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パルコフィクション

2002年公開作品矢口史靖・鈴木卓爾共同監督作品。

パルコをテーマにして作られたオムニバスと申しましょうか、企画協力パルコとなっていますが、よく協力したよなと感心してしまう位、遊んでます。まあここまでおちゃらければ誰もホントかよーと思う人はいないでしょうけど。とにかく宣伝になりようがなく企業イメージの向上になんら寄与もしないのにOKを出したパルコは太っ腹だと思います。

地元に置き換えたら、今は沈没してもうないけど、「松菱フィクション」にるのでしょうか、それで上映は松菱劇場で。普段見慣れた景色が映画の中にあるのは確かに楽しいのかもしれませんが、パルコに現実を感じない田舎者にはそういう意味での楽しみはありません。

もし映画館で観ていたら「1800円返せ」と思っちゃうかもしれません。それをDVD4700円(税抜き)買って観たのです。でも「金返せ」とは思いませんでした。何故ならコメンタリーが面白いから。シーンごとにどういう意味合いで作ろうとしたのか語られてるんですが制作意図と実際の出来上がった映像とのギャップがあって,映像を作ることの難しさがよく分かるのです。

矢口監督は見える事象自体に可笑しさを求めているので非常に明快判り易いのですが、鈴木監督は色んな想いや情景を情緒的な曖昧で表現しようとされていて、その曖昧さが上手く伝わらなくて訳判んいのです。コメンタリーで聞くと成程と思い、通常音声で普通に見る、素人には意図がわからない。

「記号」・「お約束」という言葉が時として否定的に使われてますが、映画はだまされに行くもの若しくは監督の思う壺にはまりに行くものであって、だまされないぞと構えて観に行く人はいないでしょう。

使い古しだろうがなんだろうが、意図通りに見えりゃいいんじゃないでしょうか。

ぶつくさ書いてますが、「はるこ」と「見上げてごらん」が好きで、二つとも鈴木卓爾作品なのです。なので、ちゃんとした監督が本当に満足のいく作品というものを見てみたいものです。

ちなみに鈴木卓爾監督は出身が磐田の衆で遠州人です。

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*好きくない

「あれえ、お前これ食わんだけ?」

「うん、あんまし好きくないだよ。」

「ほうけえ、でもちったあ食わんと元とれんら。」

「確かに!だけどそうまでしてほんと食いたかないだよ。」

「あっそー、じゃこっち食いない。これだったら食えるだら?

「ありがと、でもどうしたよー今日はやけにいい人じゃんか。」

「そういう日もあるだよ、たまにゃのっ!。」

「なんか裏ありそうで怖いやー。」

「ムフフフフ・・・・。」

とある宴会場での同僚の会話。共通語に変換すると

「おやあ、なに、これ食べないの?」

「うん、あまり好きじゃないんだ。」

「あっそー、でもそれじゃあ会費分元が取れないねえ。」

「確かにそうなんだけど、無理してまで食べたくはないんだ。」

「あそうなの、それじゃあこっち食べなよ。これなら食べられるよね。」

「ありがとう、でもどうしたの、いつもと違ってえらく親切じゃないの。」

「そういう日もあるのさ。俺だって。」

「なんか何考えてるのか分からなくて不気味だなあ。」

「ムフフフフ・・・」

だからどうしたというオチもない話。しかしどっちが酔ってるっぽいかといえば遠州弁の方が酔ってる感が強い。と思うのは、普段共通語が無意識に使えないせいなのだろうか。

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*ほいたら・そしたら

「Aさん御免!わし今から買い物いかんとかんだわー。」

  (あらAさん御免なさい。私今からお買い物に行かなくちゃいけないの。)

「なに買い行くよー。」

  (何を買いに行くの?。)

「果物でも買いいかすかと思ってえ。ちょっと街まで。」

  (果物でも買おうかと思って、街まで行こうかと。)

「ほいたらやー、悪いだけどついででちっと頼まれてくれんかねー。」

  (それだったら、申し訳ないんだけど、ついでに少し頼まれてくれない?)

「なにをよー。」

  (なんですか?)

