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ほいじゃね

(じゃあまたね)

方言はどの地域でも、じじばばとがきんちょの言葉。だからじじばばが周りにいないと繋がっていかない言葉。色気づいたり社会人になると、忌み嫌われる言葉。それでも自分に戻ってほっと気を緩めることができる魔法の言葉。歳を重ねていつか回帰する事が幸福と考えるならば。

だからこそのことば、「ほいじゃね」

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*しるかー・しらすかー・しらんやー

A男・「おーおい誰よー、ここにあった○○持ってったのー。親爺けー。」

父・「そんなん知るかー。」

A男・「じゃじいちゃけ。」

祖父・「そんなん知らすかー。ばあば持ってった?」

祖母・「そんなの知らんにー。」

A男・「じゃお袋ー?」

母・「知らんやー。無くなっちゃ困るもんならそんなとこほっぽらかいとくほーがどかしちゃいん?」

A男・「しょんないじゃん。便所まで持ってく訳にいきもへんに。とりあえいといただけだにはあ無いだもん。」

母・「ふんとにもー。ちゃんとしんもんで、ねえB男(次男)お兄ちゃんのって、○○見んかった?」

B男・「知る訳ないじゃん。見てもいん。」

母・「C子(妹)は?」

妹・「知らんよー。つーかなにそれ?」

A男・「なにそれって知らんだか。◎◎で使う奴。

母・「えーそうなの●●に使うんじゃないの?」

父・「そんなこん使ったって張り付きもしんに。」

そう言ったか言わんかの内に台所から何かが崩れのように床に落ちる音がした。

●○◎にはまる言葉が決まれば面白い笑い話が作れそうだが、いかんせん何も思いつかない。

共通語に訳さずとも意味は通じると信じてるが、この会話の遠州弁としてのポイントはアクセントにあり。

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*はあでけた?

「はあでけた?」

  (もう出来た?)

「まだでけてん。」

  (まだ出来てない。)

「なによーだめじゃん。でけんのを?」

  (なに、ダメじゃないの。出来ないの?)

「でけるけどちっと難しいじゃんこれ。ちっと時間かかるよを。」

  (出来るけど、少し難しいでしょうこれ。時間がかかるんだけど。)

「やりいんだら。」

  (能力がなくて出来ないんでしょう。)

「そんだだこんあらすかー。忙しくてやりおせんっつうの。」

  (そんなことないって。ただ今忙しくてやってる暇がないの!。)

「やりもしんによーゆーわ。こんなのやり始めりゃ直ぐ終るだに。」

  (やろうともしてないのによくゆうよ。普通そんなに時間掛からないよ。)

特に説明はない。遠州弁のポイントは「でける・でけん」・「~いん・~おせん・~も、しんに(~も、しんで)」の使いまわし方。

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カルピスのCM

久し振りにカルピスのCMが流れてた。ナレーションが変わっとったら。正直代える前の「お乳の次はカルピス」ってほんとにー?と思ったので「いいすぎ」と申告があったということを聞いた時、そうだいねーとは感じていたんですが、そういう事とは関係なくいい画だったので、これお蔵入りとは寂しいという気はしてただよ。

だもんで、変更して復活してくれたのは、ホント有り難いことだいね。長澤さんには悪いけど、今までの中で一番いい。普通に生きてるとう立体的な存感が、作りものではなく自然体で、窓の外のテラスを歩く赤ちゃんを見つめる表情が背中越しでえてないのに想像できしかもお姉ちゃんが出て来てオチがつくと言う展開も微笑ましいし・・・。

本当のところは、お芝居じゃなくて本気で赤ちゃん可愛いドキュメントのかもしれないけど、こういう力のいれどころに無理のない芝居の映画を観てみたい。たのんます。

私は十二指腸潰瘍を患った時お医者さんに「酒やめい」といわれ、酒の代わりに最初麦茶を飲んでたんですが、直ぐに飽きちゃって、次にカルピスにしたんですが、それから10数年今だ飽くことなく(カルピスウォーターに代わりましたが)飲んでます。酒を止めれたのはカルピスのおかげと感謝しています。私のフレーズは「お酒の次はカルピス」でした。

