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*ひゃあひゃあ・ぎゃーつく

「ひゃあひゃあ」と「ぎゃーつく」どちらも自分にとって言われたくないことを言われた時の感情表現を表わす言葉。主観なので言い方の強弱的な違い分けではなく言われた方の受け取った感じ方の違い。

「ひゃあひゃあ」は以前にも説明したが、程度の比較としては、「ひゃあひゃあ」は口うるさく言われている割には馬の耳に念仏状態であまりこたえてない程度。「ぎゃーつく」は確実にうるさいというか感情を逆撫でされたようなという程度になると思われる。

したがって、言われた事を制止する表現として、「ひゃあひゃあ」には「言うな」、「ぎゃーつく」にはより強めの「ほざくな」又は「ぬかすな」がその後に付く事が多い。勿論決まりごとではないので「ぎゃーつく言うな」といっても違和感はない。が、「ひゃあひゃあほざくな」に関しては若干違和感がある。微妙なニュアンスの使い方が分からなかったらとりあえず、言うな・ほざくなを使わず「こくな」を使えば無難である。

「そんなひゃあひゃあこかんだっていいじゃん。」

  (そんな口うるさく言わなくてもいいでしょお。)

「てめーぎゃーつくこくじゃねー。」

  (お前うるさい黙ってろ。)

他には、「ぐつぐつぬかすな(こくな)」とか「ぐちぐちこくな」・「いらんこんゆーじゃない」(余分なことを言うな)などが使われるが、これらは多分共通語であろう。ニュアンス比較だと、ぐつぐつ・ぐちぐち<ひゃあひゃあ<ぎゃーつくとなるのが平均的。

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*おやす

「体おやいちゃ元も子もないだで、ほんと健康にゃちゃんと気いつけんとかんだにぃ。」注、にぃは語尾上がる

  (体壊したら元も子もないんだから、健康には充分気をつけないといけないよ。)

遠州弁では「おやす」は、壊す・不調・病気になるという意味。共通語の痒す(おやす・意味は衰弱させる)になんとなく近いのでその変形か親戚と勝手に想像してしまう。

主に人に対してしか使わない言葉で、物や道具などに対しては普通使われないが、一部の集落では凡ミスで何か壊したりした時「やいやいおやいちゃってー」(失敗して壊しちゃったよ)という風に使う所もある。らしい。

よく使われるフレーズは「腰おやいちゃかんでやめな」又は「腰おやすでやめな」いづれも無茶するなという意味。

例文

「腰おやいちゃって、重いもん持てんくて、ほんと仕事んならんくてやんなっちゃう。」

  (腰痛めちゃって、重いものが持てなくて仕事にならなくて困っちゃうよ。)

「あんまし無理するじゃないにー。無理こいて他んとこおやいたら目も当てられんくなるだで、ちーと養生しんとかんら。」

  (あまり無理するんじゃないよ。無理して他のとこまで悪くしたら大変なんだから、少し休んだほうがいんじゃないの?)

「そんなこんいったって代われる奴なんかおりもしんに。納期間に合わせんとかんだもんでえ、休むにしたってそん後だあれ。」

  (そんなこと言ったって代わりが居ないんだからやるしかない。納期に間に合わせないといけないから、休むにしてもその後だ。)

「医者には行きなよお。そんぐらいは時間とれるらあ。」

  (お医者さんに診て貰いなさいよ。そのくらいは時間取れるでしょ。)

あらゆる仕事において、最もやる気というか強迫観念をそそるのが納期・期限である。下請けに限らずこれを守る事が美徳とされる日本人の仕事の基本。であるが、「仕事を愉しむ」とはかけ離れてるように思える。達成感があるからいいんだよという人もいるが、ひとつ終ればはいっ次っ!て感じの繰り返しで充実感はどこにあるんだろう、給与明細か?。目先ばかり追って先が見通せない長期的な展望を図る事が日本人は苦手だとしたら、その原因のひとつはこういう仕事振りにあるような気がしないでもない。

とにもかくにも、「体おやさんようにしんとかんにぃ。」これが一番基本。

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誰か作ってくんないいかなあ

ジュークボックスみたいな映画館。カラオケボックスみたいなのでもいいや。

カラオケ屋さんみたいな少人数で遊べる空間で、唄があるなら映画があってもいいじゃないか。個室ビデオと書くとなんか方向性を疑われてしまうが、ワンコイン500円くらいで、個室で観たい映画が自分の好きな時間に気の合う連中と観れるてえのもええじゃないか。映画いくらでなくてもカラオケ屋さんルールで時間制限・ドリンク勝負でもアリか。

