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*まるまる

「湿気て紙んまるまる。」(湿って紙が丸くなる。)

「するめ上手く炙らんとすぐまるまるでねえ。」(スルメは上手く炙らないと直ぐに丸くなっちゃうからね。)

「まるまる」は「丸める」(丸くする・髪を剃る)の自動詞形だと辞書を引くと書いてある。なのでこれは共通語ということになる。ホントかねえ。どっかよそ行って意味通じるかどうか試してみたくなる。普通は「まるまった」とか「反る」を使うほうが一般的のような気がするのだが。

他の使い方として

「まるまるどっかやっちってー。」(全部どこかに失くした。)

というように「全て」という意味の場合もある。この「全て」は他にも「まるさら」(まるごと)と言う表現もある。

そんで「まるまる太って」(丸々と太って)という使い方も当然あるので、

「水ん濡れて本まるまる。」だと本が膨らんだのか全部使い物にならなくなったのか丸く反り返ったのか判断できない。結構ややこしい言葉である。

アクセントは「丸める」はmaru MAru 「全て」はmaRU maRU 「丸々」はMAru MAruと言う風にうちの集落では使い分けをしている。

勝手(意図せず)に丸くなるような場合とかには「まるまある」、意図せず(勝手)に丸くなったとかの場合だと「まるまあった」などということもある。

例文

「なんかさあ。冬とかんなるとさあ。外に居てさぶくて凍えてまるまってる人いるじゃんか。ああゆう人見ると後ろっからぐわしってかぶさりたくなるだよねえ。」

  (あのさあ冬外で寒くて凍えてうずくまって丸くなってる人見かけるだろ。そういう人を見ると思わず後ろから抱きつきたくなっちゃうんだうよねえ。)

「気いつけなよあんた。本能のままにそんなこんしてたらちゃっと警察飛んでくるにい。」

「実際せる訳ないじゃん。そう思うだけだって。」

「ならいいけどやあ。」

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全県往来

アクセス解析なる遊び道具での遊び方で、どの県からアクセスがあったのかがわかる項目があります。方言ネタが主力なので近隣県周りばかりだろうなあと思って書いてるんですが、それでも変な欲が出てきて「47都道府県全制覇」出来ないかなあと考えたりもするんです。分析すると確かに人口分布に沿った形でアクセス数が出てきていて、えさじゃないけどその地域の人に興味を持ってもらえるようなネタはないかと頭絞ってみたんですが、これがなかなか浮かばなくてあじゃあじゃしてたんです。

そうこうしてる内に、ビンゴになりあと一県を残すのみとなりました。佐賀県です。ここまできたら頑張ろうと佐賀佐賀佐賀と知恵ひねって。でも高校野球は興味ないし「がばいばあちゃん」はまだ消化不良だしと、んーと悩んでいたら今日、佐賀からお越しくださった方がおられました。本当に感謝申し上げます。欲に駆られて無理やり記事ひねり出すという悪さをしないで済みました。

後話は変わるんですが、検索ワードがわかる項目があるんですが、迷子というかなんでこのワードでここへ?と言う方が思っていたより多いのは意外ではあります。一番意外なのは、トラックバックの内容で飛んでこられるということです。検索サイトで簡略された記事紹介文をみると検索ヒットの内容が凡てトラックバックの内容で私の記事とはなんの関係性も無い事が多々ありました。一見さんでもいいからとにかくアクセス数を増やしたい訳でも、お友達を作りたいわけでもないんですが、何度も来てくれる知り合いができればありがたいかなと考えているんですが、トラックバックってなんなのでしょうかよくわからないです。

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バイクの呼び名

ダックスのことを「だっくそ」と呼んでいたが、別にこれだけじゃなくて、MRは「いもあーる」・ミニトレ(ヤマハGT50)は「ちびとれ」ホンダホークⅡは豚みたいだと「ポークⅡ」とか呼んでいた。勿論自分のバイクが可愛いから他人のバイクをコケにするための愛称なので、自虐的な奴で無い限りは自らの愛車のことをそう言っていたわけではない。

