« 2007年9月16日 - 2007年9月22日 | トップページ | 2007年9月30日 - 2007年10月6日 »

*浜松ついこないだの昔話7

便所紙とお便所 あまりきれいな話しではないのでご注意を

最近はウォシュレットという水で拭くことが普及し始めた。痔で悩んでおられる方には夢のようなありがたいシステムだとか。

私が小学生頃の便所は家でもどこでもポトン式で、学校で大きい方をしようものなら男女共有だったので小の使用が圧倒的に多いので、おつり覚悟で入らなければならなかった。ま、もっとも「うんこした!」と囃し立てられるのが嫌で我慢してたけど。女子が入るときは男として武士の情けで見ない振りをする、鉢合わせになっても目を合わせないとかの礼儀があったけど誰にそんなこと教わったんだろう。

昔は犬とかの糞がそこいらに落ちていてよく踏んづけるアクシデントに見舞われた。すこし田舎にいくと地理感がないので肥溜めに足を踏み入れた事もあった。たまあに公園の日当たりの悪いとこなどにちり紙がのっかてて人のだとわかる糞もあった。犬のくそはそのままにしておくと滑りやすいので、コンクリートやレンガの角のあるトコを探しては擦りつけてた。何度も臭くないか少し歩いては嗅いでまた少し歩いては嗅いでたまにツイストはさんだり。誰が見ても「こいつ踏んだな」と分かる行動をしていた。肥溜めの匂いはもうスペシャルで染み付いて暫くは取れないのだが、勿論臭うけれど不思議と嫌悪感は湧かなかった。肥溜めはもう糞という領域を越えているのかもしれない。普通の人の野糞が一番嫌だった。当時も家の無い人は居た訳で公園にもそうそう公衆便所があるわけじゃないから、そういう人達の哀れさが臭ってきてなんか嫌だった。たまあに便所に間に合わなかったんだろうなあと思えるのもあったが。鬼ごっこや缶ケリ、かくれんぼなんかで絶好のポイントと思って飛び込んだら「う!糞」って目に遭って大変だった。していった人から見れば普段使わない通らない場所と踏んでしていくのだろうが、子供にとっては大切な場所だったりして、そういう意味では子供だけの場所って今ないなあと感じる次第で。大人になっちゃって気づかないだけなんだろうか。

当時は便所紙という正方形のねずみ色したごわごわの再生紙で出来たものを使ってた。どの家でも同じもの使ってるものだと思ってたが、当時のお金持ちの家にお呼ばれになったとき、例えが下手だけどお習字の紙みたいなしかもかすかにほのかな香りのする紙が置いてあったのにはカルチャーショックを覚えた。新聞交換のゲット品でもあった。一回の使用につきその紙一枚が普通だと教えられて育ったので、トイレットペーパーに代わっても便所紙程度の巻き取りで使用する癖がついている。たまに公共施設のトイレに入って、前や後ろで豪快にカラカラ音がしてるのを聞こえてくると、どんだけえ?と疑問に思ってしまう。

オイルショック時のトイレットペーパーパニックはテレビで見てたけど田舎には縁のない騒動だったような気がする。家庭を切り盛りする主婦には現実に大変だったのかもしれないが、空襲や艦砲射撃潜り抜けて育ってきた当時の母親世代にしてみればどうってことないいかれポンチな騒動らしかった。

初めて洋式トイレに出会ったとき、他人も座るところに肌直接つけて座るということに物凄く抵抗があった。ヒヤッとする触感もなじめない。しかも、今もそう思っている。便所を作りかえることになった時、年寄りになったら和式より洋式の方が体に優しいですよと業者の方に何度も説得されたが和式を選択した。

一番好きなのは和式水洗で水を流すと不必要なくらいの勢いで流すタイプ。水の持つ涼しさを味わえる爽涼感が心地いい。

一番嫌悪感を憶えたのは山歩きをしていて、広大な南アルプスの中でのキャンプ地のポトン式。大自然の中に都会から持ってきた汚物を捨てて行ったみたいで気持ち悪くなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

アンフェアとホワイトアウト

アンフェア the movieを観ました。前もっての言い訳になりますが、私は面白かったと思った作品の感想を書き込むことにしていて、決して「つまんなかった金返せー!」と言うような作品の愚痴は書かない様にしています。なので、以下の作品は面白かったと判断しているうえでの感想です。小さい頃好きな子に対してついいじめてしまうと言う、アレみたいなもんだと思ってくださいな。決してSではありません。

難攻不落の場所への攻略戦。しかも小よく大を制すということで真っ先にホワイトアウトとイメージがダブり、どうしても比べて見てしまう事に相成りました。

*アンフェア

お話しの流れが速く、テンポよく見ることができました。母は強しと言うお話しですがそれにしても強すぎます。事件の動因部分はよーでけとるわあと感心しきりでしたが、細菌兵器が出た以上警察権力だけで済むお話ではないような気が。ちょいとだけでも政府や防衛省とかのやり取りのシーンを入れ警察だけでけりをつけるタイムリミットを政府等から設定されてその時間内で任務遂行を果たすという時間制限もあったほうが緊迫感が増したのではないでしょうか。