「いやねっ、こないだねっ、うちらにって、Yさんがもらいもんくれたじゃんねー。ちゃんとお礼しんとかんと思ってただけどさー、Yさん最近顔見んもんでどうしただと思ってたらさあ。それがさあ、あんた体おやいてF病院に入院しただって。」

  (Yさんからこの間頂いた物があったでしょ。そのお返ししなくちゃと機会を窺っていたんだけど、当のYさんの顔を最近見ないからどうしたんだろうと思っていたんだけれど、体調崩してF病院に入院したんだって。)

「うそーホントにー?先々週だか遭ったけど元気そうだったにい。いつ入院しだって?」

  (本当ですか!先々週ぐらいに遭った時は元気に見えたよ。いつ入院したんだって?)

「昨日きいただよ。今週入ってすぐだって。だもんで世話んなった分まだお礼しとらんもんで、あんまし付き合いないだけど、お見舞いいかすかと思ってさー。」

  (昨日聞いたの。今週の頭に直ぐにだって。だからお世話になった分のお礼をね、まだしてないから、あまり親しい訳じゃないけれど、お見舞いに行こうかと思って。)

「どこん悪いだって?」

  (どこが悪いのか聞いてるの?)

「それが知らんだよー。Sさんからだもんで根掘り葉掘り聞けんらあ。」

  (知らないのよ、Sさんに教えて貰ったんだけどあの人に細かいこと聞けないでしょ。)

「そうだいねー。Sさんじゃねー。じゃDさんにも声掛けて皆で行く?」

  (そうだよねー、Sさんじゃねえ。それじゃあDさんにも声を掛けて皆で行こうか。)

「みんなだと大袈裟だと思われて厭だらー。わし一人で行くでええよ。」

  (大勢で行けば大袈裟い思われて厭じゃない?私一人で行くから。)

「ほうだねー。ま、その方がいいか。ええよ。じゃ車だで籠盛りさら買ってくるわ。」

  (そうだねー。まあその方がいいか。わかった、私車で行くから籠盛りごと買ってくるね。)

「わるいやー。じゃお金。」

  (申し訳ない。それじゃ代金。)

「あれー、わし出しとくで良いって。お見舞い行かん分あんたに迷惑頼むだで。」

  (厭だわ奥さん、私が払うから。お見舞い行かない分奥さんに手間かけちゃうんだから。)

「そう言い訳にいかんてー。ほいじゃちゃんと分けよっ。」

  (そういう訳にはいかないでしょう。それじゃあきちんと割ろうか。)

「そしたら、うちらだけじゃなくDさんとこにも声掛けとかんとかんらー。」

  (それなら、私達だけじゃなくDさんにも声掛けておいたほうが良いんじゃないの。)

「あーそうだねー。はぶせにしたって言われちゃうもんねー。」

  (ああ、そうよね。除け者にされたって言われちゃうからね。)

おっかさ連中の、立ち話から用件に移った時の会話。貰い物のお返しとお見舞いを一緒にして一度で済まそうという魂胆と、病名を知りたい好奇心に満ち溢れたお話し。

「篭盛りさら」は(篭盛りごと)。「まるさら」だと(全部・まるごと)という意味。「はぶせ」は(除け者のけもの)。「行かす」は(行こう)・「行かすか」だと(行こうか)。「声掛けとかんといかんらー」は(声を掛けておかないとまずいでしょう)。「わるいやー」は(すまないねー)。「あれー」は(何言ってるのよ)。イントネーションはA・re・e。

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男たちの大和と硫黄島からの手紙

私は、年齢の割りに古い戦争映画を観てる方だと思います。

父親が戦争映画が好きで、小さい頃、なんだか知らないけどよく映画館に連れられてよく見せられたからです。戦意高揚とか男の生き様とか愛機や艦と運命を共にする美学とか、将官級の大きな話しから、兵卒の生き様まで結構、戦争活劇劇映画といっても幅が広いもんです。もちろん戦争を繰り返さないための真実を追い求めた作品も沢山ありました。その頃の映画と比べても、最近の戦争映画は遥かに凄惨で悲惨です。

「大和」と「硫黄島」は両作品とも、アドレナリンの出る余地が無い位に自分がもしその場にいたら逃げ出したい気持ちになります。でも、この作品の違いは、生き残った者の描き方が間逆だと言う事でないのでしょうか。