そんな他愛のない優越感を競ってた中でホンダがCB400FOURを世に出した時の「そりゃあ街中大騒ぎさ」というのを思い出した。

最初「なんか音がしないバイクらしい。」という話から始まり、「マフラーが集合管で左右の見た目が違うらしい。」とか「売り惜しみしてて台数が少ないから見ること自体奇跡に近い。」などなど噂話に尾ひれがつきまくって、そりゃもう大騒ぎって感じだった。俺は見たぜと言う奴がいればそう仲よくないくせして、皆で「どんなだった?」って聞きに行ったくらい幻のバイクだった。

とにかく走る・止まるが決まってて、しかも注目度抜群。こいつぁあスゲエや。でもタケー!ということでみんなの意見がまとまった。で、誰か買うのか?と言う話しになるとだあれも挙手なし(高校生だから当然)。ま、そんないいバイクなら時代に関わらず残るだろうからいつか買えるだろうというまとめになった。呼び名は「フォア」と決めてた。ガンダムが世に出る前の話しなので「フォウ」・「シャア」とかと聞き違える心配はなかった。

大分時が経って、教習所で何代目かあとのCB400に乗ったことがある。多分名前だけ継承して中身は進化と言う名の別物なんだろうけど、モーターみたいな感じのするバイクだった。格闘という言葉とは無縁の乗り物だった記憶が強い。でもエンジン音は聞こえたし左右の違いは別のバイクに見えるほど劇的でもなかった。

結局私の周りでCBに乗った奴は750はいたけどそれは「バリバリ伝説」の影響を受けての動機で(そいつは今ハチロクを探してる)この当時の想いを実現させた奴は今だいない。バイク乗りがエクスタシーを感じる一つとして、思わず振り返る熱い視線と言うのがあるのだが、今も「フォア」はその輝きを持ってるんだろうか。なにせ未だに見たことがないに等しい幻のバイクだから実感がない。何故かと言うと400と謳ってるけど408ccで泣く子も黙る大型免許でないと乗れなかったからやたらとタマが少なかったから。

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だっくそ

ホンダダックスの話しを書いてたら結構昔の事を思い出してきた。

私はヤマハとスズキを交互に乗り換えてきたのでホンダ・カワサキは知り合いについてのことになる訳だが、だっくそ(ダックス)は今考えるとおかしなバイクだった。

2スト全盛の加速命の時代にギアシフトがロータリーでクラッチレバーがない4スト、しかも燃料タンクがシートの下にちょこん。

燃費は確かに良かった。でも容量が小さい。なので少し遠出となると年寄りの小便みたいなもんでちょこちょこガソリンスタンドに用を足さなきゃいけなかった。加速があろう筈もなくほかの連中がとっとと先に先にと行ってしまい、「だっくそ」が追いついてくるのをしょっちゅう待ってる状態だった。若気のいたりで待つことが嫌いな奴が多くて、ようやく合流したと思っても待ってたストレスを発散させるかのように2スト連中は白い煙吐き捨ててまたあっと言う間に消えて行く。そんな事の繰り返し。それが厭で、だけど原付免許しかない、となると70のエンジンに積み替えて50と言い張った奴を何人か知ってる。でも実質2スト連中に追いつくことはなかった。

タンクがあるべき場所にないので基本中の基本であるニーグリップができなくてコーナー曲がるには「だっくそ」乗り特有の走法が要求された。いくつか種類があったらしいが、私の知り合いは大また開きのがに股でつま先は完全に進行方向ではなく真横を向いていた。中には完全内股でステップには足先だけでかかとが完全に浮いた状態でありもしないタンクをイメージしてはさんでるつもり運転の奴もいた。バイク自体小さいせいもあるがステップ位置が低く気合入れて曲がる時よくステップが路面に接触して火を吹いてコーナリングする猛者もいた。

左ハンドルはクラッチレバーがないから持つだけで何もついてないようなもんだから見られ目重視でハンドルを曲げたりして個性を出そうとする奴が多かった。私の時分はハンドルを絞る奴が多く、今の暴走族の衆らのハンドルのような形が美しいとされていた。だがただでさえ曲がりがセーフティドライブを要求されるのにハンドル絞ると直進性さえセーフティドライブを要求されるようになり、なにが楽しゅうて「だっくそ」なんだ?と傍観者としてはそう思ってた。