銃撃戦が勇ましいんですが、湧き出るショッカー相手にしてるわけじゃないんだから、ある程度何人倒さなきゃいけないのか人数を分かりやすく示して欲しかったです。

アンフェアって終わりもアンフェアで、次を予感させるようなムズムズした終わりになってるんですが、観終わったときに気持ちよく映画館を後にしたいじゃないですか普通。テレビは次の番組があるから気分の切り替えがすぐ出来て良いけれど、映画だと家路につく間映画の余韻を反芻するときなんか中途半端だとちとむなしいんですよね。物語は幸であっても不幸であってもきっちりケリがついたほうが有難いです。

誰がアンフェアなのかがこの作品のテーマですが、映画に至るまでにテレビとスペシャルと連なっていくうちに皆胡散臭くなってしまっていて、もう全員叩けば埃の出る人ばかりに見えてしまって暗い感じに思えました。ひっぱり過ぎと言う感も否めなくはないのではないのでしょうか。しかしもしも「そして誰も居なくなった」というのが真実のテーマであるのならば見事に術中に嵌ってる訳ですがそうだとすれば辛く苦しいお話しです。確かに雪平が「誰も信じない」という気持ちも分かるような気になるんですが、和気あいあいと仲良くやろうよ主義の私からすれば「辞めてやるこんなとこ」って思いますよ。

どこかで見た感想で、加藤ローサさんが「あれだけ?」って、次があるんではと思ってたけど最後まで出てこなかった。と書いてあったのを読んだんですが私もそう思いました。三上が捕獲で看護婦さんが処分というのはちと?でした。

*ホワイトアウト

ダムという人間が作り出した雪にも守られた孤高のコンクリートの要塞。防衛力に優れているだけでなく、放水することにより下流の地域にダメージを与える事の出来る攻撃力も兼ね備えている。その要塞に武装したテロリストグループが立てこもり人質も捕獲した上で大金を要求する。それを阻止するために一人の男が立ち向かうというお話し。

こちらも動因部分は見事です。映画であって現実ではないのですから、当然テロリストが敗北するという前提で観る訳ですが、ここからどうやってテロリストを負かしていくんだろうかと無い知恵を膨らまして攻略案を考えながら観る愉しみがありました。

映画での対決はテロリストの佐藤さんと織田さんの対決戦で署長の中村さんが見届ける係りになって描かれているんですが、対決は佐藤さんと中村さんの対決知能戦で織田さんを含め数人が実働隊として動くという方が個人的な好みです。正直こんな奴米国映画の中にしかいねえよと突っ込んでしまうほど織田さんはスーパーマンとして描かれています。銃も扱えないへっぴり腰だけど友に対する想いと他にいないという使命感に支えられていることになってますが、日本人離れしてます。後半のスノーモービルが出てくる辺りからその度合いが加速していきます。

エンディングはスカッと爽やかこれにて一件落着という大演壇での終わりですので気持ちは良いです。

*両作品の比較

どちらも敵役がすんごいです。アンフェアは椎名桔平さん、ホワイトアウトは佐藤浩市さん。存在感抜群で揺るぎない説得感を感じます。やはりこういう作品は倒すべき敵に威力を感じなければお話しになりません。自分達の崩壊で崩れ落ちてくのではなく主人公が切り崩していかなくては興ざめです。

画の美しさはホワイトアウトが実際のダムでの撮影。雪という景色で良かったです。浜松は山の方でない限り雪が積もる事はないですし、スパイクタイヤなぞ使うのはスキーに行く人くらいですので雪景色は見慣れてないので新鮮です。その分寒さの感覚がつかめないので雪の中の困難さは他人事なんですが。

謎解きというかホワイトアウトがどうやって?でアンフェアは誰が?なんですが、最後まで謎を引っ張ったアンフェアのほうがエンディングまで緊張できました。ホワイトアウトは終盤謎が途切れてたので、全容が見えてからのチェイスには幾分長さを感じました。迫力もあったしお金もかかってるんだろうなあという思いはありましたが。

組織というか集団に個人が対抗する図式というのは日本では成立しにくい感じがしてるんですが、両作品ともそれに挑戦してることのチャレンジ精神が伝わってきます。が、ハリウッド映画見慣れてる人から観れば点数は辛くなると思われます。なんででしょうねえ、「赤信号皆で渡れば怖くない」集団性の強い民族だからなんでしょうか。だから一人の突出した活躍は嘘くさく見えてしまうんでしょうか。でも最近のガキは「赤信号自分が良ければ全部青」という奴が増えてきてますからそのうちヒーローものの出現に違和感がなくなる時が来るのかもしれません。そんな自分勝手な奴らの下で生きていたくはないですけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*らねえ

「だらねえ」の「だ」抜きの言葉。意味合いは~でしょうねえ。

「あんたまさか途中で抜けようっつうんじゃないらねえ。」

  (あんたまさか途中で抜けようとしてるんじゃないでしょうねえ。)

