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市川昆物語

DVD-Rを買いに行ったついでに新作DVDを見たら発売されていた。知らなかった。発売日がということではなく、こういう映画があったことすら。

帯に「映画を愛する凡ての人に贈る」と謳われていて、おお!凡人たる自分に宛てたものなのかと納得して財政難にも拘らず衝動買いしてしまいました。ま、最も「すべて」が一般的に「全て」と表記されだしたのは最近のことなので、そうゆう意味ではないと判ってはいるんですけど。

2006年公開 岩井俊二監督作品。

新作というかまだ商品として生きているので、私ごときの偏った目線で細かく内容や感想を書いて汚してしまってはいけないので注意したいとは思ってるんですがもしかしたら無理かもしれませんのでそのときはご容赦願います。

金田一以降しかリアルを知らない私にとって、映画全盛期の頃の市川作品群は初めて知ったも同然で、この時代に青春時代でいれたらなあと思いました。ほんの少しづつしか見れないんですけど、どの役者さんも凄く生き生きしていてしかも大仰さがなくてホント上手いなあと感じます。しかも熱いというか確かに生きてる温度を感じます。(戦後すぐの作品は外国映画の模倣みたいな印象がして好きではないんですが)

最近のお芝居は、たとえ市川昆作品であってもなんか仰々しい感じが拭えなくて、大きく息を吸い込んで「よっしゃあ」と気合を入れたインパクト重視のものか、最初から最後まで「ボソボソ」と抑揚のないリアル感重視のものか、の二方向にわかれていて、映画全盛期と呼ばれた頃の、決めるところは決める抑える所は抑えるみたいな抑揚のあるというか幅のあるお芝居は影を潜めてしまっているような気がしました。あの頃は映画専門・舞台専門と役者さんがはっきり分かれていて、今のように、舞台的なお芝居が混ざっていない映画のお芝居だけで作られていた時代だったのでしょうか。

映画全体は客観性というよりも岩井さんの感想文を読んでる感じがします。でもなんか豪華です。細かいとこにも手が入っていて、空白というか、間も心地いい感じです。82分が何故か短く感じられる位引き込まれました。なんででしょうかねえ、よくわかりません。

監督が敬愛する監督を描くと言うことでは、新藤兼人監督の「ある映画監督の生涯」と言う作品を想い浮かべるのですが、人間を描き出そうとしているのと、純粋に作家としての部分を描いているのと目線が明らかに異なるので比べる意味はないような気がします。

まだ映像特典見てないんですが、市川昆作品を美しいと感じる私としては買って良かったと満足です。なんですが、映画館で興行として成功するの?と心配にはなりますが、「一般的」な全ての人にではなく「映画を愛する」凡ての人に贈るという言葉は言い得て妙だと納得しました。

あと本当に個人的な感覚なんですが、押井守作品を観てるような空気感を覚えてしまいました。

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*どんまい

うまい<どうまい<どんまいと変化する。

他には、うまい<馬鹿うまいと言う変化もある。

共通語的には、「ドンマイ」は野球などでミスをした人間にむかっていうセリフであるが、遠州弁の「どんまい」は物凄く上手い((美味しいもある)という意味である。

野球の観戦などで、ファインプレーをしたにも関わらずどんまいどんまいと騒いでる奴がいたら、そいつは遠州人である。

レストランでお店の人に料理の感想を聞かれてどんまいどんまいと答えたとしても決して次頑張ろうといってる訳ではない。

アクセントは共通語はDOnmaiだが遠州弁ではdonMAiとなる。無論共通語のドンマイも遠州人は使う。

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*いすけー・いんよー

いすけー・いすかー・いんよー・いんに・いんら

共通語にどう直していいのか判らないので例文からニュアンスを感じ取ってもらえれば、これ幸い。

例文

「はあ誰もいんよー。辛いやー。」

  (もう誰もいないよー。困っちゃうな。)

「はあ誰もいすけー。当然だら。」

  (いるわけないだろう。当然だよ。)