シフトもロータリーなんて若ゾー向けのバイクでは「だっくそ」だけで普段使いなれたものでなく、乗っててギアが今何速か忘れてしまうとシフトに夢中でパッパラパー。そのくせ4ストだからエンジンブレーキはがんこ効く。2スト乗りはウィリー気味の後ろに引っ張られる感覚に注意がいくのだが、「だっくそ」はエンブレだシフトミスだあで前のめり注意でとにかく感覚が違いすぎる。友達同士でバイクを交換して試し乗りしながら遠出しても、「だっくそ」はそういうことで交換乗りは敬遠されてた孤高の戦士。私の周りのお仲間はヤマハのミニトレ・RD・MRとかスズキだとハスラーだったかな。

スズキのバンバンも孤高だったけど、「だっくそ」はがんこ売れた。エンジンオイル空に近くても焼きつくことなく走らせてパンクとかでたまにバイク屋に持っていって(整備不良のせいなのに)凄いねえと驚かれたと自慢げにいってた奴もいて、とにかく丈夫なバイクだった。2スト組は焼きつきは即致命傷なのでオートルーブかCCISは手放せなかった。かっこつけてガソリンと混合でタンクにぶちこむ奴もいたが混合比が目分量で焼きついたり仮面ライダーのバイクみたいな煙はいてる奴もいた。そうじゃなくてもマフラーからのオイルかすの白煙のせいでウィンドブレーカーが必需で、なしで乗ろうものなら、上着は黒いシミだらけで洗っても落ちないから駄目にすることがよくあったが、その点「だっくそ」の煙はきれいなものだったので白いTシャツをこれ見よがしで着て乗ってる奴がいた。

いずれにせよ、これに乗ってどこ行くんだ?と完璧な街乗りバイクの割には荷物つめれないという認識しか持ち合わせていない私には、懐かしさはあっても乗ってみたいとか手元におきたいとは未だに思えない「変なバイク」である。

ただ背の高い奴が乗ると、その後ろ姿が哀愁を帯びたような丸まった感じになるのは絵になった。私は長いシートの後ろ部分に座る奴より、なるたけ先端に座ってステップつま先立ちして乗ってる姿がお気に入りだった。

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*いみり

「いみり」だけだと「亀裂」という意味なるが、「いみてる」とか「いみりがある」とかだとひび割れ程度の原型を留めた割れの状態をさす。欠けたような程度の大きな割れの場合には使わない。「いみりが入る」(ひびが入る)を「いみん入る」という言い方もある。

「この湯のみ いみりん入っとるでぇ茶あ とか入れたら もおるにぃ。」

  (この湯のみ茶碗ひびが入ってるからお茶とか入れると漏れちゃうよ。)

「この床なんかミシミシゆっとるでどっかでいみり入ってるかもしんないな。」

  (この床なんかミシミシ音がするからどこか板が割れてるかもしれないね。)

例文 原付に個性を求めた男のなげき

「やあ、うしろのっけとくりょ。」

  (ねえ後ろ乗せて。)

「なんでえ自分のは?」

  (愛車はどうしたの?)

「今、直いてる。」

 (今修理中。)

「事故っただ?」

 (事故ったの?)

「ハンドルをね、こらしょとひん曲げてへし曲げたらなんかいみりん入ったみたい。」

  (ハンドルをさ、無理やり曲げたらひび割れしちゃったみたい。)

「馬鹿じゃん、なにやってるよもを。」

   (馬鹿だなあ。なにやってんだよ。)

「いやねっハンドルをさっチョッパー風にしたかったもんでぇ曲がるかなあっつって試しんやったらちいと曲がったもんでぇそんじゃって思い切しやっただよぉ。ほいたらさーあパイプんいみりんいっちゃってぇもうほんとがっくしだよ。」

  (あのね、ハンドルチョッパー風にしたくて、曲がるかなあって試しにやってみたら少し曲がったの。だからよしって今度は力入れてやったらパイプにひびがはいっちゃってもうがっくり。)

「とろ くっさー。馬鹿かおんしゃモンキーでなにんチョッパーでえ、ぶしょいだけじゃん。」 

  (馬鹿みたい。モンキーでチョッパーってダサいだけじゃん。) 

「トレイルに棒一文字つけてる奴に言われたあないわ。」

  (オフロード車にロード車のハンドルつけてる奴に言われたくないね。)

