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ゼロ戦燃ゆ

1984年作品 舛田利雄監督 柳田邦男原作 笠原和夫脚本 川北紘一特技監督

観に行く前に思ったのが、戦争を知らない世代以降の役者さんが中心を占める映画だあってことでした。無論皆さん私より年代が上なんですが、それ以前の作品は演出側も出演側も皆戦争体験をなにがしか持っているからこその想いが根底に映ってると感じていたのです。なので、出演される役者さんがどう表現されるんだろうという目線で観に行った記憶があります。(まあそれ以前にも海ゆかばとか二百三高地とかあったんですが、なにせ当時十代のガキだったんで色々と間違いが多かったんですよ。・・・今も直ってませんけど。)

そういう穿った目線で観たものだから、なんか粗探しをしに観に行ったようになってしまってあまり楽しめなかった記憶が残ってます。大分経ってレーザーディスクが出て見直して見たら結構面白いとこが見つかったので、やはり映画はなにも余計なこと考えないで白紙の頭で観た方が愉しめるんだと反省しました。

主役はゼロ戦で、デビューから終焉までのお話です。画的には紺碧の空と黄金色に輝く朝夕の焼け具合が美しいのですが、何故か離着陸のシーンの実写と特撮の繋がりが気になりました。他の撃墜炎上シーン等は映画のウソが素晴らしいので余計にそう思えてしまうのかもしれません。でも流石「川北紘一」作品と感じます。

そしてもう一人、主役がおられて、杉田上飛曹(役名濱田)のお話しでもあります。

撃墜数を誇るのは勿論として、編隊とういうか部隊としての戦闘において、無駄な損害を出さない優れた職人・統率者であられたそうです。

階級社会の弊害があって、いくら技能・経験値があっても、ぽっと出の尉官の指揮の元にはいらなければならない。知識・頭脳に優れても、技術・経験が圧倒的に不足する指揮官の元では下につくものは苦労させられる訳ですが、杉田上飛曹は上からも下からも一目置かれ頼りになる「おっかさ」的存在だったのでしょうか。まあこの作品に登場する尉官は優れた人ばかりですけど。

山本長官の護衛に失敗した(?)為に、その任に就いたものに海軍は、死に場所を与え続けてくれます。そうではなくラバウルでは皆同じ位過酷だったというお話しも聞いたことがありますが、映画ではそういう目線で描かれているような気がします。

戦場(いくさば)が変わり最後はほとんど不眠不休で、もしかしたら居眠り(極度の過労により意識がとんだ)ではなかったんじゃないか、つまり戦闘に於いてやられる人ではなかったと当時を知る方がそうおっしゃっておられたと、何かの記事で読んだ記憶があります。

人望が厚く、みんなから「杉さん」の愛称で親しまれていたそうですが、この映画では孤高の戦闘機乗りのように描かれていて、私としては、そういう親しみのある人柄を描いて欲しかったなあと思うところがあります。

音楽的には何故か軽快な感じがしてもっと重厚感がある方が私の好みです。

爆発音や機関銃の音は、日本映画の伝統を引き継いだかのような懐かしい音です。もうこれは決められた音なんでしょうか、どの邦画作品にも共通する効果音が使われています。

同じ戦闘機乗りを描いた作品としては「加藤隼戦闘隊」が有名ですが、実際の戦闘機を使っているとはいえ、「加藤隼戦闘隊」は人間を描くことに集中しているところが大きな違いでしょう。

「ゼロ戦燃ゆ」はゼロ戦と濱田上飛曹のダブル主演なのですが、個人的には、杉田上飛曹の人間ドラマに徹してくれた方が好物です。

余談ですが杉田上飛曹は、フルで書くと、杉田庄一上等飛行兵曹。最終階級は2階級特進で少尉となります。

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*うちんつれがさー

「うちんつれがさー」(ウチの連れがさー)

つまり、私の友達(知り合い)がねえ、と言う意味である。

例文

「前さー、おめーみたいっつってたマティスの絵。あれ先週から来週まで美術館で限定展示しとったじゃんかあ。はあ観いいっただか?」

  (以前から観たいって言ってたマティスの絵が美術館で先週から来週までの限定展示されてるけど。もう観に行った?)