「まだ書いちゃいんよー。」

  (まだ書いてないんだけど。)

「そんなもん買う人いんに。」

  (そんなもの買う人いないよ。)

「そんなん買う人いんら。}

  (そんなの買う人いないでしょう。)

「いすけー」と「いすかー」は意味がほぼ同じなので使う人の好みによる。

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*ぶしょい

「ぶしょったい」という言葉が方言だとは知らなんだ。ということは東京みたいな人ががんこいるとこで、「ぶしょったい」と叫んで振り向く人がいれば、それが静岡県人だと判断するに充分な見分け方になるということか。

つーこたあ当然「ぶしょい」も遠州弁なのか。

だらしない・不精という意味であるが元は多分不精が変形したものと想像できる。その他には、似合わない・格好悪いという意味を含む場合もある。

見分け方話しの続きだが、「ぶしょったい」は静岡県全域で通用するし、もしかしたら三河・甲府の衆らも使ってるかもしれないので、遠州人かどうかを判断するには「やー、馬鹿ぶしょったい。」又は「やーどぶしょい格好しとるじゃねーよ。」といえば限定できる。・・・かもしれない。

使用例1

洋服売り場で試着をしてる時の会話

「この服どう?」

「ぶしょったい。」

この場合だらしないというよりも、似合わないという意味合いになる。ただしここまで言い切るとなると物凄い勇気が必要である。こういう場で使うとセンスがないと暗に言ってることになるからである。

もっと強烈な表現は「うー どぶしょい。馬ぁ鹿ぶしょったい。」となるが現実的にはこっちの方が使われてるような気がしないでもない。「ぶしょったい」と冷たく言い放つよりも柔らかく聞こえるからであろうか。

使用例2

「ほれあんた、はあじきにお客さんみえるだで、そんなぶしょったい格好いつまでもしてちゃかん。ちゃっと着替えんと。」

  (ほらあ、もうすぐお客さんおみえになるんだから、いつまでもだらしない格好してないで、すぐ着替えなさい。)

「どこんぶしょいだあ。ぶしょくありもへんに。」

  (どこがだらしないよ。だらしなくなんかない。)

「ぶしょったい」と「ぶしょい」の使い分けは言葉の意味が同じなので、明確にはない。

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人の振り見て我が振り直せ

本来の使い方としては、他人の厭な所や良くない行いなどを見て、自分もそうなっていないだろうか、もしそうであるならば注意しなければ、と自身を諌める。

つまり、ああはなりたくないみたいな反面教師的な意味合いでしょう。ですから、「尊敬や憧憬する人の振りみて我が振り直せ」という意味合いの使い方には少し違和感を感じます。

しかし役者さんのような特殊な職種の人にとっては、違和感のある使い方も存在していいのかもしれません。

話しは大きく跳ぶのですが、最近、場を和ませる手段として、モノマネがよく行われるらしい。モノマネはその人の特徴を掴んである程度誇張して表現されるものですが、する方見る方は楽しいけれども、される方は殆どが厭な想いを持つ場合が多いのではないでしょうか。

それはやはり特徴と言うものが、人と大きく異なる部分であり、場合によってはコンプレックスを抱いている部分若しくは、近い部分だからでしょう。

だから、モノマネは諸刃の刃であって全ての人を愉しませる行為とは限らないような気がします。

では、お芝居の世界はどうなのでしょうか。見る側が役者さんの上手い下手を感じ分ける点はいくつかあると思いますが、その人になりきる度合いの量・深さが判断とする部分もあると思います。したがって役作りというもが非常にモノマネに近い作業なのかもしれません。

しかし、モノマネと決定的に違う事は、その存在感にリアル感を付け加える事が重要な事であって、必ずしもその人本人に見えなくちゃいけない訳ではないということでしょう。実在の人物を演じるにしても、顔形や癖・物言いといった外に出る部分が似ている事よりも、信念・思想・生き様といった内に秘めた部分がらしく見えなければ、物語を紡いでいく上で、こういう人だからこういう行動や決断・判断をするんだと言う説得力を感じられないのではないでしょうか。