こういう会話が出来る二人の関係は仲がいいので多少の罵詈雑言吐いたとしてもその関係にいみりが入ることはない。でも遠州弁知らん衆には喧嘩してる風に聞こえるらしい。

ちなみにモンキーとは50CCの小さいバイクで、ダックスより小さくおもちゃみたいなバイクのこと。私の時分にはダックスが圧倒的で、モンキー乗りは少数派であった。免許の関係で原付免許しか持ってないが少しでも大きいのに乗りたかった奴はダックスで70CCのエンジンに載せ変えて見た目50CCで警察をたばかってた奴を私は沢山知ってる。もうがんこ昔の話なので時効だから言っちゃうけど。とにかく街中ダックスだらけで個性が欲しい奴はハンドル角を絞ったり開いたり、訳のわからんシール貼りまくってたりしていた。基本名車カブと同じエンジンだったのでとにかくタフで信頼性抜群だったが、クラッチレバーなしのギアがロータリーだと言うのが何故かダサくて、よくからかい半分で「だっくそ」と呼んでいた。当時のライバル?はヤマハがミニトレかRD、スズキがハスラーくらいだったかな?とにかく2スト全盛の時代に逆行するようなトコトコ走るバイクであって皆でつるんで走る時「だっくそ」がいるとちょくちょく追いついて来るのを待たないといけない能天気なバイクだった。

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*つったって

つったって・つったかて・つーたって

とはいっても・そうはいってもという意味。

「つうふうにゆったって」直訳すれば「という風に言ったって」。意味が通るように訳せば「そんなこというけどねえ」。

「つ」の代わりに「ちゅ」と発音もしたりする。「ちゅうたかて」は関西風になるが遠州では「ちゅうたって」か「つったって」が一般的である。

「つったってないで座りなよ。」

共通語だと、(ぼーっと立ってないで座ったら)となるが、遠州弁の解釈だと、(そうはいっても無いのだから座りなさいよ)と強引に読めなくも無い。まあ普通だったら「つったって無いだでまあ座りい。」と「だ」が入るけど。

例文

「やあ、つったってんで座ってりゃいいじゃん。」

  (まあ突っ立っていないで座りなさいよ。)

「つったって椅子ありもしん。」

  (そうはいっても椅子がないですわ。)

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そこまで言わなくても

いつも拝読させて頂いている映画情報の記事でとある作品をけちょんけちょんに書かれておられる記事を見て、なにもそこまで言わなくてもと思ってしまいました。(具体的な作品についてどうのこうのと思った訳じゃありません。間違いなく駄作なんでしょう多分。)

こんなの映画じゃないと映画の間口を狭くしてしまったら、演歌の二の舞になってしまうんじゃないかと危惧する訳です。

最近は特に商売繁盛しそうな映画しか浜松にやってきませんが、そういう愚痴とは別に

唯映像として残したい・自己主張をしたい・客を沸かせたい・芸能人が旬と言う名の線香花火が燃え尽きぬ内にやれる事は役者じゃないけど全部やっておこうとか・壮大な告知周知を知らしめたい・洗脳したい・驚かせたい・いつかはクラウンじゃないけれど芸能人が儲けた金で夢の実現というか憧憬でつくるとか・夢を与えたいとか・映画で儲けたいとか・ねえ聞いて聞いてとか、とにかく色んな動機で映画がつくられることは悪い事ではないような気がするんです。

ただそれを見る側が興味を持つかどうかの話しであって、本屋さんで例えるならば、専門書が立ち並ぶ店か売れ筋しか山積みしない店かの違いみたいなもんでしょう。知識も興味も無い人が専門書読んでも詰まらないのと同じですから、単純に門外漢だからわかんないで私は済ますことにしてます。アイドルを起用する映画はそれを追っかける人達の専門書なんですから、ファンではない人間には理解できない事の方が多いでしょうからわかんないで充分でしょう。まあ専門書ととるか幼稚書ととるかの違いはありますけど。

そういう専門書的な映画がかかるだけでも幸せなことで、田舎では売れ筋の映画しか山積みにならないんです。そっちの方がなんだかなあという思いで一杯です。

今は製造者責任が重くとられる時代で、こんなもん作りやがってと使用者がデカイ態度とっても許される時代でしょうが、選ぶ余地の無い田舎者からみれば、選択の余地があるならハズレの映画をわざわざ選ぶ方が悪いと思っても罰は当たらんでしょう。それにだれだって最初の専門書デビューはちんぷんかんぷんでそこから徐々にでしょう。商売繁盛した作品が名作で閑古鳥がなく作品は駄作というのが映画の良い作品としての基準であるなら都会で試行をして浜松では名作ばかりを厳選して観れるいい環境にあるということになるのですが、実際にそう思ってる人はいないでしょう。