「それがさー、まだ観ちゃあいんだよ。」

  (それがまだ観れてないんだ。)

「あれーどおしてー。お前のこんだでちゃっと観い行ったとばっか思ってたよー。」

  (え?どうして?お前のことだからすぐ観に行ったとばかり思ってたよ。)

「いけそうな日ん いちんちだけあっただけどやー。うちん連れがさー、遊びいかまいっつって誘ってくれたはいいだけどさー。そん日町内のどぶさらいの日でさー。さぼる訳にもいかへんもんで結局行けんかっただよ。忙しくてそれっきりいくときんない。」

  (行けそうな日が一日だけあったんだけどね。知り合いがね、一緒に行こうと誘ってくれたんだけど、その日が丁度町内のどぶ掃除の日と重なっちゃって、サボる訳にもいかず結局駄目で、それっきり忙しくて行ける日がない。)

「そんな仕事たてこんでるだか?休めれん。」

  (そんなに仕事忙しいの?休みはとれないの?。)

「まあの。静岡までいかすとなると半日仕事だでなかなかしんどいだよ。」

  (まあね。静岡まで行くとなると半日潰れるじゃん。結構大変なんだよ。)

「はよしんと終っちゃうにー。」

  (急がないと終っちゃうよ。)

美術館は浜松にもあるが静岡の県立美術館の方が、ロダンの常時展示されてる位、質が高い。映画館の数も含めて、浜松の文化水準は低い。政令指定都市になったからといって今後変わるようなことは期待が薄いような気がする。

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*ええころかげん

「ええころかげん」(いい加減)

勿論、「ええ加減」という使い方もあるが、「ええ加減にせろ!」(いい加減にしなさい!)を「ええころ加減にせろ!」というような表現はしないので、微妙に異なる。

「ええ加減」だと(どうでもいい・気持ちが入っていない)という意味を含むが、「ええころ加減」の場合はさじ加減や判断が甘い的な意味合いの方が強い。

「ええ加減」の強調形は「どいい加減・馬鹿ええ加減」となるが、「ええころ加減」の強調形は記憶にございません。しいて挙げれば「馬鹿かおんしゃあ」(馬鹿かお前は)でしょうか。

例文

勝手に早合点して、あることないこと言いふらそうとしてる者と、それを信じない者との会話。

「まあた ええころ加減なこんぬかしてえ、ほんと よーゆーわ。」

  (またあ、いい加減なこと言って、良くそんな事言うよね。感心しちゃうよ。)

「うそじゃあらすかー ほんとにい この目で見て来ただで うそじゃないって。」

  (違うって。実際この目で見てきたんだから、嘘じゃないって。)

「ほー、ほいじゃなによー、しげさー んとこの兄さがあれか?浮気しとるってか?」

  (ふーん、それじゃあなに?しげさんの兄貴が浮気してると言いたい訳?)

「そこまじゃあいっちゃいんけど、知らん娘と歩ってたのは確かに見ただよ。えらくなかよーめえたにー。」

  (そこまでは言ってないけど、知らない女の子と歩いてたのは確かに見た。とても親しげな感じに見えてたよ。)

「そりゃ おめえが知らんだけだらあ。あそこの嫁さんとこ確か姉妹ががんこおるっちゅう話しどこぞで耳にしたにー。」

  (そりゃあお前が知らないだけだろう。あそこの奥さん確か姉妹がたくさんいるってどこかで聞いたぞ。)

「え?そうなの?」

「そうだよー。あんまししょーもないこんでひゃーひゃー言ってそこらじゅうふいてまわったら迷惑んなるだで、言って回っちゃかんだでー。」

  (だからあ、根も葉もない話しでそこらじゅうに言いふらしたら迷惑掛かるんだから注意しなよ。)

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雨鱒の川 ファーストラブ

2004年 磯村一路監督作品 原作は川上健一さん

出演は敬称略で、玉木宏・綾瀬はるか・柄本明・星由里子・松岡俊介・伊藤歩・須賀健太・志田未来・阿部寛・中谷美紀・マギー

映画館では観てません。DVDで観てます。

綾瀬さんは、行定監督のショートフィルム、そして一本別の作品(手島領監督NEW HORIZON)を挟んだその後に磯村監督作品なのですから恵まれたスタートの方だと思います。しかもこの作品では手話を必要とする役ということで眼力というか演技力を必要とされる訳ですから、随分と始めからハードルを高めで飛ばすんだなあと思いました。(別に出来るんかい?と疑ってた訳ではありません)