「大和」では、死んでいった人達に自分だけが生き残ってしまって申し訳ないという罪悪感。「硫黄島」では、生き延びた事が目的を成し遂げたという達成感。試写会かなにかでクリント・イーストウッド監督が渡辺謙さんよりも二宮和也さんをBOYと呼んで慈しんでいた風に見えたのも、あの過酷な中で生き抜いた兵士と重なり合って見えていた監督ならではの視線からだと思います。ある意味当事者でない日本人以外の人からこの映画を眺めれば「奇跡のサバイバル」と映っているのかもしれません。でも、私は日本人ですので、「大和」の心情の方が心に響きます。しかし映画としてなら「硫黄島」の方が心がつき動かされました。

大東亜戦争時のアメリカのドキュメンタリーフィルムを見たりすると、草むすかばねは日本人ばかりで米兵は映っていません。戦は勝たねば意味がない。終戦後ほとんどの軍人は敗戦故の責任の取り方としてを閉ざし語り継ぐことなく、静かに世代の引継ぎを行う道を選ばれました。その結果、本当の出来事が私達の世代に伝わっていなくて、邦画で観るよりも戦争慣れしている米国の方が遥かに「戦場」を描ききれていると思えたからです。登場する兵士全てに人格が見えていて次々と戦友逝ってしまう光景は観ていて本当に辛いものがあります。どのシーにおいても自分がもしこの状況だったらと重ねることが出来ました。もっとも、私だったら間違いなく手榴弾で泣きながら死んでることでょうから以後は幽霊としてですが。

「大和」では反町さん・中村さん・松山さんに集中していて、その分戦友に対する重みが薄く、言葉は悪いんですが同じ部署の人間が倒れたぐらいの感覚で悲しみよりも「こんちくしょう」という想いの方が強く感じました。それほどお三人方の闘争本能に火が点いたお芝居が他を圧倒していたとも取れる訳ですが、戦友の死の悲しみや辛さは「硫黄島」の方が強く感じることができました。でも闘争本能が醒めた後の虚無感は松山さんと仲代さんのお芝居が効いていて、切なかったです。

両作ともほぼ140分ですが、陸海の違いこそあれ描き方が違うと観終わった後の余韻が違うのはこのような理由なのでしょうか。

いづれにしても、戦争という外交手法は選択すべきものではないと、間違いなく両作品は語ってくれます。楽して生きて行きたいなら戦争や集団の暴走という悲劇を回避しなくてはなりません。そういう信念の人に観ておかなくてはいけない教訓作品だという一面もあるでしょう。

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ONEPIECE

アニメではありません。漫画でもありません。

矢口史靖×鈴木卓爾監督作品の映画です。

DVDには1994~1998年に作られた作品となっいます。

田舎にこういう映画は来ませんのでDVDで見ました。っていうか海外映画祭で上映されたようですが、日本で上映されたのでしょうか。

DVDは「秋コレクション」と「春コレクション」の二枚に分かれてますが、一遍に見たので、一つの作品群と認識しています。特典映像で短編映画「バードウォッチング」と「おっけっ毛ビビロボス」が収録されていますが、1シーン・1カット・1話完結という条件を満たしていないだけでワンピースの方向性とあまり変わらないような気がしてます。

出演は両監督を含めた、「お友達俳優」さん達だそうです。平たく言えばプロが作る自主映画になる訳ですが、今年五月のテレビインタビューで矢口監督はこの作品のことを述べられていたんですが、WBやSGが間口を広げて多くの人に受け入れられるように作った作品としたら、ワンピースは制約が多い中で、面白いと思った人だけがはまる間口の狭い作品と言っておられます。決してSGのエンタテイメント性の追求と自主制作で自己の作家性の追求という二面性のものではなく、見る人が面白いと思うかどうかの追求をしている事は同じだそうです。

監督はそうおっしゃっておられますが、笑いの作り方は違うような気がす。SGが完成された映像が既に監督の頭の中にあって、それをいにスタッフ・キャストに伝え具象化していくかという作業によって作らていくに対し、ワンピースは漠然・混沌としたアイデアから役者さんを含めた作り手全員み上げて形に仕上げていっているように思す。勝手な想像にすぎませんが。