一本芯のある論評をするには立ち位置が明確でぶれない事が必要なんでしょうけど、映画はかく観るべきと視点を固定するようになったら、お約束だらけのどこを切ってもなんとか飴でつまんなくなるような気がするんですけど。

と、作品ごとに言い分がころころ変わる主体性の無い私の言い訳です。それだけに軸のぶれないこういう記事を書く人は尊敬してしまいます。今回はちいと?と感じたまでで今後も記事を愉しみにしてることに変わりはないんですけど。いづれにしても全否定はあまり好みではないんです私は。

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*らんごかない

収拾がつかない・乱雑だという散らかる様に愛想をつかした時に発する言葉。

「はあもう次から次へともうくっちゃんくっちゃんでホントらんごかない。」

  (次から次へと何かが追いつかず収拾がつかないで嘆いている。)正直共通語にしようがない。直訳すると多分意味不明になるが

  (もうねもう次から次へともう溜まっちゃって本当収拾がつかない。)

「はあ」と「もう」がかぶるせいであるが、遠州人にはこの使い方に違和感はない。

「部屋んかたしてないもんでえ、えらくらんごかないだけどぉ、まあちいと寄ってきない。」

  (部屋片付けてなくて大分散らかってるけど、良かったら寄ってって。)

最近は散らかるを「らんごかない」と言わず、「ど散らかる・馬鹿散らかる」と言うほうが多い。なので「らんごかない」には愛想がついたというニュアンスが含まれる言葉となりつつある。しかし周りの衆らは結構使うが、私は正直使っていないので微妙なニュアンスが分かってないところがある

散らかるしても、「とっちらかる」・「どちらかす」だし、収拾がつかないは「だあだあ」だし、愛想尽かすは「やっちゃおれん」又は「はあ知らん」と言うのを使っている。

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松ヶ根乱射事件

おそぎゃー映画やし。

かような作品が田舎に来る筈も無く、当然の如くDVDで観ました。

出てくる人皆リアルで説得力があるんですが、その中でも親爺(三浦友和さん)ががんこいいです。ほんとの他人に対しては善い人で周りに対しては自分がどう思われているかには関わりなく当人が身内知り合いと分類すればひたすらだらしなく頼りまくる。それでいて喰うに困らずあの歳まで生きてこれてるという松ヶ根という町の有り様を指し示す指標みたいでした。誰の子か判らない生まれてくる子供の父親になる男気は神をも恐れぬ所業でおお!とは思いましたけど。でもやっぱ反比例しておっかさは強く逞しい。この他に昼間は居るだか居んだかわからないもの静かだけど夜になると手のつけられない大トラになる奴が出てきたらたまったもんじゃないでしょうこの町は。

「みんな知ってるんだぞ」という言葉が印象に残ります。でも誰もなんにもいいません。ただ見てるだけです。そしてなんか行き詰ったときや雲行きが怪しく自分に都合が悪くなった時に出ます「みんな知ってるんだぞ」。主人公は何故かその最終兵器を持ち合わせていないらしく、代わりに乱射してます。

無かった事にしてしまおうとか見なかった事にしておこうとか、そういうことが可能な町です。でもみんな知ってるんです。「誰も見ていなくても神様はちゃんと見てる」と昔はよく言われましたが、神様とは皆の衆(相互監視)のことで確かに存在してるんだと知らされる思いです。しかもホントの神のごとく迷える村人たちの行いを凡て許す慈愛があるのです。実際なにもかも許されるとしたら堪ったもんじゃありません。なので私はとてもここで暮らしたいとは思いません。作り手の山下・向井両氏はそこんとこどうなんでしょうか聞いてみたいものです。あくまで隣町(よそ)の話しなんで作れると思うんですが。

よくよく考えると変な世界です。いきなり倒れてる女性に小学生が何してるんだ?!から始まり死亡と生存を取り違えたり制服着て役場にとんでもないお願いをしに行ったり、兄が自身の苦悩と不幸を取り除こうとしたときの一番気がかりな事が後が怖いと言うことより、写真回収できないという事だったり。こういうのをファンタジーと呼ぶんでしょうか。