玉木さんはWBの次に観た作品だったので、随分と印象が違っていて、ある意味「役者やのー」と思いました。

お話しは子供時代と大人になった時のと二つのストーリーの組み合わせによって紡がれてゆきます。役名で書くと判りづらいので、役者さんのお名前で話しを進めます。

子供時代は須賀健太さん(心平)と志田未来さん(小百合)。心平の母親役で中谷美紀さん。成長した二人を玉木宏さんと綾瀬はるかさんが演じ、両方の世界を繋ぐのが綾瀬さん(志田さん)の父親役の阿部寛さんと釣りのじいちゃんの柄本明さんです。松岡さんや伊藤さんも子役からの引継いだ役ですがいい味でてます。

須賀健太さん・志田未来さんという今のネームバリューを考えると豪華なんですが、2004年当時はただの(?)上手い子役というイメージでしかありませんでした。というかゲームの「ぼくの夏休み」を連想させます。ある意味羨ましい子供時代だと思ってしまいます。不謹慎なんですが、「ぼくの夏休み」の実写版という見方も出来てそれはこれで面白いお話として成立してます。子供には子供だけの世界が存在していてそれがきちんと存在しているのが好きです。

しかしそれよりもやはり中谷美紀さんが輝いてます。大地と共に生きるたくましい「おかあちゃん」をリアルに表現されています。観る前は、たくましく生きる「おっかさ」はTVで見る中谷さんのイメージとは繋がらなかったんですが、映画の中ではなにも違和感を感じず、自然に見えました。やっぱし役者さんと呼ばれるひとは凄いです。息子に対しては太陽のようで、集落の人達に接するときは大地のようです。

子供の世界では、心平が小百合を引っ張っていくような関係でしたが、大人の世界になってからは何故かその関係が逆転したように感じられます。女性の方が早くに大人になるという事なんでしょうか。しかしなんかあまりの変わり様に同じ人間?という疑問が生じたのは確かです。まあ最後に男を見せるんだからそれで帳消しになってるのかもしれませんけど。

この映画の見所は、子供の頃に住んでいた広い大地にぽつんと佇む狭いながらも楽しい我が家でしょう。共演というか主演というかメインが玉木さんと綾瀬さんになってますが、私には須賀さん・中谷さん・志田さんがメインの映画に見えます。大人になってその想いが実るという意味で物語的にいちゃもんつけるようなとこはないのですが、エンディング間際の逃避行のシーン群はやけに長く感じました。

個人的には蛇足とは判っているんですが、二人の安寧が始まって小百合がたくましい母親になるとこまで見てみたかったです。母親が大好きだった心平にとって小百合がそうなってくれることは幸せなことだし、小百合にとっても障害を持つが故に恒に守られる側であったことから、守る側になっているということも見ておきたいです。エンディングをひっぱらなくても、映画の冒頭で久し振りの里帰りかなにかで、廃墟となった心平の家に親子三人で佇む所から始まってもええじゃないか。でもそうすると、「心を癒すピュアな初恋」を描く映画じゃなくなるか・・・。

そんなこと自分の想像力で思い描けと言われればそれまでなんですが、なにせそういう力も弱いんで、きちんと見せてもらわんと落ち着かんだよね。この二人の生活力を考えちゃうと、ちゃんとその後もしっかり生きてるとこ見ておかないと不安が拭い去れないんですよ。

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*なによーはあ飽いただか?