でも、まあどっちも私は面白いので、些細なことではあるんですけど。

で、どういう作品群かというと、某NHKで放送されてる「サラリーマン・・」と感じが近いんでしょうか。でも発想のユニークさと、置いたマンマのメラとは思えない映像表現は、「映画」と表現できる内容だと思います。28作短編2作全て好きな訳ではないんですが、最初のインパクトで笑えたものと、繰り返し見るうちになんとなく笑えるものと、久し振りに見直したら笑えたものとか、しょっちゅう好き・つまんないがコロコロ変わるので個別の作品がどうのこうのと決め付けられないんですが、はっきりいえることは、これを映画館で観たとしたら、皆と同じところで笑える自信が私にはありません。なので、家でDVDでひとりニヤニヤてる方が性に合ってるような気がします。

お芝居は物凄く自然体で、芝居らしい説明的な動きも声の張りもありません。なので初めて見るとメリハリのない単調な感じを受けるのでき嫌いは出ると思います。人に勧める気はありません。自分だけ楽しめればいいんで。

でもどうしてもどれかと聞かれたら、「春のバカ」と「祝辞」と「傘男」と「水洗タンク」だったら多分皆と誤差がなく面白いとえる壷だと思えるのでこれを推します今日のところは。

2007年の今も尚作っておられるようですので新作を見たいす。

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*なるようにしかならんらー

「なるようにしかならなんらー。」

某有名人の方が好きな言葉として挙げておられましたがモロ遠州弁です。「やれるこたあ、きっちしやってるもんで、あたーもーなるようにしかならんらー。」(自分が出来る事はちゃんとやってきているのだから、後は迷わず進むだけ。)要約すれば「人事を尽くして天命を待つ」と言う事になる訳で、非常に前向きな物言いになります。

逆に後ろ向きの場合だと、「やることやったって、全然駄目じゃん、だもんで、なるようにしかなりもしんに。」(努力しても報われないんだからなにやっても同じでしょ。」となる。要約だと「自暴自棄」でしょうか。

しかし、実のところ「なりもしんに」の代わりに「ならんらー」を使っても(逆もあり)違和感はなく、他に「ならんにー」・「ならんやー」・「ならんだで」など強弱を変える表現もあるので、文章全体の流れで読まないとプラス発言ともマイナス発言ともどちらともとれてしまう

このように、「なるようにしかならん」という言葉が使い方ひとつで間逆に解釈できるのは遠州弁も同じで、明確に楽観的な時はこれ、悲観的な時はこれと言う風に分かれていないので、正直「なるようにしかならんらー」だけでは発言者の真意は測りづらい。

あれ?もしかして私発言に対して批判的なこといってる?いやいやいや決してそんなつもりはありません。応援してますよ滅多に出ない遠州弁を使える有名人ですから長い目で。

ま、ちょっと父兄的な目線になっちゃってはいますけど。

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*かある

返るという意味である。

「忘れかある」(忘れ返る)・「うらっかある」(裏返る)・「ふんぞりかある」(ふんぞりかえる)・「板んかある」(板が反り返る)というように使う。

例文

「あいたた」

「どうしたよー。」

「こぐらがかあった。」

「だいじょうぶけ?普段運動しとらんもんで、そーなるだに。」

「・・・・・・・・。」

「食っちゃ寝ーばっかだで、そーなるだって。ねえ聞いてる?。」

「そんなこたあええで、・・・・・。」

「食うにしたってきちっと栄養のバランスも考えんとかんだに。」

「はあ分かったで、助けてくりょー。」

「こういう時に言っとかんと普段聞きゃせんで言わしてもらうけどねー。」

「後に・・・せろ・・やー・・・・。」

「あっそ。ところであんたさーあ、あんたくついたも裏があってるけど・・・

ね!れってファッション?」

「・・・・おんしゃ、・・もしかして人ん不幸愉しんでる?」

「あ、判る?やっぱ。」

「ざけんじゃねーぞ、直ったらぶっさぐってやる。」

「それが助けえ求める人ん言う言葉けー。」

こぐらがかあった(足がつった)人をもてあそんで楽しんでる人と、それどころじゃない人の会話。

発音はかある(KA・A・RU)ではなくかーる(CAR・RU)と書けば判り易いだろうか。

注釈として、「くついた」は(靴下)、「人ん不幸・人ん言う」は(人の不幸・人の言う)と言う意味で(~の)は「~ん」になる事が多く「人ん家・よそん家・ぼくんち」と言う使い方と同じである。