「あんたさあ、とーぜん行くらねえ。」

  (あなたに言っとくけど、当然行くんでしょうねえ。)

「ここにおいといたの知らんらねえ。」

  (ここに置いてあったのしらないよねえ。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

のえ

知ってくれる衆だあれもいんくても泣くじゃないにぃ。

誰も助けちゃくれんだであんた独りで生きてかんとかんだで。

嫌んなって戻ってきちゃかんだにぃ。

一度逃げ癖ついちゃうとはあ止まらんくなるだで。

いくつんなっても今んいっちゃん輝いてんとかんだにぃ。

ほーでないと歳とる意味ん無いだでねー。

金ん無くてもなんとかなるだで死にゃせんでええで。

だもんでよそ様に迷惑かけんよーにしんとかんだに。

体おやさんよーに気いつけとかんとかんだにぃ。

心が折れやすくなるだで。

ほれなんしょがんばらんと。のえ!。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*ほんとかえー

「ホントかよー」と言う意味。

他には「ホントにぃ」・「「ホントけえ」・「うそこくじゃねえぞ」・「うそだらあ」などがある。「うそだらあ」についてはイントネーションが複雑で「らあ」のアクセントが強く「うそ」についても普通は「Uso」だがここでは「uSO]となる。

「あれえ、なによー。やっちゃいんじゃん。どーして?」

「あれ知らんだけ?来週に延期んなっただに。」

「ほんとかえー。信じれん。嘘だらあ、来週じゃ仕事休めんよー。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

一筆啓上

一筆啓上使徒用心シンジ泣かすなエヴァ増やせ

私の仕事先に於いてもエヴァ(全部書くと長いので)は大概皆知っている。平均年齢を考えると有り得ない筈だが知っている。どうもパチンコが入門の手引書でそこからレンタルで見始めたらしい。で、それなりに深い。案外深い。

私は「スーパーロボット大戦」というゲームから入った変わりダネである。もともとゲームは反射神経がないのでやってもフラストレーションばかり溜まるのでインベーダーも初期のニンテンドーのゲームウォッチとかもハマルほどではなかった。でもあるとき、家にまで仕事を持ち帰ってる自分にはたと気づいて、このままじゃいかんと、なんでもいいから我を忘れるほど熱中できるものを探さないと自分が潰れると思い、根気だけで進めるドラクエを見つけて以来ゲームをするようになった。で、そのスーパーロボット大戦というゲームだが根気で進めるので愉しいのだが、いかんせん登場人物がわかんない。ガンダム?なにそれ?ってことでかろうじてマジンガーが分かる程度。それじゃあより深く愉しめないということで、レーザーディスク大人買いして見まくってリアルタイムを知ってる連中とかにも聞きまくって知ることになった。エヴァもそういう経緯で知った。

正直良くわかんなくてエヴァファンに「どこがええだ?」と禁句を発し、猛烈に糾弾されたことがあった。惹きつけるなにかがあるのは感じるけどそれがなんなのか分からなくて不安定な気分になるのである。ましてやラジオドラマのエンディングならともかく、「Air」と「まごころを、君に」を観てしまった以上こういう終わりならばどこに惹きつけられるのか納得してないとやりきれないじゃないですかホント。死というのはやはり重いものですから。

勝手な解釈ではあるのですが、発想というかATフィールドという概念は気に入って主人公が中学生というのも納得出来る。自我境界線と勝手に訳してるが誰でも自分の周りのとある距離の中に他人が入ると警戒モードになる空間を持っている。普通は息遣いを感じる距離だが、それが強すぎるために誰とも交われず唯一固体種となってしまった別の人類である使徒。それを迎え撃つエヴァのパイロットが、子供から大人への脱皮という羽化の為に堅いサナギになろうとし始めている中学生という時期。その時期のサナギになろうとする揺れ動く精神を動力とするエヴァという設定。ある意味人工的なサナギなんだろうなとエヴァは。本当に勝手で強引な想像ですし、まあ暴走とかシンクロとかエヴァについてはわかんないことだらけですけど。

人類と使徒の生存をかけた闘いというのも理解できるし、人は交わらなくては繋がっていかないんだというメッセージも感じられるんですけど、私にはうまく説明できない何かがとにかくわからない。世界を牛耳る大人たちの思惑・古文書の存在・シンジのおとっさの願いとか。物語の潮流を眺めてるだけでしかもその流れが速すぎてよく見えなかったような感覚があるのです。どこに流れ着くのかとか果てを見たいということではなく、何をしているのかを知りたいのです。不思議なもので人が演ずるドラマだとわかんなくてもまあいいかあって思えるのに、アニメだと全部納得出来ないとスッキリしないのですわ。そういうアニメで育った世代なんで新しい道を切り開いたエヴァには戸惑いがあるのかもしれません。

でもなあ、キネ旬読むとゲリオンじゃなくゲリヲンだと。新たなエヴァだと書いてあるし、私のわからないものは解決できるんだろうか。まあ観ないと始まらない事に違いはない。