デジタル化の恩恵はフィルムと違って使用劣化を抑えられて保管がし易いことにある。だから何回観ても平気でしょう多分。それこそDVD使ってもいいし。

スクリーンサイズは劇場と違って5~6人程度の部屋じゃあ比べようもない小ささになるけど、家で観るよりかはずっとデカいサイズで丁度映画館と家の中間になるのかな。音響が効いてりゃ結構観てる方は騙され易いからいけると思うんだけど。

映画サイズでなくちゃ伝わらない画というのがある。「黒部の太陽」も多分そういう映画なんだろうが、なにせ観てないので良く分からないが、とりあえずは黒澤作品群や私が好む娯楽作品の中で、ラフ・7月7日晴れみたいなでかい画と音でないとその真価が見えないものもある。家のテレビじゃつまんないんですわ。

最近シネコンがぼこぼこ全国的に出来てるけど、浜松はちょっと昔中央劇場というのがあって、そこはスクリーンが幾つかあって規模の小さいシネコンみたいな感じだった。最新の作品は勿論、昔は豪華三本立てと銘打ってそれなりに安く名作を観れた。「加藤隼戦闘隊」(他は忘れた)とか黒澤明シリーズとかいって「椿三十郎」・「生きる」・隠し砦の三悪人」。ビートルズの「ヤアヤアヤア・・・」・「ヘルプ」・「レットイットビー」とかを観れた。ハコがそれなりにデカイから採算がとれなかったんだろうけども、情報の少ない時代だったから今日は何見ようかと入り口で選んだりもしていてとりあえず行くということが結構あった。映画はその普遍性に価値があるのなら、最新作ばかりしか観れないというのはなんだかなあ・・という気がしてならない。

浜北にも今度シネコンできるそうだけどどう共存するのか見ものではあるが、商売繁盛最優先ならどのみち観たい昔の作品は無理そうだ。

どこぞの映画好きの金持ちが、道楽か慈善でやってもらうしかないのだろうけれど、繰り返しになるけどカラオケという唄の小部屋があるのなら映画の小部屋があってもええじゃないか。誰か作ってくれないかなあ。

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*いやったい

意味が二種類あってひとつは、「いやったい」共通語だと(いやらしい)という意味になる。しかし、「Hな」と言う意味ではなく、不愉快だ・不自然だ・わざとらしい・気持ち悪いという意味である。

もうひとつは厭という手前の感じで、得意じゃないとかどうも苦手の一歩手前とか気乗り(ヤル気)がしないとか渋々とかいった意味。嫌じゃないけどどうもねというような状況で使われる。共通語に直すと適当な言葉が想い浮かばないけれど「嫌っぽい」か?「気が重い」というのもニュアンスが近いには近い。

例文  普段人付き合いに無頓着なKさんと云う人から、思いもよらず戴き物をされていぶかる人達の会話。

「なんか知らんが、いやったいだよ。」

  (よく分からないけど、気味悪い。)

「なんでえ。どうしたでえ。」

  (どうかした?)

「いや、それがさ、Kさがさあなんか知らんが映画のただ券くれただよ。」

  (いやね、Kさんがどういう訳か映画のただ券をくれたんだ。)

「おおそりゃ珍しいこんもあるもんだの。Kさがあ、くれたあ、おめえにぃ。」

  (へー、それはまた珍しいねえ。Kさんが君にねえ。)

「だらぁ?そんなこん今までしたこともありもしんに、なんで急にあいそいーだか。ホントいやったいと思わん?」

  (だろう?今までこんな事なかったのに、どうして急に愛想よくなって・・・。なんとなく不気味なの分かるでしょ?。)

「思う思う、そりゃ確かにっ。なんか後ろめたいこんでもあるだかねー。」

  (確かにそうだよね。何か後ろめたい事でもあるのかねえ。)

「そう思うらー?でも思い当たる節んないだよぉこれが。」

  (そう思えるでしょ?だけど心当たりがないんだ、これが。)

初志貫徹。いつもと違うと周囲の人間は気になるものである。しかもどちらかというと人付き合いの基本として悪い方(気をつけないといけない事)をまず先に想定するから、無神経な親切心が仇になることもあるというお話。どうも・結構な・ありがとう等の言葉の裏読みの機敏に長けるには場慣れが必要でしんどい話しである。そういうことに疲れたら陰で悪口言って憂さ晴らしってとこでしょうか。悪口言われない人なんて、この世に一人もいないんでしょうね。