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映画にすがるもの

映画を観た後に、見慣れた人や景色でも新鮮に見えるようになる。頭や理屈抜きで無意識に精神や心を洗濯してくれる。洗濯だから汚たら又洗わなくちゃいけない。めんどくさがりだから、ひとつの作品で効果が落ちずに繰り返し洗濯できる作品の方が有り難い。そういう作品出会いたくて探しまわっているのかもしれないし、ただ単に次新しい洗剤を使いに映画館にいってるだけかもしれない。

映画館に行きたくなる衝動の理由は、昨日があるから今日があり、だら明日が続くんだという継続的な連鎖の日常と一旦離れる事ができからでしょう。

意味もなく明確な理由もなく落ち込むときがあります。その理由はほとんどが対人であって、お腹が空いたとかお金がないとかではない。人は皆自分の正義に基づいて生きていて、そのそれぞれの正義ぶつかり合って世の中が回っていくのです。自分の正義を貫くための正義と闘わなければいけないということに疲れてしまいます。

見方が変われば、今まで敵や障害であったものがそうでないことに気づくことだってあるんです。そうすれば闘わなくても済む方法だって発見できるかもしれない。映画にはそういう理屈では説明できない力がると信じています。

しかし映画は不特定多数が観ることを前提とした商品であり、ピンポイントで強いメッセージ性を放つものではありません。

だから人それぞれ違う捉え方をしてもいい筈です。映画を観て感じた人それぞれの想いを否定すべきではないと考えます。要は自分がどう感じたのかが大切なんですから。

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*のっぱら(野原)

三方原・新所原という地名があります。正式に読むと三方原は(みかたばら)・新所原は(しんじょはら)となりますが遠州弁だと「みかたっぱら」・「しんじょっぱら」となります。それと同じ理屈で、野原(のはら)は「のっぱら」となります。

しかし、東名高速のSAでおなじみの牧之原(まきのはら)を「まきのっぱら」とは言いません。なぜならそこは遠州ではないからです。あくまで自分らの周りの地名にしか使いません。

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映画の余韻と評価

私のそとづら(外面)はめんどくさがりのきぜわしい待ってられない人ので、映画を観に行く時はバスの時間に左右されたくなくて40分程度歩いて映画館に行ってます。観終って家に帰る40分の間、何を考えてるで結構作品の評価を決めちゃってるところがあります。

映画とは全く違うことを考えてることは滅多にないんですが、そういう作品はやはりもう一度観ようという気になりにくいです。逆に映画のことばかり考えてる時は、自分が観たいものと違うとか自分ならば・・・と言う風に、影響はろに受けているのに自分の中に受け入れるのに理屈が必要だと言う事で次にもう一度観る時はなにがしか構えてしまう事が多いです。

自分にとって一番観終わって気持ちのいい帰りの40分は、直接的に映画の事ばかり考えているのではなくて、周りの景色含めて、行き交う人々がなにか新鮮に見える時が最高なのかもしれません。その作品が無意識の内に自分の中に入り込んで心のリフレッシュが出来てるのが心地いいんです。

昔、「仁義なき・・」シリーズの作品を観終って出てくる人が皆廣島弁になってたり、肩で風切って歩いてたりしている。そういう人とすれ違うと「こいつ観たな」と納得しました。

無意識に自分を変化させてくれた作品は何度も観ていくことによって、漠然としていた理由が少しづつ言葉に変換できてくるのが楽しい訳もあるのです。

音楽は、最初は「なんじゃこれ」でも、繰り返し聞くことによってだんだんと味が出てくる曲が結構あるんですが、映画ではあまり出遭った事がないような気がしてます。

いずれにせよ、第一印象でほぼ作品の評価を決定してしまって、後は更しないのがほとんどです。繰り返し観るのはその感覚を維持したからで新しいもの見落としたものを見つけたい訳ではないのです。