なので今回の映画でそのわかんないトコ解決できたらいいなあとは思っているのですが、如何せん浜松では公開になってない。なんじゃそれ、エヴァ増やせ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*はあもーあきれかあってものもいえん

もうあきれ果ててなにもいうことないという訳になる。「開いた口がふさがらない」という使い方と同じである。

分解すると、「はあ」(もう)「もー」(本当に)「あきれかあって」(あきれかえって)「ものもいえん」(ものがいえない)ということになる。「はあ」と「もー」は似たり寄ったりなので、(もう本当に)でも(本当にもう)でもどっちでもいい。

訳なしでも意味が通じるが、結構良く使う言い回しなので要チェックの言葉である。

意味合いは、馬鹿にされてると思ったほうがいい。突き放した言い方ではないので、言われたらニヤっとエヘ笑いをしたほうが無難である。そうやって下手に出れば助け船を出してくれる可能性も出てくる。

突き放しだと「信じれん!」という表現が多く使われる。

例文

「あんた何パンなんかくっとるよー。もう昼食い終わってそれじゃ足らんもんで喰ってるだか?育つねー。」

  (なんでパンなんか食べてるの?昼ごはんじゃ足りないから食べてるの?育ち盛り?)

「それがちがうだあれ。きんのうパッチーでン万貯金してきたもんで金ん無くてさあ。だもんで昼はこんだけ。」

  (いや違うんだ。昨日パチンコでン万円すってしまってお金がなくなっちゃってさ。だから昼はこれだけってこと。)

「あんたねえ。はあもーほんとにぃあきれかあってものいえんわ。給料日までまだだいぶあるじゃん。どうせるよー。」

  (あんたあ、あきれて開いた口が塞がらんわ。給料日までまだ大分あるよどうすんの。)

「今週の休みで貯金した分取り戻す。」

「もー信じれん!」

かなりリアルなよくある話し。浜松にはお馬さんはいないがオートレースと競艇にパチンコといった利子もつかないし貯蓄しても還ってこない場合がある銀行がある。大抵の人は貯金のし過ぎで衣食住ともに質素に暮らしてる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

ユメ十夜

いやあ訳分からん映画ですわ。と、いっても田舎に来て戴ける様な事は無いのでDVDで観たんですけれど。ネタバレ書いてるつもりはないんですがこれから観ようとされてる方には興ざめの無粋かもしれません。パーペキな趣味の映画であって娯楽映画ではないので好き嫌いははっきり出る映画だと思います。

でもなんで私はこういう映画が好きなんでしょうか。分かった振りして知的になった気でいるんでしょうか。よー説明できません自分でも。ああたらこうたら説教じみたテーマや真実に押しつぶされるよりも、訳分からんくても理屈抜きでそこに居たいという空気感を味わう方が性に合ってるんでしょうおそらくは。

11人の監督さんが各一夜づつ担当されていてしかも夢がテーマなんで、なんでもありの無差別級の様相を呈しています。時代考証やら時間枠の決め事なんのその、ほとんど無視して「夢」を追っかけてる感じです。それぞれの監督さんの自主性に拠っているので全体の統一性はなく「だからなんだ」というテーマを求めても無理でしょう。原作を読んでこの作品に臨んだ訳ではないんで「夢」自体が原作とどう異なるのかは知りませんが、もし忠実に映画化したのであれば、漱石と言う人はノストラダムス以来の偉大なる預言者ということになります。でもそんな評価聞いたことが無いのでおそらくはアイデアのみの使用で描かれている「夢」は監督さんのものだと想像してます。

個人的には後半ついてけなかったんですが、110分の作品なので長くて前半で飛ばしすぎて後半息切れしたと言うことではなく、多分自分にとって心地よくなかったって事なんでしょう。人によって好みの差はあると思います。

松尾スズキ監督の作品が良かったです。迫力・躍動感・テンポ・けれんみたっぷりの登場人物達。白黒なんですが冒頭のシーンは黒澤映画観てるみたいな躍動感でした。オチも洒落てるし、いいですねえ。ホント平和って感じで一番安心して観てられました。セリフも粋ですし。ただ、良く出来た日本昔話改って感じでどこが夢なんだという気はします。夢って見てる本人でさえ制御が効かないじゃないですか。そういう意味では作り手の全て手の内で愉しませてもらってる感じがします。

市川昆監督の作品最初白黒と気づかなくてうじきさんのアップになったところで気づいて、そんで無声映画だというのもそのうちに気づいてと、画力(えじから)にいつもながら敬服いたします。

清水崇監督の作品では、香椎由宇さんて西洋顔の筈なんですが和服が似合うんでこれは発見でした。ただ綺麗綺麗なだけじゃなく、生活感も感じられて存在感のある人なんだと認識しました。堀部圭亮さんのこういうなにか得体の知れないものと対峙してるような不安定な心理表現も好きです。