それでいてまとわりつく堪え切れない一歩手前の生殺しのような辛い様々な出来事が妙にリアルで切実で。親爺はリアルに煩悩の海で上手く波乗りしていてその横にいる母はもろに波被りまくりだし、特に兄(光)の呼び寄せた苦悩と不幸なんかはホント洒落になりません。こういうリアルとファンタジーを混ぜ合わせる調合のバランスが私には合うんでしょうか、ついつい引きずり込まれてしまいます。なにも解決していないのに何故か見終わったときにホッとした感情になったのは松ヶ根は明日も来年もこうなんだろうなあと思えたからでしょうか。

殺意も標的もない発砲は、物語の一つの区切りの句読点なんでしょうか。多分何事もなく日常を継続していくためのけじめの一区切りだと思ったんですが、常識で考えれば発砲したら明日が普段の日常である訳がない筈なのに、もしかしたら松ヶ根だったらアリなのかなあと思ってしまいました。

山下ワールドのこの間とテンポは「天才」と呼ばれる理由が納得できます。諸手を挙げて崇拝する気はありませんが、映像特典で「監督はそのうちこういう作品を作ることが許されなくなってくるだろうから・・・」という発言がありましたが、確かにビッグになったら観られない作品なのかもしれないけど、別にこのままでもいいじゃんという気はしてます。

でも、タイトルと内容がかみ合わないと言うか、タイトルから想像する内容と、内容(映画)を観てタイトル見ても、他にあったんじゃない?と考えます。

どことなく「ぼくんち」を連想させる作品という感じの映画です。なので私は好物ですこの映画。映像特典の中でも言ってたネットでの評判で「いい映画だと思うけど、人には勧められない。」というのには私も共感します。本当に宝物なら人には見せないという考えがひとつ。もうひとつは監督が私ら「アホ」に歩み寄るんじゃなく私ら「アホ」が監督に近づくべきであるからです。そのためにはもっと作品を発表していただかないと勉強しようがない。

それと60代のおばちゃん連中が「なんかよく分からん映画だった。」と感想を言われていたけど、あの歳まで生きてると映画としての誇張があったとしてもよくある話ばかりで、それくらいのことでなんで銃撃つほど心が病むのか不思議だったんでしょうかねえ。「イタイ」話しを撮らせたらホント上手い山下監督ですが、おばちゃん達の生き様に比べたらまだまだということなんでしょうか。私は「イタイ」話しは基本苦手なんで、「リンダリンダリンダ」に戻っていただいたほうが嬉しいんですが。

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おんしゃ

ぬし=おぬし=おぬしは=おぬしゃあ=おんしゃあ

と、変化したと見たが、どうだ!

「おんしゃ なにこいて けつかるだ。ええころかげん なこん ぬかしよると しょうち せんぞぉ。」

  (貴様ぁ何を言っているのだ。いい加減な事言うとただじゃ済まさんぞ。)

・・・・失礼しました。

地域によっては「ぬしゃぁ」というところもあり、元は時代劇にでてくる拙者・お主の「ぬし」だと考えてもいいような気はするのだが、自信はない。

野郎言葉であまり親しみの込もった表現ではないし、全くの初対面の人にも言うには慣れなれしいし、つっけんどんで喧嘩売ってる風にも聞こえるし、結構使い所に気を使う言葉ではある。少なくとも公衆の場で使う言葉でないことは確だ。自分はあまり使う方ではないので、正直良く分からないところが多い言葉である。

浜北・積志笠井方面の人が良く使うような気がしているが、遠州全域で通用するので浜北が発祥の地と断定はできない。「お主」という言葉自体お侍さん言葉みたいで、江戸から明治に時代が移った時には元武士と言う人が浜北方面にたんとおったからとも考えられる。ただしあくまで推測。

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さよならクロ

松岡監督は卑怯だと思う。最近でも東京タワーを題材に選ぶなど、これで泣けなきゃ人間じゃないという話しばかし持ってくる。本作「さよならクロ」だっていたいけな犬の一生を描くというど真ん中の直球で迫ってくる。映画が好きだからと感性に任せて貼りたい写真を貼り付けて物語を紡いでいくのと違って、職人として綿密に作り込んだそれでいてわざとらしさを見せない技術で作られた映画のような気がします。映画と言うものに芸術性を求める人には興味が湧かない作品かもしれませんが、職人が作った実用性の優れた逸品を愛でたい人には満足できる作品ではないでしょうか。