例えば、ピアニストなのにどうみても上手そうにみえないと、それだけで物語全体説得力がなくなります。実際に弾けるまで練習して撮影に臨むと言う手もありますが、弾けなくとも実際に音を出していなくても、この音でこの感情・感覚を表現するんだという意思や感情が映像の中に映し出されていれば良いわけですから、本来見える筈の無い内面が重要な事だと思います。

いずれにせよ、モノマネが外面を、お芝居が内面と、それぞれ異なる着眼点から発せられるものだとしても、うわっつらだけ視て表現するのではなく、表に現われる行動や言動の源となる内面までをも見通す目が演じる職業の方には必要な資質だと思います。

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プロポーズ大作戦の終り方

至極全うな正攻法の終り方でありました。でも後が大変だなと思います。多田さんの精神的ダメージを考えると大丈夫かなトラウマにならなきゃいいけど。

私が考えてた意外性の希望では

①今に戻った時健と多田さんが入れ替わっている

②新郎新婦がツルとエリになっている

③礼のご両親が土壇場でこの結婚に異を唱える

①の場合は過去においてやり直せているということになる。身も蓋も無いことを言ってしまえば、最初のタイムスリップで「甲子園に連れてって行けなくてゴメン。小さい頃に一生面倒見ますからって言った癖に礼になにも叶えてあげられないのかなあ・・」ぐらいのことをいっておけばなんとかなったような気がするんですが、まあそんな甘い現実ではないでしょうし、ここはやはり10話・11話でないと意味ないような気がするのでそれに限定してということで。なんですが、流石にここまで話しが進んでいると無理ばかりなので①案はやはりありえませんよねやはり。

②の場合は、やり直す事はできなかったにしてもそれに派生して、ツルとエリの関係性を大きく変えたわけだから、多田さんとは痛み分けでとりあえず延期成功で再びスタートラインを確保し、今後の奮闘に期待。

身も蓋も無い話しでいけば、小学校の鉄棒のところで、やり直しのスピーチで言ったような事を礼に伝える。心が動いた礼が、始まりに戻ろうと思ったのか鉄棒でグライダーを試みて失敗し怪我をしてしまい結婚式が延期にならざるをえなくなったが、キャンセルはもったいないということで、急遽ツルとエリの式を挙げちゃえという話しにしてしまう。若しくは幹夫と彼女の結婚式でもまあいいか。今に戻るタイミングとしては、礼が鉄棒から飛び立つ瞬間に陽の光が健に当たって着地の前に戻る。戻ってまず目に飛び込んできた光景が、ツルとエリが新郎新婦として正面に並んでる。状況が理解できてない健のところに幹雄が近づいてきて「あのあと色々あって大変だったんだぞ・・・」とその後の顛末を語る、経緯を理解して自分たちの席を振り返るとそこには、足にギブスをして座ってる礼がいた。そこでなにか機の利いた会話が続く・・・・・てな具合でいかがでしょう。

③はあまりにも他力本願的なので、面白くもなんともありませんのでまずないでしょう。

あくまで意外性を追及しただけなので、ドラマを否定するものではありません。ただ実際のドラマのエンディングを観て、某洋画のエンディングを思い出したので、日本的にはこうなるのかなあと比べてしまった瞬間はありました。

それでも、「明日やろうは馬鹿野郎」等ナレーション部分も含めていい言葉が多かったし三上博史さんも観れたし、五人の仲良し感もよく出てたし、愉しめた月9でした。タイムスリップなしの今後を見たいとおもうのは、やはり野暮と言われてしまうんでしょうねえ。でも多田先生が気になる・・・。

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*おめーがやるだあれ

例文

とある作業においての作業員二人の会話。

「そんなきぜわしないこんだれんやるよー。」

    (そんな気忙しない事誰がやるって云うんだ?)