おっとさが帰ってきて、息子が見たこともないおもちゃで遊んでるのを見ての夫婦の会話。

「ただいまー。」

「おかえりー。」

「あれえ、なんでえ。太郎見たこんないおもちゃで遊んでるじゃん。」

  (あれ?どうして?太郎見たことないおもちゃで遊んでる。)

「そーなのよ。こないだのおもちゃ、はあ飽いたらしくてえ、別のおもちゃ買ってってどうるさくするもんで、しょーないもんで買ったただよー。」

  (そうなのよ。この間買った奴、もう飽きちゃったらしくて他の買ってってせがむもんだから。しょうがなく新しいの買ったの。)

「なんでえはあ飽いただか?しょんねえの。誰に似ただか飽きっぽいやっちゃのー。」

  (なんだよもう飽きちゃったのかよー。しょうがない奴だなあ。誰に似たのかしらないが飽きっぽい奴だ。)

「ほんと誰に似ただかねー。」

「のー。」

「ねー。」

「・・・・お前だっつーに。」

「いやいやいやあんただっつーに。」

「はあ飽いただか」には、あきれ返るという意味合いも含む。

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*いらんこん

「いらんこん」(余計なお世話)

「いらぬこと」が訛って「いらんこん」となったのだと推測される。男女共有の表現。

これに「じゃんねー」をつけると「余計なお世話だよねー」となって同意を求めてる感じになる。

「いらんこんじゃん」だと「余計なお世話だよ」とぶーたれてる感じになる。

「いらんこんゆーじゃねー」だと(余計なこと言うな)

「いらんこんせるじゃねー」だと(構うな・手を出すな)

「余計なお世話」という場合大抵は「いらんこんじゃん」と「じゃん」を使う。「だら」でも違和感はないがやはり「じゃん」であろう。「だに」・「らあ」とかでは違和感を感じる。

例文

ある人に余計な事を言ってしまった故に、言われた人が気分を害して席を立っていってしまった後の残された人同士の会話。

「なに?わし、いらんこんゆった?」

  (え?なんか余計なこと言った?)

「ふんだだこたあないけど。間あ悪いんは確かだに。」

  (そんなことはないけど、間が悪いのは確かだよ。)

「なんでえ、ほいじゃいつんだったら良かったでー。」

    (なによ、それじゃあ何時だったら良かったの?)

「そうだいねー。もうちっとしたら課長帰ってくるだで、そんときのほうが良かっただかもしんない。」

  (そうだなあ、もう少ししたら課長が帰ってくるから、その時の方が良かったのかもしれないね。)

「はあ遅いしー。もうゆうたったもん。どうせるねー。」

  (言っちゃったから、もう手遅れだよ。どうしよう。)

「ま、それもなんしょ課長に報告しとくだの。」

  (ま、それも含めて課長に報告するしかないね。)

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日本のいちばん長い日

1967年 岡本喜八監督 東宝創立35周年記念作品だそうです。

初めてみたのは、TVです。毎年終戦記念日近くになると、戦争を題材とした作品が見れた頃です。今も戦争の記憶を忘れないようにと、各TV局創意工夫の特番を見ることができますが、最近は映画を放映することが少なくなったというかなくなったというか。

この作品から受けた強い印象は、なにせ子供の頃だったので、自分が大人になった時はたしてこんな大業を成せる人間になれるんだろうかと、確固たる不安を抱いたことです。歳を喰ってその不安は、大業を成す地位に縁のない人生を送る事が出来ているので、的中することがなく、ある意味幸せではあります。

お話しの内容は、昭和20年8月15日の大東亜戦争終結の瞬間に至るまでに起こった、8月14日正午からの24時間の中の様々な人間が生み出すうねりを描いています。

戦争と言う狂気の中ではありますが、出てくる人全て、自分の正義という信念を持って行動しています。それが正しい事なのかどうかは見る側の判断に委ねる形で、ひたすらドキュメンタリーのように作り手の判断を押し殺したかのような、それでいて狙った獲物を逃がさないというような鋭い視線を感じます。

その後に生きてる私たちは結果どうなったのかは知っています。でもただポツダム宣言を受諾して戦争が終ったとしか知りません。結果に至るまでの経過をこの映画では教えてくれます。100%真実ではないにしても本当にあったことだと思っています。

もし、これが映画なんだから面白ければ事実と異なっていても構やしないということで作られているのであるならば、私は間違った歴史認識をしているということになります。

この作品では、天皇のご聖断という大きな流れによって動いていくわけですが、普段の世の中は一部の権力者達が動かすものではなく、人力ではないもっと大きい流れというものが存在していて、それに対して武力・政治力・人物の器力などで抗っても組しても、ただ粛々と流れて行くものでしょうか。虚しさを感じているのではなく自身が最善を尽くして事を成している人達の行動が集合体となって大きな流れを作り上げているのでしょう。自分の思い通りに世の中が動いてると思ってる人は一人もいないのかもしれません。ただその大きな流れの方向性を決める要因の一部を担っているだけなのでしょうか。