突き詰めると、いやったい話です。

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*はざす

はぜる(爆ぜる)何かがはじけて飛び散るという意味で当然はぜるは共通語であるが、「はざす」、はじけさせるという表現は遠州独特なのであろうか?他の地域の衆らとは交流がないのでわかりません。んが、多分方言なんでしょう。

「風船はざす。」(風船を割る。)

はぜるというニュアンスは、内部が膨張・増殖して外の殻というか包んでいるものを壊す感じがするもので、針などで外からの外圧によって壊れるイメージに使うものではない。「風船がはぜる」ということだと空気入れすぎてとか力任せに押しつぶし中の空気の行き場がなくなってといった感覚の理由でで割れたと受け取られる。

例文1

「こないださあ、やかんけっからかいちゃってやー、ふんでど熱い湯足んひっかかっちゃって、もーほんと馬鹿熱かっただよー。」

  (この間ね、やかんにけつまずいて、それで足にお湯がひっかかって物凄く熱かった。)

「そりゃまた難儀なこって。で、足は大丈夫だっただけ?」

  (それはまた災難だったねえ、足は大丈夫なの?)

「熱かったよー勿論。ほいでも医者行くほどでもなかったんでほっぽらかいといただよ。2・3日したら水ぶくれ出来とったもんでえ、ぷくっとしててちいと歩きにくかったもんで針刺してはざしたしただよ。ほいたら水ん出て大分楽んなった。」

  (そりゃあ熱かったよ。それでも医者に行くほどでもないと思ってそのままにしてたんだ。2・3日たったら水ぶくれになってて、膨らんで少し歩きにくいので針を刺して潰したんだ。そうしたら水が出て大分楽になった。)

「ほうけー。そりゃよかったのーえ。でもはざすとかえって治り遅くならんかやー?知らんけど。」

  (そうそれはよかった。でも潰すと治るのが遅くなっちゃうんじゃないの?よく知らないけど。)

「とんじゃかねーよー。死にゃあせんもん。」

  (どうってことないよ。死ぬわけじゃないから。)

例文2

「うー憶えにゃかんこんばっかで頭はぜそうやー。」

  (うーん憶えなきゃいけないことばかりで頭が爆発しそうだ。)

「普段から頭使わんもんでそうなるだにい。常日頃感覚で生きんと頭つかいい。」

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かもめ食堂

忙しなく生き急いでる人が観たら、この映画の中で流れる時間の早さや使い方に癒されるだろうなと確かにそう思えます。急いでる自覚の無い人がこの映画を観て、振り返るほどではないにしろ、立ち止まって一息いれる感覚を感じたとしたら、多分それは無意識に急いている証明なのかもしれません。

2005年つい最近の作品です。脚本・監督は荻上直子さん 原作は群ようこさん 出演は小林聡美さん・片桐はいりさん・もたいまさこさん・ 他フィンランドの皆さん

タイトルの、かもめ食堂 ruokala lokki となっているんですがかもめ食堂はともかく次が読めません。なんて読めばいいのやら。劇中のアタマでフィンランドの方の会話の中で言ってるんですがよくわかりません。

お話しに関しては何も言う事はありません。別にネタバレだとかひねりが効いてるから書いてしまっては興ざめしてしまうという事ではなくて、刮目しないで見よって感じですかねえ。プールの中で泳ぐのではなく水の上にプカリプカリと浮いてただなんとなくお空を見てるそれが意味も無く気持ちいいという具合でしょうか。

キャラクターというかキャスティングの勝利の映画でもある風に感じます。小林さん効いてます。もたいさんが入って一瞬やっぱり猫が好きをイメージしてしまいがちになりそうにもなったんですが、いい意味で独特の空気感を持ち込んでる感じがして悪い気はしないです。もたいさんの泰然自若とした姿勢と歩き方、小林さん独特の間、片桐さんの急いた感じ、バランスがいいんでしょうね。

画的にも、最近のキャメラが横着こいてスパンスパン切り替わる映像と違って、極めて落ち着いています。けれんが無い分役者力が要求される画ですからもたいさんの不気味さは重要です。

勿論単なる癒しを追求した作品と言う事ではなく、(家族を含めた)誰かの為に生きているのではなく、自分のために生きている様を描いている訳ですから、それなりの人生のあり方を問うているという部分もあるのでしょうが、そのことについては私なりに考えてしまうこともあって長くなるので別に改めて。