清水厚監督の作品冒頭は焼酎のCMみたいと思ったんですが、騙し画になってるとは気づかなくて古いバスなのに非常口ってアリかよとか時代考証が雑だなあと思ったんですが、話が進むにつれ確信犯だったことに気づいてはめられたあ!ってなって、そうなるとどこまで往っちゃうんだろうと思って観てました。大きい画で観たかったのでこの作品は映画館で観てみたいです。

山下敦弘監督の作品では、「どうすんの・・・うちじゃ飼えないわよ・・・」というシーンが間と言い空気感と言い自分も経験のある「イタイ話」で山下節炸裂って感じで、あと庭を隔てた路地から「鴎外せんせ~」のカタマリ具合も背中で語られてて面白かったです。が、以上です。

西川美和監督の作品は正直私には皆目見当がつきません。お百度参りはやはり男の世界じゃないのかもしれません。状況からして眺めていいようなものではないような、いづらいような。女性目線の画なのでしょうか。女性監督の作品って女性を同性として描く分ある種突き放した美化しない部分を感じるんですが、西川監督はこの作品では野郎目線があるようにも見えて男も女もいける口なんだと思いました。でもやはりいづらいです。

山口雄大監督の作品は、漫画から興して人がマンガを演じてるみたいな感じです。漫画だとグロやえげつなさとかを絵で描くから汚いと感じる部分を削ぎ落として見れるんですが、この作品ではそういう意味ではマンガの持つ利点を残しつつ人が演じる事によるリアル感がプラスされたようになっていて、面白いとは思いませんでしたが上手いなあと感じました。

実相寺昭雄監督の作品は映画のしょっぱなの作品で映画の向かう先を指し示す役割を担ってる訳ですが、漱石さんの夢の映像化というよりも作り手の創造性を追求してるんだと想いました。古い話しですがウルトラセブンを見てた時分に自分が戻ったような気になりました。なのでなんでもOKって感じで観てたんですが、セブンを知らない人にはこの気分が味わえるのかどうかはわかりません。

自分としてはモノクロの2作品が好きです。モノクロだから好きなのかたまたまモノクロだったのかは分かりませんが、吸い込まれ度はカラー総天然色よりもあったことは確かです。でも疲れたので集中力を必要とするようです。

11人で10話は?かも知れませんがアニメ作をお二人で監督されたものとしてカウントしました。間違ってたらごめんなさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*だまくらかいちゃいんらなあ

だまくら(騙して)かいちゃ(いるんじゃあ)いんらなあ(ないだろうな)と言う意味。

「だまくらかす」騙す・はぐらかすと言う意味合い。もっともこれが遠州弁ということではなくて「いんらなあ」が遠州弁の表現。多分「いんだらなあ」・「いんづらなあ」の「だ・づ」抜きに変化した省略形の言葉と想定される。

例文 突然とあるものをくれる人とあげると言われた人の会話

「やあなんか話しん上手過ぎやせんかあ?だまくらかいちゃいんらなあ。」

  (んーなんとなく話しが上手過ぎるような気が。なんか裏がありそう。)

「んなこんあらすけー。いつも助けてもらってるだでこんくらいはしんとかんなと思ってさあ。」

  (そんなことないって。いつもお世話になっているからそのお礼にと思ってさ。)

「なんかどがんこ嘘くっさーく聞こえるだけど。目え泳いどるし。」

  (なんか白々しいんだけど。目が泳いでるし。)

「まあまあそういわすとお、持ってってくんない。」

  (そんなことないわないで、持ってってよ。)

「やっぱやめとくわ。ただより高いもんはないっつーでな。」

  (やっぱりやめとくわ。ただより高いものは無いって言うからね。)

「わかったよー、しょんねーなあ、まじなこんゆーわ。きんのうおっかさ買ってきたの知らんくてやあ、わしも買っちまったもんで二つもいらんだよ。だでうっちゃる訳にもいきゃへんもんで貰ってくれりゃあゴミんならんで済むもんでさあ。」

    (わかったよ、しょうがないなあ。ホントのこと言うよ。昨日女房も買ってきたの知らなくてね、自分も買っちゃったけど二つもいらなくてさあ。だからと言って捨ててゴミにする訳にもいかないから誰か貰ってくれないかなあと思って。)

「そんで恩もついでに売っとけってか?んな世の中都合よーまわらんて。じつぁーの、おめえんとこのおっかさといっしょにうちんのも行ってただよ。ほんでうちもきんのうおんなしもん買ってきただよ。だでいらんだあ。」

  (なるほどね、ついでに恩も売っとこうってことか。そんな都合よく世の中回らないって。実は、君の奥さんと一緒に家の女房も買い物行ってたんだ。それで家も昨日同じもの買ってきたからくれるといわれてもいらないんだ。)

「なんだよーそれえ。先い言えよぉふんだだこんわあ。知っててそういうこと言うー。」

  (なんだよそれ。そういうことは先に言えよ。とぼけて聞いてやがって。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