だとしたら功なり名を上げても、功なく名もなき人間であっても、生きてる満腹感はそうたいして変わらないともいえるのですが、こういう場所(地位)にいなければ人生良く生きたと満足感を味わうことはできないですから、やはり器の大きい人間には憧れます。

無条件降伏という異様な状況とはいえ、挙国一致という全体主義のこの時代でさえ、反対賛成に分かれるのですから、いつの時代にいても、自分の希望の妨害者は存在するということでしょう。強い人間になりたいものです。ですが泣けてくるくらいの物凄い重圧の中で自分の為すべき事を全うする三船敏郎さん演じる阿南陸軍大臣や笠智衆さん演じる鈴木首相みたいな「大人」には何度生まれ変わってもなれる気がしません。まあどの人をとってもなれる気はしないんですけどね。

158分は長いです。TVでは確か前編と後編に分けて放映されたような記憶が残ってます。しかしぐいぐいと引き込まれていきます。役者さんも凄いです。笠知衆さん・三船敏郎さん・志村喬さん・島田正吾サンなどなど挙げたら本当にキリがなく、DVDに謳ってある「日本映画演劇陣総出演」に偽り無しです。迫力とか存在感とか「大人」を感じます。真夏の一日の男たちの汗も何故か印象に残るアツい作品です。

DVDに添付されてる解説や、岡本監督の作風を考えると、私が映画を観て思ったことは物凄く的外れで、変な事を書いているんだと自覚はしているのですが、こう感じちゃったんだからしょうがありません。アウトローにもパワフルにもなれないし、なったことも憧れたこともないですから。

お祭りと書くと不敬ではあるのですが、今の役者さんたちで「日本映画演劇陣総出演」作品をつくるとしたらなにができるでしょうか。女性上位なので戦争活劇は難しいですよね、サラリーマンというか企業戦争モノくらいで落ち着くところでしょうか。

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*ぎゃーつくほざくな

「ぎゃーつくほざくな、こうるさい。」

  (ごちゃごちゃぬかすな、黙ってろ。)

「そんなひゃーひゃーいってもしんに。」

  (そんな口うるさくいってないじゃないの。)

又は、「あー悪かったねー。」

  (あーそうですか。)

感情的には怒りの状態で発せられる言葉。なので命令口調となる。言われた方も売り言葉に買い言葉となるので、つっけんどんな口調になる。

一般的にこの後は沈黙もしくはもう知らん状態となり、話題を代えるとかもっと深く追求するとかいうのには勇気がいる。

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*どじらん顔してけつかりゃあがる

「どじらんかおしてけつかりゃあがる。」

「ど知らん顔して、けつかりゃあがる。」

(平気で見て見ぬ振りをする。)

遠州弁が汚いと言われる典型的な言葉使い。

「ほんとあいつ上司の癖してなんかあったっていけしゃあしゃあとどらん顔してけかりゃあがるもんでなんしょ頼りんならんっつってみなから嫌われだよー。」

  (本当に、あいつは上司の癖に何かあっても平気で見て見ぬ振りすから、頼りにならなて皆から嫌われてる。)

「まあそういわすとー、ちったあいいとこもあるだで、はぶせにしんと、仲良くしんとかんらー。」

  (まあまあそんな事言わないで、少しは好い所もあるんだから、仲間はずれにしないで、仲良くしないとまずいでしょ。)

「おんしゃそんなこんぬかすがなーどこんいいとこあるだ。いってみー」

  (君はそういうけど、好い所があるなら教えて欲しいよ。)