私は今のところは急いてないようなので、15秒CMのほうで充分かなって感じですけど、生きてく上でなんかあったら薬箱の常備薬として使いたい映画です。絆創膏や消毒薬というより、効いてるのか効いてないのかなんかよくわかんない漢方薬(馬鹿にはしてません)って感じですか。じわじわとなんとなく。

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かもめ食堂2

映画のかもめ食堂を観て、映画の感想とは全く別の考えがおきてしまった。主人公達の生き方を通して、いい生き様とは何かという問いに対する答えのひとつをさりげなくこの映画は提示しているようにも思えたからです。それに影響されたというか、まあそのー以下の文章は映画とは全然関係ない話で尚且つ訳わかんない文章になってると思いますが、私の心象ラフ文なのでこんなもんでしょう。

生き方の憧れとしてお金に煩わされる事なく生きてみたい。何のためにお金を稼ぐのか。お金が人生の最大・最終目的では恥ずかしい。

自給自足で生きれるほど逞しくなく、楽をしたいからお金が欲しい。だからといってお金がなければなにも愉しめないというのはあまりにも視野が狭すぎる。それに第一、生き方を愉しむと言う事は遊ぶということではなく仕事や使命に没頭していても愉しむという表現を使ってもいいのではないか。

ある意味の理想の形として、若い内は、がむしゃらに好き嫌い得手不得手に関係なくひたすら我を殺して稼ぎお金と経験を貯める。質素に暮らせばなんとか死ぬまで生きていける額に到達したら、今までを振り返っていろんなことに挑戦してきた中から、(一度リセットして全く新しい道を探すのではなく今までの継続で)自分の好きなことを見つけ、経験を積み重ねた好きな事だけやる。損得を計算に入れずに生きがいの仕事だけ選んでく。

こういう生き方は他人を巻き込まない自分だけの世界観での話しである。独りで人生生きてることはないので、このような想いを理解してくれる様々なパートナーを探さなくてはならないのが非常に難しいし、それにそこまで貯まる頃には年金か退職金が貰える年齢になってしまっていて、現実的には絵空事の人生論なのかもしれない。それでももしそうなれたら、お金に振り回されないし生きてて愉しいかと聞かれても、まあまあと答えられそうでやはり憧れではある。が、社会の歯車として生きてくには規格外で周りから受け入れられにくい。かもめ食堂の彼女たちのように異邦人にならないといけないのだろうか。

現実には、愛するものを守り育む。そのためにお金がいる。だからストレスを感じても働く。つまり何かの為に自己犠牲でお金を稼ぐ。例え生きてる内の殆どの時間がそれに費やされても。報われる実感が乏しくとも。

殆どの人は「我が子」をその対象としている。動物界の摂理に基づいた至極正論の生き様であろう。そして、お金に余裕を持てばその対象を増やす事ができる。車・家・数々の収集品。お金が無ければ維持できないものばかり。これを欲と称することも出来なくはないが、なにも愛せない人間よりも遥かに色んな意味で豊かな感じがする。

でも、あるときふと「自分はなにしてるんだ?」と我に返るような疑問を持つと、自分を納得させられるだけの答えが見つけられらないし、将来に対しての漠然とした不安を打ち消す理由も考え出そうと迷宮に入り込んでしまう。過去を振り返ってみても将来のヒントすらない。

でも悪い事ばかりでなく、こういう答えようの無いことには無力だけれども、自分の為に生きている人に比べて、結構何かの為に生きている人は、色んな外的な障害にたいしては逃げないというか自己犠牲が基で生きてきている経験値の豊富さから苦と感じる神経が使いすぎて鈍くなっていて、案外立ち向かえる下地が養われている利点があって、これは大きい。

自分の為に生きるのか誰かの為に生きるのか、どっちがいいのかというとどっちもどっちのような気がする。バランスを上手くとってこの中間で生きていく事が賢い選択なのかもしれないが、そんな上手い事生きてる人間あまり見たことがない。

お金に頼らないとなると色々と自分でやらなくてはいけないことが多くて明日のことを考えると大変で、お金に頼るとなれば使う為に稼ぐ事は心ならずもでしんどい事が重くて心が大変で。自分の為だと困難や障害に弱く、何かの為だと自分の存在価値に疑問を持つ。