それとどうでもいいことなんですが、まだ陽のある内に映画館に入っ出てきた時に外が夜で暗くなっていると、ああ映画観てたんだと単浦島太郎状態になれて、違った意味で感動してしまうのが作品の内容に関わらず感動する瞬間が好きです。(まあ映画だけに限った事ではないんですけどね)

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殺しのドレス

「DRESSED TO KILL」日本語タイトル「殺しのドレス」

1980年作品。監督・脚本ブライアン・デ・パルマ

私はおっかないのは嫌いなので任侠・ホラーは観ない人なんですが、サスペンスもあまり観ないほうです。その理由は、この「殺しのドレス」を観ちゃったからです。これを観て厭になったのではなく、これが最高だと思えるので、もう別にこれ一本あればいいやと思ってるからです。

映画館には3回いったのですが、必ず同じところで自分の首に手を当ててしまいました。2003年にDVD化されたのを家で観たんですが、・・・流石にテレビサイズでは首は押さえなかったです。しかしセリフという言葉ではなく、映像と音楽で作品の世界へ引っ張りこまれるパワーは落ちるとはいえ健在でした。

DVDには劇場公開版とノーカット完全版の二種類選択できるようになっているんですが、私は劇場公開版の方が好きです。

なに書いてもネタバレになりそうな緻密な作品であり、しかもサスペンスなので内容がどうのこうの書くのは気がひけるんですが、エンディングというか終り方が大好物です。

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Love Letter

1995年公開作品、脚本・監督は岩井俊二さん、出演は中山美穂さん、豊川悦司さん、酒井美紀さん、柏原崇さん、はん文雀さん(字がなくてすいません)、篠原勝之さん、加賀まりこさん、他

凄くいい映画です。ストーリー・役者さん・画三拍子揃ってます。テーマは決別と追憶でしょうか。

*画は篠田昇さんです。のっけから活動写真です。テレビ画面サイズでかも片手にリモコンなんぞ持って見たら確実に楽しみが伝わらないこでしょう。光が柔らかくて雪のある景色が多いのですが、青が綺麗でが突き放すような冷たさは感じません。茶色が落ち着きますので室にさす日差しにぬくもりを感じます。明確にではないんですが博子に青、樹には茶色を基調とされてるのでしょうか、早い展開になってもどっち?と混乱する事がありません。とにかく美しい画です。

私がよやらかすCD聴きながらの無声映画状態の視聴がこの作品では出来せん。つい見入ってしまって結局普通に見てしまうからです。

*「中山美穂」を愛でる映画です。博子と樹(イツキ)という二役を演じられてます。この二人をどっちが好きかというのはさておいても可愛いと感じられないと損でしょう。

*ストーリーだけ追い掛け回しても面白いです。一通の手紙から始まる話しがどんどん膨らんでいってエンディングに至るまでこうなるだろうだろうという予測がつきません。何度見返しても私ごときの知能では荒が発見できません。

*何故か10年も前の作品なのに古さを感じません。衣装・風景に統一があるからでしょうか映っているもの全てに神経が行き届いているらなんでしょうか。時代に関係なく生きている映画です。

*豊川さんはウマイです、例えとしてうまい芝居が右に、自然な演技が左に向いてるものだとしたら、見る側にはっきりと分かり易くするために現実と離れていってしまうお芝居と、本来架空の人間に息を吹き込み現実に近づこうとする演技。その芝居と演技という別の方向を向いてるおもりを両手に持ってバランスをとってるやじろべえ。豊川やじろべえは抜群のバランス力を誇っております。

あと、チョイ役(御免なさい)の方達は一発必中のキャラが立ってる方ばかりで、ともすれば単調になりがちな全体の流れにアクセントをつけてくれています。塩見三省さん光石研さん鈴木蘭々さん、(名前がわからないので役名で)浜口先生がお気に入りです。

突っ込みをいれたいとしたらエンドクレジットが漢字でない所です。それと最初だけでしょうけど、酒井さんが大人になると中山さんになるといのも似てないと言うか無理があるというか違和感を感じたのは確かです。でも何度も見る内に気にはならなくなりましたので些細なことではあります。