何度も言うべきであるが、決して喧嘩腰に言ってる訳ではない。普段使いの野郎言葉である。女性言葉ならちったあ柔らかくなるかも。

「あの人、偉いだにすぐどじらん顔するもんでほんと厭だやー。だでわれるだよ。」

「ほいでもちったあ好いこともあるらー。はぶせはよーないにー。」

「そんならあんたええとこあるなら教えてよ。」

んーたいして変わらんか。

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*どへぼにしょんぼくて、とろくっさー

「どへぼ」 弩へぼ 物凄いへたくそ

「しょんぼい」 しょぼい 期待はずれ・ちんけ

「とろくっさい」 とろくさい 間が抜けてる

要は、どうしようもないくらい見てられない様を表現している。

逆だと「どんまくて馬鹿ええくて、だでばっちし。」(凄く上手くて大変良ので言うことない。)であろうか。

「どへぼにしょんぼくてとろくっさー。」のあとに続く言葉は

「みちゃおれんでやらしょ。」(見てられないので代われ。)

「はあええで別のこんせろやー。」(もういいから別の事をしていろ。)

いづれにしても、こんなこと言われるのは、おとましいこんでえの。

だから日常こういう表現は絶対しない。もし言うとなれば冗談っぽくいわないと洒落にならない人間関係になる。使うとしたら映画とかの興行で「金返せ。」的に思ったときの理由を述べる時(感想)くらいであろうか。

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プライベートライアン

「Saving private ryan」日本語タイトル「プライベート ライアン」

1998年の作品 スピルバーグ監督作品

今のところ戦争を題材にした作品では、「プライベートライアン」が一番繰り返し観ている作品です。邦画では見た回数なら「キスカ」衝撃度な「日本のいちばん長い日」でしょうか。勿論一度だけ映画館で観て充な位の衝撃を受けて、作り手の意図や目的が達せられる作品もある訳ですら、何回も観れるから良い作品だと決め付けることは出来まん。それにこの作品は独・米の戦いを描いている訳ですから、邦画の戦争映画とは観る視点が同じではありません。感情移入というか、自分の身の置き所が異なるので、ある意味刮目して観るしかありません。でもはまります。

映画はノルマンディー上陸作戦の状況を描いているのですが、西部劇でインディアンを障害物のようになぎ倒していくような一方通行作品ではなく、独逸の兵士にもきちんと感情を与えられています。ですので戦闘シーンはどれも血沸き肉踊るような野郎の本能を満足させるよな「カ・イ・カ・ン」なドンパチではなく、こんなところにいたら一生のトラマになってしまうような写実に徹しています。当時従軍した人が始オマハビーチのシーンを観て記憶が叩き起こされて気持ちが悪くなったと何かの記事に書いてありました。息使いが荒いのもリアル、水中と水上の音の違い、の回りすぐそばを通過していく弾の音。防波堤(?)の残骸みたいなコンクリートで身を隠し、ちょっと様子見で中隊長が顔を出した時、真正面に向かってきた弾を思ず一緒に避てしまいました。

公開当時松菱劇場で見たんですが普段は音がれ気味でになるんですが、この映画に限っては迫力満点でした。匂い立つというか息が詰まるというか、逃げるも避けるもへったくれもなく、ひたすらサバイバルするしか選択肢がない緊張感を強いられます。

上陸作戦の次のミッションは非常にアメリカ的です。我が帝国陸海軍なら有り得ない指令です。一旦事有る時は死に場所を用意する国とは正反対だと知らされます。無論それは、国家という組織の正義であって、米国の正義とそれぞれの兵士の正義との違いはあって、それに苦悩することも描かれています。そしてエンディングに向かっていくのですが私なりの捉え方としては、やはり最後は何の為かというと、仲のために生きると言う事が身の置き所として一番強固な信念に繋がると言うことでしょうか。

自分だけの為に生きてると、些細な厭な事ばか気になって明日が辛く感じます。だけど誰かの為に自分は生きてるんだと考えれば、結構自分に掛かる厭な事の重要性は低くなるもです。学校に仕事に行きたくない時、誰かが待ってるとなれば重い取りも少しは軽くなったりするもんです。それだけに今のいじめは深刻な事象でしょう。過酷な戦場で唯一精神を奮い立たせる術が「仲間」という存在なのに、それを否定されるいじめは戦場よりも悲惨だと言うことでしょう。

日本の戦後暫くは、なにか揉め事があっても「同じ日本人じゃないか」という仲間意識を呼び起こす言葉でなんとか収まったとじじばばが言ってました。そう考えると現代はなまじっか裕福になりすぎて、一人で勝手に生きていけてしまうことでかえって不幸になっているような気が、しないでもありません。

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