結局やりたいことやってそれが金になって万々歳というのが一番だけれど、そんな単純なものなのだろうか。芸能人だろうが会社の社長だろうがホームレスだろうが皆、恒に何かを犠牲にしていかなければならない選択の連続で生きている事に変わりは無いような気がして、それが上手いか下手かの問題のような気がする。置かれている立場というよりも、むしろ大切にするなにかを一生ぶれることなしに持ち続ける事が重要なのかもしれない。お金や知識や尊敬があろうとなかろうと、ひとつの事に専念してその道を邁進してる人が最も輝いているのかもしれない。

そう考えると、ヲタクってもしかしたらある意味理想に近いのかしらん。一生続けばの話だけど。でも方向性が自分と合わないとなんかお近づきになりたくないし、合えば合ったで衝突や批判めいたら攻撃的になる人は迷惑だし、他人から見て憧れの対象になってるとは思えないし。

ま、要はその道のプロが一番ということなのか。あわよくば第一人者にと。「好きこそ物の上手なれ」好きな事をやっていれば他人から見て苦労で大変そうに見えることでも、本人にとって見ればそうでもないって事が多い。楽しいかどうかではなくて苦に思うかどうかの違いなんだろうけどもその違いは大きい。迷わず突き進む道を持ってる人が一番本人にとっても他人にとっても必要とされる生き方なのだろうか。道の数だけ一番がある。そう信じたいものである。

じゃあ自分にぶれない大切なものがあったかと振り返ってみると、これがまたブレブレでしかも分かってないんだよなこれが。本当困ったもんだ。しかももう遅いし。

ま、我が身はともかく、かもめ食堂の3人はここが終着点になるのだろうか。少なくとも心がガス欠の状態でここに集い始まる物語。心が満タンになった時どうなるんでしょうか。変わらないとしたら凄いことです。

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*ええだかいやー

共通語だと(いいのかなあ)にあたる。

何度も書いているが、遠州人は都会で使われなくなった言葉を後生大事に使ってる部族とはいえ、よそいきの言葉と普段着の言葉使いは使い分けているつもりで普段生きている。唯共通語と方言の境界線の概念が他の部族の衆らに比べて非常に曖昧(ええかげん)で、他所に行って本人共通語だと思って話していたら実はモロ遠州弁だったと言うことは本当に良くある事なのである。決してウケ狙いではないので、笑われたり聞き返されたりされると、それなりにショックである。開き直ってウケ狙いに走ろうと思っても、いかんせん言葉が汚いので人格というか人柄を誤解されることになりがちで損である。

「じゃどうすりゃあええだ」とあだける手もあるが、実は密かに進行している遠州弁普及計画が存在している。それは、遠州での外国人居住率の多さにある。彼らが遠州弁を生活の中で吸収し、いつしか母国に戻っていった時知ってる日本語は遠州弁になるのである。ハワイやブラジルの日系の人達は美しい日本語だった頃の言葉を今でも継承されていると以前ニュースで見たことがあるが、今の時代、三河・遠州に日系ブラジルの方を含め多くの外国から労働者として来日されてる方が集中しているから、数年後には欧米を除く海外において通じる日常の日本語は三河・遠州ちゃんぽん弁に・・・・。日本人って海外から流れてくるものに弱いからまずは外堀から着々と

って、「ええだかいやー」そんでホントに。

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伏字の表記

伏字の表記の仕方として、×を使う事がある。これだと私には本来生きてる言葉を×つまり駄目と否定するような感覚になってしまう。

なので、私は、「臭いものには蓋をしろ」みたいに、伏せる場合には○を使うようにしている。臭かろうが日向には出せないものだろうが、生きている言葉を否定するのはホント気が引けるし、生きてく上ではきれいなものばかりで済むはずも無く、臭いものにも存在価値がある筈だと思うので、○い蓋でとりあえず隠すことがいいんじゃないかと勝手に思っている。

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*かあばる

「緊張して顔がかあばる。」

  (緊張して顔がこわばる。)こわばるを漢字で書くと「強張る」。

というような、こわばる→かわばる→かあばるの変形なのかそれとも

「手え糊んついちゃってなんかエラクかあばる。」

  (手に糊が付いちゃってなんかやけに乾燥したみたいに硬くなってる。)

という皮張るという皮(皮膚)が張りついたたように硬くなる様に限定された遠州弁独特の言葉なのか判断が微妙。変化は、皮張る→かわばる→かあばると予想されるが当然確かではない。