ヤバイと言う表現

美味しいものを食べたときなどで「やばい!」という表現が最近出てきたらしい。

何故か納得してしまう。なんか私には、「ヤバイ平常心でいられないくらい心の揺れを抑えきれない。」の超短縮形に聞こえるからです。勿論食べるときに平常心を持たなければならない理由はないのですが、やはり人目というものがある以上はしゃぐという行為が周りから見て浮くとかはしたないと感じる理性があるからなんでしょうか。

実際に訳す時「おいしい」とか「いい」に訳されているらしいのですが、私には「我を忘れそう」という訳の方がしっくりくるんですけれども。

ただし「これってまじやばくね?」って「手を染めるのはいかがなものかと」というのと「これは凄いよねびっくりだよ」と二通りの解釈がまかり通るのは非常に使い勝手が悪いのは確かです。今は生きてるけれど将来死語の世界に入るような気がしたので予約に入れときました。はたして賭け事のセンスがない私の予想は当たるのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

役者さんって大変なんだ

宇梶さんが出ておられた回の「ホレゆけ!スタア☆大作戦」を見ました。舞台上での「イタイ話し」をされていて、ホントに役者さんって大変なんだと思いました。

のどが焼けただの釘が足に刺さっただのと、マジで「痛い」話しで、つくづく役者さんは体力勝負なんだと。精神的な演技というものに加えて、女性だったら恒に美しく、男だったらなにがあっても舞台にて最高を目指し、かつ呑んで人間観察・演劇に対するディスカッションと様々な健康を維持しなければいけないのですから。普通の仕事だったら内面も外面もと両方気を使う必要がないし呑んだって接待か憂さはらしてりゃいいだけなのだから。

それになによりイメージなんていう訳の分からん他人の決め事にも時としては従わなくちゃいけないんだからホント大変だと思います。

そういう人達が作り上げていく作品に対して弩素人がお気楽に素っ頓狂な意見書いて勝手にブログなんぞに載せるなんて図々しいというか厚かましいというか恥知らずというか。そんな気になります。

でも言い訳としては、お芝居って素人にあてたものですよねえ。下請けのプロが大企業のプロに評価されて商売が成り立つ世界ではなく、プロが素人に評価されて成り立つ商売ですよねえ。いくらプロの評論家の方が高い評価をしたとしてもナントカ賞の対象になるくらいで直接的なものではないですよねえ。常連さんという鑑賞のプロだけに向けたものではないですよねえ。

悪口は書かないよう心掛けますし、商売の邪魔もいたしません(私には影響力なんてないけど)ので何卒お許しを~。と新たに誓う思いがしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

十重に二十重に

「とえにはたえに」

いまだと「二重に三重に」(にじゅうにさんじゅうに)という使い方のほうが多くなっているのではなかろうかと思えて仕方がないのだがそこんところはどうであろうかと思案する次第と常々考えていてもはたしてそれが多くの人から賛同をえられるのかどうかはイマイチ確信が持てなくてという孤立感が幾分かはあるのだが実際のところはそうなんじゃないのかと生活上においてもテレビとから入ってくる情報からしても導き出される事で間違ってはいないと判断するのだがどうであろうか。

というようにくどいほどにアリの這い出る隙もないくらい念には念を入れてという意味。簡単に言えば「厳重に」ということである。(上の文は回りくどいだけで例えになってないけど)

ネットで検索しても全然ヒットしないので私の造語かあ?んなわきゃあないよなあ。ホント心細くなってきた。ま、もっとも書き言葉なので話し言葉ではないんだろうけどね。7文字で5・7という日本語の美しい響きの条件に入るから美しい日本語の頃の言葉なんだろうなあと思う次第で。

あ!千代に八千代にと一緒かあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

*いっしょくたあ

十把一からげ・なにもかも一緒にしてしまう・混ぜこぜにするといった意味。

「いっしょくたあにせるじゃないにぃ。後んなって困るだでえ。」

  (ごちゃ混ぜにするんじゃないよ。後で困る事になるんだから。)

これの凄い様を表わすのに「ど」とか「馬鹿」は使われない。「がんこ」・「えらい」が使われるが「やたらくしゃいっしょくたあ」・「なんしょいっしょくたあ」辺りの方がより凄い様の表現になろうか。

遠州弁固有の言い回しかというとそうでもなさそうで、「一色単」(たくさんの色を混ぜ合わせて一色にする)という説明があれば、それは間違いで「一緒くた」が正しいと謳ってるところもあり諸説紛々といったところか。

個人的には色んな色混ぜたら鮮やかな色には絶対ならないものだからして、決して混ぜる事はいいことではないという「よからぬ事」というイメージが「いっしょくた」と被るのでこれに納得するところである。「一色にとは(なんだよ)」で「いっしょくたあ」っていう風に変化したとも取れるしね。

それに「一緒くた」の「くた」って何?ってのもあるしね。でもネットの辞書には「一緒くた」とされてあった。なのでこちらの方が正しいんだろうけどだったら「くた」とはなんぞやという説明もしてもらわないと納得いかない部分がありますわ。