「おめーがやるだあれ。」

  (当然お前がやるの。)

「やだよーぉ。」

  (やだよお。)

「やじゃあらすかぁ、やらんとかんだって。早くしんと時間なくなるにー。」

  (厭じゃないの!やらなくちゃいけないの!急がないと時間がないよ。)

「Kちゃなにやるよぉ、わしがそっちやるでkちゃやってやー。」

  (kちゃんは何をやるの?俺がそれやるからこれKちゃんやってよー。)

「馬鹿こいちゃかんて、おめーこっちの仕事できもしんに。」

  (冗談いうなよ。お前じゃこの仕事できないだろ?)

「~だあれ」には当然・当たり前という意味が含まれる。ある意味決定事項的な表現なので言われたことを履行しないと逃げたとみなされる。屁理屈で覆すには大変な労力がいる事が多い。

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なんだかなあ

人に迷惑を掛けなければなにやってもいい。

嘘だと思う。生まれる時に母親に苦痛を与え、生命を維持するために他の生き物を喰らい、自己の目的の為に他人と競う。

人間は生まれた時から迷惑を掛け続けていくものだと思う。

だから、自覚という覚悟を持って、迷惑を掛ける事に申し訳ないという気持ちを持たなければ、自分の見えない・知らない所で傷ついているモノに対して思いやりの心が生まれてこないのではないのだろうか。

相手を思いやるということは、目の届く範囲だけでは不充分な事が多い。だからと言ってその先を見通す力は人間には備わっていないのかもしれないが、とりあえず自分のすることが全て迷惑を掛けていると考えれば、そういう人間であっても生きている場所を与えてくれている現実に感謝する事が出来るような気がする。

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*あだける・ちんぷりかえる

「あたける」現代語の国語辞典に載っておらず古語辞典にのっているという言葉。それが変形して「あだける」となって遠州では現役で生きている言葉。古語辞典での意味は騒ぎ暴れる・乱暴する・当り散らすとなっている。ほぼ古語のまま生きてる。

何故変形したのかは定かではないが、暴れて服が乱れる様の「はだける」とが合体して「あだける」になったのかもしれない。あくまでしれないという突飛な想像である。

例文  なにかを止めさせようとしてる人と、止める気のない人との言い合い。

「あだけたって駄目だにー。はあ決まったこんだで かあらんでねー。」

  (わめいてもダメだよ。もう決まった事なんだから、変わることはないからね。)

「あだけてなんかいもしんに。ひとぎきのわるいこんゆーやー。そんなこんせる必要あるだかって言ってるだけじゃん。」

  (わめいてなんていないじゃないか。人聞きの悪いことをゆう奴だなあ。そんなことをする必要があるのかって聞いてるだけじゃないか。)

「なら机バンバンたたかんだっていいじゃんか。知らん衆見たらそう見えるに決まってるらー。」

  (だったら机叩かなくてもいいじゃないの。他の人から見たらそう見えるに決まってるでしょう。)

「他の衆のこんなんてどうだっていいだ。構わすけーとんじゃかねーわ。わしん言いたいんはなあ、そんなこんせんだってええっつってるらー?」

  (どう見えようが知ったこっちゃないわ。要はそんな事するなって言ってるの!)

「さっき聞いた。おんなしこん二回も言わんでもわかるっつーの。」

  (さっき聞いた。同じこと二回も言わなくてもわかるっていうの。)

「あだける」 怒りまくる・わめきちらす等のように、自分の意見が通らないような時に、論理的にではなく感情的にものを言ったり態度に表わす状態のことを指す時に使われることが多い。単純に「暴れる」というだけだと、今日の試合で「大暴れした」のような「どあだける・馬鹿あだける」みたいな表現は普通しないので意味の範囲は「暴れる」よりも狭いと思われる。まあ、ちゃぶ台返しがあだける状態であることに間違いはない。

近い言葉で「ちんぷりかえる」と言う言葉がある。意味は(すねる・ふくれっつらになる)で、状態としては口も利かない状況。精神状態比較でいけば、平常心<ちんぷりかえる<あだけると言った感覚であろうか。

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