ちなみに(こわばる)の共通語の意味は、本来柔らかいものが難くつっぱたようになること。

(ご飯がこわばる)・「ご飯がこわい」というように、遠州弁では「こわい」が同じ意味で使われるのであるが、こわい→かわい→かあいとは変形しないのでやはり「かあばる」はこわばるの変形した言葉なのだろうか。そして人に対してのみ使われる言葉なのだろうか。確かに「顔がこわい」とは使わないしなあ。実際「顔んこわいわ」っていけしゃあしゃあとぬかいたら、自分に言われたと勘違いした人に絶対ぶっさぐられる。やっぱ「顔んかあばるわ」だよなあ。ホントよーわかりません。まあとにかく「かあばる」は皮膚がつっぱる感じを表現する言葉であるよということである。

例文

「握り飯喰ったら手えかあばっちゃってえ。」

「やあばかっつら。だからつって人の服で拭くじゃねえ。」

「まあそうゆわすとを。いいじゃんちっとばか。」

「よかねえわ。」

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To be

To be

このあいさに「n」がもし挿入されたら・・・

いえねえいえねえとてもじゃないけど、いえねえ

九州の福岡辺りで「○ボ・ブラジル」と叫ぶようなもんだ。

くれぐれも静岡県の西部地域では使わぬように。

この言葉が器を指すのか行為を指すのかは曖昧模糊としている。

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単純になまる

独特な意味合いを持つのではなく、唯単純に言い易くするために変形する(つまり訛る)言葉の例。

いばる(威張る)→えばる

うごく(動く)→いごく

おごる(奢る)→おもる

てつだう(手伝う)→てんだう

みえる(見える)→めえる

ゆうべ(夕べ)→ゆんべ

だしとく(出しとく)→だいとく

かるい(軽い)→かんるい

すごくおもい(凄く重い)→どんもい(弩重い)

かえる(返る)→かある

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深津さんの昔のCM(ダイアモンドエンゲージリング)

独り暮らしの女性がベッドに寝っ転がって天井に向けて左の手を掲げて指先を嬉しそうに眺めている。回想シーンに切り替わってとある公園を彼氏と彼氏のちょっと後ろを可愛くついて歩いている彼女。そこで彼から差し出されたのはエンゲージリング。情景が部屋に戻って、一通り思い返し指輪を暫し眺めた後「ィヤッホー!」と叫んで掛けていた布団を猫キックしてはしゃぐ彼女。その時電話が鳴って我に戻り普段のよそいきの自分に戻って電話を取って「もしもし・・・」

初めて見たとき、シミソバカスも見えちゃうくらいのほぼすっぴんに見えて、ある意味裸見せるより勇気のあることするなあ、でも物凄く素直で可愛らしく映っていてしかも物語性があってと、イメージ・インパクト共に強く残った印象がありました。

というイメージで記憶してたんですが、とある映画を録画した際にこのCMゲットして改めて見直してみると、まあ全体のストーリーは記憶どおりだったんですが、最初左手掲げてないしメイクもノーマルだし、ホント記憶なんていい加減なものなんですかねえ。もしかしたら別バージョンなんでしょうか。ちなみに録画してたのは30秒CMでした。何年かははっきりしないんですが98年に日産がルマンで勝ったと宣伝してるCMも入っていたんで多分そこら辺りでしょう。

でもやはり、今見てもいいCMだと感じます。うちづら(内面)とそとづら(外面)の切り替わりも厭味がないし、深津絵里さんの役者力を感じます。

他には2003年頃のDIONのミュージカル風のCMもお気に入りです。グリコのトマトプリッツのCMも何故か録画されたものに入っててラッキーだったんですが、アミューズの公式サイトには載ってないのでいつの作品なのかはわかりません。内容についてはW浅野のイメージを深津さんが演じたという感じでこれは正直(?)という印象の作品です。インテルのCMは有名らしいんですが浜松のような田舎には流れてきません。

Fukatu1

Fukatu2 Fukatu3Fukatu5

Hukatu4

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*こさえる

「こさえる。」拵える(こしらえる)

「子供こさえる。」(子供をつくる)

「犬小屋こさえただでそっち連れてってくんない。」

  (犬小屋をこしらえたから、そっちに連れていってくれないか。)

辞書にもきちんと載ってるので遠州弁ではないのですが、(こしらえる)はほとんど使わず、(こさえる)をよく使うのと、発音が非常に遠州弁っぽいので(こしらえる)がよそいきの言葉で「こさえる」が身内使いの方言という認識になってるのだと思いますが、これについては、普通の(こさえる)の使い方を他府県の人々に聞かないと遠州独特なのかどうかは分かりません。

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