないうちにとって来てくれたり新しいのを調達してくれたりしてくれた。そういうのも中学に上がるとお終いで、次の新5・6年生がリーダーに自然となっていくのだが、いいリーダーの時には男女共に集団の中にいるが、頼りがいのない奴のリーダーという集団は男ばかりで女の子は加わらなくなってしまう。

黙って敷地に入るから見つかったらというスリル感も多少はあった。あの頃は工場の人でなくても、大人なら誰でもガキに注意というか怒ってた時代だったので「ヤバイ隠れろ!」ということは結構あった。ちょっとしたかくれんぼの要素もあったのかな。

ボール探しも、大人では考えられないようなところも子供は通るし、他所の家の敷地だろうとお構いなしなのでプライバシーもへったくれもあったもんじゃなく、今考えるとずうずうしいことをしてたなあと言う思いはある。でもこっちが気づくくらいだから大人衆も気づいてた筈で実は見守っててくれてたのかなあと今にしてそう思えてきた。

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しょぼいお話し

スーパーにお買い物。レジカウンターは4つ開かれている。競合相手は歴戦の勇者のおっかさ連中と日曜パシリの旦那連。

ここぞと決めて列につく。一度決めたら迷わない・変えない。それが男の生きる道とばかりに待つ。

左右どんどんと流れていくが前はそのまま。自分のうしろについていた歴戦の勇者は趣旨変えして別の列へと駆け込む。その姿があさましい。たかが数分の争いであたふたして見苦しい。それを賢いというのだろうが、男は一度決めた道を進むのだ。

ようやく前が流れた。あと一人で自分の番。つい自分の前の客のカゴについ目が行ってしまった。人が何買うかなんてプライバシー覗いてると思われるのが嫌で見ないようにしていたのについ目が行ってしまった。

見るんじゃなかった。細かいものてんこ盛りのかごだった。時間掛かりそうなの一目瞭然。目をそらすように店員というかレジのボードとかに視線を持ってった。店員さんは女性なのでしげしげ見るのもなんだかなあと思うが遠くを見るのも飽きてたし、他のレジがスムーズに流れていくのが見えるのも厭なので、漠然としていた。

そしたら、なんか打ち間違いしたらしくしきりに機械を操作し始めた。だめだこりゃとなって視線をはずしたら、隣のレジがもう空いていてそこのレジの人と目が合ってしまった。

「どうぞ」と声かけてくれればしょうがねえなとここを選んだが店の人に誘導されたんだからと言い訳できるんだが、言ってはくれない。でも前は「あれ?」状態のまま。

ほんの数秒の話だが、面子をとってこのまま並び続けるか、それとも賢く空いてるレジに移るかという葛藤にさいなまれた。

で、あっけなく趣旨変え。

男の生きる道を全うする事はかくも難しいことである。

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*そらつかう

しらんぷり・すっとぼけると言った意味。

そらぞらしい(空々しい)の「そら」(わざと・そのふりをする)を使う。

「あんた喰ったらあ。」

「しらんにい。」

「まあたすっとぼけてえ。そらつかったって駄目だでねえ。」

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