人前で大の男が泣くなんて恥以外の何者でもないと思っている私にとって、映画館で観るなんて言うことが出来るわけがない。なので、DVDで家でひっそりと観ました。

2003年作品  松岡錠司監督 撮影笠松則通さん 原作は藤岡改造さんの「職員会議に出た犬・クロ」

実話を映画化されたそうです。事実は小説よりも美暖なり。美しくあったかい作品です。内容については観れば分かりますので書きません。人に勧めて恥じる事の無い作品ですので、観た方がいいと思います。

笠松則通さんの画が好きなんです。「ぼくんち」とか「どついたるねん」とか阪本順治監督とよく組んでおられて、その画の作品ごとの匂いとか心情とかの濃い薄いの調整具合が私には合うというか過激でないところが好きなんです(「KT」はちょっと苦手ですけど)。この作品では犬という動物を描くにあたってペットのような綺麗綺麗じゃうそ臭いし、かといって野良犬本来の匂いたつ感じじゃ腰がひける人もでるだろうし、それに人とのバランスもあるだろうし、どう料理されるんだろうと興味深々でした。

時代背景を古くしたせいかもしれませんが、青々とした緑を抑えた渋味の柔らかい色調でカチッと硬派の写真でした。高校というより高等学校と言った方がしっくりくる決して子供の世界のお話ではありませんでした。先生も生徒も用務員さんもみな対等の大人の世界です。勿論クロも。

でもあれですよね、今のガキどもとの接し方のあまりの違いに違和感を感ぜずに観れるのは結構な大人じゃないと厳しいかもしれませんね。時代劇並みに昔あった古きよき時代の御伽噺にしてしまったほうが万人向けになったんでしょうか。そういう意味ではリアルを感じる世代とそうでない世代が入り混じっている今評価はバランバランに分かれるところなんでしょうが、私は好きです無条件とまではいかないけど。

できたら、せっかくの長野。一面雪の白の世界でクロが動き廻る景色を観たかったです。

役者さんでいうと井川比佐志さんが素ん晴らしいです。不覚にも泣いてしまったのは井川さんのせいです。獣医役の柄本明さんも好きですし、伊藤歩さんの手の仕草も好きです。先生役の塩見三省さんにも泣けるし、飄々とした先生役の田辺誠一さんもけれんなく存在感ありますし。なにより新井浩文さんの印象が強かったです。この前に「ジョゼ虎」を観てたのでそのギャップがね。

こういう作品が普段当たり前のように映画館でかかってたら、暇だからとパチンコ行かずにとりあえず映画館行くかってことになるんですけどねえ。泣かす映画はあれですけど。

しかしこのモデルとなった学校、「白線流し」のモデルにもなった学校だそうでいい学校だなあと思います。こんな学校で3年間暮らしていたら今みたいなひねくれた性格にはなっていなかっただろうなあと羨ましいったらありゃしない。

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井の中の蛙大海を知らず

あくまで言葉遊びです。冗句です。

「意の中で買わず大枚をはたく」

欲に任せて衝動買いばかりで、本当に必要とするものを考えて買わないとお金がいくらあっても足らないというお話し。

「意の中で買わず大金を知らず」

欲に任せた衝動買いばかりしてると金が貯まらないよというお話し。

本来の意味は、井戸の中にすむ蛙は海の大きさを知らない。

出自は「荘子」らしい。

「お山の大将」とか「上には上がある」みたいな小さくまとまることなく世間知らずを恥じ大きな視野を持てという教訓ともとれるが、皮肉っぽい解釈をすれば、蛙が海に行く必要はなく、井戸という場所だからこそ気分よくトップに君臨できて幸せなのだから、安住の地を見つけ身の程を知り背伸びをして生きないことが寛容だと説いているとも読める。勿論後者は私の勝手なこじつけであって本来の意味ではない。

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*いっちゃなんだが

「いっちゃなんだが」(言ってはなんだけど)

言葉そのものに強い意味合いはないので、共通語に変換する言葉が思いつかない。

それでも強引に直すとなると、(言うのもなんだけど)・(言いにくいんだけど)・(こういってはなんだけど)・(よけいなお世話かもしれないが)等であろうか。しかし強引な共通語訳だと、話すことに気が引ける・気を使うというニュアンスになる訳だが、遠州弁の場合、そういうニュアンスは薄い。