本当に自分にとって大切な映画に出会いたくて色んな作品にチャレンジしているのですが時々何がなんだか判らなくなった時、この映画を観て修正というか元に戻すというか・・まあそういう作品です。ということは

私にとっては「この作品じゃない」ということになるんですが・・・。

でもこの作品を否定するのは、邦画はどれ観ても詰まんないと言ってるのと同じことだと思うのです。私はひっぱられるんですこの作品に。

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そのときは彼によろしく その2

私はこの映画では「長澤まさみ」を観に行きました。ので、山田孝之さんのことを正直注視していた訳ではありませんでした。しかし、数少ない私ごときのブログにお越し戴く方の検索ワードでは、圧倒的に「山田孝之」でおいでくださった方が「長澤まさみ」を上回っています。他の作品の時も女性の役者さんより野郎の役者さんの検索数が多いのです。

意外です。アクセス数を増やそうとやっきになっってるブログは、女名人の秘蔵なんとかみたいなタイトルをつけて餌を蒔いているのが多いのですが、方向性が間違っているのでしょうか。

ま、そんなことはさておき、映画の話に戻りますが、私の持つ山田さんのイメージは綾瀬はるかさんの名パートナーという感じが強いです。せかちゅー・白夜行でそのイメージが固まっています。綾瀬さんの切羽詰ったとうか弓を引いてから一気に放つというか結構重たい球を投げ込む居を、誤魔化したりかわしたりしないで、真正面で球を受ける人というイメージです。で今回は「長澤まさみ」とのコンビでまあ同じせかちゅーの亜紀繋がりで方向性は一緒なんだからいいじゃんと言う人も多分おられるでしょうが、綾瀬さんは誰に対しても同じ温度で芝居をされる(ワンパターンとか一本調子と言う意味ではありません、いわばマイペース)方で、長澤さんは相手に合わせて芝居の温度を変えてくるタイプの方だと思ってます。(プロポーズ大作戦でのケンゾー対してじいちゃんに対して多田さんに対しての使い分けを見れば判り易いと思います。)

なので正直この作品が「まず受け止めてから反撃イメージのほうが強い山田さんと様子見をする長澤さんのコンビ作と聞いた時「どっちが球を投げるんだ?」と感じました。山田さん視点でいけば長澤さんではなく綾瀬さんとのコビの方がより安定感のある作品になっていたのかれません。しかし私は「長澤まさみ」視点の人間なんでそういう考えはありません。ですが映画を観てさすがプロ、間違ってないというか違和感は感じませんでした。

テレビの芸能ニュースでクランクアップの時の模様で、山田さんが疲れきった姿だったのがやけに印象的だったのですが、その理由をファンタジーとリアリティの使い分けに神経をすり減らしておれたんだろうと勝手に解釈しているんですが、どうなんでしょうね。苦労は報われたと思ていますが、私は、智史がリアリティな現実の人間であり、花梨と祐がファンタジーで想い出を呼び起こ妖精みたいな存在であったことが良かったと思ってます。なのである意味お互いの噛み合わない部分やじゃれ合うほど接近した距離感ではない事がよかったと感じているので、疲れ果てる程考え抜かなくても良かったんじゃないのかと思います。

勿論、監督さんの力量あっての話しではありますが。なのでこの作おいてはこのコンビは間違いじゃないと考えています。山田・綾瀬コンビを越えるとは思ってませんけど。

しかしテレビドラマで見るよりもずっと骨っぽくて九州男児みたいと感たんですが、パンフをみたら薩摩っぽだったんですね、納得。だとしたらこの方は三十路越えてからの人なんじゃないでしょうか。

今、山田孝之さんを注目されてる方はどこを注目されておられるんでか、その孤高の存在感なんでしょうか。

いずれにしても昨日私が書いたエンディング希望は山田さんファンの方には納得出来ないものであることには、間違いないですね。

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