例文

「子供らのお土産なににする?」

「全部おんなしでええらあ。」

  (全部一緒で善いだろう。)

「いっしょくたあにすると上んすねるにぃ。」

  (どうせ子供だからって同じに扱うと上の子がすねちゃうよ。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

読みにくい

文章、読みにくい人と読みやすい人と判り易い人と判り辛い人といる。端的な人もいればくどい人もいる。

私の文章は読みづらくわかりにくくそしてくどい。意識してそうしてる訳ではないのだがそれが私と言う特徴なのだろう。粘着気質のA型の面目躍如といったところであろうか。簡潔に書くと何か言い足りなくはないか誤解されないかとか考えてしまって同じことを表現を変えて二度も三度も繰り返す。

自分で書いてても二度も読み返したくない文章が多々ある。読んでて疲れる。

日本人の五・七・五のセンスと言うものが欠けているから、寄せ書きなど大の苦手なのだ。

有名・著名人のブログだと宇多田ヒカルさんのブログが凄く読みやすい。憧れるけど一生他所の芝生だろうなあ。逆に自分に近いと思えるのが水田芙美子さんとこのブログである。同じ空気感を感じる(向こうの方が遥かに高みだけど)ので巨人の星の明子ねえちゃん状態でそっと木陰から覗いてる。

いづれにせよ自分らしく書かんと意味ないだもんでえ、これん遠州弁だったらちゃちゃっと要領よー書けるだけど、そうすっと通ぜんし。どうせまいかねえ。ちいとこれで通してみすかいねえとんじゃかなく。

| | コメント (2) | トラックバック (1)
|

*どっからかっさらってきただ

まともに訳すと「どこから奪い取って来たんだ?」ということになるのだが。

意味合い的には二種類あって、まずひとつは、うちの集落辺りでは「どこからそんなもの持ってきたんだ?」・「どこから調達してきたんだ?」という意味で使われることがある。深読みすれば、持ってきてはいけない所から持って来たんじゃないだろねえというニュアンスも含むので全く異なる意味になってる訳ではないのだが。

ふたつ目は、「良く見つけて持ってきたなあ褒めて使わす」という感嘆の表現として使う場合である。ひとつ目との違いは言った人の顔が喜んでそうかどうかである。

「かっさらう」は、さらう(底にあるものを取り除く)に掻く(勢いよく押したり引いたり)が変化した「かっ」を足して勢い良く取るという意味になる共通語?。「耳の穴かっぽじってよー聞け」・「飯かっくらってあわてて出てく。」で使われる「かっ」である。またさらうには「ひとさらい」というように連れ去る持ち逃げするという意味もあるので「かっさらう」はさらう対象と状況によって意味を判断する言葉であろう。

いずれにせよ、共通語で使うシチュエーションと遠州弁で使うシチュエーションは、共通語が非日常的な異常時での使用に対し遠州での使い方は日常普通に使用されていて、その違いが遠州弁を知らない人からすれば「やーそんだだもん どっからかっさらってきた だあ。」と言われて(何てこと言うんだ良かれと思って持ってきたのに)とすねたりおっかねえと思えてしまう原因となるのであろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

死なばもろとも

個人主義の徹底により、「一蓮托生」と共に滅び行く言葉。「裏切り」と「乗り換え」が同義語となりつつある現代。

自分さえよければ・自分が第一という時代には全く適応しない。

いまや「お前も道ずれにしてやる」みたいな本来の意味とはかけ離れた似てあらざるものにとって代わられ様としている。

具体的に本来の意味や言葉の由来がわかる所は見つけられなかったけれども、「死ぬ(終わる)時はどうせ一緒なんだから自分だけとか自分さえという考えは持たず最後の最後まで皆で力を合わせて頑張ろう。」という前向きな意味だと私は解釈している。「最後までつきあうよ」という意味であろうか。旧帝国海軍では良く使われた言葉らしく、同じ船に乗っている以上運命は皆同じということで使われていたらしい。

似たような言葉で一蓮托生という言葉があるけれど「死なばもろとも」の方が高潔な感じがするのは私だけだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

出るトコ出ましょ!

単純になんで単発なんだろうと思ってしまいます。弁護士野中のキャラが物凄く立ってるし、それを取り巻くスタッフのキャラも極端だし。これ一回で終わりはなんかねえ、もっと見たい気もするんですが腹八分目がいいということなんでしょうか。

もうなんか水戸黄門の印籠の世界みたいで、金にならない仕事はしないとかで腰をなかなか上げないけど、一度動けばあっという間に解決という、完璧なお約束が成立するドラマだと思うんですよ。またその腰の上げ方が笑えるんですよね。

イメージ的にも谷原さんが演られているので爽やか(?)だし、堀北さんも小池さんも温水さんも感情的な厭味がないし。後に引きずらない気風のよさが感じられて(温水さんは?だけど)はい次って感じでテンポが速くて心地良いし。