遠州弁では、先輩が後輩に、上司が部下にといった関係で能書きをたれる・自慢や経験上の話しをする・やんわりと否定するような使い方をする場合が多い。

段上から物言う際の枕詞みたいな使い方をする。

例文 あまりにもトロトロ仕事してる連中に堪りかねた先輩のひとこと

「おめえらなあ。いっちゃあなんだが、今日帰る気あるだか。そんなこんじゃ明日んなっても終らんぞ。」

「いっちゃあなんだが」を入れることによって言い方が柔らかくなる効果が期待できる。

別の使い方としては、(こうみえても・そんなこというけど)というのもある。

「あんた泳げるの。」

「失礼しちゃうやー。いっちゃなんだけど元水泳部だっただにぃ。」

いずれにせよ、自分を卑下するのではなく、むしろその逆的な立場を相手に知らしめるために使う言葉であることには違いはない。

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*うちら・しゅうら

「うちら」(私達)という意味ではある。「わたしの」という表現はあまり使わず大抵「うち」を使う。「うちんとこ」(私のところ)。関西のような「ウチほんまよー知らんのよ」のような「わたし」的な使い方ではない。漢字にすると「内」又は「家」と書いて「うち」と読むってところでしょうか。自分をさす「わたし」は遠州弁では「わし」が男女関わりなく使う。が、色気づいてくるとこっぱずかしいだか知らんが「ボク・俺・あたし」を使うが歳くってそういうこん気にしんくなると「わし」に戻る人が多い。

「衆ら」(人達)は複数人数をさす。「うちん衆らとあっちん衆ら」(私達と向こうの人達)・「うちらん衆とあっちらん衆」もほぼ同じ意味となるが強引に訳すと(私の側の人達と向こうの側の人達)。衆は以前にも書いたが、全国的には極道さんの業界用語らしいのだが、遠州ではごくごく一般的な言葉として職業に捉われることなく普通に男女共に使っている。

「~ら」という表現は(~達)という表記になる訳で

「ガキら集めてプールいかすか。」

  (子供たち呼んでプールに行こうか。)

「ここにある本ら 要らんなら うっちゃっちゃうにぃ。」

  (ここに一杯ある本、不要なら捨てちゃうよ。)

「ぼくら・君ら」と言う言葉が共通語であるので、「~ら」が遠州弁と言う訳ではないが

「みんならはどおせるでえ。」

  (みんなはどうするの?)

「電気とか水道らははあ来てるだか?」

  (電気・水道とかはもう通ってるの?)

といった幅広い使い方が遠州独特なところではなかろうか。

当たり前だけど、そうだら?・行くら?の「~ら」(~でしょう)とは別種であるのでこんがらないように。

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*知らんやー

日常よく出てくる言葉。へー初めて聞いた。聞いたことないよお。私は知らない。などの相槌に近いニュアンスで使われる。したがって「知らんやー」の後に普通は言葉が続くので「知らんやー。」だけだと何かいいたそうだけど言うの止めたみたいな余韻が残る感じになる。

「知らんやー 聞いたこんないにぃ」

冷たく言い放つときは

「知らん。知らん知らん。」と言う場合が多い。

「ねえお小遣い頂戴。」

「こないだやったばっかじゃん。なにいってるよー。」

「えーだってえ欲しいCDでただもん。いいらあ。前借りでもええでさあ。」

ここで

「知らん、知らん知らん。なにも聞こえん。」

と答えれば有無をも言わさず拒否ということになり

「知らんやー。こないだも前借しただで、来月小遣い無しんなるけどええだね。」

と答えれば歩み寄ってもいいと言うことになる。この場合の「知らんやー」は共通語に訳すと、(あ、そお)と言ったニュアンスである。

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*はしはし

テンポ良く・手際よくと言う意味。

似たような言葉では、「ちゃっちゃと」・「そそくさと」などがある。

「ちゃっちゃと」は、すぐに・はやくというニュアンスで「はしはし」とは異なる。

なので、「ちゃっちゃとはしはしやるだあれ。」(今すぐテンポ良くやるんだよ。)という使い方もある。

共通語の言葉の端々(はしはし)というような使い方と異なる。アクセントでその違いをつけている。共通語はhaSHI HAshi  遠州弁の方はHAshi HAshi

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