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かきのたね

2006年に綾瀬はるかさんのCD「交差点days」のカップリングで発表されたショートフィルムです。伊藤由美子さんが脚本・監督・編集されてます。ポカリのCMがなんとなく好きで、そのコンビによる作品と言う事で興味がありました。綾瀬さんのお芝居のイメージというと、肩に力が入っていて、舞台のお芝居をみてるような「表現者」というイメージだ感じてるんですが、前作「たべるきしない」もそうですがこの作品でも「表現者」ではく「存在者」、伝えるのではなく伝わる(滲む)イメージ見せてくれます。前作の方がお金が掛かってるような気はするんです、素材を楽しんでるというか探ってるというか、まだなんか中途半端な感じがして「かきのたね」の方が作品としては好きです。監督と役者さんがお互いが分り合ってる感覚が伝わってきて、こういう信頼感が映ってる画が好きんです。それと綾瀬さんは一人称の作品が合ってる感じがするんですけど。

この作品では綾瀬さんは三つの顔を見せてくれます。赤面症のときのいつものTVのドラマで見せてくれる顔。中でも面接のシーンは絶品です。セリフなしできちんと伝わってきます。もじもじとして内面に引き篭もろうとするだけならよく見かける演技ですが、なんとか伝えたいと目でようとしたけど、途中で挫折してしまう攻守の切り替えが決まってす。織田裕二さんの寝起きのお芝居ぐらい他に真似できない演技だ思います。

農園にいるときの肩に力の入っていない一人の世界にいる時の顔。これもセリフなしで音楽と映像だけで見せてくれます。ダレずに見れるのは只単に歩いたり寝っ転がったりのスナップではなくきちんと演技をしているからなんでしょう。「かきこ」の感じてる時間の流れを共有してる感覚にさせてくれます。

頭の中の「こうなりたい私」の時の顔、郵便配達の人との会話のシーンなんですが、学芸会のようなわざとらしいくらいのお芝居が非現実性を表現しているのでしょう。この物言いや仕草は芸能人「綾瀬はるか」が見せる大人の顔とイコールなのでしょうか。変に違和感がありません。

短い作品ですので、長編とまでいかずとも、60分くらいの作品で見てみたいです。

気になる点を言えば、綺麗とこどり(撮り)すぎてあれだけ自然に近い環境なのに虫の姿がみえない(せみの声はしますけど)ところ。

兄さらの甲州弁が飛び交う中で一人共通語を駆使する「かきこ」。といったところが気になりました。

楽曲のためのプロモーションビデオの枠の範囲内という制約がそうさせているのでしょうが、ストーリーを楽しむのではなく空間や空気感、そこで流れている時間の流れを映像として眺めることが楽しいのはまさしく映画の世界。私みたいな、ショートフィルム目当てでCDがおまけだと思ってる本末転倒の思いを制作者側が気に留める筈もないんですが、あと5・6作作ってオムニバスとしてか、ちゃんと一本の劇場用として公開若しくはDVDで発表して欲しいものです。

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*あんまし・いきなし・消しなし

「あー!」

「なによ、いきなし、びっくりするじゃん。」

「やばい、もしかしたら、電気消しなし来ちゃったかもしんない。」

「家出る時、確認しんかっただか?」

「急いでたもんでねー、した覚えんないだよ。」

「そりゃあんた、戻って見といた方がいいにー、まだちいと時間あるだでさー。」

「わるいね、そうするわー。ちゃっと行って戻って来るで、待っててよ。」

「あんまし、急いで転ばんよーにね。」

この例文の中で分かりづらいとしたら「ちいと」(少し)くらいであろうか。

時間のあるなしの比較で言うと、集落によって誤差はあるが

ちっと<ちいとなんとか<結構<大分<充分たんと<がんこであろうか。共通語にしづらい比較言葉のニュアンスは結構ある。

「あんまし・いきなし」(あんまり・いきなり)と、「り」が「し」に変形するこが多い。又「消しなし」(消さずに)のように、「~せずに・しないで」を遠州弁では「~しなし」と表現する。「燃やさないで保管」だと「燃やしなしとっとく」・「努力しないで出来る訳ない」だと「努力しなし出来すかー」となるが、「無理しないで頑張って」は「無理しんで頑張って」となり「無理しなし頑張って」とは言わない。全てが「しなし」になるわけないのである。

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