原作マンガは読んでませんので誰が主人公なのか知りませんが、私には間違いなく弁護士野中が主人公に見えるんです。なので、後半の潜入の高校生静の活躍は私的には不要かな(堀北ファンの方御免なさい)と感じました。あくまで高校生静は野中が印籠を出すためのトラブルメーカー的な起爆役として存在することに特化した方がいいような気がしました。いや印籠と言うより大魔神って言うほうがいいかもしんない。とにかく弁護士バッヂ見せつけて聞いたこともないような専門用語早口でまくし立てられちゃあハハアとなるしかないとこがやけに爽快で見てて愉しいです。

しいて突っ込みをいれるとしたら、制服マニアの理由が「三年間の思い出が詰まった制服に云々」といっときながらなにも沁み込んでいないフィギアを愛でるのは矛盾してるような。

それと高校生静が転校したらセーラー服の学校だったので激高してブレザーの高校に再度転校とさせて欲しかった。そうすれば堀北さんの制服姿セーラーもブレザーも両方楽しめたのに。全て作品見てるわけではないんですが、「野ブタをプロデュース」でも「ケータイ刑事」の時も「花ざかりの君たちへ」でもブレザーで、セーラー服って「三丁目の夕日」くらいしか記憶にないんですよね。

堀北さんっていえば安アパートが似合うんですよね。それでいて現実的には数多(あまた)の「若手女優」と呼ばれる人たちの中で一番「女優」らしい方なんですから、そのギャップを考えると本当に演じるのが上手い人ですよねえ。感性とか感覚としてではなくプロとしての演技というものを感じます。めげない・へこたれないという芯の強い役が印象的です。歌は凄いしぶりっこもできるしチャイナ服も着たりとサービス満点だし。プロ根性を感じます。でもこのドラマは弁護士野中が主人公の方が私のタイプです。

谷原さんの野中役もいいですよねえ、制服マニアの顔と弁護士の顔の切り替わりが瞬間的でかつ自然で思わず笑ってしまいます。最後の方で事務所から飛び出す時なんか受付にある机ハードルみたいにサッと飛び越えていったりライバル小泉との負けじ魂炸裂とか親爺との確執とか、とにかく気づいただけでも4つ5つ顔というか表情を変えてたからこそこのキャラが生きてますわ。谷原さんのコメディーというのも面白そう。

小池さんもドロドロ・イジイジしてなくていいですよねえ。高校生静と野中の二人のコンビより三人トリオのほうがギャグとして可笑しいですから。

皆さんシリアスなお芝居も得意とされてる方ばかりですし弁護士という人の悩みと戦う職業とはいえ、そういうシリアスな面は強調して欲しくないですね。あくまでコメディーに徹してもらいたいです。

忘れてました。情報屋の報酬には笑えました。類は友を呼ぶって感じで納得ですが、だからと言ってなにも遠藤憲一さんを使わなくてもと思いました。もったいない。

やはり2時間で収めるには大分駆け足過ぎて野中と静の関係の深まる過程とかが稀薄に感じられて、もっとじっくり描いたほうが私の好みでした。フジテレビだから金田一シリーズみたくちょくちょく特番としてこの作品の続きが見れれば有難いです。連ドラで全11話の方がもっといいですけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

何を小金治

なにを言うか・なにをこきゃあがると言う意味。

「言う」を遠州弁では「こく」と表現するので、「なにをこく」と「なにを小金治」の語呂が近いのでよー使った。これが全国的な言葉なのかは定かではない。ひどい奴は「なにを小○玉」といって妙にはしゃいだりもしてた。

ちなみに小金治とは落語家さん桂小金治さんのお名前。最近では去年の「セーラー服と機関銃」で先代目高組組長役を演じられておられました。テレビで拝見させて頂いた限りですが大変誠実な方という印象で、ご本人がこの言葉をギャグとして使われていたのではありません。

使用例

「腹減ったあ、駄菓子屋でなんか喰うから金貸して。」

「なにを小金治。俺もないわ。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

みいいかすかとおもって

見に行こうかと思ってと言う意味。

ここでも味噌は「いかすか」。

「せっかく鹿島の花火んやってるだでちゃっちゃと仕事かたいておっかさとガキん連れて見いいかすかと思ってるもんでえ、早よ終らまい。」

  (せっかく鹿島の花火やっているんだから、テキパキ仕事片付けて、女房子供連れて見に行こうかと思ってるんだから、早く終ろうよ。)

「~しすかと思って」~しようかと思ってという使い方は遠州ではよく使う表現である。「し」を「せ」にする場合も多々ある。

「やりいかすかと」(やりにいこうかと)

「置きいかすかと」(置きにいこうかと)

「喰いいかすかと」(食べにいこうかと)

「寝えいかすかと」(寝に行こうかと)

「勝負せすかと」(勝負しようかと)

「明日にしすかと」(明日にしようかと)

「こっちにしすかと」(こっちにしようかと)

など挙げたらキリがない。大抵「思って」が次につく。集落によっては「見いいかすと」と「か」を省くところもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2007年9月16日 - 2007年9月22日 | トップページ | 2007年9月30日 - 2007年10月6日 »