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静岡県は三枚岩

一応東海地域と呼ばれている。だが、住んでるもんからすると、愛知といっしょくたあにされるんはあんまし好きくない人が多い。名古屋から上司としてやって来る人と仕事を幾度かしたことがあるが、明らかにルールが異なる。言葉の物言いによるものだろうが、こちらは「やー」・「ばかっつら」から始まって「やらまい」・「やらざあ」・「やってやー」で締めるという自分も動くから皆も動け的であるが、名古屋は「たあけ」・「おそがい」がまず出て、最後は「やらんとかんだがや」・「やってちょー」・「やりゃあ」で締める。たいして変わらないと思うかもしれないが、遠州人にはほとんど「やれ」という命令調に聞こえてしまうのである。勿論そんなつもりで言ってる訳じゃないのは頭では理解できるのだが感情的には納得できない部分があるのだ。

風習にしたって「名古屋には嫁をやるな」という伝承が遠州にはある。名古屋では花嫁道具はトラック3台当たり前。出産は在所で生み、子供の祝いは嫁の実家が用意する。質素が当たり前、祝いはその家の身上にあわせての遠州では貧乏人が名古屋に嫁を出したりなんかしたらへたすりゃ身上を潰すとまで言われたりもする。だからといってウチは金が無いからと何もしないと嫁いだ先での嫁の肩身が狭くなるらしい。

テレビのニュースにしたって、特に天気予報なんかは、名古屋辺りでは愛知・三重・岐阜の天気であり、静岡県は北陸と同じ近隣の地域として扱われている。逆に静岡県では愛知の天気を気にするこたあないので、ほぼ県内の東部・中部・西部の分割予想が全体の殆どを占めている。ローカルニュースでも同じ話題になることは全国ニュースにでも発展しない限りない。身近な共通の話題なんぞ存在しないのである。

言葉的には、三河と遠州は非常に近いが、三河からすれば遠州は荒い。遠州からすれば三河は汚い。冷静になってみればどっちもどっちで、つい最近NHKでやってた「純情きらり」で使われてた三河弁に対して、戸田恵子さんは名古屋の衆だでやっぱちょっと違うなとかヲタこくぐらい理解できたので、根っこはおんなしなんだろうなと思う。

それでもガソリンの価格、本やDVDの品揃えなど愛知の端の豊橋と浜松はお隣さんなのに雲泥の差がある。愛知は豊かで浜松は関東からのお下がりで暮らしてる一番西のはずれのようなもんである。でもまあそのおかげでテレビで名古屋のCM見んで済むんで助かるけど。

私は遠州人なので東の山梨・神奈川との違いは実体験がないので分かりません。方言的にはテレビドラマの方言を聞く限りは意味もイントネーションも分かるのでそう違いはないのかもしれない。なので、個人的には静岡県を東海地方と括るよりも山梨・長野と組んで中部地方とした方が違和感がない。もっとも緊密という感じではないが。

どちらかというと孤高な印象の静岡県だがその分県内では結束が強いという訳ではない。静岡県は西部(遠州)・中部(駿河)・東部(伊豆)と分かれていてしかも大分違うところが多い。決して一枚岩ではないのである。

静岡県といっても廃藩置県の時は当初、濱松県と静岡県に分けられていたが併合して今はひとつとなっている。残念ながら何故併合に至ったのかは学校では教えてくれなかったので、理由は知らない。学校で教わらなきゃどこで憶えることができるんだろう。金原明善は遠州に住む人間にとってどれくらい語り継がなければいけない人物なのか、はたして今も学校で教えているんだろうか。ポンポンや楽器以外にも昔は染色産業も盛んで小さい頃のどぶ川は綺麗な群青色だったり変なぐんじょ色だったりとしょっちゅう色が付いていた。そんな川でチョコンと顔を出して息してる亀を見た時、井伏鱒二の「山椒魚」がやけにリアルに感じたりもした。年代を経ることよって過去からの変遷によって今に至る道程の価値観が薄れていくのは寂しいというよりか、もったないと思う。そこに棲んでいなければわからない事がたんとあった方が豊かな気分になれるような気がする。

或る意味三枚岩の県民性である。がんこ年寄りの衆らは、「昔静岡大学は浜松にあったのに、斉藤という県知事が静岡にもって行ってけつかった。」などと静岡と浜松のライバル意識をむき出しにした発言をよーしてた。今もその名残はあって、有名人でも遠州の人からみると、ピンクレディや美保純さんが同県人(郷土の人)だという意識はあまりない。因みに遠州からだと袴田吉彦さん・筧利夫さんとか鈴木砂羽さんとかがおられる。ここいらだと地元出身と言う気になる。駿河に対してでさえそうなんだから、東部伊豆(秋吉久美子さん・市毛良枝さんなど)にはもう共通意識がほとんどない。沼津は演劇・コンサートが良く行われる地域であるがその文化性が遠州にまで波及することは殆ど無い。

なので、県民性と呼ばれるものでも、東北や九州ほど明確なものはない。静岡県の人はおっとりしてると言われるらしいが、それは駿河の衆らの話で、遠州ではおっとりとチンタラはたいして変わらない言葉である。それでも名古屋と浜松の両方で苦情受付の仕事をした経験を持つ知人に言わせると、こっち(浜松)の衆はおとなしいというので、自分たちが思うほどギスギスはしてないのかもしれないが。

情報社会の発達で遠くの都会には身近になったけど、逆に身近な知識はどんどん忘れ去られている。鎖国で日本独自の文化が花開いたという論法なら、今は確実にそれに逆行している。知識だけであたかも都会に接しているつもりでいられるメリットと、直接触れ合う人とのマナーや付き合いのルールという足元を忘れていくデメリットを抱えたままで未来が進んでいくんだろうか。だとしたらなになに地方と分ける意味はないのではないか。都会と田舎だけで充分であろう。

地域ごとの個性というものが必要とされることがあるのかどうかは不明だけれども、「小さなことからこつこつと」家族からご近所。ご近所から町内、市、県そして地方、国。最後に人類へと和の輪が広がる方が分かりがいいと思えるのだが、中抜けのはしょりの世界が現実だ。それは寂しいので、少なくとも言葉だけでも独自な文化として残って欲しいと思っている。そういう意味では静岡県は三枚岩であることが自慢となってもいいのかもしんない。

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